今日は2月14日、バレンタインデーだ。朝から冷え込みが激しく、ニュースではホワイトバレンタインデーとなるでしょうなどと言っていた。
 白い息を吐きながらいつも通りの通学路を歩くの瞳に、同じく氷帝学園を目指す女生徒、男子生徒の姿が映る。みな例外なしにどこか浮き足だった様子で、ふ、とは小さく笑みを零した。毎年毎年、この日の校内の賑わいぶりはまるでお祭り騒ぎである。
 正門をくぐってメインストリートを歩いていると、至る所で人だかりが見受けられる。おそらく運動部の人気選手が女生徒に取り囲まれているのだろう。そうして校舎に入ろうとしていると、目の端にひときわ女性の数が多い集団が見受けられ、跡部か? と何気なくそちらを見やったは「あ」と目を見開いた。
「鳳……くん……」
 頭一つ、いや二つ分は軽く出ているだろう長身はどれだけ女子に囲まれても埋まることがなく、僅かに困惑している表情が見て取れる。
 は明るい女生徒の声を耳に入れつつ、ふ、と少しだけ寂しげに笑みを漏らしてそのまま校舎へと入り自分の教室を目指した。途中、A組の先ほどの比ではない大騒ぎも横目で見つつ教室に入ると「よう」と宍戸が挨拶をくれた。
「おはよう。寒いね」
 暖房の効いた教室に入ると、外との温度差で一気に頬が紅潮したのが自分でも分かる。コートを脱いで、机にカバンを乗せると椅子へ腰を下ろして宍戸へと声をかけた。
「A組の横を通って来たんだけど……相変わらず凄かったよ」
「ああ、跡部な。毎年この時期になるとしばらく部室から甘ったるいニオイが消えねぇんだよな」
 途端にうんざりしたような表情を浮かべながら宍戸が振り返り、その表情のままに彼はの机に肘をついて顎を頬に乗せる。
「ま、跡部だけのせいじゃねぇけどよ。長太郎なんか――」
 そこで宍戸はハッとしたのだろう。しまった、と言いたげなバツの悪そうな顔をしては苦笑いを浮かべた。
「さっきね、校庭で、ね……鳳くんを見かけたの。跡部くん並に凄かったから……きっと例年以上なんだろうね」
 としては宍戸に気を遣わせまいとしたのだが、益々宍戸は言葉に詰まったように眉を歪め――そうして諦めたのか、ふ、と息を吐いた。
「アイツ……、今日が誕生日だからな。そのせいもあんだろ」
 そしてそんなことを言い、はそっと目を見開く。
「そう、なんだ。今日が……誕生日……」
「あ……ッ!」
 知らなかったのか、と言いたげに宍戸は更に失言だったとばかりに表情を歪めた。もそんな宍戸にすぐ対応できずに数秒は視線を明後日へと向けていたが、すぐにハッとして切り替えると「そうだ」と机に置いていたカバンを開いて中から包装紙に包まれた四角い箱を取りだした。
「はい、これ。どうぞ」
 そうして宍戸に差し出すと、途端に宍戸はキョトンとする。
「なんだ……?」
「チョコだけど……」
 それは見れば分かる、とでも言いそうな勢いで宍戸は頬を引きつらせてから腑に落ちないと言いたげに受け取った。
「ありがとよ」
「宍戸くん、そんなに甘い物食べないからミント味にしてみたんだけど……」
「いや、確かにミントガムは好きだけどよ。……どういう風の吹き回しだ?」
「最後だから、と思って。いつもこの時期は忙しくてバレンタインなんて忘れてたから」
 むろん、今年も忙しいのは変わらない。けれども、少しだけ周囲にも目を凝らしてみようかと考えるようになったのは、これを最後にここを去るからなのだろうか? それとも、自分の中で何かが少し変化を告げたからか。
 ふわふわと浮き足立っている雰囲気を横切り、はいつも通り昼休みに美術室へと足を運んだ。コンクールの締め切りまであと一ヶ月を切っている。引退してからもなにかと放課後に居残っては部活に参加させてもらったり部活終了後に美術室を使ったりしているが、作品が完成するまではいくら下級生に煙たがられようと部活に出るしかない。
「んー……」
 しかし今だキャンバスは白い。何度も何度も描き直して、少しずつイメージに近づいてはいるのだが。しかし、としばし睨み合っていると急にガラッと音を立てて美術室のドアが開いた。あまりに不意打ちでビクッと肩を揺らしてからキャンバスから視線を外し、はドアの方を見やる。
 誰だ? と見やったの瞳がこれ以上ないほど大きく開かれた。
「あ……!」
「すみません、かくまってください!」
 そこには必死の形相で肩で息をしている鳳がいて――、が固まっていると彼はピシャリとドアを閉めて、ずかずかとこちらに歩いてくる。
「誰が来ても、俺はいないって言ってください! お願いします!」
「え……!?」
「ちょっと美術準備室借りますから!」
 言うが早いか彼は美術準備室に行ってしまい、としては状況が飲み込めずに唖然とするしかない。一体何なんだ、と思う暇もなく廊下からパタパタと集団の足音が聞こえてきたかと思うと騒ぐ女生徒の声も聞こえ――美術室のドアがノックされて、勢いよく開かれたドアからは複数の女生徒の顔が見えた。
「すみませーん、ここにいま、二年の鳳さん来ませんでしたか?」
「え!? あ、あの……分からない、けど」
「そうですか。すみませーん、お邪魔しました」
 女生徒達はそう言いつつ、あっちじゃない? いやこっちだ、と言い合いながらドアを閉め、再びどこかへ駆けていった。
 何なんだ一体、とはなおあっけに取られつつ、ふぅ、と息を吐く。全く、いつもいつも唐突に何なのだ――とちらりと美術準備室のドアを見やった。そのまま放って作業に戻れるはずもなく、そっとドアをノックしてから静かにドアを開ける。すると鳳は美術部の道具を興味深げに見つめており、こちらに気づくとバツの悪そうな表情を浮かべた。
「すみません……先輩」
「行っちゃったよ、女の子たち。鳳くんのこと探してたみたいだけど……」
「はい。その……ありがたいんですけど……少し、一人になりたくて」
 鳳は想像以上に女生徒に追いかけ回されて気疲れしていたのだろう。申し訳ないような情けないような複雑な表情を浮かべている。――そっか、とは小さく呟いた。
「ここならたぶん誰も来ないから……。ちょっとオイルくさいけど、我慢してね」
 そして外に出ようとしただが、慌てたような鳳の声に引き留められる。
「ちょ、ちょっと待ってください! ……ワザと、ですか?」
「え……?」
「俺が一人になりたいって言ったからって、ワザとそう言ってません?」
 そして拗ねたような表情を浮かべるものだから、はあっけに取られてしまう。しかし――目線を落とすと、鳳の握られた拳は僅かに震えていてハッとした。
 もう会わない方がいい、と告げられた相手のところへこうして来た。それが、どれほど勇気のいることか――鳳のピアノを聴きつつも音楽室への階段をあがれない自分にもよく分かる。自惚れかもしれないが、とは少しだけ目を伏せる。
「今日……なんだよね。鳳くんのお誕生日」
「え……?」
「おめでとう」
 すると鳳は一瞬だけ硬直して、そして確かに頬を緩ませたのちに少しだけ肩を竦めた。
「ありがとう、ございます」
 ツン、と狭い美術準備室に開いたドアから風がながれて至る所からオイル独特のニオイが舞った。少しだけ沈黙が流れ、鳳は微かに眉を寄せてから視線を外しがちに斜めへと流す。
「改めて……俺たちって、お互い知らないことの方が多いんですね」
「え……」
 どういう意味だ、と返す前に鳳はなお伏し目がちに瞳に影を落とした。
「俺の誕生日って……、知らなかったでしょう? たぶん、今日まで」
 その声に、は春先の――「自分が正レギュラーになったと宍戸から聞いたのか?」と困惑していた鳳を思い出した。おそらく自分から言いたかったであろう彼の――。今も、もしかしたらそう感じているのかもしれない。
「それは……」
「すみません、お祝いの言葉はとても嬉しいんです。でも……俺は、俺って先輩のこと、まだ全然知らないんだなって改めて思ってしまって。先輩だって俺のこと……。なのに……!」
 鳳は握っていた拳をなお震わせて、一歩こちらに近づいた。自然、は一歩後退してしまう。すると、それを敏感に感じ取ったのか鳳は悲しげな色を瞳に滲ませた。
「俺とはもう、話もしたくない?」
「……ッ……」
「俺は……、まだ……」
 は動けないかわりに胸元で自身の手をギュッと握りしめた。背の高い鳳は数歩こちらに詰めただけで、あっという間に二人の距離はなくなってしまう。
「俺は、納得してませんから……!」
「え……?」
「俺はもっと先輩と話したいし、先輩と一緒にいたい。なのに……ッ」
「そ、それは、だから私は――」
「分かってますよ! だけど……ああもう! とにかく、俺は納得してませんから!」
 鳳は言いたいことがまとまらないのか、自身に苛立ったように首を振るうと強くそう言い下しての横をスッと抜けた。
 数秒経って、は脱力したように壁に背をついて身体を支える。頭が真っ白で、予鈴が響いてさえその音を脳が認識したのは最後の余韻が消えてからのことだった。
『あんなに真っ直ぐな人なのに、たぶん、あんな子、他にいないよ』
 教室に戻らなければ、と義務的に考える脳にうっすら部長の言葉が過ぎった。真っ直ぐだから――、その性質がいっそ怖いほどに痛い。確かに自分は物理的には鳳のことはそう多くは知らないだろう。けれども――上辺から見える以上のことを互いに知っているのは互いがきっと理解している。だからこそ、何も始まっていない関係を、こうも気に病んでいるのだから。
 けれども、どうしろと言うのだろう……?
 が美術室で惚けているころ、勢いで美術室を出た鳳はさっそく自分の行動を後悔して耳まで赤くしたまま表情を歪めて大股開きで歩き続けていた。しかし、自身の行動を振り返っている余裕を周囲から与えてもらえない。長身の鳳は迂闊に歩いているとただでさえ目立つため、すぐに大勢に見咎められてしまうのだ。
「あ、いた! 鳳センパーイ!」
「お誕生日おめでとうございまーす!!」
 途端、女生徒たちの黄色い歓声が響いて鳳はあっという間に再び女性陣に取り囲まれてしまった。そうなると鳳としては彼女らを無下にもできずに――ようやく一人になれたのは、部活を終えてなんとか自宅に辿り着いたあとだった。
 大量の荷物を抱えて帰宅した自分を面白がる姉の対応に追われつつ、自室に入ってずっしりと重い溜め息を吐く。――昼間のことを思い出すと、顔から火が出る思いだ。なぜもっと落ち着いて話ができなかったのだろう? 一つ歳を重ねたというのに、あまりに子供じみた真似をしてしまった。
 けれども、どうすれば良かった? 今さらなにを、どう言えば正しかったのだろう? あの後夜祭の日に、既には結論を出したというのに。イヤだと駄々をこねても、抱きしめて想いを告げたとしても、もはや空回りの独り相撲だ。
『み、見てるよ! 鳳くんのこと、いつも』
『ロマンチックだね、鳳くんらしい』
『鳳くんのことは好きだし、イヤなんて……ッ』
『鳳くん……』
 それでも諦められない、との声がリフレインする脳を抱えて鳳は拳を握りしめた。自分はのように割り切ることも、切り替えることも出来はしない。どうにもならないと分かっているからこそ、のとった行動はきっと正しい。彼女の本心がどうであれ、誰もがそう言うはずだ。だけど――、と鳳は未だにへ渡せていないままの棚の上の包みを手に取った。
「先輩……」
 一方のもまた、自宅に戻ってそっとタンスの奥に仕舞ってあった鳳のスポーツタオルを手にとって眉を寄せ、切なげに見つめていた。全国大会の時に、が贈ったスポーツタオルのかわりにもらったものだ。
 突然の雨で中断された試合の――うるさいほどの雨の中に立つ鳳は見たこともないほど大人びていて逞しくて、どしゃ降りの雨のことなど忘れて見つめていたものだ。鳳に借りたジャージの大きさ、鳳のニオイ。なに一つ忘れてなどいない、とそっとはタオルを唇にあてる。
 もしも、もしも秋に渡仏が決まっていなければ。今日はきっともっとちゃんと鳳の誕生日を祝って、もっとそばにいれたかな――と考えて目尻が震えた自身に叱咤する。渡仏を決めたのは、他ならぬ自分だ。ましていくら日本とフランスといえど、今の便利な世の中では会おうと思えば会えるし連絡だってすぐに取り合える。けれども、そうできないと判断したのは――彼へ向かう気持ちが他の誰とも違っていたからだ。
『私は、こうやってしか生きられないから……描くしかないのに』
 自らが言ったことばを浮かべて、はそっとタオルを置いた。こうしてしか生きられないなら、描かなければ。せめて、描くことからは逃げない。ちゃんと言葉通り、ここに結果を残して、この場を去ろう。それすらできないならば、わざわざ海の向こうまで行く価値さえ自分にはないだろう。
 真っ白なキャンバスに――ちゃんと残していく。それがいま自分にできる、ただ一つのけじめだ。

 いよいよ卒業式へ向けての本格的な準備が始まるも、氷帝学園の空気はいつもと変わることはなかった。それは皆がそろって高等部へあがるというエスカレーター式ゆえだろうか。
 鳳は相変わらずテニスに精を出し、そうして最近は以前よりも少しピアノのレッスンにも熱を入れていた。オフシーズンで少しは時間が取れるということと、どうしても弾きたい曲を抱えていたからだ。
 時間を見つけては恩師にレッスンを頼み――良き理解者だった彼女は、頻繁……とはいえ多くても週に2回、顔を出す鳳に嬉しさと怪訝さを混じらせていた。
「中学に入ってからは、すっかりテニステニスだった長太郎君がまたやる気を出してくれて嬉しいわ。もう一度、ピアノ一本に戻る気はないのかしら?」
 彼女は自分自身がリサイタルや講師で忙しくしている中、頼めば二つ返事で見てくれ鳳は感謝しつつも鍵盤に乗せていた手を止めて苦笑いを漏らした。
「いや、俺は……ピアノで人と競うことには向かないですから」
「そうね、長太郎君の優しさは確かにこの世界では厳しいかもしれないけど……でも、勿体ないわね。身体もこんなに大きくなって、指だって軽々と1オクターブ半も押さえられるくらい長いし、本当に勿体ない」
 もう何度聞いたか分からない台詞をまた聞いて、なお鳳は苦笑いを深くする。でも、と恩師は楽譜立てに立てられている楽譜を見やった。
「テニスばかりしていたにしては、随分とレパートリーが増えたわね。あんなにショパンばかり弾いていた長太郎君なのに、弾かされる以外でこんな多彩な作曲家の色んな曲を持ってくるようになって……」
 むろん鳳は元からショパンばかり弾いていたわけではない。単にショパンが好きというだけで練習では当然のごとく色々な曲を弾かされるし、実際に弾いてもきたが、それでもやはり好みは偏ってしまうもので――指摘されて鳳は苦笑いにどことなく寂しさも滲ませた。
「聴いて欲しい人がいましたから。別にその人の気を引こうとか思ってたわけじゃないんですけど……でも、そうだな。確かにレパートリーは増えたかもしれませんね」
 いつ頃からか、音楽室にが現れる法則性のようなものに気づいた。むろん彼女自身の好みの曲を弾いている時であるのだが――彼女は彼女自身があまり知らない、けれども好みの旋律の時に好奇心を刺激されるようで、確かめるように音楽室に顔を出してくれる傾向にあった。だからそんな曲を探して、弾いて、図らずもショパンばかりを弾いていた鳳にとってはレパートリーが広がったと言っていい。
 ふーん、と師はどこか面白そうに微笑んだ。
「このソナタもそういうチョイスなの? 長太郎君なら、1番や3番の方が好みなんじゃないかしら」
 質問に鳳は曖昧な笑みで返す。そうして再び鍵盤に指を乗せた。繰り返し繰り返し、確認するように何度も弾いては注意を受け、また弾いていく。
 卒業式まであと二週間。それまでには――と鳳はひたすらピアノ、テニス、そしてピアノ漬けのスケジュールに追われた。

 しかしながら、鳳は裏腹に音楽室へ足を踏み入れることはなくなっていた。

 スッと、は筆を滑らせてからピタリと止め、ふっと息を吐いた。
 卒業式までのカウントダウンが始まるも――、この美術室はいつもと変わらない。ただ、少し違うのは、音楽室からピアノの音色が響いてこないということだろうか。と無意識には眉を曇らせた。
 あのバレンタイン以降――鳳はおそらく一度も特別教室等へは来ていない。あれほど頻繁に聞こえてきていた音色が止んで、この校舎はいっそ痛いほどに静まりかえっている。
 これで良かったのだろうか……? と今さら考えても意味のないことだろう。ただ、もう彼の音が聴けない――彼の顔を見ることもないのかと思うと、途端に苦しくなる胸の痛みを奥へ奥へと押し戻してどうにか平静を保つことに少しだけ慣れてきた。
 向き合ったキャンバスは、ほぼ完成と言っていい。乾燥を待って手を入れて出品すれば、自身の中学生活最後の仕事は終了となる。
 ふ、とは曖昧に微笑んだ。
『先輩はどうして、人物画を描かないんですか……?』
 それは――、その答えを言葉に表すのはきっと難しい。と鳳からの問いを浮かべながら思う。知らなかった、分からなかった、できなかった。どれを当てはめればいいのか分からない。だけど、きっと答えはここにある。いつもいつも、技術を磨くことだけに懸命で、時に「正確なだけ」と言われていた自身の見つけた答え。
 鳳に出会わなかったら、きっと今も分からなかっただろう。初めて会った時、素直な疑問をぶつけてくれた彼が、その答えを教えてくれた。少しずつ、少しずつ歩み寄って――少しずつ、気づいていった。微笑み合うことの温もり、気持ちを通わせることの優しさ――そして、苦しさも。鳳がいたから、感じることができた。鳳がいてくれたから――。
 スッと目線を落としては指を折った。卒業まで、あと10日を切っている。
 例えもう鳳に会えなくても――、過ぎった瞳に少しだけ涙が滲んだ。



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