三日間続いた秋晴れの空は、後夜祭後の日付変更あたりでまるで全てを洗い流すように地上へと雨を落とし始めた。
 週明けからひどい冷え込みが予想されるらしく、いよいよ秋も終わりを告げ――冬へと移行していくのだろう。

 夕べ、自分はどうやって帰宅したのだろう?
 流れる音楽と生徒達の声が遠く――世界にたった一人、取り残された気さえした。
「先輩……」
 自室のベッドに身を投げ出して、鳳は降りだした窓の外の雨音をうつろな瞳のままでぼんやりと聞いていた。
 なにもかもが夢の中の出来事だったようだ。この三日間、全てのことが。
『春から、フランスに行くの』
 泣きそうな、それでいて決意を秘めた声だった。あの言葉を――なんど思い出しては夢だったのではと疑ってみたことだろう。
 なにも今という時間が、この中学での生活が、永遠に続くなどと考えていたわけではない。でも、氷帝学園はエスカレーター式で中等部の人間はそのまま高等部に進むのが当たり前で、少なくとも彼らは「進学」というよりは「進級」するようなイメージで何も変わらないと思っていた。むろん、その先の進路はバラバラとなるのは分かっていたが、今の自分にはあまりに遠い先の未来のことで――なに一つ想像すらできずに。ただ、何も変わらないと思っていたのだ。また春が巡り、夏が来て、秋となっても――なにも変わらないと、どこかで信じていた。
 なのに――。
『もう、私たち……会わない方がいいと思う。だから……』
『さよなら……』
 なぜ、あの瞬間に気づいてしまったのだろう? 彼女の手が自分の手からすり抜ける瞬間にはっきりと気づいた。彼女に向けていた感情の正体を。気づいた瞬間に拒絶されて、そうしてまだ自分は動けない。彼女が自分へ告げた警告のせいだろうか? 始まる前に終わらせようとした――彼女の。
『だから……ずっと気になってたの。鳳くんの気持ち』
『鳳くんは、凄いね。あそこまで誰かのために本気になれるって……すごいな』
『み、見てるよ! いつも、鳳くんのこと』
『鳳くん……』
 けれど、どうすればいい? といた時の自分は確かに穏やかで、幸せな時間に包まれていたというのに。そこから彼女がいなくなってしまうなんて。まだはっきりと、右手には彼女の髪に指を絡めていた感触が残っているというのに、と鳳は自身の右指を口元にあてた。柔らかな感触も、心地の良いニオイも、思い出すだけで震えるほどだというのに。
 そっと起きあがってベッドから離れると、鳳は棚の上においたままの包みに触れた。いまだに渡せていない、へのプレゼントだ。
「先輩……」
 遠いフランスで見つけた桜のネックレス。まさか今度は自身があの地へ行って、もう戻らないとは。――別段、遠いといっても永遠に会えないような距離ではない。だがは、自身の進む道に自分はいらないと決めたのだ。
 本場での勉強がどれほど魅力的なものか、鳳自身、短い期間とはいえウィーンに留学してある程度は分かっているつもりだ。ましてのあの才能、負けん気の強さなら――本人もいずれと望んでいただろうし、そうするべきだと思う。もしも出会ったあの頃の、いや出会う前の、への想いが純粋な憧憬のままだったらきっと笑顔で送り出して応援したことだろう。むろん今も彼女の夢を邪魔しようなどという気持ちは微塵もないが――、どうしても後ろ向きな気持ちが芽生える自分がいる。
「ッ……」
 行かないでくれ、ましてずっと傍にいて欲しいなど言えるはずもないというのに。――の言うとおりだ。どうしようもないのなら、もう会わずにいたほうがいい。
 けれども気づいてしまった。今も遠く耳に響く雨音が励ますような旋律を奏でるように――彼女への気持ちに。いっそ永久に気づかなければ良かった。だって、一度気づけばもう知らなかった頃には戻れない。
 どんな顔をして、どんな気持ちで明日からの日常へ戻ればいいというのだろう?
 のいない日常へ戻るなど――。
「時間が……止められるならいいのに、な」
 図らずも鳳はが呟いていた言葉を唇に乗せた。
 そうだ、もしも叶うならば、あの後夜祭から永遠に抜け出さずに――二人だけで。

 けれども――時間は誰にも等しく流れていく。連続する時間の中で、人は、過去を携え、未来に進んでいかなければならない。

 いずれ時が経てば、きっと今の感情も笑って振り返ることができるはずだ。少しの感傷と懐かしさを湛えて、いつまでも記憶の中だけで輝く思い出として。
「鳳くん……」
 もまた、自宅の自室に座り込んで身体を丸めていた。
 あまりに深く、知らず知らずのうちにあまりに深く関わりすぎていたのだ。いずれ日本を去ることになると分かっていた人生なのだから、関わるべきではなかった。けれど――自分でもなぜだか分からない。あの春の日、心を躍らせてピアノを弾いていた後輩がこれほど深く自分の中に住んでしまっていたなどと。
『なんとなく俺、先輩の好きな曲の傾向も分かっちゃいますし』
『そういう意味じゃないですよ。そういう所がそうだって言ってるんです』
『俺が気づいてないとでも思ってました?』
『先輩……』
 でも、きっと大丈夫だ。大丈夫。自分の進む道が二度と鳳と交わらなくなると分かっていても――それでも今という短い時間だけでも、こうして触れ合えた。一度交わったら離れていくだけの関係でも、自分は後戻りを選べない。後悔もしない。恋しさを心の奥底に閉じこめて、フタをして、それでも時おり表に現れては辛いこともあるかもしれないが、大丈夫。ちゃんと明日からの日常を生きていける。
 大丈夫だ。自分たちは、今でさえ同じ学園にいても会おうとしなければ会えないのだから。きっと卒業までには、気持ちにフタをしてもとに戻れるはずだ。本当の、ただの先輩後輩という、正しい関係に。

 本当に、これで良かったのだろうか――?
 全てを洗い流すような雨を窓から見つめながら、宍戸もまた自宅の自室で自問していた。
『鳳くんには、私が話すよ。いつ話せるか……分からないけど、ちゃんと話すから……』
 春からの自身のフランス行きを、いずれ鳳に話すから黙っていてくれとに言われていた。鳳も、なにかを感づいていたとしてもまさか彼女が春からフランスへ発つなどとは微塵も思っていなかっただろう。だからこそ――愕然としていたのか。
『先輩……俺に、さよなら、って……。どうして……俺……』
 後夜祭でのダンスの際、はおそらく鳳に自身の進路を告げたのだろう。二人の関係ははっきりとは知らないが、は彼に別れも共に告げたのだろう。鳳が、にどれほどの感情を向けていたかをよく知っている。自分など、とても敵わない思い知らされるほどにに向けていた想いを――。だからこそ愕然と色を無くす鳳をとても見てはいられなかったが、自分にはどうすることもできずただ黙っているしかなかった。
 しかし、現状、どうにもなるまい。にはの、鳳には鳳の人生というものがあるのだ。どうにもならないこともある。それがたまたま、今だったというだけの話。
「くそ……ッ」
 うだうだ考えても拉致があかないというのに、と宍戸は乱暴にベッドへと身を投げるとそのままふて寝を決め込んだ。
 自分が考えてもどうにかなるものではない。明日からの、いつもの日常をただこなしていけばいい――と考えるも、そう何ごとも上手くはいかないものだ。
 翌日、寒空の中を登校するとなにやらジロジロと周りから視線を感じる。なんだ? と眉を寄せていると、よく見知った小柄な人物が「おーい」と廊下を憚らず走ってくるのが見えた。
「宍戸ー!」
「なんだよ岳人、朝っぱらからウルセーな」
 向日だ。向日は宍戸の前まで走ってきたかと思うと立ち止まって肩で息をしつつ、ガバッと顔をあげた。
「なァ、お前のクラスのさんっているじゃん?」
「ん? ああ……」
「鳳がお前からさんを略奪して三角関係のすえ修羅場って、マジ!?」
「――ハァッ!?」
 いきなり何を言い出すんだと目を剥くと、だってさー、と向日は続けた。
「俺は見逃したけど、昨日の後夜祭で鳳とさんがなんかすげーラブラブで、宍戸が無様にふられてたとか、元ダブルスパートナー同士の痴情の縺れとか色々話題にあがってて。んで真相訊いてきてくれって頼まれてさ!」
「バッ……アホじゃねぇのか!? 何言ってやがんだテメー! ふざけんなッ!」
 向日はことに交友関係が広い。ゆえに色々テニス部について訊かれることもあるのだろうが――。にしても昨日のアレはたしかに自分も少なからずこういうことを気にしないわけではなかったが、だからといって、と拳を震わせているとさすがの向日も少したじろいでいた。
「そもそも、俺とは付き合ってねぇし。お前も知ってんだろうが」
「そ、そうだよな……」
「長太郎とのことなんざ余計な世話だろうが。ほっとけよ。それと、そのデタラメだけは全力で否定しとけや!」
 そして宍戸はギロッと横目で向日を睨むとそのまま自身の教室を目指した。――と自分との事実無根の噂は本当に事実無根であるからいいようなものの。鳳に関しては下手に自分のパートナーであった分、良からぬ噂を立てられなければいいのだが。自分と鳳のことと、と鳳のことは全くの別問題で接点すらない。しかしながら噂は所詮、噂。気にすることもないか、と思い直して教室に入る。今はそんなことより――の様子の方が気になった。
 教室に足を踏み入れれば、自身の前の席は無人で宍戸は小さく息をこぼす。落ち着かない自身をどうにか抑えてしばし頬杖をつき、じっと前を見つめる。
「おはよう、宍戸くん」
 そうしてしばし待っていると、登校してきたはいつものように声をかけてくれた。特に落ち込んでいるようにも見えず、いつも通りのである。
「おう」
「外、寒いね。一気に冬が来ちゃったみたい」
 宍戸の方は少し構えていただけに拍子抜けであるが、しかし、彼女なりにいつも通りでいようとしているだけなのかもしれない。ならば、それに合わせるべきだろう。
 本当に、これで良かったのだろうか――?
 考えたところで、正解など誰にも分からないのだから。


「一球入魂――ッ!」
 もっぱら、最近は部活後に居残ってサーブ練習に明け暮れるのが日課になってしまった――と鳳は照明に照らされたコートで一人サーブを打ち続けていた。
 トス、インパクト、フォロースルー。やはり、サーブほど無心になれるものもないというものだ。
「ハッ――ッ!」
 通常の部活ではなかなかサーブに時間を割けず、居残りしているくらいが丁度いい。いくら全国一のサーブ速度をキープしていようと、一度記録が樹立されれば他の選手は越えようとしてくるし、こちらもより磨きをかけなければいずれ攻略されてしまうかもしれない。今までいくら公式戦無敗といっても、それはダブルスでの話だ。次からはシングルスで勝って、部を引っ張っていかなければならない立場にある。サーブは大前提として、一つ一つのショットにより磨きをかけていかなければならない。
『わ……、また、そうとうサーブの練習したのね』
 汗を拭おうとベンチに置いておいたタオルを取ると、ふと全国大会前に居残り練習していた自分たちへドリンクの差し入れに来てくれたの声が過ぎって鳳はバサッと頭からタオルを被った。
 思い出すまいとしても勝手に彼女の声や姿が浮かんでくるのだからどうしようもない。それだけ、自身の日常に、心の中に彼女がいたのだと再確認させられて――でももう遅くて。バサッとタオルをベンチに落とすと鳳は再びコートへと入った。
 いっそ倒れるまで打ち続ければいい。そうすれば――少しの間だけでも彼女を忘れていられるのだから。

 あっという間に年末が訪れ、新年を迎えればいよいよ受験シーズン到来であるがそれもエスカレーター式の氷帝の生徒にとっては無縁の話である。
 それはとて例外ではなかったが、部活を引退したことで放課後が空き――これまでは土曜や日曜のみ習っていた絵の個人レッスン時間を増やし、さらにはフランス語教室にも通うようになっていた。
 一月中旬のある日曜、午前中に画材を仕入れに銀座へと出向いたは街を歩きながら白い息を吐きつつ、既にバレンタイン商戦が始まっている様子に驚きながらキョロキョロと辺りを見渡した。
「バレンタイン、か……」
 例年、その時期は3月頭に締め切りのコンクールに追われてそれどころではないため気にも留めていなかったが――しかしながら今年もコンクールの締め切りは変わらないわけで、結局は例年通りだろう。
 街ゆく女性はやはりバレンタインが気になるのか、赤やハートで飾られた通りを眺めては口々に感想を言い合っている。近くのショーウィンドウには何やら高そうなチョコレートが並んでおり、何気なく眺めていると「あれ」と見知った声がかかった。
……?」
 振り向くと、紙バッグを携えたショートカットの少女が寒風のなかミニスカートを靡かせており、「あ」と向き直る。
「部長……」
も買い物ー? って、もう部長じゃないし」
「そうだけど、なんか、部長は部長だし……」
 美術部の部長を務めていた友人である。彼女が下げているバッグはついいまが足を運んだ画材道具屋のものであり――お互い似たような目的だったのか、と笑い合った。
「バレンタインかー。ウチってけっこう毎年凄いよね。主に跡部君だけど」
「た、確かに……。毎年、跡部くんのクラスってすごい人だかりだもん……」
は、誰かにあげるの?」
 どちらともなく街中の飾りや至る所にディスプレイしてあるチョコレートを眺めつつ話しているとそんなことを聞かれて、一瞬立ち止まったのちには「うーん」と唸った。
「最後だし、宍戸くんにあげようかな。あと……お父さんとか……」
「ふーん……」
 部長はどこか探るように相づちを打ったのち、切り替えたのか「ねぇ」と明るい声をあげた。
「時間ある? ちょっとお茶してかない?」
 にしても午後からの絵のレッスンまでどう時間を潰そうか考えていたところであったため二つ返事をし、二人は近場のコーヒーショップに入るとカウンター席に横並びで座ってぼんやりと窓ガラスから街ゆく人々を眺めた。
「ねえ、3月のコンクール……なに描くかもう決めた?」
「ううん。考え中……」
「そっか……」
 とりとめもない会話をしつつコーヒーに口を付けていると、ふいに会話が途切れ、部長は「ねえ」と声をかけてたら視線をこちらに向けてくる。
「興味本位になっちゃうかもしれないけど……、訊いてもいい?」
「え……? なに……?」
「鳳長太郎君のこと」
 不意打ちを受けたようには目を大きく見開いた。その先で部長は「興味本位」と言いつつ訊くのをずっと躊躇っていたのだろう。どこか申し訳なさそうな顔色を浮かべている。
も知ってるかもしれないけど……文化祭のあと、色々噂が流れたでしょ。鳳君は宍戸君のダブルスパートナーだったし、は宍戸君と付き合ってることにされてたから、ほら……」
「ああ……うん。でも、それは全部ウソだよ」
 後夜祭の一件はあまりに目立ちすぎたのだろう。自身、自分が宍戸と鳳を二股にかけているだの鳳が先輩の恋人を略奪しただの噂が噂を呼んでいたのは知っている。しかしながらどれも事実無根であり、いまはすっかり落ち着いたものだが――、とは複雑さを顔に滲ませる。
「鳳くんが宍戸くんのダブルスパートナーだったことは、ぜんぜん関係ないよ。だって……私が鳳くんに初めて会ったのは、彼が入学してすぐのことだったから」
 そうしては、鳳に初めて会った日のことを話した。たびたび音楽室で彼のピアノを聴いていたこと、鳳の言葉に影響されて絵を描いたこと、そしてその鳳が宍戸とパートナーを組むに至った経緯。
 一つ一つを懐かしむように、だが淡々と語るの声の一つ一つに部長はしっかり耳を傾けていた。そうして一通り聞き終わると、彼女は自分の持っていたコップをギュッと握りしめた。
「そうなんだ……。あのの、"Like a canon"は鳳君がキッカケだったのね」
「そんな大げさなものじゃないかもしれないけど……。でも、そうだね……」
「あの絵……難解だけど、にしては珍しく感情が入った作品、だよね。私……好きだよ、あの絵」
「ありがとう。でも……だから、少し迷ってるの」
「迷う……?」
「今年、なにを描けばいいんだろう、って……」
 は眉尻を下げてから肩を竦めてみせる。日本に残していく絵だと、最優秀賞を取るのだと豪語したはいいもの、まだ視点は定まっていない。ただ、確かに心に引っかかっているのは鳳の姿と鳳の声。――初めて会った時の、自身の度肝を抜いた一言。
『先輩はどうして、人物画を描かないんですか……?』
 いま、目の前にいる部長にも訊かれたことはあるが、その都度「大変そうだから」と答えていた。むろん、その一言で片づけられるものではなかったが――おそらく「惹かれる」ことが一度もなかったためだろう。魂を揺さぶられるほどに惹かれて、ぶつかって、そうして逃げずに立ち向かうことを避けていた。
「描きたいものは、きっとあるのに……」
 そっと指でフレームを作って、その枠の中からは流れる人波を見つめた。
 綺麗だと思った、あの夏の大会での鳳たち。眩しいと思った、みなの表情。鳳と出会って、ずっと彼の問いかけの答えを探していた。テニスに全てを賭けて戦った彼の、そして宍戸たちの想い。共にあの場に立って共有した夏の――そしていまなお続く自分の中の感情の形を。
「私は、こうやってしか生きられないから……描くしかないのに」
 あの夏、彼らがコートに何かを残していったように――自分も白いキャンバスにせめて残して、そうして自分の感情は封印したままここを旅立っていかなければ。そう思っているのにいまだキャンバスは白いままで、うまく形に出来ていない。
は、それでいいの?」
「え……?」
「鳳君のこと……。あんなに真っ直ぐな人なのに、たぶん、あんな子、他にいないよ。だって、鳳君のことを――」
 部長は案ずるように眉を寄せた。「迷っている」という自分の言葉が、絵のみに収束したのが腑に落ちなかったのかもしれない。心配もしてくれているのだろう。けれど、とは少し間を置いたのちに目を伏せて頷いた。
「いいの。ああいう人だから、余計に………余計、に……ッ」
 しかし言葉尻が震えて涙が滲みそうになり、慌てて口元を押さえると自分を叱咤するようにして強くかぶりを振る。
「いまはちょっと辛いけど、大丈夫。私が……選んだんだから」
 もしも――もしも。高等部に進学していたらどうなっていただろう? 結局は別れが3年間先送りになるだけだ。もしもそうなっていれば、今よりも辛い別れとなったかもしれない。だからこれで良かったのだ。だって自分たちは何も始まっていない。
 これで良かったのだ――。
 会いたい、なんて思ってはいけない。今はまだ同じ学園内にいるのだ。会おうと思えば、すぐに会えてしまう。だから――。
 昼休みの特別教室棟に足を踏み入れると、高確率で聞こえてくるピアノの旋律。時おり、どこか誘うような音が音色に乗ることにも気づいている。
『ていうか、今日、先輩来るだろうなって思ってました、俺』
『なんとなく俺、先輩の好きな曲の傾向も分かっちゃいますし』
 もうだいぶ昔、ブラームスのラプソディ・ロ短調を弾き終わった鳳がそう言っていた。自分が音楽室に顔を出すときはたいてい分かるのだ、と。それはおそらく鳳なりにこちらの好みを把握して出した結果なのだろう。おそらく鳳の好みとは違うそれらの曲を弾いているのは、故意か否かまでは分からなかったが――今もつい、足を止めそうになることがある。
 鳳がわざと、自分を誘うために弾いているのでは――などと自惚れているわけでもなんでもない。が、あの音は鳳がそこに居る証。会いたいと思う気持ちと、同じ空間にいるのだという安堵感と。相反するように指折り数えては減っていく、卒業までの時間。
 今日もまた、こうして卒業までの時間が縮んでいく――と週明けの月曜の昼休み、は特別教室棟を見上げた。会いたいと思えばすぐに会える。だけど――と少しだけ眉を寄せて息を吐くと、いつも通り美術室へと足を運ぶ。そうして降りてくる音を耳に入れながらキャンバスと向かい合った。
『先輩はどうして、人物画を描かないんですか……?』
 初めて会った時に言われた言葉を、形にして返すから。これだけは逃げずに向き合うから。鳳のくれた沢山の感情を――、真っ直ぐでひたむきで、強くて優くて。鳳に出会わなければ、考えもしなかった全てのことを。だから、ごめんね、とは無意識に呟いた。

 予鈴が響き、はっとした鳳は鍵盤で踊らせていた指を止めた。そうして少しばかり自嘲して口元を歪める。
(来て、くれるはずない……か)
 ピアノを弾くのは日課のようなもので小さい頃から続けてきたことで、ごくごく当たり前のことだ。けれども、心のどこかで期待している。無意識にの好みそうな選曲をし、弾いていればまた以前のようにここへ聴きに来てくれるのではないか――と。
(でも、聴いてくれてる……よな)
 自嘲気味に肩を竦めてから、鳳は眉尻を下げつつそっと立ち上がった。いつかが言った、ここへは来れずとも聴いている、という言葉。あれはウソではないだろう。むろん美術室にいれば物理的に聞こえてくるという意味でもあるのだろうが――例えそうでも構わない。聴いてくれているのなら。例え聴いていなくとも、彼女のために弾くことくらいは許されるだろう。
 どう努力しても、どれほどテニスに明け暮れていても、自分の中から彼女がいなくなるはずもなく。
 やはり、こうして見つけてしまうのだから――、と2月頭の放課後、鳳は前庭の噴水の縁に腰を下ろしてスケッチブックを広げているを見て足を止めた。
『ひょっとしたらパリですれ違ったかもしれませんね、俺たち』
『きっと広いようで狭いんだろうな、世界って』
 自ら彼女に言った言葉を浮かべて――、鳳は少しばかりうつむく。例え彼女が世界のどこにいても自分は見つけだしてしまうのではないか、と今も感じているのに。そんな不確かな可能性は現実の前にはかくも儚いものなのか。春が来ればきっとこんな偶然もなくなる。だって、この氷帝学園から彼女は去ってしまうのだから。
「先輩……」
 彼女を困らせたくはない。だけど――。どうしてもダメなのだろうか。ワガママでしか、ないのだろうか。例え遠く離れていても、ずっと一緒にいたいと願うことは。
 この足を踏み出して、いっそ捕まえてしまおうか――と過ぎった考えにブレーキをかけるように鳳は膝を震わせながらキュッと唇を噛んだ。
「……ッ……!」
 さよなら、と告げられた。その言葉の意味が、分からないほど鈍感なわけではない。それに何より――あの言葉は金縛りのように自分を動けなくした。もう、自分が何を言っても無駄なのだ、と。だけど――。
 会いたくて、声が聞きたくて、話したくて、触れたい。――こんな気持ちを抱えたまま、どうやって生きていけばいいんだ? なぜ? どうして彼女は――。
 理屈では理解できても感情がとても追いつかない。相も変わらず、彼女のことを考えると思考回路はぐちゃぐちゃだ。
 視界が、わずかに滲むのを鳳は感じた。ツン、と鼻の奥が痛い。口の端から小さく漏れたうめきに似た声だけが、そっと冬枯れた空へと溶けていった。



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