時計の針も十時近くを指している夜、は自室の机で一人黙々と絵の練習を続けていた。 文化祭の準備に追われる十月は自分のための練習時間が大幅に削られる事となるため、自主トレにはいつも以上に熱が籠もるのだ。 「外でゆっくり絵描きたいなぁ」 手を止めフッとため息をついていると、部屋のテーブルの上に置いていた携帯電話の着信音が鳴った。 練習中だったという事もあって一瞬顔をしかめて携帯を取りに向かう。 開いた携帯電話の表示画面を見ては一瞬息を詰まらせた。 少し間を置いてピッと受信ボタンを押す。 「……もしもし」 「? 黒羽だけど」 「うん」 自宅から電話しているであろう黒羽と違い、こっちは携帯なのだから名乗らなくても誰からか分かっているのに相変わらず律儀に挨拶してくる黒羽には思わず口元を緩めそうになった。 「どうしたの?」 「イヤ、何してっかなーって」 「絵の練習してた」 「え、ホントか!? スマン、邪魔したか?」 サラリと抑制のない声で答えてしまって、慌てた黒羽の声が携帯の向こうで聞こえる。 「ううん、平気」 悪いと思いつつは相手に見える事なく苦しげに眉を歪ませた。 「……天根くん達、どう調子は?」 「おう、相変わらずだ! つっても俺らは偶にしか顔出してねーけどな」 「大変だね、受験生は」 「まーな。前みてーにテニス出来ないしつれーよ。ま、その分高校入ったらガンガンやれるけどな! は良いよなぁ、そのまま高等部上がれるんだもんな」 カラッとした黒羽の声がの耳に届いて、無意識に携帯が手から滑り落ちそうになる。 「う……ん。まぁ、ね。く、黒羽くんは? 何校か強豪から推薦の話もあるって言ってたよね?」 ギュッと携帯を握りしめて上擦りそうになる声を何とか抑えた。 「んー……まだ迷ってんだ」 「え……」 「六角のテニス部って大体同じ高校行くからさ。俺だけ別の強豪ってのもなー……悪い話じゃねーし、どこでテニスやんのが一番良いかもう少し考えてみようと思ってな」 「……でも受験勉強してるんだよね?」 「そりゃ受験選んだときつれーからな」 「推薦受けちゃえば、毎日思う存分テニス出来るのに……。私だったら――」 迷わず一番強い学校に行く。そう言いかけてはハッと口を噤んだ。 「……?」 「あ、ごめん。何でもない」 何を口走っているんだと空いている手で口元を押さえる。 「文化祭の準備進んでるか?」 「う、うん。おかげ様で毎日忙しくしてる」 「氷帝の文化祭って凄そうだよな」 「他の学校の見た事ないから凄いかどうか分からないなぁ……日にち被ってなかったら六角の文化祭、見にいけたんだけど」 携帯を握り締めて努めて明るく話すと、向こうで黒羽の相槌を打つ声が聞こえた。 「なぁ……」 「ん?」 「来週の日曜、空いてるか? 久々にどっか遠出しねぇ?」 携帯越しに聞こえてくるその言葉にが少し目を見開く。 「……ごめん、部活」 「あー、そっか。んじゃ土曜は?」 「空いてる……けど」 いつもなら嬉しい誘いが、今は少し辛い。 「けど?」 「良いの? 受験生が遊びに出かけて」 自分の答えに苦笑する声が聞こえる。 「偶には俺にも休ませろよ」 何にでも一生懸命な黒羽だ。 勉強に、空き時間にテニスにと本当に頑張っているのだろう事はにも分かる。 「山の方、今頃紅葉がキレイだと思うぜ? 見たいんじゃないかって思ってさ」 思わずは言葉に詰まった。 何故こうも黒羽は嬉しい事ばかりしてくれるのだろう。 「?」 「ん……何でもない」 「そうか? 何か最近元気ねぇよな」 心配そうな声。近くにいればきっと案じて顔を覗き込んでくるだろう黒羽の表情が浮かんでは緩く首を振る。 「そ、そんな事ないよ。文化祭の準備で疲れてるのかも」 「なら良いんだけどさ。何か悩みがあったらいつでも言えよ? このバネさんが何でも聞いてやるぜ!」 ドン、と胸を叩く音が聞こえそうなほど力強く励ますような声には思わずクスリと笑った。 次いで目尻に涙が溜まる。 黒羽の少しハスキーな明るい声が携帯越しに伝わるたび、胸が押しつぶされそうな思いがした。 携帯を切るとはクローゼットの中からダンボール箱を取り出した。 詰めてある使用済みのスケッチブックをパラパラと捲る。 今まで使ってきた中のほんの一部しか残していないが、幼い頃、絵を描き始めた頃の自分の手や足のデッサンを見て、今の絵と比べて随分成長したとしみじみ思う。 ここ一年で以前に比べて人物デッサンが極端に増えたのが我ながらおかしい。 (前は……より正確なデッサンを取るための練習くらいにしか思ってなかったんだよね) パラパラと捲るスケッチブックに黒羽や宍戸達の生き生きとした表情が描かれている。 川のせせらぎや朝露の光る瞬間のように人間の一瞬一瞬にも、ふたとないスケッチチャンスがあった事をまざまざと実感させられた。 より色んなものを逃さず瞳に焼き付けようと視野も意識も以前より広がった。 これから先、自分がどこまでやれるのか純粋に興味がある。 その為には多少の犠牲も仕方ないとは思っていた。 |
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「ーーー!」 十一月のある日の午後、通学路を歩いていたは見知った呼び声に足を止めた。 「今帰り?」 「部長……」 「もう部長じゃないって」 「なんかクセでつい」 目の前に走ってきたショートカットの少女と笑い合うと、達は通学路の公園を並んで歩いた。 「こんなに早く帰るのって慣れないね」 「うん、はいつも遅くまで残ってたしねー……部活行かないの?」 「んー……引退後すぐにしたり顔で出て行くのもね、年内くらいは部活ない日とか部活終わった後に美術室使わせてもらうよ。あっちに道具揃えてるから家だと不便だし」 「だよねぇ、引退したって言ってもこれからのコンクール出品する人は美術室使うからね」 どちらともなく公園のベンチに座る。 「……ずっと言おうと思ってたんだけど、あの、始業式の時はゴメン!」 「……え?」 「あの時私一人で騒いじゃって……」 短い髪を風に揺らす少女にはその時の事を思い出して一瞬身を硬くした。 「ううん、私も嬉しかったし……部長が喜んでくれてホントに嬉しかった」 「でも、ってば二学期になってずっと元気ないから」 「そう……かな」 少し肌寒い風がの緩いウェーブの髪を揺らす。 「"Impression"のモデルだった、彼のせい?」 「え……?」 「黒羽くん、だっけ? ひょっとして彼にはまだあの事、話してないの?」 問いかけには軽く肩を震わせた。 目線を外して前方を見つめる。 「……やっぱりまだ迷ってるんだ」 「迷ってなんか……」 「でも気持ちは揺れてる」 首を振って否定した言葉に続いた部長の言葉は不覚にも的を射ていてはグッと口の端を結んだ。 部長はそんなの少し辛そうな横顔をジッと見つめた。 「私ね、あの絵が今まで見たの絵の中で一番好き」 ふふ、との描いた絵を思い浮かべて自然口元に笑みを浮かべる。 「覚えてる? って一度も人物画描こうとしなくて、どうして? って聞いた事あったよね」 ピクリと僅かにの眉が動いた。 「覚えてる。私……人物画が嫌いだったわけじゃない。描き手とモチーフの真摯な関係が伝わってくる絵は純粋に感動してた。ただ……私はそうなれなかっただけで」 「うん、だからに描きたいって思わせられる人ってきっと凄いんだろうなぁって私思ってた。の絵とか、話でしか私は彼を知らないけど」 語りかけるような声に、の頭に黒羽の姿が次々に浮かんだ。 「私……」 テニス会場で目を奪われた事、快く絵のモデルを引き受けてくれた事、一緒に過ごした時間。 「私は……一目見て黒羽くんのテニスに惹かれたの、テニスに」 「うん」 「だけど……だから、こんなに好きになるなんて思わなかっ――」 が手で唇を覆う。 いつ頃これほど黒羽が特別だと気付いたのだろう。 いつも真っ先に思い浮かび、傍にいて欲しいと思うのは宍戸や他の誰でもない黒羽。 面倒見がよく子供に優しい所、部員を引っぱる兄貴肌な性分、竹を割ったように真っ直ぐな性格。 温かくて大きな手。 最初は黒羽のテニスに一目で惹かれたと思ったのだが、テニスを含めた黒羽の全てに惹かれていたのだと今は思う。 俯いたの背を部長は励ますように撫でた。 「、彼の話をするとき凄く良い表情してた。あの絵を描き始めてから前より絵の幅が広がったよね。凄く良い人に出会ったんだなってちょっと羨ましかったよ。だから、辛いよね」 「でも、私は迷わなかった。今もそう……ただ――」 励ますような部長の眼差しをは眉を歪ませて見つめた。 「私は絵が一番大切で、何より大切で……黒羽くん、より」 語尾を消え入るような声で呟くとスカートの裾をグッと握り締める。 瞳を伏せては自分の足元へと目線を落とした。 「それに……少し怖いの」 「え……?」 「ワガママだって分かってるけど、口に出しちゃったら何か変わりそうで怖い……私は、ずっと今のままでいたい」 無造作に転がる小石をローファーの先で鳴らす。 「真っ先に絵を選んでいく自分も……私の選んでいく道に、黒羽くんを引き込むのも、関係ないんだって確認するのも……怖い」 「……」 「だからこのまま、せめて卒業するまでこのままでいたい……もう会えなくなっても記憶は残る。それだけで良い、って」 「ちょっ、と……待ってよ、それじゃ彼には黙ってるつもりなの?」 「だって! だって、私はまだ中学生で……私たちは、別に……私が一方的に黒羽くんを好きなだけで」 少し口調をキツくした部長にも顔を上げて声を強めた。 「ホントにそう?」 顔を上げたと部長の視線がぶつかる。 「、この事宍戸くんには話したんでしょ。どうして?」 「……そ、それは」 言葉に詰まる。 宍戸と黒羽は違う。 だが黒羽にとっての自分が何なのか――には自信が持てなかった。 もう少し大人であれば、黒羽とちゃんとした関係だったならこんな気持ちにはならなかったのかもしれない。 だが生憎自分はまだ中学生だ。 「だってもし立場逆だったら話してもらいたいでしょ? 黒羽くんだってきっとそう思うよ」 ポンポンと先程と同じように背を撫でられての視界がぼやけそうになる。 真っ直ぐな黒羽。 真っ直ぐで眩しくて、時折手を翳したくなる程眩しくて。 「ホントは……このまま黙ってるのも辛くて」 少しでも後ろめたさがあると、あの眩しさから目を背けたくなって。 電話をしても、一緒にいても素直に笑えなかった最近の自分を思い出す。 「はさぁ、余計な事考えすぎなんだよ。その後のことはその時考えれば良いって!」 明るい声で部長がバシッっとの背を叩く。 「もし、私の道に黒羽くんを引き込むことになったら……」 「だからぁ、考えすぎ! それは黒羽くんが選ぶことでしょ? それにずーっと卒業まで今のまんまのテンションだったら、とてもじゃないけど"Impression"を超える絵なんて描けないよ?」 明るく、諭すように笑う部長にも沈んでいた顔色にほんの少し笑みを浮かべた。 「うん……そうだね」 「そうだよ、大賞候補がそれじゃ困るよ」 クスクスと笑い合っていると、ふと部長の携帯電話が鳴った。 「メール?」 「ん、ちょっと待って。……あ!」 焦った様子で表示画面を見やる。 「どうしたの?」 「今日待ち合わせしてたのすっかり忘れてた……ゴメン! 私行くね?」 「あ……うん、ゴメンね付き合わせちゃって」 「ううん!」 あたふたと携帯をしまい、ショートカットの髪を揺らして勢いよくベンチから立ち上がる。 「あ、そうだ!」 カバンを肩にかけて部長が快活そうな笑みを浮かべた。 「今度の絵にも、私にタイトル付けさせてくれないかな?」 部長の申し出に一瞬目を見開くも、はフッと笑った。 「うん、お願いする」 「良かった! じゃあまたね!」 手を振って笑顔で駆けて行く友人の背をは「ありがとう」と呟いて見送った。 ほっと息をついて空を仰ぐ。 ゆっくりと雲が形を変えながら流れていく。 ずっとこのまま、今のままの関係で黒羽といたい。 しかし、今こうしている間にも確実に時は流れていく。 同じように変化のない人生などあり得ないのだ。 その先にある形など、今は誰にも分からない。 「これからの事は後で考えれば良い……か」 呟いてはふっと口の端を上げた。 「ねえキミ、一人?」 しばし思いふけっていたは差し掛かった影に顔を上げた。 見ると白い学ランの軟派そうな青年が立っている。 「オレ山吹高の二年なんだけど、その制服氷帝中だよね? カワイ〜、暇ならどっか遊びに行かない?」 「え、あ、あの……」 軽い口調でグイっと腕を引っ張られて背筋がゾクッと粟立つ。 「ちょっと、やめ」 「オイ!」 腕を振り払おうとしたところで背後からドスの効いた声が響いた。 「手ぇ離せよ」 「し、宍戸くん……」 ギロっと元々目つきの悪い目を更に鋭くして睨まれ、ナンパ男は一瞬たじろいた。 「何だよ男連れかよ」 チッっと舌打ちをしながらそそくさとその場を離れる。 「あ、ありがとう」 「別に。お前こんな所で何ボーっとしてんだよ」 「さっきまで部長と一緒だったから……、宍戸くんこそどうしてここに?」 「あぁ!? ここは通学路だぞ? 俺が歩いてちゃ悪いかよ!」 安心からかホッと表情を緩ませたに宍戸はいつもの調子で不機嫌な声をあげた。 宍戸の答えに尤もだと思い苦笑すると、はほっと息を吐いて先程まで座っていたベンチに腰を下ろした。 さっきの今でを放っておく訳にもいかず、宍戸もハァとため息をつくとの横に腰を下ろす。 は解せないといった面持ちで宍戸を見やった。 が、特に追求する必要もなく再びぼんやりと前を見つめた。 朱に染まりかかった公園に遠く子供の声が響く。 「宍戸くん……色々心配かけちゃってゴメンね」 「は?」 暫らくして口を開いたを宍戸が首をかしげて見やる。 「私、ちゃんと黒羽くんに話してくる」 「……そーかよ。別に俺にゃ関係ねーけど」 ソッポを向いて頭を掻く仕草をする宍戸には僅かに微笑んだ。 言葉に出さなくても、は宍戸がずっと気にかけてくれていたことは知っている。 気の置けない、自分の事をよく分かってくれている大切な友人。 宍戸とならきっとずっと、例えこのまま会えなくなったとしても変わらぬ親友でいられると――はそう思った。 一寸間を置いて宍戸も表情を緩ませた。 「ま、その方が良いだろうよ」 「うん」 クスリと笑って立ち上がるとは傾きかけた太陽に向かって眩しそうに手を翳した。 その背を追って宍戸も立ち上がる。 振り返ったの笑顔を見て、自然と自分も笑みを浮かべる。 (結局、浮き沈みする理由は全部黒羽か……) どちらともなく歩き出し、宍戸はそんな事を考えながら瞳に差し込む太陽を遮るように目を眇めた。 駅の前まで来て、お互い挨拶をしつつ別れて歩き出した宍戸をは後ろから呼び止めた。 「……宍戸くん!」 「あ?」 呼ばれて宍戸が振り返る。 「いつか、陽の光りは絶対だって言ってたよね?」 「ん、あ、ああ……」 真っ直ぐ瞳を向けられて宍戸は思わず視線を逸らした。 と違って、そういう事を改めて言われると気恥ずかしい。 気にせずは笑みを浮かべたまま言葉を続けた。 「確かにそうかもしれないけど、きっと月も同じくらい大切」 「……は?」 「だって、月の出ない地球なんて考えられないもん」 西日に顔を照らしながら微笑むに一瞬あっけにとられた宍戸だが、すぐ自分もつられたように微笑んだ。 「そうだな」 一瞬手をかかげると、宍戸はそのまま改札口へと向かった。 |
全く絡まなかった山吹を少しだけでも、と……見知らぬ高校生ですが(^^;
最後はどうしても宍戸でしめたかったので。
部長の役割は鳳にやってもらうつもりでしたけど、後輩にというのもアレなので
変更……それはまた違う機会にでも。
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