が鳳家を訪ねた日の翌日――昼。

「美味しい……!」

 はかつての氷帝美術部時代の部長で友人でもある香坂美咲と共に都内でランチをとっていた。
 場所はの希望――オムライス――の置いてある洋食屋で決まり、久しぶりに顔を合わせた友人・美咲は嬉しそうにオムライスを頬張るを肩を竦めて見やっていた。
「久しぶりに帰国して洋食食べたいなんて……、のオムライス好きもマニアの域ね」
「そ、そんなことないよ! 洋食だけど、フランスにオムライスってないんだもん」
「じゃあ、自分で作るとか……」
「お、お店で食べるのも美味しいもん!」
 ギク、と肩を強ばらせつつはそう言った。けれどもやはり日本の洋食は日本で食べるのが一番なのだ。――と、昼食を済ませてすぐに長居できそうなカフェに移動して久々のお喋りに花を咲かせた。
 はクロアチアで彼女にと買ったクッキーを「そうだ」と美咲に差しだし、笑みを浮かべた。
「これ、お土産。スパイスクッキーなんだけど……」
「わ、ありがとう! いつも一方的にもらっちゃって悪いね」
 ううん、と首を振るうと「あれ」と美咲はパッケージが見えたのか首を捻った。
「フランス語じゃないっぽいね」
「そうなの。この間、クロアチアに旅行に行って……」
 言えば美咲は瞬きをして、次いで笑みを浮かべてやや探るような目線をこちらに向けてきた。
「へえ……、鳳君と?」
「う……うん」
 訊かれては少しドキッとしたものの、笑って肯定すれば美咲は「そっか」と微笑んで頬を手で支えた。
「で、どう? 鳳君は」
 なお訊かれて、は少しまごついたものの、えへへ、と笑った。
「優しいよ、すっごく優しい」
「そっか……。ほんとに良かった。私ね、ずっとナイショにしてたんだけど……」
「うん」
「実はね、がフランスに行ってからずっと、鳳君に定期的に訊かれてたの。はどうしてるか……って」
「――え!?」
「もちろん連絡先を教えたりとかから聞く近況を詳しく教えたりはしてないし、鳳君も、なんていうか、話のついでに控えめに聞いてくる感じだったんだけど……。凄く気になってるのに気持ちを抑えてるのが丸分かりだったから、なんだか同情しちゃって……が元気そうな様子だけは教えてたんだ」
「そ……そう、なんだ」
「ほんと、幾つになっても真っ直ぐな子だよねー……」
 美咲はどこか遠い目をしながらそう言って、は思ってもみなかったことに少しだけ頬を染めた。
 なおも美咲は遠くを見つめながら目を細めている。
「あんまり一生懸命だから、私、密かに鳳君のこと気になってたんだ。まさか海の向こうまで追いかけて行っちゃうなんて、鳳君の真っ直ぐレベルは想像の域を軽く超えてたよ」
「で……でも、留学したのは私のためってわけじゃないと思う……し」
のためでしょ。あの子の人生、ひっくるめてだよ、たぶん。いつもそうだったでしょ、中等部の頃から」
「わ、……分からないよ、そんなの……」
 自身、美咲とは定期的に連絡を取っていたものの、美咲との会話の中で鳳の話題を出したことは一度もなかった。自身が鳳を忘れようと必死で、彼女もその辺りは理解した上での暗黙の了解だったように思う。が――裏でそんなことになっていたとは、となおが頬を染めていると「そうそう」と美咲が明るい声を出した。
「鳳君、携帯の待ち受けをとのツーショットにしてるんだって?」
「――え!?」
 なんで知っているんだ、と目を見開けば、カラッと美咲は笑った。
「向日君から聞いたよー。先週、跡部君ちでテニスミーティングやったんでしょ?」
「え……し、知らない。あ、でも跡部くんもいま帰国してるから……そっか、レギュラー集めたのかな……」
「そうみたい。で、鳳君の携帯が日本にないものだったから見せてもらったらしいんだけど、待ち受けがツーショットだったー、ってなんかテンション高いメールが来た」
「向日くんから?」
 うん、と頷く美咲に、そっか、とは頷いた。
「部長って今も向日くんと仲がいいんだね。幼稚舎からずっと一緒だったんだし……幼なじみみたいなものなんだね」
「んー……ていうか……」
 すると、美咲はなぜか少し目元を染め、は首を傾げた。なお美咲は瞬きをして、今度はこちらに照れたような笑みを向けた。
「付き合ってるんだ、向日君と」
「――え!?」
「私もねー……まさか岳人と付き合うことになるとは思ってなかったんだけど……」
 言いながら美咲は相も変わらずショートカットの髪を少しだけ弄って、頬にかかっていた髪を耳にかけつつ話を続けた。
 氷帝卒業後、美咲は都内の美大に、向日は実家の電気屋を継ぐことを睨んで工学部を外部受験とそれぞれ氷帝を出てしまい、会うこともなくなっていたらしいが、大学生活も一年を過ぎた辺りでバッタリ街で再会して、以後トントン拍子ということだった。
 元々美咲は絵画ではなくオブジェ制作等の創造を得意としており、モノ作りが趣味という共通点もあったのが大きかったのかも、と美咲は笑った。
 そっか、と呟きつつはもう7年は前になる氷帝の中等部時代のことを懐かしく思い浮かべた。
『向日君ってさー、私、幼稚舎の頃から知ってるけど、すごい良いヤツだよ』
『でも超単純で超短気! おまけに口も悪いんだけど、なんか話しやすいんだよねー』
 自身、向日をデッサンの対象として気に入っていたが、美咲はもっと向日の内面を知った方がいいと幾度か推してきたことがあったのだ。
 むろんあの頃の彼女が向日を好きだったとは思えない。が、きっと惹かれる部分はあったんだろうな……と納得して微笑んでいると「そうだ」と美咲が明るい声をあげた。
「ねえ、っていつまで日本にいるの?」
「え……、下旬にはパリに戻る予定だけど」
「ねね、じゃあさ、私とと岳人と鳳君で浦安のランド行かない?」
「え……?」
「ちょうど岳人と話してたの。もし泊まりで行ければランドもシーも堪能できるね、って。4人なら泊まりでも行きやすいでしょ? きっと楽しいよ、ダブルデート!」
 言われて、は一度瞬きをした。――の実家のある有明の対岸には、著名なテーマパークがある。「夢の国」とも称されるその場所に、自身はあまり行ったことはない、が。
「向日くんと……ランド……!」
 もしも実現すれば、楽しいダブルデート。――ではなく、必ずスケッチブックを持参せねば、という気持ちが先だってしまったのが美咲に伝わったのか、彼女は冷静に首を振るった。
「期待しているとこ悪いけど……いくら岳人でもランドで跳んだり跳ねたりしないと思うよ」
 ともあれ美咲の提案は実現すればとしても心躍るものであり、美咲はさっそくその旨を向日にメールした。すれば一分と経たずに返信が来たらしく、としてはその早さに驚いたものの返事自体はOKだったらしく、も後ほど鳳に話してみるということで話はまとまった。

 そしてたちが尽きることのない話に花を咲かせている頃――。
「長太郎ー、入るよー」
 ドアのノック音が響いたあとに姉の声がして、自室にいた鳳が振り返ればドアの先から声の主が姿を現した。その手にはなぜかフォルトゥナータが抱かれている。
「姉さん。どうしたの?」
「廊下歩いてたらフォルトゥナータが長太郎の部屋に行きたそうにしてたから。ホラ」
 さも当然のようにヒョイとフォルトゥナータを手渡され、あはは、と鳳は苦笑いを漏らした。姉の言い分はあたっていたのか、嬉しそうにすり寄ってこられて鳳は笑みを浮かべつつも肩を竦めた。相も変わらず、愛猫は気分屋である。
「そういえば、彼女……ちゃんにフォルトゥナータ会わせた?」
「え……? うん、会わせたっていうか、フォルトゥナータが部屋に来たからちゃんと紹介したよ」
「そう……。で、懐いてた?」
 言われて、鳳は再び苦く笑った。姉は返答を予測していたのか、やっぱりね、と腰に手をあてている。
「私もね……、長太郎がちゃんを連れてくるって言ったとき、ああやっぱり、って思った。ブダペストでちゃんに会ったときから、もしかして、って思ってたんだけど……。いまにして思えばよく考えなくても、これ以上ないくらい長太郎がイギリスに行くって言い出した理由ってあの時点で語るに落ちてたよね」
「そんな……、別に彼女が理由で留学を決めたわけじゃないよ」
「だったらちゃんには会いに行ってなかった?」
 言われて、う、と鳳は息を詰まらせた。フォルトゥナータを優しく床に降ろしてデスクに手をつく。
「会いに……行ってたよ。そうするつもりだったんだ。大学に受かって、ちゃんと自信を持って彼女の前に立てるときが来たら、会いに行くつもりだったんだ」
 言いながら鳳は、少しだけブダペストでに再会した時のことを思い浮かべた。あれはきっと、今でも神様が自分を哀れんで彼女に会わせてくれたのではないか、と勝手に思ってしまっている。けれどもあの時、例えに再会していなくても自分は渡英してを訊ねてフランスへ赴くつもりだったのだ。そしてきちんと気持ちを伝えるつもりでいた。
 ――とはいえ、あの時はもまだ高校生だったわけで。もし自分とブダペストで再会しないままに美術学校へ進学していれば、新しい出会いもあり別の男と付き合っていた可能性もゼロとは言えないわけで。やはり、あの偶然は神に感謝してもしきれない。
 と過ぎらせていると、やや姉が肩を竦めてこちらを見やってきた。
「”憧れのセンパイ?” なんて以前は冗談言っちゃったけど……正直に言えば意外だったの。長太郎は年下の、もっと大人しそうな子でも好きになるのかと思ってたから」
「え……?」
「年上で……、しかもあの子、そうとう気が強いでしょ?」
 目線だけで見られて、う、となお鳳は言葉を詰めた。は、可愛らしいし穏やかでふわふわしてて。けれども負けず嫌いが群を抜いており、見た目の印象通りのおしとやかな弱々しいタイプではない。姉はそこを見抜いてしまったのだろう。そもそもが、気が強くなければ15歳で日本を捨てて単身渡仏などまずしない。――と、何度も何度も彼女に拒絶された苦しい思い出を過ぎらせて鳳は眉を寄せた。
「いいの……? あの子、もう日本には帰らないって言ってたのに」
「そ……! それは、どういう意味? 俺は、そんなこと知っててイギリスに行ったんだ……! 俺は――」
 姉が何を言いたいのか鳳には察せはしなかったが、僅かながらとの交際を認めていない気配を察して鳳は思わず激高した。が、すぐにハッとして目を伏せる。
「姉さんには、感謝してるよ。俺の代わりに法学部に進んでくれて……」
「それはちょっと恩着せがましいかな。そもそも誰も長太郎に法学部なんて期待してなかったんだから」
「そ、それは……そうだけど……ッ!」
 ズバッと言い返されて鳳はカッと頬を赤くした。――鳳の父は法律事務所を営んでいるが、幼少の頃から既に父は自分ではなく姉に跡継ぎのラブコールを送っていた。
 姉は姉で小学生の頃から、いわゆる「お嬢様学校」と称される女子校で高校までを進み、大学は法学部のある私大へと受験して進んだ。が、彼女は日本の法律システムに馴染めず端から司法試験は受けないと公言していた。
 それはいいのだ。鳳の父自体、日本で司法試験に合格したあとにアメリカのロースクールにきっちり通っており、アメリカの主要な州の弁護士資格を持っている。そして父の事務所自体、主だった業務は海外相手だ。姉は主に国際関係の分野を主眼に引き継ぐことに同意し、既に今秋から3年間、アメリカでロースクールに通うことが決まっている。
 問題は国内であったが――、ここは姉の手柄と言うべきか、姉は学部生後半の時期に、他大学との交流サークルで国立の法学部に通う同い年の男性と出会って付き合いを深めたらしい。鳳も姉に恋人がいるとは聞いていたが詳細は聞いてはいなかったものの――いわゆる苦学生かつ父の目から見ても優秀だったらしく、父は「娘の配偶者なら」と、司法試験に合格した暁には姉の通う予定である米国大学の、法学修士限定ではあるものの、支援をすると申し出た。法学修士を取得すれば、ニューヨーク州やカリフォルニア州の弁護士資格を試験にて得ることは外国人でも可能であるため、全てはカバーできないがそこまで不足もないのだ。
 元より彼にしても鳳の父の事務所が手がける仕事は興味深かったらしく、熟考の末に同意したらしい。司法試験の合否が出るのは9月であるが、受かっていればそのまま研修を受け、姉が米国のロースクールで3年生になる秋に渡米して、一年後に揃ってそれぞれの過程を終了する予定だということだった。
 父はぬかりなく既に娘夫妻の将来の共同経営に関する契約書も用意しているらしく――、鳳としては姉が義務感ではなく自らの意志で父の事務所を継いでくれるのならばそれが一番良かったが、自分が縛られずに自由にしていることに後ろめたさがゼロかと問われれば、そうではない。
「俺が……、ずっと帰国しなかったら不満?」
「そういうわけじゃないのよ。でも……私やお父さんはともかく、お母さんは寂しいんじゃないかなって思って。うちに可愛いお嫁さんが来てくれるのとかって夢見てそうだし」
「なッ……、ど、どうしてそんな話になるの? 法学部の院まで出て、これからアメリカでも法律を学ぼうって人の言葉とは思えないよ姉さん。そりゃ、寂しく思ってもらえるのはありがたいけど……でも……!」
「でも……あなたまだ19歳でしょ。いくらでも色んなものが得られるんだから、ゆっくり考えていいのに」
 鳳は少しばかり頭が真っ白になる感覚を覚えた。姉は明確に、との交際に反対なのだと悟ったからだ。きっと彼女が気に入らないのかと問えば、そうではないと言われてしまうだろう。けれどなぜ? 渡英を伝えた段階で、暗に将来は日本に戻る気はないと伝えていたつもりだったというのに。それに、姉が父の事務所を継ぐ以上、自分は言ってしまえば日本には要らない存在だ。だから自由だと思っていたのに――と、やや思い詰めていると「長太郎?」と姉が怪訝そうな声で聞いてきた。
 ――いっさい、考えた事などなかった。の両親から自分が気に入られなかったらどうしよう、とは考えていたが。まさか家族に自分の交際を反対されることなど、とサッと頭から血の気の引く感覚を覚えて鳳は小さく唇を噛んだ。
「ダメだよ、俺……。今さら、そんな」
「長太――」
「ずっと好きだったんだ! 子供の頃からずっと……! やっと俺のこと好きだって言ってくれて、やっと捕まえたのに……ッ!!」
「長太郎……」
 もしも、もしももう一度彼女の口から「さよなら」と言われてしまったら。彼女をようやく捕まえて、いま感じている幸福をまた失ってしまったら。その先の未来で、自分が息さえしているイメージが沸かない。
「俺は……、俺は彼女がいないと、生きていけない……」
 姉は自分の言葉を受けて、冗談かと感じたのか確かに笑いかけた。が、すぐにハッとしたのか、そのまま驚愕の色を瞳に浮かべた。きっと自分がよほど情けない顔をしていたのだろうな、と過ぎらせる余裕さえ鳳にはなく、鳳はいまここに立っているのさえ辛くなって、過ぎらせてしまった別れのイメージを打ち消したくて姉の横を抜けると自分の部屋を出た。
 姉が呼び止めたような声が聞こえたが、とにかく今すぐこの場所から去りたかった。
 家の外へ飛び出せば、既に夕暮れ時で薄暗い空間が広がっていた。
 先輩……、と呟いて鳳は小走りでズボンのポケットから携帯電話を取りだしての携帯にかけた。が、電源が入っていないのか繋がらず、キュ、と唇を結ぶ。
 は今日、氷帝時代の友人であり自分にとっては先輩になる香坂美咲と会うと言っていた。ちょうど帰宅する頃合いであるし、電車で地下にでも潜っているのかもしれない。
「先輩……!」
 いてもたってもいられなくて、鳳は見えてきた駅にそのまま飛び込むようにして入り、改札を抜けた。



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