季節は夏を過ぎ――引退を迎えた三年生に代わり運動部は二年生を中心に新人戦へ力を入れる頃へと移っていった。 「センパーイ、ちょっとこっち手伝って下さーい」 「ハーイ、ちょっと待って……」 呼ばれては一時作業を中断し後輩の元へと向かった。 「もう……せっかく始業式で早く授業終わったのに部活だなんて」 「仕方ないでしょ。これから文化祭にかけては美術部が一番忙しい時期なんだから」 毎年文化祭用の共同作品の一つとして作られる巨大な絵の下地パネルを見下ろし、文句を言う後輩にが苦笑する。 「だってぇ……折角今日は遊びに行こうって思ってたのに」 「……私も手伝うから、頑張ろ」 「ワタシはセンパイみたいに、いつも絵ばっかり描いてられないんです〜」 口を尖らせてぶつぶつ言いつつ仕方なく手を動かす後輩を見て肩を落とすと、もパネルへと向かった。 「部長はまだ?」 「部長なら会議ですよ」 「ああ……生徒会合同だっけ。長引いてるのかな」 「良いですよね〜、ワタシ替わりにいきたかったです〜」 意外な言葉に一瞬目を瞬かせたは、視線を後輩の方へ送った。 「もうすぐ私たち引退だから、部長引き継ぐ?」 「とんでもない! ワタシにはできませんよ〜、今替わりに行きたいだけです! だって跡部先輩と喋れるかもしれないじゃないですか!」 間髪入れず否定され、手を合わせてキラキラと目を輝かせる後輩には、あ…そゆこと、と少々落胆すると軽くため息を吐いた。 「あ、そうだセンパイ。今月締め切りのコンクール、出ませんよね?」 「ああ、夏の風景が課題のあれ? どうしようかな……」 「えー! ダメ、ダメです出さないで下さい!!」 問われて手を止め思案した所で後輩は両手をブンブンと振った。 「どうして?」 「だって先輩が出したらワタシが賞取れる確立下がるじゃないですか〜、困りますよ」 「……あのね」 その一言には先程より更に深いため息をつく。 「賞なんて、誰が取っても恨みっこナシよ?」 つい口から出た言葉には自分自身で驚いた。 次いでおかしくなって思わず笑みがこぼれそうになる。 「えー、無理です、そんな奇麗事……。先輩だって自分より上手い人の所為で落選したらイヤでしょ?」 「……うーん、どうかな。こういうのは選者の好みにもよるし」 しかし後輩の言っていることも尤もだと思い、は笑いそうになった気持ちを抑えて少し考えた。 確かに取りたかった賞が取れないと悔しく思うことはある。 しかし誰かに取られたから悔しいのではなく、時間をかけ真剣に取り組んだものが認められなかった自分のふがいなさが悔しいのだ。 だから次こそは、と更に自分を高めていこうと思える。 (でも……こんな風に私が賞取った影で悔しい思いしてる人もいるんだよね) ふと、は試合に負けて激昂していた観月や悔し涙を流していた選手達を思い出した。 しかし彼らは悲痛な声を上げながらも眩しいほど輝いていたのだ。 自分は賞に漏れた時、あの人たちのように見えていたのだろうか? そんな事を思ってはふっと口の端を上げた。 「そうありたいって……思ってるのかな」 「え……?」 大事なのは真摯にキャンバスに向かう事だと、賞はそのおまけだと考えているが、負けたくはない。 どうしても欲しい賞だってある。 だからこそ負けた悔しさをバネにまた頑張れるのだ、誰にも負けない力を手にする為に。 「誰かの所為で取れないと思うなら、それより上手くなればいいじゃない」 「そりゃー……そうできれば、楽なんですけどね」 口を尖らせた後輩にも少し肩を竦めた。 「ま、でも全然恨みっこナシってのはやっぱり難しいかな」 次いで砕けた表情を作ると苦笑いを浮かべる。 ああも真っ直ぐにそのことを口に出せる黒羽はやはり凄いと苦笑しながら思う。 真っ直ぐすぎて眩しくて、思わず手を翳したくなるほど眩しくて。 でもそれはにとって心地よく、必要な眩しさだった。 「ーー!!」 ガラッ、と勢いよく美術室の扉が開いてけたたましい声が辺りに響いた。 「部長……」 全員が驚いて手を止め、声の主の方を向く。 「ど、どうしたの? 随分会議長かっ――」 「そんな事はいいの! ……!」 ショートカットの、溌剌とした笑みを浮かべた少女はの目の前に走ってくると興奮した様子での手を取った。 「おめでとう!」 「な、何……?」 「んふふ、それは職員室行ってからのお楽しみ」 |
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「あ、待って!」 黒板消しを持って一面に広がった白い文字を消そうとしていたに直ぐ後ろから制止する声が聞こえた。 「ゴメン、塾の宿題やっててさ。急いで写しちゃうから」 ヘヘっと申し訳なさそうに笑う友人の言葉に手を止めて、は邪魔にならないよう教壇から降りた。 「毎日大変そうね……」 「まぁね」 教卓の直ぐ前の席で手早く黒板の文字を写し取る友人のノートに目線を落とす。 「外部受験するんだって? どうして」 「んー……あたし幼稚舎から氷帝だったし、進みたい科が高等部にないからねぇ」 黒板の文字を追いつつ友人が答える。 「はどうなの? 美術科の有名な高校から推薦話きてるんでしょ?」 「あー……うん」 逆に聞き返されお茶を濁す。 友人の言うとおり、今までのコンクールでの実績からには絵画の有名な高校からの誘いも来ていた。 「? 前、絵の先生もその高校勧めてたって言ってなかったっけ? 行かないの?」 「……どうかな」 「なにそれ」 考え中?と黒板から目線を逸らさず友人が笑うと、は申し訳なさそうに苦笑した。 「よし、完了! ……と、ヤバ、すぐ塾あるんだった」 パタンとノートを閉じたと同時に時計を確認して慌てて立ち上がる。 「ありがと! じゃあまた明日ねー!」 「うん」 バタバタと鞄に荷物を詰め込み、足早に教室を出た友人を見送るとは再び教壇に立った。 「あー、腹減った」 二人きりになった教室で後方から声が響き、は黒板消しを動かしていた手を止めた。 自分の席で日誌を付けている宍戸の方を振り返る。 「サンドイッチあるけど食べる?」 「マジ? 食う食う!」 手早く黒板を無地の状態に戻すと自分の席に戻ってカバンからサンドイッチを取り出し、宍戸に渡した。 「でもこれお前の昼飯じゃねぇのか?」 「うん、でもちょっと忙しくて食べる暇なかったから」 どうぞ、と言うにそれじゃ遠慮なくとサンドイッチをつまむ。 「ここんとこマジで忙しそうだよな、何かあんのか?」 「……文系の部活はこの時期忙しいの! 特に三年はね」 しばし日誌を書く手を止めてサンドイッチを頬張る宍戸に付き合い、も椅子に腰を下ろす。 「別に運動部も暇なわけじゃねーぞ!」 「引退したのにしょっちゅう顔出されるんじゃ後輩達迷惑してるんじゃない? 折角自分達の自由にできるようになったのに"目の上のタンコブが来た"ってね」 「んなこと」 「去年そうだったでしょ?」 う、と言葉に詰まる宍戸にはクスクスと笑った。 「チッ、ちょくちょくテニスやってないと身体なまるんだよ」 「高校でもテニス続けるの?」 「当たり前だろ!」 勢い良く言い放った宍戸にそっか、と軽く目尻を下げる。 すっかりコメカミの絆創膏がトレードマークになった宍戸は、夏以降以前の近寄りがたかった雰囲気が薄れ、すっかり丸くなっていた。 変わった――それももちろんあるが、今まで出せなかった本来の自分を素直に出せるようになったんだろうとは思っていた。 (にしても髪切ったかと思えば帽子……益々木更津くんと被っちゃってる) 自分の顔を見て微笑んでいるに、宍戸はチーズサンドを頬張る手を止めた。 「何人の顔見て笑ってんだよ」 「ん? ……何でいつも帽子被ってるのかなーって思って」 「慣れねぇんだよ、この頭。みっともなくて帽子被ってたらクセ付いちまって取ると更にみっともねぇし」 少し眉を歪ませて帽子からはみ出た髪の毛を弄る。 確かに以前の艶やかな長い黒髪とはすっかりイメージが違うが、図らずもその髪型は親しみやすさを増大させる結果になっていた。 「似合ってるのに、その髪型」 面白そうに、だが真面目にが言うと宍戸は目をぱちくりさせて少し照れたように頬を掻いた。 「……ヘッ、別にお前の好みに合わせた訳じゃねーよ」 憎まれ口も慣れてしまえば可愛いモノだとは笑った。 単に口調まで前より柔らかくなった所為もあるかもしれないが、と目の前の少年を微笑ましく思う。 「一からまた築いていけば良い」 「あ?」 「って、不動峰の橘くんが言ってたんだけど」 不意に言われた名前に宍戸はバツの悪そうな顔をした。 「あ〜……あの時は無様な姿見せちまって」 「そんな事ないよ!」 負け試合を思い出して居心地悪そうにする宍戸の言葉をは途中で遮った。 「負ける事って私悪い事だとは思わない……それに橘くんが言ってた"一から築く"って言葉ほど簡単じゃない。宍戸くん、あんなに頑張ってレギュラー復帰して青学戦で良い試合見せてくれたじゃない? 凄いよ」 一瞬あっけに取られた宍戸だが、真剣なの瞳を見てふっと小さく笑った。 「ま、橘に負けて俺は自分の甘さを思い知らされたからな。いつか借り返さねぇとな」 そう言う宍戸の目は未来を見据えていて、本当に良い方向に変わった彼に昔の宍戸を重ねて、は改めて大きくなったと微笑んだ。 「宍戸くん、プレイが前と変わった……今の宍戸くんのテニスは凄く描いてみたいなーって思ってる」 「おま……やっぱ前は描く価値ないと思ってたんじゃねーか!」 「わっ、ご、ごめんつい」 思わず振り上げた拳に縮むを見ながら、宍戸はそれは流の最高の賛辞である事は分かっていたので心の中で小さく「サンキュ」と呟いた。 「ま、やっとも見る目付いてきたって所か」 「何それ……、でもそうかも。前よりずっと絵を描くのが好きになったから」 きっと宍戸達のおかげだと笑うに宍戸はそれ以上絵にハマってどうするんだと呆れたように返した。 (でもま、俺も前よりテニス真剣にやるようになったから人のこと言えねぇか) 残りのサンドイッチを口に放り込み、持っていたペットボトルのお茶を口にする。 その様子を指で四角い枠を作り、枠越しに見つめるに宍戸は怪訝そうに目線だけをのほうに送った。 は枠越しに宍戸を見つめながらサラリと言う。 「それでね、思ったの。宍戸くんって、月みたい」 「ぶっ!」 宍戸は思わず飲んでいたお茶を吹き出しそうになる。 「……汚いなぁ」 「な……何変な事言ってんだよ」 変?と首を傾げるに宍戸はヤレヤレといった様子で口元を拭った。 は説明するようにふ、と微笑んだ。 「真昼の月は見えにくくて……いつ、輝くのかなって」 そうしながら一年の頃から見てきた宍戸のテニスを順々に思い返していく。 後一歩、きっともっと凄いプレイヤーになれるともどかしく思っていた事。今年の都大会での事。 「鳳くんと特訓してた時は今から満ちてく月だと思ったの。太陽みたいに情熱的じゃなくて、静かで内に秘めた熱って言うか」 「……お、おい」 「関東大会はホントに凄かった……ずっと宍戸くんに釘付けだったもん」 真っ直ぐ瞳を見つめて嬉しそうに話すに宍戸は目線を泳がせた。 呆れるような照れているような表情を浮かべる。 「お前……んな恥ずかしい事真面目に言うなよ」 感情表現のストレートなに、照れている自分がバカらしくなって宍戸は苦笑いを浮かべた。 「……ま、ゲージュツ家的には良いのかもな、その感性も」 そしてふ、と口の端をあげる、 「でも月って満ち欠けするモンだろ? 俺は欠けるつもりはないぜ」 「……うん」 何の迷いもなくなった今の真っ直ぐな宍戸は、以前よりずっと魅力的だとは思った。 きっと言葉どおり今後もその輝きは増していくのだろう。 「ガンバって……て、大丈夫よね、宍戸くん努力家だし」 「そうか?」 宍戸はその言葉に目線を落とすと、の顎を支えている両手を見つめて眉を顰めた。 「だって前ほどじゃないけど今もよく傷作ってくるし……鳳くんと特訓してた時なんかもうボロボロで」 少しその時の事を思い出して痛ましそうに目を細めたの言葉を聞きながら、宍戸はその右手を掴んだ。 「……何?」 「ボロボロなのはお前の方じゃん」 「え……?」 急に手首を掴まれて一瞬訝しげな表情をしただが、まじまじと自分の右指を見つめる宍戸にああと頷くと困ったように口元を緩めた。 「こんなの、ただの筆だこだよ」 珍しくも何ともないと一蹴するに宍戸は掴んでいたの手首をそっと離しながら、ただの、と言うにはあまりに腫れ上がった右手の指を痛ましく見つめた。 「だいたい、宍戸くんだってテニスまめ出来てるじゃない」 逆に宍戸の腕を掴み返してが笑う。 「……すげぇよ、お前」 ボソッとに聞こえない程の声で宍戸は呟いた。 美術室を偶に覗くといつも油まみれになってキャンバスに向かっていた事、テニス部の練習を見に来てもバカみたいに真剣な顔して一心不乱に鉛筆を動かしていたこと。 呆れつつもいつも絵に一途だったの事を思い出して、宍戸はに心で賛辞を送った。 「あ、もうすぐ誕生日だ」 ふと目線を落としたの目に日誌の日付が目に入り、無意識に呟いた。 「……覚えてたのかよ」 「え?」 思いがけない言葉にハッと顔を上げる。 「? 何だよ」 「あ、ううん! うん……」 一瞬、は頭が真っ白になるのを感じた。 無意識に脳裏に浮かんだのは眩しい程真っ直ぐに笑う長身の少年だったからだ。 (そうだ……誕生日同じなんだっけ) 忘れていたわけではないが、真っ先に思い描いたのは黒羽の事。 今目の前にいて、ずっと話していた宍戸ではなく黒羽なのだとハッキリと思い知らされる。 (黒羽くん……元気かな、天根くん達ももうすぐ新人戦だよね) 黒羽とは九月に入ってから一度も会っていない。 少し黒羽の事を思うと気が重くなる。 「、お前どうするんだ?」 「ん?」 「高校……決めたのか?」 シャープペンをクルクル回しながら聞いてくる宍戸にの眉がピクリと動いた。 「宍戸くんはこのまま高等部行くんだよね?」 「俺の事はいーんだよ。……お前、やっぱ迷ってんのか」 日誌の続きを書こうと目線を机に向けた宍戸の帽子からはみ出た髪の毛がの正面に映る。 「迷ってないよ」 乾いた声が頭上から降りてきて、宍戸はキリの良いところまで書き済ませると一旦顔を上げた。 「アイツには話してないのか?」 「話せないよ!」 訊き終わる前に強い口調で否定してきたに軽く目を丸くする。 「……お前さぁ」 コツコツとシャープペンの頭で額を叩きながら張りつめた面持ちのに向かってため息をつく。 「さっき俺のこと月みたいだっつったよな。太陽じゃ、ねーって」 「え……? そ、それは別に深い意味は」 「でもそれはお前の中のイメージなんだろ? ――陽の光りは絶対だ。分かるだろ?」 心配そうな、だが真剣な目をしての顔を覗き込む。 その言葉では宍戸の言いたいことは大体理解したのだろう。目線をそらして俯く。 「ま、お前の最優先は絵だって事はよく分かるけどよ……」 再び腕を動かし始めた宍戸の書き綴る文字をは黙って目の端で捉えていた。 「後悔すんなよ」 日誌を書き終わってそう一言言うと、宍戸はガタンと椅子を鳴らして立ち上がり日誌は自分が持っていくからとには早く部活へ行くよう促した。 ドアの向こうへ消えた宍戸の背を見送ったまま、は宍戸の言葉を思い返してギュッと瞳を閉じた。 |