後数日で十二月を迎える初冬の午後、は意を決して千葉へと向かった。

目の前に広がる広大な海が午後の日差しを反射してキラキラと眩しい。
相変わらず子供が数人、砂浜を駆け回って遊んでいる。

一年前、初めてここを訪れた時のようにはゆっくりと潮風に吹かれて海岸沿いの道を歩いた。
あの時は初めて見る風景に感動していたのだが、今は何だか懐かしい。

穏やかに西へ傾いていく太陽を、も穏やかな気持ちで見つめていた。


ー!」
呼び声に振り向くと学ラン姿で走ってくる黒羽の姿が映った。
「スマン、待ったか?」
「ううん、ゴメンね……急に呼び出しちゃって、忙しいのに」
学校からここまで走ってきてくれたのかと思うと胸が少し軋む。
「いいって! それよりどうしたんだよ? 急に電話で会いたいなんつってさ」
「黒羽くんの顔が見たくなったの」
が微笑むと黒羽は一瞬キョトンとした後、そっかと笑っての隣に並んだ。
手摺りに手をかけ、二人して海を眺める。

、ひょっとして学校帰りに直接来たのか?」

しばしの沈黙を破り、黒羽が口を開いた。
制服姿だったを疑問に思ったのだ。
「うん、今日午後の授業が休みだったから少しでも早く来たくて……ずっとここで海見てた」
「そうか……」
返事を聞いて黒羽は少し申し訳なさそうな顔をした。
長い時間を待たせてしまったという思いと、沈み始めた夕日が映るの表情が少し寂しそうに見えた所為だ。
「綺麗だね」
は朱色に染まり始めた海の方へ視線を投げた。
「ああ、覚えてるか? 初めて会った時もここで夕日見たよな」
「もちろん。あの時わざわざここの夕日を見せに連れてきてくれたんでしょ?」
嬉しかったと笑うの頭を黒羽も笑ってポンと一度叩いた。
「夏はみんなで泳いだっけ……」
「おー、剣太郎がクラゲに刺されそうになって大騒ぎしてたなぁ」
ハハっと遠くを見つめて笑う。
「千葉に来たと偶然出会ったのもここだよな」
「そうだったね……私は新人戦で黒羽くんのプレイ見て、宍戸くんに色々聞いて、いきなりここに来て……あの時は随分迷惑かけちゃったね」
「んな事ねーよ。が俺達のプレイ描いてるって思うと気合い入るしな。気ぃ抜いて下手なプレイ見せられねぇぞ! ってさ」
笑う黒羽の顔が夕焼け色に染まる。
も目を細めて笑うと再び視線を海原へと戻した。
寄せては返す波の音が、誰もいなくなった砂浜に響く。
ただ二人で段々と染まっていく海を眺めながら秋の潮風にゆったりと吹かれていた。
「ね……」
「ん?」
「黒羽くん、高校決めた? テニス、どこで続けるか」
ふわっとの柔らかいウェーブの髪が風に靡き、甘い香りが僅かに黒羽の鼻を掠めた。
「ああ。やっぱ俺地元でテニスしてぇし、普通に受験する事にした」
「そっ、か」
「推薦受けて、東京の高校にしようかかなり迷ったんだけどな。設備も環境も良いし、にも会いやすくなるだろ?」
その言葉に一瞬ピクリとの手が反応した。見上げた黒羽はいつものように笑っている。
「私に……会いたいって思ってくれるの?」
「何言ってんだよ、当たり前だろ!」
驚いたというような面持ちでほんの少し目を見開くに黒羽は心外だとばかりに声を強めた。

「……ありがとう、嬉しい」

俯いて、は黒羽が聞き取れない程の声で囁いた。
言葉の端が震えているのが自分でも分かる。
その事を悟られない為、は黒羽から上体を海の方へ向けてから顔を上げた。

「私、黒羽くんにも六角のみんなにも凄く感謝してる。あの時、私の無理な頼みを快く受けてくれたおかげであの"Impression"が描けたんだし」
……」
「あの絵を描くために黒羽くん達を目で追って、描いて……みんなクルクル表情変わって、それを表現するの難しくて、初めて人物画って面白いなって思ったの」

黒羽は静かに、だがどこか寂しげに語るの横顔を黙って見つめた。
「それだけじゃない、宍戸くんやウチの学校のみんな、淳くん達、他の学校の人達もみんなそれぞれキラキラしてた。一瞬一瞬が星の煌めきみたいに綺麗だったの。そんなみんなのテニスへの想いに少しだけ触れて、私もこうありたいって、あの輝きをキャンバスに残せたら……って強く思ったわ」
そう言って黒羽の方を向いたの瞳はオレンジを宿していて、黒羽は一瞬目を奪われた。
「だから……ありがとう」
「え、あ……いや、んな改まんなって!」
軽く頭を下げたに黒羽はハッと我に帰った。
「それにそんなの俺らのおかげじゃねーって! 礼言われるような事はしてねぇよ」
「そんな事ないよ! 私、黒羽くんに会わなかったらずっと人物画なんて面白いと思わなかったかもしれない。宍戸くんがいなかったらここまで訪ねてこなかったかもしれない……。みんなと仲良くなって、色んな人の想いに触れなければ、こんなに」
そこまで言ってハッとしたは思わず握りしめてしまった拳をそっと降ろした。
(……みんな、少しずつだけど繋がってる)
黒羽のテニスに興味を抱いていても宍戸の一押しがなければ黒羽に会いに来る決意は出来なかったかもしれない事、黒羽が淳の話をしなければあれほど聖ルドルフに感情移入しなかった事、そうでなければ橘の言葉も、彼に惨敗した宍戸も、その宍戸の成長もこれほど心に染み入る事はなかっただろう。
そもそも宍戸と親しくなければ――偶然、黒羽のテニスを見なければ、と考えればキリがない。

地平線の先へと沈んでしまった太陽の残り陽が闇のビロードと相まる。
東の海面より少し上に昇っていた月が、淡い光を帯び始めた。

はふっと風のように笑った。
「みんなの……おかげだね」
「相変わらず大げさだよなぁは、人間なんてみんなそんなモンなんだよ! さっきも言っただろ? 俺達は俺達でが居たからより気合い入れて練習出来た事もあるんだ、お互い様さ」
そんな事をサラッと言って大らかに笑える黒羽は、やはりとても大きくて眩しい。
はその笑顔を寂しそうに見上げた。

("陽の光は絶対だ"か……)

宍戸の言葉を思い出す。
言わなくては。その為に来たのだとは再度自分に言い聞かせた。
今までの感謝の言葉ともう一つ――だがそのもう一つの事をなかなか言い出せない。
「どうしたんだよ……お前何か今日変だぞ?」
黙りこくって今にも泣き出しそうな顔をするを黒羽が心配そうに覗き込んできた。
「最近様子変な事多いし、何かあったのか?」
本気で自分の事を案じてくれている黒羽にの胸が熱くなる。
迷いはない。
そう思っていたはずだった。

「……たい」
「ん?」

―――黒羽くんの傍にいたい。

グっとはハッキリと頭によぎった言葉を飲み込んだ。

「私……フランスに行くことにしたの」
飲み込んだ言葉の後から自分でも驚くほどアッサリと言いあぐねていた一言が出た。
の瞳に目を見開く黒羽の顔が映る。
「なん……だって?」
黒羽の声には言葉の意味がよく分からないというニュアンスが含まれていた。
「フランスに留学する事にしたの」
一度口から出てしまうと言葉は急に現実味を帯び、は腹を据えたように自分でも不思議なくらい通る声で再びそう伝えた。

もう一度言われたの言葉が大分遅れて脳に届き、黒羽はその意味を理解するのに少し時間がかかった。
徐々に驚愕の色が顔中に広がる。
「何でだよ!?」
「氷帝のパリにある姉妹校に講師として来て下さってる高名な先生が私の絵に興味を持ってくださって、春からで良いから来ないか、って言って下さったの。……パリにいれば良い勉強が出来るし、環境も凄く整ってるから」
声が震えないようはギュッと拳を握りしめた。
「……いつ来たんだ? その話」
黒羽の真っ直ぐな視線に耐えきれずには黒羽から視線を逸らした。
じわ、と握った手のひらが汗ばんでくる。
「正式に話をもらったのは……九月になってすぐ」
黒羽の眉がピクリと動く。
「俺、なんも知らなかったぞ」
「ホントは……言わないつもりだったの」
目を伏せて呟いたその言葉にカッとしたのか、黒羽は思わずの肩を両手で掴んだ。
「じゃあお前は俺になんも言わずに行くつもりだったのか!?」
グッと力を込めて肩を握る黒羽は、滅多に見せることのない怒りを声に含ませていた。
「だって……黒羽くんに話したら私、私……」
途切れ途切れに言葉を紡ぐの目尻に涙が溜まる。
「ヨーロッパで絵の勉強するのは夢だったの……だから嬉しかった。行くってすぐ決めたハズなのに……黒羽くんの顔ばかり、浮かんで」
涙が溢れそうになった直前では黒羽の手を振りきると涙を見られないよう背を向けた。
「フランスに行ったら、私きっともうずっと……」
そんなの震える小さな肩を黒羽は暫く黙って見つめた。
に言われた言葉を頭でゆっくりとリピートしながら、その意味を思案する。
そしてどこか納得したようにガシガシと頭をかくと、次いでハァと大きなため息をついた。
「お前……ひょっとしてフランス行ったら一生俺に会えねぇとか思ってる?」
「え……」
後方から聞こえて来た呆れたような声には少しだけ首を捻った。
「それにもう決めた事で変える気は一切ないから、俺に申し訳ないとか思ってるだろ?」
「だっ、て……パリよ? いつ帰ってこられるか分からないし黒羽くんだって高校で新しい生活が」
「あーもう、だから大げさだっつってんだよはよう!」
「った!」
いい加減ウンザリしたような声で黒羽は天根にするよりは手加減してにチョップを入れた。
思わず驚いての涙もピタリと止まる。
「そうやって一人で極端から極端に走って自己完結しちまってよう……去年の春先だってそうだぞ!? あのまま連絡くれなかったら氷帝訪ねてくつもりだったんだからな」
「黒羽く……」
「マジで黙って行っちまってたら俺、何が何でもパリまで行ってたぞ」
そのままの勢いで豪快に肩を抱いて話す黒羽の言葉より顔が間近に映った事には頬を赤くした。
誰にでもスキンシップ過剰な黒羽のこんな行動は珍しくはないが、慣れない。
「聞いてるか?」
「え? う、うん……」
思わず目を逸らす。
次にようやく言われた言葉の意味を理解しては益々頬を朱に染めた。
「……何だよ?」
暗がりでも分かるほど頬の紅潮したを見て黒羽は眉を歪ませた。
「だって……パリまでって」
信じられないとでも言いたげなに黒羽は更に心外だと声を強めた。
「あのなぁ、お前さっきから失礼だぞ!」
間近で聞こえる声がの耳にピリピリ響く。
「だって……先の事なんて分からないじゃない、これから何があるかなんて」
「俺はそんないい加減じゃねーよ!」
真っ直ぐ響く黒羽の声はやはり少し怒っているようで、でも肩を抱く手は温かくて、の見開いた目尻にまた涙が溜まった。
「あ……いや、そりゃ今以上に偶にしか会えなくなるだろうけどさ」
それを見て黒羽は少しバツの悪そうな顔色を浮かべた。
口調を幾分柔らかくする。
「俺……絵を描いてる時のが好きだ」
親指の腹での目尻を軽く拭って、黒羽は今度は正面から真っ直ぐの瞳を見つめた。
「すげーキラキラした目で色んなモン見てて、鉛筆持ってるときは射るような瞳で一点見つめててさ……コイツの目には世界はどんな風に映ってんだろうななんて思ったりしてさ」
間近で目線を合わせる為に少しかがんでいる黒羽に合わせても若干頭を上げる。
「美術館での絵を見たとき、の目には俺はこう映ってんのかーとかガラにもなく感動しちまったり」
ちょっぴり照れたように笑う。
「留学の話もの絵が認められての事だろ? すげぇじゃん」
そう言って黒羽は、俺も嬉しいと誇らしげな顔をしてみせた。
そんな表情を向けてくる黒羽に再びの涙腺が緩む。
「……行く、って即答したのよ? 私、きっとこれからだって――」
絵を最優先に選ぶ――。そんなの思いを黒羽は意味を察して少し苦笑すると真剣な表情をしてみせた。
「でもその後俺の事も考えてくれたんだろ? 言ったろ、俺絵描いてるが好きだって。世界で、一番な」
「黒羽く――」
「俺はここでの夢を応援するさ。……離れてても仲間だからな」
離れてても仲間――いつか淳のことを話してくれた時の吸い込まれそうな表情。
あの時と同じ笑顔には目を見開いた。
どこまでも眩しい黒羽に、つくづく敵わないと思い知らされる。
「あ、いや……仲間っつーか、なぁ」
「黒羽くん……!」
ガシガシと頭を掻く黒羽には思わず抱きついた。
黒羽への想いが溢れ出そうで、ただただ強く背中に回した手を握り締めた。
「ごめん、ごめんね……ありがとう」
一瞬目を丸めた黒羽だが、直ぐふっと笑うとの頭をポンポンと撫でた。

「痛くないか?」
頭を撫でながら済まなそうな声で聞いてくる黒羽にはううんと首を振った。
先程勢い余ってツッコミを入れたことを気にしているのだろう。

顔を埋めた学ランの黒羽の匂いが心地いい。


黒羽の肩に頭を預けたまま、は波音だけが響き渡る漆黒の海を見つめた。
「この海は、フランスにも繋がってるのかな……」
「海だけじゃないさ。空も日本とパリじゃ変わらねぇよ」
黒羽につられて空を見上げると、満天の星たちが様々な色に輝いていた。
今にも降ってきそうな星屑を仰ぎながらが小さく笑うと、黒羽も微笑み返した。

無数に輝く星々、一際眩い光を放つ豊穣の月。
太陽に惹かれて見えてきたものは、この星空のように限りない無限の煌めきだった。

これからも様々な人と出会い、その煌きは拡がっていくのだろう。

それでも、太陽だけは変わらずいつまでも一番明るく自分を照らし続けていて欲しい。



繋いだ手から温もりが伝わってきて、心地良い波音を聞きながらはゆっくりと瞳をとじた。


今なら少しだけ素直に未来の事も信じられる――そんな気がした。






***






満開の桜の季節を迎え、それぞれが新しい生活を始めた頃――皇居近くの美術館に一人の少年が懐かしそうに佇んでいた。

大賞の絵画を目を細めて見つめる。


少女が日本に残していった一枚の絵。

沢山の事を教えてくれた人々の為に描かれたその絵は、こう名付けられていた――。



『Human Touch』








- End -










長い間お付き合いいただき、どうもありがとうございました。
案ずるより産むが易し的でしたが、その後黒羽はどう思ったのか、とか恋愛的な描写とか
削ったり書かなかった部分も多いので、違う形でアップした際には宜しければお付き合い下さると幸いです。



BACK TOP