鳳が姉とのやりとりの後に家を飛び出していた頃――。 美咲と別れたは有明を目指してりんかい線に揺られていた。 そうして目的地である国際展示場駅に着き、地上へ向かおうとしていた所でまるでタイミングを見計らったように携帯が鳴ってハッとする。 「もしもし」 「あ、先輩! よかった、やっと繋がった」 受信ボタンを押せばなぜかせっぱ詰まったような鳳の声が聞こえてきて、彼は何度もかけていたが繋がらなかったと訴え、は自分がいままで地下にいて電波が入っていなかったのだということを告げた。 「先輩、いま外ですか?」 「うん。いま駅に着いたところなの」 「俺、いま国際展示場付近にいるんです」 「え――!?」 「いきなりすみません。でも、会いたくて……」 携帯から漏れてくる鳳の声に驚きつつ、は自分もいま国際展示場駅にいることを告げ、鳳のいる場所を聞いた。 聞けばロータリー側にいるということで、はいつも使う有明コロシアム方面への改札に向けていた足を国際展示場側の改札方面へと向けた。 そう言えば、と思う。昨日、鳳の家を訊ねた際の別れ際に彼は「明日会えるか」と訊いていたっけ、と。もしかして何か話があったのだろうか、と過ぎらせつつ改札を抜けて外に出れば、鳳の姿を探す前にこちらを見つけたらしき鳳から声があがった。 「先輩……!」 駅正面から出てきたの姿を真っ先に見つけた鳳は、自分でも驚くほどにせっぱ詰まった声でに声をかけた。 呼びかけにハッとしたらしきに手を振り、逸るようにの元へかけていく。 「先輩……ッ」 どうしても自分自身での存在を確かめたくて、周囲を気にしている余裕など全くなかった。いつもパリやロンドンでそうしているように、いやそれ以上に強く両手を伸ばしてを抱きしめれば、の身体から驚いたような反応が伝う。ザワッ、と周囲がざわついた気配も明確に伝った。 「お、鳳く――」 はよほど戸惑ったのか少しこちらの胸を押し返してきて、鳳もハッとした。が、それでもどうしても解放はできず、少し腕の力を抜くのみに留めた。 「すみません、つい……」 自分でも情けないほどせっぱ詰まったような声が漏れて、はなおさら驚いたように目を見開いた。 「どうしたの? なにかあった……?」 「いえ、そういうわけじゃないんです。でも俺……どうしても先輩の顔が見たくて」 ――姉に、との交際を反対されて取り乱した。などはさすがに言えるはずもなく、鳳は代わりにもう一度の身体をギュッと抱きしめた。 こんな事しても、きっとを戸惑わせて困らせるだけだというのに。と分かっていても、どうしても感情が付いてこない。とにかく、今は離れたくない、という思いをどうにか封じ込めて鳳は少しだけから身体を離した。 「少しだけ、一緒にいても構いませんか?」 そうして声を絞り出せば、はまだ戸惑いを見せていたものの、うん、と頷いてくれた。 とにかく駅の真正面から離れようと、イーストプロムナードの方へ向かう。お台場のイルミネーションは相も変わらず華やかで、少しだけ鳳はホッと息を吐いた。 近くのベンチに腰を下ろせば、が改めてこちらを見上げてくる。やや心配そうな顔だ。少し胸が痛んだ。こんな顔をさせたいわけではないのに……、との思いからどうにか笑みを浮かべてみせる。 「すみません。本当になんでもないんです。ただ……、ホラ、俺、明日から家族旅行に行きますから、しばらく先輩と会えないと思うとどうしても会いたくなって」 にも自分自身にさえ納得させるように言い下せば、は納得したかはともかくも「そ、そっか」と小さく呟いた。 鳳はなんとか話題を変えようと笑いかける。 「先輩は、今日は香坂先輩と一緒だったんですよね?」 すれば、の顔に少し笑みが差して「うん」と頷いてくれた。 「久しぶりに会ったから、ついつい話し込んじゃって遅くなっちゃった」 やや自嘲気味の声だったが、表情からは本当に楽しかったことが伝わってきて、鳳も緩く微笑んだ。 すると「そうだ」とは少しだけ頬を染めてこちらを見上げてきた。 「あのね、部長ね、いま向日くんと付き合ってるんだって」 「え……!?」 「びっくりしちゃった。昔から仲は良かったみたいなんだけど……」 の声を聞きつつ鳳も瞬きをした。向日と美咲は別々の大学に通っているはずだ。が、自分も含めあの2人もまた幼稚舎から高等部まで一緒だったのだから昔なじみということで、そこまで不思議な事でもない。 「そ、そうなんですか。向日さんと香坂先輩が……」 「うん。それでね……、えっと」 するとが少し口籠もり、鳳が首を傾げているとなおさらがはにかみながら見上げてくる。 「今日、部長と話したんだけど……。月末に4人で浦安のランドに行こうって事になって……その、できれば泊まりで」 「え……?」 「どうかな……?」 思ってもみなかった話に鳳は目を見開いた。つまるところ、ダブルデートという事だろう。泊まりがけということは、オフィシャルホテルを取るということだろうか? 思いがけない提案だったが、鳳としてはもちろん断る理由などなく、笑って頷いた。 「ぜひ、喜んで」 「本当……!? じゃあ、部長にそう伝えるね!」 「あ、でも、向日さんは大丈夫なんでしょうか……」 「うん、向日くんもOKだって。まだホテルが取れるかどうか分からないみたいなんだけど……」 はそう言いつつ笑みを零した。おそらく彼女はとても行きたがっていたのだろう。鳳もつられるように笑う。 純粋に楽しみだな、とも思った。あの場所でなら、今の日常からは逃避できそうだ、との考えまで過ぎってまた後ろ向きな気持ちが戻ってきてしまった。 「鳳くん……?」 思い切り彼女を抱きしめれば、こんな気持ちも消えるのだろうか? けれどもそうできない状況から鳳は少し眉を下げて、そっとの手に自身の手を重ねた。 「俺……、はやく戻りたいです。ヨーロッパに」 「え……?」 言い下せば戸惑ったようなの声が聞こえ、鳳はハッとする。 「あ、その……。えっと……」 が、とっさに取り繕うことが叶わないでいると、は首を傾げたあとにこんな事を言った。 「鳳くん、帰りの便って変更できる?」 「え……?」 「もしも出来るなら、少し早めに戻ってきて新学期が始まるまでパリに来ない……?」 「え……」 「私もやることがあるからずっと一緒にはいられないかもしれないけど、でも、まだ休暇中だから近場に出かけたりとかきっと出来るし、新学期の準備も私のアパルトマンでだって出来ると思うし……」 そしてははっとしたように少しだけ頬を染める。 「あ、その……もし良かったら、だけど……」 つまり、しばらくのアパルトマンで一緒に過ごそう。という提案で、鳳は目を見開いたのちに、ふ、と小さく笑った。 「そう、しようかな……」 「う、うん。私は月末にパリに戻るから、もし鳳くんが来てくれるなら嬉しい……!」 するとが頬を染めながらも、ニコッ、と笑い、鳳は泣きたくなるほどに胸が締め付けられる思いがした。 ――俺のこと好き……? なんて、疑問さえ抱かなくて良いほどに気持ちが通じ合っていると感じているのに。 そうだ。あと数ヶ月もすれば日本でだって自分は正式に成人となるのだ。誰に何を言われようと、と2人できっと生きていける。 けれども。もしも姉だけでなく自分の家族がとの交際に反対だったとしたら。もしもがそれを知ってしまえば。 は自分から離れていってしまう気がする。――と考えついて鳳は血の気が引く思いがした。 もう二度との口から別れの言葉は聞きたくない。もうあんな思いは二度とイヤだ。――と、中等部時代の苦い思い出を過ぎらせたまま無意識的にの身体を抱き寄せようとして鳳はハッとする。の両手に阻まれたためだ。 「す、すみません……つい」 「う、ううん。でも、ほら……日本だし、ね」 「そう、ですね」 少しだけ苦笑いを零して肩を竦める。いま抱きしめてキスしたいのに。いっそどこか2人きりになれる場所に――、と過ぎらせてしまった自分自身を鳳は自嘲した。ちらりと自身の腕時計に目を落とせば、既に7時を回っている。特に遅い時間帯とも思えないが、が夕食を家で取る予定であるならばそろそろ帰さなければならないだろう。 「そろそろ行きましょうか。俺、送っていきます」 そう切り出せば、は緩く微笑んで頷いてくれた。 「ありがとう」 手くらいなら繋いでもいいよな。と、そっとの手を取って歩き出す。首都高にかかる歩道橋を渡ればすぐ目の前はテニスの森公園だ。横切った方が近いため、公園に入れば夜間照明に照らされたコートからボールを打ち鳴らす聞き慣れた音が聞こえてきた。 ふ、と鳳は笑みを零した。何度も何度も試合で訪れたこの場所は、大切な思い出が宿る場所でもある。 二年前の春、ここでに交際を申し込んでようやく彼女と恋人同士として新しい一歩を踏み出すことができた。そして、初めてキスをした……、と二年前にとキスを交わした場所が目に映って記憶を蘇らせていると、キュ、とが手に力を込めたのが伝った。見やると少しはにかんでが身を寄せてきて、鳳はも同じ事を思い返していたのだと悟って少しだけ目を見開いたのちに口元を緩めた。 あの日、ようやく彼女を捕まえることができたのだ。あの日、彼女に告げたように、もう二度と彼女を離すつもりはない。と考えながら夏の生ぬるい夜風に吹かれていると、の家の塀が見えてきてあっという間に門の前まで辿り着いた。 「送ってくれてありがとう」 「いえ……」 「旅行、楽しんできてね」 「はい」 そっと手を離して、門に向かおうとしていたを「先輩」と鳳は呼び止めた。そうしての方へ一歩歩み寄って距離を詰め、そっと片手を塀に付けばが少し目を見開いた。通り側から少しでも見えにくくするために塀に手を付いただけだというのに、予想外に彼女を閉じこめる形になって、鳳にしてもどきりと心臓が跳ねた。 互いにやや緊張も湛えて、そっと目を閉じ――鳳は静かにの唇に自分の唇を重ねた。 少し触れ合っただけですぐ離れれば、は照れたように小さく笑った。 「お、おやすみ」 そのはにかんだ笑みが可愛くて、一瞬、鳳は見とれてしまう。 「あ……、はい。おやすみなさい」 そうしてが門を開けてくぐり、その先の玄関のドアが閉まった音を確認して鳳は、ふ、と息を吐いた。そうして口元に手をやる。 こんなに彼女が好きなのに――。ずっとずっと欲しかった人をようやく捕まえられたのに。少し眉を歪めて夜空を見上げる。携帯が震えた気配が伝った。家を出てきてからもう数え切れないほど鳴っている。おそらく姉か、それとも母親か。 さすがに帰らなければまずいだろう。少しは落ち着いたし、もう一度ちゃんと話をしよう。と鳳は自身の足を駅の方へ向けた。 「やっぱり出ない……」 その頃、鳳家では鳳の姉が自身の携帯を切ってため息を漏らしていた。 「長太郎ったら遅いわねー……、ロードワークにでも行ったのかしら? テニス部だった頃はしょっちゅうだったものね」 やや憔悴した姉の横で母親が呑気にそんなことを言って姉はなおさら肩を落とした。 そうそう、と母は姉の心境は知らずに無邪気な笑みを向けてくる。 「さんにいただいたクッキーがあるから、食後はお紅茶を淹れてゆっくりしましょうね」 ピク、と姉の頬が撓った。まさかそののせいで弟が飛び出していったとは言えず口籠もっていると、あら、と母が瞬きをしてこちらを見やった。 「まあ、お姉ちゃんたらそんな顔して……、どうかしたの?」 「……それが……、ちょっと長太郎をからかっただけなんだけど、あの子ったら……」 「あらまあ、ケンカ……? 明日から旅行なんだから、はやく仲直りしてちょうだいね」 呑気な母親の声を聞いて姉は頬を引きつらせた。 ――弟の性格は熟知しているはずだというのに。それでも、まさかあそこまで真剣だったとは思わなかったのだ。7年前にパリで「憧れの先輩」へのお土産を買っていた。あの幼い淡い想いが、単に再会して普通の恋愛関係になっただけだと思っていた。 だからこそ、いつもの調子でちょっとからかっただけなのに――。 『ずっと好きだったんだ! 子供の頃からずっと……!』 『やっと俺のこと好きだって言ってくれて、やっと捕まえたのに……ッ!!』 弟の必死な形相を思い出して、やや額に冷や汗を浮かべる。あれほど思い詰めさせるとは思ってもおらず、まさか本当に戻ってこなかったらどうしよう、と後悔も過ぎらせて小さく唸ると、足下で鳳が出ていってから不機嫌そのもののフォルトゥナータが唸り声をあげてついに姉のすねの辺りを引っ掻くという暴挙にでた。 「いたっ! ちょ、ちょっとフォルトゥナータ! ごめん、ごめんってば、長太郎にはちゃんと謝るから!!」 あらあら、と少し慌てた母がフォルトゥナータを取り上げて姉は息を吐いた。 『俺は彼女がいないと、生きていけない……』 もしも本気で弟とを引き離そうとしたら。たぶん、本気であの子は――とその先の事を考えるのが恐ろしくて青ざめていると、インターホンの音が響いてハッとする。 「ミャッ」と真っ先にフォルトゥナータが母の手を逃れて玄関の方へ向かった。 「あら長太郎。おかえりなさい」 インターホンを押したのはやはり弟だったらしく、呑気に母が玄関の鍵を解除し、姉も居間の扉を開いてフォルトゥナータと共に玄関に向かった。 辿り着けば一歩先に掛けていったフォルトゥナータが鳳に抱きついており、彼は困惑気味の表情を浮かべていたもののこちらの姿を目に留めると神妙な顔つきをした。 「姉さん……、俺――」 「ごめんなさい!」 「――え?」 「ごめんね……、長太郎の反応が面白くてちょっとからかっただけなの」 「は……?」 「ちゃんとのこと、悪く言うような形になってごめんね……」 「え……、じゃあ……」 反対というわけではないのか、と続けられ頷けば、弟はぽかんとした表情を晒したあとに心底ホッとした表情を浮かべた。 「なんだ……よかった……」 「長太郎……」 なにが「よかった」のか。答えを知るのが怖くて姉はそれ以上の追及はできなかった。戸惑ったまま立っていると母がやってきて夕食にしようと声をかけてきたため、2人とも頷いて話が終わる。 手を洗いに向かった弟の背を見やって、姉は小さく息を吐いた。 『俺は彼女がいないと、生きていけない……』 もう今後一切、弟の交際について口を挟むのは止めておこうと誓う。もしもこの恋がダメになれば、本当にあの子は――と考えるのがやはり恐ろしくて、姉は震えた唇をキュッと噛みしめた。 |