「先輩のお部屋と違って、留学してなお生活感に溢れちゃってますけど……」

 先日、のがらんとした部屋を訪れて留学にかける意気込みをまざまざと見せ付けられた鳳はやや気恥ずかしく思いつつ「自分が出ていった時のまま」の部屋へを案内した。
 未だにこまめに掃除をしてくれているらしき母には感謝しているが……と浮かべていると、は自分の部屋が物珍しかったのか、わ、と感嘆の息を漏らしつつ少し目線を巡らせて、そしてすぐそばにあった本棚の方へ視線を寄せた。
「英語の本がいっぱいだね」
「……勉強してましたから……」
「お父さんの書庫みたい」
 ふふ、とが笑い、相変わらずのの父親好きと、彼女の父親と自分ではレベルが違うのではという複雑さで苦笑いを零していると、あ、とが何かを目に留めたような声を漏らした。
「アルバム……?」
 どうやら本棚の端に置いてあった一冊のアルバムが目に付いたらしく「あ」と鳳も応じた。
「はい。成長記録みたいなものなんです。両親が作ってくれてて……」
 そこまで言って、鳳はハッと自分の言ったことを後悔した。が……にきらきらした目で見上げられて、後の祭りだということを悟る。
「見たい……! 見てもいい?」
 ――いやです。とはもちろん言えるはずもなく、鳳は数秒間言葉に詰まったものの頷いてアルバムを手に取るとに手渡した。
「ありがとう」
 すると本当に嬉しそうにが微笑んだものだから、こんな顔をしてくれるならいくらでも見せていいか。などという気持ちについついなってしまい、自分自身に呆れてしまう。
 が――、カーペットに腰を下ろしてさっそくアルバムを開き、新生児時代の自分の写真を見て「可愛い!」と声を弾ませるを横にやはり鳳は少し気恥ずかしいような居たたまれないような複雑な心情を覚えた。
「わあ、これ七五三……? あ、泣いちゃってる……可愛い……!!」
 なぜその写真をチョイスした。と、全力で両親に訴えたいような写真も随所にあり、おまけにありがたい愛情たっぷりのコメント付きでファンシーに彩られたアルバムは、普段は大切にしているアルバムだが、この時ばかりは鳳の羞恥心を煽った。
 はすっかり過去の自分に夢中で、ひっきりなしに「可愛い」を連呼しており、鳳は自分でも説明できないような複雑な心境に陥った。
 そうしてアルバムは幼稚舎時代に進み――の「可愛い」がますます加速して鳳は肩を竦めた。
「幼稚舎の制服、すっごく似合ってるね! 可愛い! ――あ、これ6年生の時?」
 見やれば、「秋の文化祭」と題された写真には目を落としていて、鳳は肯定した。
「この時……、俺、中等部の文化祭へも行ったんです。そこで先輩の絵を見て……来年度から先輩と同じ場所で学べることを、とても楽しみに思ったのをよく覚えています」
 鳳も写真に目を落としながら言えば、は少しくすぐったそうに笑った。
「この時の鳳くんと、もしかしたら校庭ですれ違ったりしたのかな……。会ってみたかったなぁ……ほんとに可愛い……!」
 ふふ、となおが笑って鳳は苦笑いを漏らす。
 はいま「過去の」とはいえ自分に夢中なのに。こんなにの心を捉えるなんて、過去の自分にすら嫉妬してしまいそうだ――と、はっきりと写真の中の自分に嫉妬を覚えている自身を鳳は心内で自嘲した。
 けれども、あの頃に出会っていなくて良かったと思う。あの頃に出会ってしまっていたら、自分はきっと「後輩くん」どころか「幼稚舎の男の子ちゃん」にまで格下げされていただろう。きっと、あれで良かったのだ。あの時、音楽室で出会っていて――と過ぎらせていると、アルバムは中等部の入学式のページになって、が懐かしそうに笑った。
「鳳くんだ。出会った頃、このくらいだったのに……」
 そうしてがこちらをちらりと見上げて口元を緩めた。その表情と言葉は、の方も「自分の知っている鳳だ」と噛みしめていると分かって鳳も頬を頬を緩めたが、再びアルバムに視線を移したを見てハッとする。再度の「可愛い」を発せられる前にと鳳はそのままをひょいと抱き抱えて後ろから抱きしめるようにして自分の膝の間に座らせた。
「鳳く――」
「俺は、今も"可愛い"……?」
 キュッとの身体を抱きしめると、ぴく、と身体が撓ったのが伝った。
「お、大きく……なったな、って思って……」
「それだけ……ですか?」
 今日のはサイドの髪を束ねているせいで耳が露わになっており、う、と小さく埋めく先で耳朶が染まっていくのが明確に見て取れた。
「可愛い、先輩」
 言い返すように、可愛い、を強調して鳳は真っ赤に染まったの耳朶をそっと口に含む。
「ん……っ」
 の頬が撓った気配が伝い、鳳は何度も耳朶にキスをしてから唇を首元に滑らせた。
「先輩……ッ」
 そうしての顎を手で捉えて、こちらを向かせて唇を重ねようとした刹那。
 部屋のドアの前からこちらを呼ぶような鳴き声が伝って鳳はハッとして手を止めた。
「フォルトゥナータ……?」
 次いで連続して何度も呼ばれ、フォルトゥナータは扉を開けて欲しがっているのだと悟って鳳は立ち上がると足早に扉へ向かって開けてやった。
 すると、ミャ、と一度鳴いたフォルトゥナータが当然のように部屋へ入ってきて、鳳はその身体をひょいと持ち上げると逸り気味にの方へ連れて行った。
「先輩、紹介します。シャム猫のフォルトゥナータです」
 のそばにフォルトゥナータを降ろして言えば、は緩く笑った。
「かわいい。はじめまして、フォルトゥナータちゃん」
 言って、は匂いを覚えさせようとしたのかそっと手を差し出した。が――急にフォルトゥナータが「ミャ!」と強い声をあげて彼女の手を引っ掻くように攻撃し、は小さく悲鳴をあげて手を引っ込めた。
「フォルトゥナータ!? 先輩、大丈夫ですか!?」
「あ……うん、平気」
「よかった。フォルトゥナータ、ダメじゃないか!」
 思わず叱りつけると、彼女はこちらを睨むようにして見据えたあと、プイ、と反対を向いた。かと思えばまるでを威嚇するように周りを歩き――終いにはこちらに戻ってきて腰を下ろした自分に膝に飛び乗ってきてごろごろ甘えだしたのだから呆れる他はない。
 やれやれ、と肩を落としているとがくすくすと笑った。
「かわいいね! 鳳くんのこと大好きなんだね」
「そう、なのかな……。見ての通り、気まぐれで」
「猫だもんね」
 笑うなどお構いなしで、こちらに構って欲しいとばかりに絡んでくるフォルトゥナータを見やって鳳は肩を竦めつつも頬を緩めた。
 望み通りに撫でて構っていると、ふとから視線を感じ――見ればはまるでお気に入りの風景を見つけた時のように手でフレームを作ってこちらを見やっていた。
「先輩……?」
「……描きたいな……」
「え!?」
「鳳くん……、スケッチブック借りてもいい……?」
 はどうやらフォルトゥナータと自分をスケッチしたがっている様子で、逸るように見上げられて鳳は頷いた。
 スケッチブックと鉛筆は机の上にある旨を伝えれば、は礼を言って取りに行き、さっそくスケッチブックを開いた。
 ――の絵のモデルになることは、自分はそんなに多くはないが、鳳としては決して嫌いではなかった。
 だってそうだろう。自分を描いてくれているということは、彼女は自分だけを見てくれているということだし。それに、何より自分もをずっと見つめていられるのだから。――と絵に没頭しはじめたをジッと見つめていると、「ミャッ!」と強い声で鳴かれて手を軽く引っ掻くように撫でられ「わ」と鳳は声をあげた。
「ごめんごめん」
 言って鳳は慌ててフォルトゥナータの要望通り構って撫でてやる作業を再開した。しかしながら、やっぱり瞳はを追ってしまう。こんな風に自分は子供の時からずっと彼女を見てきたんだよな……と過ぎらせる脳裏に、うっかり先ほどが家族の前で自分のことを「長太郎さん」と呼んだ瞬間の事が蘇ってカッと身体が熱くなったと同時に頬が勝手に緩んだ。
 が顔をあげて、慌てて「いけない」と自身に叱咤する。――そろそろ俺のこと名前で呼びませんか。って言ってみたらどんな反応をされるだろう。と想像してみて鳳は戸惑いながらも応じてくれると、やんわり拒否するの両方が同時に浮かんできた。けれども……と思う。よくよく考えれば、人生のうちで「鳳くん」って呼んでくれる時間の方が圧倒的に短いわけだから、いまの方が特別な時間なわけで。
 それならばしばらくこのままの方がいいか、などと自分でも呆れるほどの考えを巡らせていると、が「できた」と笑って鉛筆を置き、こちらにスケッチブックを見せてくれた。
 すれば片方は何点かフォルトゥナータの練習と思しき走り描きと、もう片方には緩みきった顔でフォルトゥナータを抱きしめる自分と満足そうなフォルトゥナータが描かれており、「俺、こんな顔してるのかな……」と感じつつも温かい絵で鳳は笑った。
「ありがとうございます。ほら、フォルトゥナータ。先輩が描いてくれたよ」
 フォルトゥナータに声をかけてからスケッチブックを受け取り、彼女に見せるようにして前に広げてみる。
 すると確かにフォルトゥナータは数回瞬きをして、まるでジッと見入るようにスケッチブックをしばし見つめ、自身と鳳のツーショットに触れてみるかのようにして手を置いていた。
 そうして鳳の方を振り返って、おそらくは満面の笑みで甘えたような鳴き声を漏らし、と2人で顔を見合わせてくすくすと笑った。
「気に入ったみたいです」
「良かった。よければもらってね」
「え? いいんですか?」
「うん、スケッチだし……。邪魔でなければ、だけど」
「も、もちろんです! ありがとうございます。大切にします」
 言いつつ鳳はちらりと部屋の時計を見やった。まだ4時だ。まだ彼女を帰さなくても大丈夫だろう、との思いからに向き直る。
「先輩、ピアノの部屋に行きませんか? 以前に先輩からいただいたドビュッシーの曲、もう暗譜してあるので……良かったら」
「本当!? うん、聞きたい」
 パッとが笑い、鳳も笑って頷いた。――別に音楽室は「完全防音」仕様で2人きりになるにはもってこい。などという下心は一切ない。とは言い切れないところが辛い、と過ぎらせたのをまるで見透かしているかのように、当然のようにフォルトゥナータもついてきて鳳は「こらこら」としゃがみ込んだ。
「ダメだよ、フォルトゥナータ。これから先輩に演奏を聴いてもらうんだから」
「いいじゃない。フォルトゥナータちゃんも鳳くんのピアノ聴きたいんだよ、きっと」
 が、がそう笑って言ったものだから追い返すことは出来ずに「そうですね」と肩を落とした。
 案の定、音楽室に入ったら入ったでこちらの事情はお構いなしに膝に飛び乗ってきたフォルトゥナータに苦笑いを漏らして鳳は抱き抱えて足下に降ろす。
 少し指慣らしに軽く鍵盤を叩いて、鳳は一呼吸置いた。のプレゼントしてくれたドビュッシーのワルツは3分ほどの洒落たワルツだ。意外にもドビュッシーらしさは薄く、どちらかというと鳳にとっては取っつきやすくて、からの贈り物という部分を抜きにしてもお気に入りの一曲となった。
 ワルツなのだから、優雅に、フランスらしい洒落っけも織り込んで華やかに、とが楽しんでくれる事を第一に念頭に置いて軽やかに弾き終えると、は嬉しそうに拍手を打ち鳴らしてくれた。
「素敵……!」
「ありがとうございます」
「やっぱり、ピアノ弾いてる鳳くんってホントに素敵……! 見とれちゃった」
 ふふ、とが微笑んで、ドキ、と簡単に鳳の胸が騒いだ。――が、「ミャ?」とフォルトゥナータに見上げられて、浮いた気持ちはすぐに元に戻ってしまう。
 やれやれ、と仕方なしにフォルトゥナータを抱いての座るソファの横に腰を下ろした。
 はしきりにフォルトゥナータを気にしている様子だ。先ほど引っかかれかけたゆえに警戒しているのだろうか?
「先輩……?」
「触らせて……くれるかな……?」
 言われて鳳はハッとしてフォルトゥナータを抱きつつ引っかけないように手元を包み込んだ。
「ゆっくり近づけば大丈夫だと思いますよ。さっきみたいにそっとまず匂いを覚えさせて……」
 しかしながらは先ほどもそうしていたのにダメだったという経緯がある。おずおずとが手を差し出せば、キ、とフォルトゥナータは強い目線を向けて、案の定な結果にと鳳は顔を見合わせて苦笑いを漏らした。
「フォルトゥナータ……、俺の大事な人なんだから仲良くしてくれよ」
 声をかけてみるも、素知らぬそぶりでごろごろ鳴かれて掌にすり寄ってこられて、ハァ、と鳳は肩を落とす。
 がフォルトゥナータを抱いたらさぞ可愛いだろうと思っていたというのに。しかも、この調子では常時監視されているようで、キスどころか触れることさえ叶わない、とジッとを見やると首を傾げられて鳳は慌てて首を横に振るった。
「そういえばね、お母さんが鳳くんのこと、素敵な子ね、ってずっと褒めてたよ」
「ほんとですか……? ありがたいです」
「背が高くてハンサムね、って。でも本当……背が伸びたよね……」
 言ってジッと見つめられて、う、と鳳は少しおののいた。もうずっと昔、独自の負けず嫌いを発動されて「大きくなって見下ろされてるみたいで悔しい」とまるで向日のような物言いで訴えられた出来事を浮かべてしまったのだ。
「背があるのは感謝してます。特にテニスでは……俺のサーブは長身なしでは成り立ちませんから」
 それに、との体格差はをすっぽり抱きしめることができて自身でも気に入っている。とは鳳は言わずにおいた。
 の方は、そうだね、と笑って頷いている。
「やっぱり、高校でサーブ記録が伸びたのも背が伸びたのが関係してる?」
「それだけではないですけど……筋力も増しましたから。でも、角度がより付けやすくなってコースを狙いやすくなりました。スピードを落としても良い位置に入れられるようになって、結果、エースの数が伸びたんです」
「そっか……。テニスしてる鳳くん、また見たいな……」
「いつでも見に来てください。来年の夏は、ケンブリッジブルーの一員としてオックスフォードやアメリカとの試合にも出られるよう頑張ります。先輩が見に来てくれるなら、俺、ぜったいに代表になってみせます!」
 思わず鳳はグッと拳を握りしめてそう宣言し、は少しだけ目を見開いたものの薄く笑って頷いてくれた。
 ――しばらくしたら跡部がオックスフォードに行く予定らしく、そうなれば勝てる望みが減りそうだが。取りあえず学部の間は大丈夫だろう。と、そんな事まで過ぎらせて鳳も笑った。
 そういえば、とが何かを思いだしたように瞬きをした。
「昔、誰かから聞いた覚えがあるんだけど、ほら、青学の部長だった……えっと」
「手塚さん、ですか?」
「そうそう! 手塚くんってプロから注目されてる……って言われてたみたいだけど、どうしてるのかな?」
「ああ、手塚さんは青学の中等部を卒業された後にドイツに留学されて、アカデミーに所属しつつプロとして活躍されてますよ。俺も大きな大会で手塚さんの試合を見るのを楽しみにしてるんです!」
「へえ……すごいね……!」
「俺の一つ下の越前君も結局すぐにアメリカに戻ってしまって……西海岸を拠点にしてるんだったかな? それに――」
 そこまで言いかけて、鳳はハッとした。――それに、と鳳の頭に過ぎったのは自分の世代でもう一人、プロとして将来を有望視されていた少年のことだ。
 高校でも最強の名を欲しいままにしていた彼――立海大附属の幸村精市――は、彼の最後の高校総体でシングルス優勝を果たした後に全米ジュニアの出場権を得たのをきっかけとして、プロ転向している。じわじわとランキングを上げて活躍が期待されているのも知っている。が。
「それに……?」
 日本を離れていたは、彼がその年に見事に予選を勝ち上がって本戦に進み、日本のお茶の間を賑わせたことを知らないのだろう。――ふと、鳳の脳裏に、と離ればなれになった春の思い出が蘇った。美術館での出来事だ。

『でも……、フランスにいるのなら、あっちで会える機会ってあるかもしれないな』
『変な話かもしれないけど、縁があるならきっと会えるって……そう考えてしまうんだよな』

 は、幸村を「幸村精市」として知らない。そして幸村は――との再会をいまだに待っているのだ。かつての自分と同じように。
 ここで幸村の話を喉の奥に引き戻してしまった自分は、卑怯なのかな。と、鳳は自分自身を僅かばかり嫌悪した。
 もしもが幸村と再会してしまったら。自分ではなく幸村の方に惹かれてしまうかもしれない。なんて、僅かでも思っていること自体、彼女に対してあまりに失礼だというのに。
 どうしようもない自己嫌悪に襲われていると、が「鳳くん?」と覗き込むようにこちらを見上げてきてハッと鳳は目を見開いた。
「すみません! あの……、その、近い将来、手塚さんの試合を観戦しにウィンブルドンへ行きましょうね!」
 何とかそう切り返して、うん、と頷いて笑ってくれたを見て鳳も頷いた。
 ――彼女のいない生活なんて、もう自分には考えられない。
 ぜったいに誰にも負けられない。それが例え、幸村でも――と強く過ぎらせると、うっかり腕に力も入ってしまったらしく「ミャッ!?」という呻きに似た声が響いて鳳はハッとした。
「ご、ごめんフォルトゥナータ! 痛かったかい?」
 慌てて愛猫に謝り、必死に撫でてやる。
 時計はそろそろ夕方の五時を指す頃合いだ。そろそろ帰さなくちゃな、と思ったのがに伝ったかは定かでないが、彼女の方も「そろそろ帰らなきゃ」と呟いて、鳳は頷いてを伴って一階へと下りていった。
 がリビングにいた母や姉に挨拶すれば、2人とも玄関まで見送りにきてくれ、互いに挨拶して鳳は駅まで送ってくると告げて一緒に外へ出た。
「夕食までには戻ってきなさいよー」
「そ、そんなに遅くならないよ!」
 扉を閉める直前でそんなことを言い放った姉に言い返して、鳳は家の外へと出ると駅への道をと並んで歩き始める。
「私……うまく喋れてたかな……?」
「大丈夫ですよ」
 呟いたに笑いかけて、鳳はちらりとの手元を見やった。いつもなら何も考えずに手を繋ぐのだが。でも――手くらいいくら何でも、いいよな。と思いそっと手を取ると、は意外だったのか少し目を見開いて見上げられたが、笑みで応えればすぐにも笑みで応じてくれた。
 駅が見えてきて、もう少し一緒にいたい、と思うもが家に辿り着く頃にはきっと6時を過ぎてしまうし――。けれども2人きりになりたい、と鳳がぐるぐる考えている間に駅について、がこちらを見上げてきた。
「じゃあ、鳳くん。今日はありがとう」
「あ……いえ。こちらこそわざわざ来て頂いてありがとうございます」
 ハッとするも鳳はキュッと握っていた手に力を込めた。
「先輩、あの……。明日の予定ってもう埋まってますか?」
「え……」
「もし空いていれば、2人で会えませんか?」
 思わず言ってみれば、は目を瞬かせたあとに申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんなさい。明日は、部長と会う約束してて……」
 部長、とは鳳にとっても氷帝時代の先輩にあたる香坂美咲のことだろう。そうか、と鳳は肩を落とした。
「分かりました。すみません、急に無理言って」
「その後なら空いてるけど……でも、鳳くんがいないんだよね?」
「はい……」
 言われて鳳は苦笑いを漏らした。――毎年恒例の夏の旅行は、今年は国内旅行となっており、お盆前からお盆後までたっぷりと家族で休む予定なのだ。父親もそれを励みに仕事を詰めており、自分だけ不参加というのは許されないだろう。
「じゃあ、次に会えるのってパリかロンドン……?」
「そんな。旅行から戻ったら会えますよ」
「でも、私、下旬にパリに戻るから……」
「さすがに二十日過ぎには東京に戻ってきますから」
 ね? と念を押せばは緩く笑って頷いた。――キスしていいかな、なんて。いつもなら過ぎらせもしないのに。抱きしめることさえできない、と周りの状況を察して肩を竦めつつ鳳はの手を自分の手から開放した。
「気を付けて」
「うん。じゃあ、またね」
 手を振って行ってしまったの背を名残惜しげに見つめて、ハァ、と鳳は肩を落とした。
 抱きしめてキスもできないなんて……、と帰国早々に感じたフラストレーションを再び感じつつ鳳は駅に背を向ける。
 けれども。でも。やはり家族にちゃんとを紹介できて良かったと思う。きっとみんな彼女を気に入ってくれたよな、と根拠もなく思いつつゆっくりと自宅への道を戻っていった。



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