「ファーストの確率を上げる。厳しいコースにピンポイントで入れる。色んな種類のサーブを打ち分けられる」
「何だ、いきなり?」
夏期休暇中も当たり前のように部活に励む六角中テニス部のいつもの光景。
前屈をしていた黒羽は、自分の背を押す相手の声に前を向いたまま少し眉を曲げた。
「サーブに必要なのは速さだけじゃないって話」
声の主がその独特の抑制のない口調と共にサラリと長い髪を靡かせる。
「まー、そうだけどよ。何だってそんな大前提を今更」
首を傾げた黒羽に隣で屈伸をしていた佐伯が目線だけ流した。
「気を遣ってるんだよ、バネ。ほら今大会の最速サーバーは……」
「ああ……梶本な、200キロ弱だったっけ?」
一瞬身体をこわばらせた黒羽は、佐伯の言葉に口をへの字に曲げた。
次いでキッと強い視線を前に向ける。
「梶本……それに鳳とも一度公式戦でやってみてーな」
「城成湘南と全国であたれば梶本とはやれるかもしれないけど、鳳とはキビシイね」
クスクス、と苦笑交じりの声が潮風に乗る。
「でも、やるのは良いけど公式戦で負けてもらっちゃ困るよ?」
勝てるの?とニュアンスを含んだ視線を送ってくる佐伯に黒羽はニッ、といつもの含みのないまっさらな笑みを浮かべた。
「負けねーよ!」
木更津と交代するため勢いよく立ち上がった黒羽の目に夏の強い日差しが差し込み、一瞬目を細める。

「みんなーー! オジイが呼んでますーー、部室に戻ってくださーい!」




その日はいつもに増して蒸し暑い日だった。
剣太郎に呼ばれて集まった部室の外から響いていたアブラゼミの鳴き声がいやにうるさかった事は何故だか鮮明に覚えている。

そんな事を思い返しながら黒羽はいつものように練習が終わった後も一人コートに残ってサーブ練習に明け暮れていた。

どれだけ打っただろうか――ポタポタ、と握りしめたウッドラケットを伝い、潰れたマメから血がしたたり落ちていた。
その痛みに気づかないのか黒羽はただ前を見据えていた。
見えない敵を相手にひたすらエースを狙う。

ポツ、とトスをあげた黒羽の頬に何か冷たいものが伝った。
かまわずそのままボールをコートに叩きつける。
次のボールを手に取り、つこうとしたコートにポツポツと丸いシミが出来ていくのが映った。
「……雨か」
つい今頬に伝った冷たい滴を無表情で拭うと、構わないと黒羽は再びコートを見据えた。

次第に激しさを増す雨に、ボールを持つ手が滑る。
いつもは崩れることのない髪も、若干形を崩して降りていた。
頭上から全身に流れ落ちる雨水に打たれながら黒羽はキュッと唇を噛みしめ、形が変形するほど強くボールを握りしめた。
「打ちてーのに……」








*








一歩、一歩と近づいてくる緑色のフェンスを遠くに見つめながらは一旦足を止めた。
ふわりと風にのって潮のにおいが鼻をかすめる。

選抜合宿に呼ばれた――事の発端は昨日夏期休暇の課外で顔を合わせた宍戸の言葉だった。
何でも異例ではあるが、全国大会前に急遽日米親善試合を行う事になったらしいのだ。
その大会に臨むメンバーを選出する為の合宿に宍戸も呼ばれた、との事だった。
惜しくも関東大会一回戦で敗れ、このまま引退だった宍戸にはまたとないチャンスだ。
その事はも純粋に嬉しかった。
関東での宍戸を思えば是非頑張ってほしい。
しかし他のメンバーを聞いた時、瞬間そんな思いはの頭から消し飛んだ。
氷帝からは他に部長の跡部以下忍足、樺地、鳳が選ばれているという。
驚愕していた耳に、廊下を歩いていたらしき向日の「くそくそ、宍戸め!」などという地団駄がやけに大きく響いていた事を思い出す。


そっと、はオジイのラケット工房の陰からテニスコートを見やった。
「あ、姉ちゃんだ!」
すぐにに気付いたのか、手前のアスレチックで遊んでいた子供達が数人駆け寄ってくる。
いつもと変わらない光景。
「六角のみんなは?」
だが、コートだけはガランとしていては子供たちに質問を投げた。
「きょうは練習休みみたい」
つまんない、というニュアンスを含んで少年の一人が答える。
(休み……)
シーズンオフですら練習三昧の六角、こんな時期に休みとはにわかに信じられない。

さん……?」

後ろから自分を呼ぶ声が聞こえて、は声のするほうに振り向いた。
坊主頭にラケットを担ぐ少年の姿が映る。
「剣太郎くん……、今日練習休みなんだって?」
「あ、ハイ、そうなんです。でも全国前ですし自主練しようと思って戻ってきたんですよ」
健太郎は相変わらず元気のいい声で答える。はほんの少し目を伏せた。
「佐伯くん達、合宿に行ったんだってね」
「え、あ……聞いてたんですか? バネさんから?」
「宍戸くんに……」
そうですか、と剣太郎は肩を落とした。
「剣太郎くんも行きたかったでしょ?」
躊躇いがちに尋ねるに、剣太郎は少し肩をすくめた。
「そりゃ、でも僕一年ですしね」
残念そうに笑う。
「青学のあの一年生は選ばれたって聞いたけど……」
「ああ、越前君は選ばれてたんですよね。まぁ優勝校ですし……僕も今度は負けないよう益々燃えていきますよ!」
いつもの調子で明るく答えた後、合宿で競ってみたかったですけどね、と剣太郎は眉を下げた。
「でも、僕は一年だから良いんですけど……樹っちゃんやサトさんはやっぱり少し辛そうで、特にバネさんは口にも態度にも出さないけどメンバー発表の日から大分落ち込んでたみたいなんです」
言いにくそうに眉を下げたまま頬を掻く剣太郎に、も不安そうな顔色を浮かべた。

何故黒羽が選ばれなかったんだろう――その疑問よりも黒羽がどうしているか気になってたまらなくてすぐにでも六角へ駆けつけたかっただ。。
「それで、黒羽くんは?」
だが、気持ちだけが逸って自分が何をしたいのか、黒羽に会って何を言えばいいのかは迷っていた。
「それが今朝は一緒だったんですが……ひょっとしたらコートにいるかもしれないと思って来てみたんですけど、いないみたいですし」
同じように不安そうにコートを見やる剣太郎に、はいつも自信に満ち溢れた明るい笑顔を見せる黒羽を思い浮かべ、ぐっと手を握った。
何をすべきか分からないが、黒羽に会いたい。
「私、ちょっと探してくる」
そう呟くと、は元来た道を足早に戻った。




人気のない岩場に佇み、黒羽は目の前に広がる大海原を眺めていた。
今朝、合宿に向かう仲間を見送った足でここへ来て以降ずっとだ。

『あー……じゃあね、合宿に呼ばれた人を発表するのね。あー……えっとね、佐伯君、木更津君と──』

ふいにオジイの言葉が頭をよぎり、黒羽は慌てて首を振った。

六角の仲間を誰より誇りに思っている。
だから仲間が選ばれて嬉しい。その気持ちに嘘はない。
しかし自分が選ばれなくて何とも思わないかと問われれば、それは嘘になる。
日米親善試合のその舞台に立ってみたい。
だが、そのためのチャンスすら自分には与えられなかったのだ。

「ダビデのやつ……少し前までは俺に勝てなかったのになぁ」
六角のエースへと成長した後輩であり親友でもある天根を浮かべて苦笑する。
幼い頃から共に競い、成長してきた年下の親友はいつの間にか自分を凌ぐ程の力をつけていた。
頼もしく感じると同時に、ほんの少しやるせなさが胸をよぎる。

ふと、黒羽は自分の右手をみつめた。
無数のマメでボロボロになった手のひら。
毎朝誰より早くコートに出て、毎日誰より遅くまで練習してきた。
(俺は、俺のテニスじゃ……サーブじゃ、梶本や鳳には敵わないって事なのか?)
グッと拳を握り締める。

梶本と鳳は合宿に呼ばれていた。

一回戦敗退の氷帝、ベスト8の城成湘南、共に今年の成績は六角より劣る。
それでも彼らは自分より評価されたのだ。
彼らの力は同じサーバーとして凄いと思う。
だからこそよけいに自分をふがいなく感じる。

それに離れた地にいる仲間、慣れた六角を離れ一から全国を目指すため一人ルドルフへと行った淳。
その淳も合宿に呼ばれたという。
自分も選ばれていれば、一度は消えたと思っていた淳と戦うという目標が形は違えど果たせていたのだ。

「って、ガラじゃねーよな」
自嘲気味に呟くと、黒羽は近くにあった小石を手に取り海へ向かって力いっぱい投げた。
数秒遅れてポチャンと海面へ飲み込まれる小さな音が聞こえる。

メンバー発表の日からここ数日、黒羽はいつも以上にがむしゃらにサーブを打ってきた。
硬い手のひらのマメが潰れて、血が流れ出した痛みにも気付かないほど無我夢中に。
何も考えず、ただひたすらエースだけを狙っていた。
しかし、今朝合宿へ向かう3人の背を見送ってハッキリと心にかかる靄を自覚した。
自分はあの三人と何が違うのだろう?
梶本や鳳より、何が足りないのか?
自分だけじゃない、他の漏れた仲間も同じような事を思っていたかもしれない。
これは試合ではない、選抜なのだ。
頭では分かっていても気持ちがそう割り切れない。
相対した訳でも、勝負に敗れた訳でもない、スッキリしない苛立ち。

(しっかりしねぇと……)
自分を励ますように思う。
いつまでもこんな気持ちを抱えていても仕方ない。
もうすぐ全国が控えている――エースは二年、そして部長はまだ一年だ。
何があろうと自分が弱音を吐くわけにはいかない。

スッと大きく息を吐き、もう一度石を投げようと先程より大きな石を手にとって肩をあげかけた黒羽は背後から視線を感じて腕を降ろした。

「……

振り向いた先で潮風に靡く栗色の髪、心配そうに揺れる瞳と目が合う。

「来てたのか……」
いつからそこに居たのだろうか――自分に声をかけようか迷っていたらしきを見て、黒羽は少し笑って見せた。
「う、うん……でも今日、練習休みなんだってね」
上擦った声に少し歪んだ表情。
たどたどしい口調で無理に笑顔を作ろうとしているを見て、黒羽は彼女が事情を知っている事を悟った。
「宍戸に聞いたのか?」
「え……?」
「あいつも選ばれたんだってな……スゲーじゃん」
努めて明るく答える。
に今の自分の心情まで知られたくはなかった。

「黒羽くん…」

いつもの黒羽らしい言葉。
だが、どこか空元気だという事はにはすぐに分かった。

もしこれが試合をしての選抜だったのならば、いつもどおり晴れやかな笑顔で他のメンバーを称えていたに違いない。
例えるならにとっての美術コンクールだ。
選考基準のハッキリしない、曖昧な評価。
そういうものに漏れた時の気持ちは多少は分かる。
それに黒羽の性格ならば、誰を妬むわけでなく、その感情は自分自身へ向かっているだろう事は容易に想像がついた。

『バネさんは、態度に出さないけど……』

先ほどの剣太郎の言葉が脳裏をよぎる。
今もおそらく自分に余計な気を遣わせない為いつも通り振舞おうとしている。
それが余計に辛い。
「あ、あの……」
いっそ、向日のように不満や悔しさを露にしてくれれば言葉をかけやすかったかもしれない。
何と言えばいいのか上手く言葉が見つからず、ギュッと握った手が汗ばんでくる。

「何だよ……」

沈黙と、の腫れ物に触るような視線がピリピリ痛くて、黒羽はたまらずから目を背けた。
目をふせた黒羽の背に岩に当たって砕けた波がザッ、と大きく音を立てる。
「私は、」
「そんな哀れむような目で見るなよ!」
砕けた波が白いしぶきになってキラキラと辺りを彩る。
思わず怒鳴り声を上げてしまった黒羽は、一秒と経たないうちに顔に後悔の色を広げた。
目線をに送ると、瞳に僅かに驚愕の色を浮かべている。
「……スマン」
黙って首を横に振るを見て、黒羽は益々やるせなさを感じた。
(最低だな……俺)
行き場のない苛立ちを思わずにぶつけてしまった自分が情けなくて、強く歯噛みする。
だが、自分が今まで積み上げてきたものが全て否定されたようで、黒羽自身この気持ちをどう扱っていいか分からなかった。
「わりぃ……、今は一人にしといてくれないか」
呟くと、黒羽はに背を向けた。
こんな自分をこれ以上に見せたくない。

その大きな背中をは少し潤んだ瞳で見つめた。
痛いほど黒羽の気持ちが伝わってきて、何もできない自分がもどかしい。

(黒羽くん……)
潮風が前へ後ろへ吹き抜けていく。
黒羽への気持ちが溢れ出しそうで、は思わず背けられた背中に向かって手を伸ばした。
届かない手を、伸ばした先でグッと握りしめる。
「私、私は……黒羽くんの――」
キュッ、と一度唇を結ぶとは黒羽に駆け寄り今度はしっかりと両腕を掴んで真正面から黒羽を見上げた。
「私は……黒羽くんのテニスが好き」
少し目を見開いた黒羽の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「一番、世界で一番好きなの……! だから」
訴えながらハッキリ、悔しいとは思った。
他の誰でもない、黒羽にテニスに惹かれて自分は絵を描きたいと思ったのだ。
その選手が選ばれなくてとて悔しかった。
しかし一番悔しいのは他の誰でもない黒羽のはず――そう思ってそれは口に出さずグッと堪える。
「私はテニスの細かい強さとかはよく分からない……。でも、黒羽くんのテニスに惹かれた自分の目に狂いはないって信じてる」
黒羽のテニスが好きだから悔しい。
でも、だからこそ見返して欲しい。
黒羽春風はこんなに凄い選手なんだと、選ばなかった事を後悔させてやりたい。
その輝きを知ってきたことを自慢したい。

そんな想いを込めては黒羽を見つめた。

……」
目尻に涙をためて訴えかけてくるの真剣な眼差しを黒羽は黙って受け止めた。

オジイに自分は選抜に漏れたと告げられたあの日から、自分自身を責めるように激しい練習を重ねてきた。
何も考えず、何も考えられずただひたすらに。
それが気を紛らわす為か、悔しさを忘れる為だったのかも分からなかった。
だが、今自分の代わりのように悔しさを露わにするを見て黒羽はそれが分かったような気がした。
あの瞬間から、確かに身体は何をすべきか反応していたのだ。
悔しさも、ほんの少しのやるせなさも苛立ちも全て通り越して。
それに意識が付いてこなかっただけだと、そんな風に思った。

潮風だけがただ通り過ぎていき、黒羽は毒気を抜かれたようにふっと笑った。

「……サンキュ、

ポン、との頭を肩に引き寄せて軽く撫でると黒羽はそのまま前へ向かった。
一瞬包まれた腕の感覚に目を見開いた後、振り返ったにいつものような笑顔を向ける。
「俺、ちょっと走ってくっから先にコート戻っててくれ」
軽く手を掲げる黒羽の笑顔は、嵐の去った後のように晴れやかだった。
「う……うん!」
すぐ返事をすると、も砂浜を駆けてく黒羽の背を微笑んで見送った。




「バネー! もっと力抑えろよなー!」
「あめーよ! すぐ全国なんだからな……分かってるだろ!」
「ああ、俺たちの目標は全国制覇、だろっ!?」

午後の日差しが眩しいコートに明るい声が響く。
あれからやはり自主練の為にやってきた首藤が黒羽の剛球に笑いながら泣き言を漏らしている。

「負けねぇ……!」

首藤の球を打ち返しながら、黒羽は自分自身に言い聞かせるように強く呟いた。
自分が選ばれなかった事は悔しい。
白黒ハッキリしない選抜法にスッキリしないのも事実だ。
だからこそ誰にも負けない、誰もが認めざるを得ない力が欲しい。
今の自分にそれが足りないのなら、この瞬間に今を越えていってみせる。

一球一球噛みしめるように打ちながら、黒羽は自分のテニスが誰より好きだと言ってくれたの言葉を浮かべた。

自分のテニスを信じてくれる人がいる、そして自分自身テニスが大好きだ。
その気持ちだけは誰にも否定できない。

何とも言えない不思議な気持ちだった。
選抜には漏れたのに、何かに勝ったような――そんな高揚感。


「バネさん、すっかり元気になったみたいだ」
の隣でコートを見つめる剣太郎が嬉しそうに笑う。
「うん」
も眩しいコートを笑顔で見つめた。

も不思議な高揚感に包まれていた。
いつもと変わらない黒羽のテニス。
その当たり前の光景がひどく嬉しい。

「バネー! もう勘弁ーーー!」
「あ、じゃあ次僕行きます! 全国制覇するまでとことん燃えていきますよー!」
「よっしゃ、来い!」

太陽のように輝く黒羽たちを見つめながら、は永遠にこの瞬間を忘れないだろうと強く思った。
眩しい笑顔も、飛び散る汗も、四角に光るコートも、この一瞬一瞬全てを。


一筋、の頬に熱いものが伝った。











黒羽は極端に葛藤の少なそうなキャラです、が、アニメで全国前に選抜が
入ったので急遽それ絡みの話を入れようと悩んだ末、10話を伏線にしました(^^;



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