――翌日。

 何を着ていけばいいんだろう。と鳳はクローゼットの前で唸っていた。
 今日はの家を訊ねていく約束の日だ。
 一応、形式上はただ単に「彼女の家に遊びに行く」であるため、ばっちりフォーマルで決めれば場違いなことこの上ないだろうし。仮に英国であれば、それこそケンブリッジでと共にパンティングをした時にドミニクがしていたような恰好――シャツにベストといったパブリックスクール出のような出で立ち――でキチンと感がでるのだが、生憎とここは日本である。
 足下ではなぜかフォルトゥナータが朝から不機嫌そうな声を出してまとわりついてきていて、なおさら鳳の眉が八の字にさがった。
「どうしたの、フォルトゥナータ? 悪いけど、いま忙しいんだ。ごめんね」
 しゃがみ込んでそう伝えれば、彼女は「うー」とまるで唸るような声で喉を震わせてプイッと反対を向いたかと思えば、なぜか鳳自身のベッドに飛び乗って枕元に陣取ってうずくまった。
 今日は虫の居所が悪いのかな、と肩を竦めつつ結局シャツとパンツでシンプルが一番かなと昼食を済ませてから着込んで出かける準備をし、家を出ようとしていると、ふいに姉に声をかけられた。
「あら長太郎、おめかししちゃって……どこかお出かけ?」
 う、と鳳は喉元を詰める。
「ちょ、ちょっと……約束があるんだ」
「ふーん」
 ややからかいを含んだような探るような声と目線で、ぜったい面白がっている、と悟った鳳はそのまま足早に家を出た。
 今日も日差しが強い。百貨店で夏らしいデザートでも買ってから行こう、とまずは都心へ向かった。
 の住む有明と自分の自宅は直線距離はそれほど離れていないものの、公共交通機関を使えばかなりの回り道になるため時間がかかる。
 車を使えば良かったかな、と電車に揺られつつ百貨店で涼しげなデザートをチョイスしてから有明に向かえば程良く約束の時間が近づいてきた。
 約束している15時まであと少しだ。と、既に豊洲まで繋がったゆりかもめからの風景を眺めつつ、滞在中にのみ使う事にしたプリペイド契約の携帯電話を取りだした。そうしての家の最寄り駅で降りて、駅に着いた旨のメールをに送信した。
 程なくして、鳳にとってはなじみ深いテニスの森競技場が見えてきて、近寄れば相変わらず活気づいた声が聞こえてきて、ふ、と笑みを漏らした。
 その先で僅かばかり緊張してくる。とにかくしっかりしないと、と自身に言い聞かせて既に何度か見たことのあるの家の門の前に立って、一度深呼吸をしてからインターホンを押した。
「はーい」
 すると、らしき声が聞こえて鳳は取りあえずホッとしつつ笑みを浮かべた。きっと室内のモニターでこちらの姿は見えているだろう。
「こんにちは、先輩。鳳です」
「いらっしゃい、鳳くん。いま開けるね」
 声と同時に門のロックが開いた音がして、鳳は開けて中へ入った。そして庭を横切って玄関へ向かっていると、先に玄関の扉が開いてが笑みで迎えてくれた。
「鳳くん……!」
 いかにもが好みそうなペールカラーに花柄のふわふわしたミニスカートの裾が風に揺れて、鳳は思わず目を細めた。たった数日会ってないだけなのに、久しぶりに再会したようでたまらなく嬉しい。
 もそうだったのか嬉しそうに駆け寄ってきてくれた姿が可愛くて、どうにか抱きしめたい衝動を抑えて笑いかけるとも合わせるように笑みを向けてくれた。
「外、暑かったでしょ?」
「ええ。やっぱり日本の夏は蒸しますね」
 話しつつに先導されて玄関のドアを「おじゃまします」と言いながらくぐれば、奥から足音が近づいてきて鳳は少しだけ目線を上げた。おそらくの母と思しき女性、しかしとはあまり似ていない美人の女性の姿に少しだけ目を見開きつつも鳳は身を正して頭を下げた。
「は、はじめまして、鳳長太郎と申します。さんとは真面目にお付き合いをさせていただいてます。よろしくお願いします」
 ――散々イメージ練習をしたつもりだったが、案の定声が上擦って予定通りの台詞は出てこなかった。と、鳳は頭を下げた先でさっそく後悔した。
 隣でがやや固まった様子が伝い、頭上からは「まあ」と柔らかい声が降ってきた。
「ご丁寧にどうも。の母です。よろしくね、鳳君」
「は、……はい!」
 にはあまり似ていないが、上品そうな人だな。と鳳はやや緊張気味に返事をし「あがって」というの言葉に頷いて靴を脱いで室内へあがった。
 応接室らしき場所へ通され、鳳は持ってきた手土産をの母に渡した。
「まあ、わざわざお気遣いありがとう。飲み物はコーヒーでいい?」
「あ、お構いなく……」
「鳳くん、冷たいものの方がいい? 紅茶の方がいいかな……」
 笑っておそらくは飲み物の用意をしにその場を離れた母を見やりつつに更に訊かれて鳳は再度気遣わないように伝えた。
 その後、は母に追い払われたのかすぐに応接室に戻ってきて、ソファにかけていた自分の横に腰を下ろした。
「お父さんね、ちょっと用事で出かけててまだ帰ってきてないの。もうすぐ戻ってくると思うんだけど」
「あ、そう……なんですね」
 そう言えばの父の姿が見あたらなかった。と、すっかり緊張でそんなことすら気が回らず、鳳は自嘲した。
 そのうちにの母がコーヒーとお茶請けのチョコレートを運んできてくれ、鳳は改めての母と向き合った。
「鳳君は……、今は学生さんかしら?」
「はい。あの……イギリスの大学に留学してて……」
「あら、じゃあとはあっちで出会って……?」
「え!? いえ……」
 ――まさか。はいっさい自分のことは家族に伝えていないのか? と一瞬の顔を見やると、やや気まずそうにしており、そうなのかと悟った鳳は苦笑いを浮かべた。
「その……、僕は氷帝出身で、さんの中等部時代の一つ後輩にあたるんです」
「あら、氷帝の時の……」
「はい。僕はその頃からさんが好きで……忘れられなかったので、いまお付き合いさせていただけてとても光栄に思ってます」
「お、鳳くん……!」
 するとがなおさら気まずそうに頬を染めており、鳳はそんなを見やって小さく笑えば、の母は何か思いついたように「まあ」と声をあげた。
「そういえば……、が中学3年生の頃の夏だったかしら。とても大きな氷帝のジャージを洗ってた事があって……てっきり宍戸君のかと思ったら、この子ったら後輩が貸してくれたって言ってたことがあったの。それって……」
「あ、それ、僕のジャージです。たぶん」
 ――きっと雨でサスペンデッドとなったあの全国大会の時のことだ、と思い至って「ね?」とに確認を取れば、「う」と呻いたは耳を赤くして俯いた。
「僕、テニス部だったので……、あの日はさんが試合を見に来てくれてたんです。それで急に雨が降ってきたので……」
「そうだったのね。テニス部……」
 するとの母はなお思い当たる節でもあったのか、思案顔を浮かべた後にこんな事を言った。
「そういえばちょうど2年前の夏……が急に帰国してきた事があったの。テニスのインターハイを見に行くって。てっきり宍戸君たちの応援で同窓会気分なのかと思ってたけど……よく考えてみたら宍戸君達はもう卒業してたのよね。あれもあなたの事だったのね」
「は、はい。そうです、僕が頼んで……帰国してもらいました。その、最後のインターハイだったので」
 ――なぜこれほど会話の宍戸登場率が高いのだろう。と、やや不審に思いつつも鳳は笑って答えた。するとがこちらの心情を察したか否かまでは定かでなかったが身を乗り出して訴えてくれた。
「鳳くんね、テニス部の部長だったんだよ。サーブの全国記録も持ってるし、あの時はベスト4まで進んだし……!」
「でもったら、そんな話ちっともしなかったじゃない」
「そ、それは……お母さん、宍戸くんの試合だって思いこんでたから……その」
 たちの会話を聞きつつ鳳は肩を竦めた。としては「氷帝の」テニスの試合を見に行く等々は告げていたのであろうが、おそらくの母の中ではそれがイコール宍戸と解釈されていたのだろう。そしてはわざわざ弁明はしなかった、という推察はきっと当たっているはずだ。が――の実家でさえ宍戸との根も葉もない噂は生きているのか、とやや脱力しつつ雑談をしていると、不意にインターホンの音が部屋に響いて鳳はハッとした。
「お父さんかな?」
 もパッと顔をあげ、席を立って確認のためか部屋を出てしまった。
「あの子ったら、お父さん子で……」
「みたいですね……」
 一瞬、流れた沈黙を割るようにの母が小さく笑い、鳳は肩を竦めた。と、同時にまたも身体中にやや緊張が走って、ごく、と喉が鳴った。気を紛らわすためにコーヒーに口を付け、小さく息を吐いた。
 の父は今日は午前中だけ研究所に顔を出す予定だったらしく、それが伸びた旨をの母から聞いていると応接室のドアがノックされて、鳳はハッと身を正した。
 扉を開けたと共に、4,50代と思しき中年の男性がスーツ姿で現れ、に良く似た柔らかい雰囲気でこちらに笑みを向けてくれた。
「遅れてすまないね。君が鳳長太郎君かな? はじめまして、の父です」
「あ、は、はい! はじめまして、鳳長太郎と申します! 教授!」
 ――しまった。と自覚したのは、ぽかん、とした表情を晒したの父親を見た直後だった。勢いでその場に起立した鳳は、やってしまったとばかりに顔を赤らめた。
 おそらく事前情報を入れていたせいで、と婚姻でも結ばない限りはそう呼ばざるを得ない環境に自分が身を置いていると無意識に理解してしまっていたからだ。と冷静に分析したところで後の祭りだ。
「あ、その……えっと……ッ!」
 なぜこんな格好悪い状況で身の上話をする羽目になったのか。もう少しスマートにかっこよくの恋人として完璧な自分を見せる予定だったのに。と自分に失望しつつ鳳は自身がケンブリッジの学生であること。自分の教わっている教授の一人がの父と親しいらしいことを手短に説明した。
 するとの父はやや驚いた顔を見せつつも納得したように笑い、こちらに再度座るように促して自身もの母の隣のソファに腰を下ろした。
「そうか、建築学部に……。僕はトリニティにいた頃は工学部にいてね、専門はバイオニクスなんだけど……今もケンブリッジのチームと共同研究しているものもあるんだよ」
「あ……工学部って確か、建築学部のすぐ隣にありますよね。建築と違って、大きいというか何というか……」
 鳳が脳裏に毎日のように通っている風景を思い浮かべれば、の父も「うん」と頷いた。
 すると隣にいたが逸るような表情で父親の方を向いた。
「お父さん、私、少し前にケンブリッジに行ったの! トリニティ・カレッジも見てきたよ! すっごく綺麗だった!」
「え……それは初耳だな」
「すぐにでも話したかったんだけど、その、帰国したら話そうと思ってたの……」
 がそんな風に言って、鳳はハッとした。おそらくは父親にすぐにでも父の母校の感想を告げたかったのだろうが、自分を紹介するまで控えてくれていたのだろう。
「あ、その……ちょうど彼女の誕生日だったので、ケンブリッジでお祝いしたんです。あ……! 僕、その、さんとは真剣にお付き合いさせて頂いていて……! すみません、最初に言うべき所だったんですが……」
 そうして鳳はハッと父親の方にとの交際を告げていない事を思い出し、しまったと慌てつつも頭をさげた。が、既に彼は当然知っていたことだろう。頭上から笑みが漏れてきた。
「鳳君、君はどうしてケンブリッジに?」
「え……!? はい、その……最初に学部を決めて、僕は英語しか出来ないので実質イギリスしか選択肢がなかったんです。建築に関してもヨーロッパ、特にイギリスが好みだったので」
「というと、古典やルネサンスということかな? そうなると……歴史学や修復学という方向に進むつもりなのかな」
「最初はそう思ってたんですが……、まだ一年しか経ってませんけど、今は都市計画の方にも魅力を感じています」
「なるほどね。うん、確かうちの建築学部はそっちの方が得意だった覚えがあるよ」
「はい。それに……もし僕の携わった景観が何十年、何百年と残るかもしれないって考えたら、ロマンを感じてしまって……!」
 そこまで言い下せば隣からの笑みが漏れてきて、ハッと鳳は意識を戻して若干顔を赤くした。
「せ、先輩……あの……」
「あ、ごめんなさい。鳳くんらしいな、って思って」
 そうしてなお微笑むにバツの悪そうな顔を浮かべていると、の父も穏やかな声で笑った。
「勉強は楽しいかな?」
「はい! ケンブリッジでの勉強も生活もとても充実しています。僕はクラシック音楽とテニスが趣味なんですが、両方、とてもいい環境でやれてますし、まだまだ卒業まで先が長いですが、今から離れるのを寂しく感じています」
「ははは、だいたいケンブリッジの学生はそうなるんだよ。そうして定期的に母校に帰ってきてしまう。僕なんかもそうだね」
 するとの父はそう笑って言って、鳳もくすりと笑った。
「けれど……、建築学の資格は日本で活かせるものなのかな? それとも就職はイギリスで、と考えて進学したの?」
「え……!? それは、その……」
 訊かれて、ドキッと心音が跳ねた鳳は一度の顔を見てから小さく笑った。
「僕は……ご存じかもしれませんが、さんの氷帝時代の後輩です。彼女が一足先にフランスへ行ってしまって、僕なりにどうすればいいか考えたんです。そして学部を決めた時から、就職は向こうでと決めていました。できれば、パリで」
「お、鳳くん…」
 ちらりとを見やると、やや複雑そうな顔をしていて、鳳は安心させるように一度ニコッと笑いかけた。
「僕はさんが好きです。子供の頃から……ずっと彼女が好きでした。彼女のためだけに進学を決めたわけではありませんが、少しでも彼女に並んで歩きたくて、彼女の隣に並んでいても恥ずかしくない男でいられるようこれからも努力していくつもりです」
 が隣で、つ、と息を詰めた気配が伝い、の両親は少し目を見開いたあと、互いに顔を見合わせた。そうして緩く口元を緩めてから再び鳳を見やった。
のことは……自身が決めることだから、僕がどうこうは言えないけど、そこまで言ってもらえて父としては嬉しいよ。ありがとう」
「本当に……素敵な人を見つけたのね、ったら」
「お、お母さん……!」
 はやや目線を泳がせて居心地悪そうに頬を染めていたが、ふと目があって鳳が、ふ、と笑いかけるとはにかみながらも、ふふ、と笑ってくれた。すればようやく鳳もいつもの調子が戻ったのを実感してホッと一息吐き、喉の渇きを覚えて再びコーヒーに口を付けた。
 そしてしばらく大学の事など雑談を続けていたが、の父はすぐにでも目を通さなければならない資料があるらしく、一足先に席を立った。
 そこでも自分の部屋に来ないかと誘ってくれたため、鳳はの母がお茶をさげてくれ、が新たに紅茶を持ってくるというのでそれを待ってから案内されるままに階段をあがった。
「すみません、先輩。わざわざ紅茶まで淹れて頂いて」
 鳳はせめてとの代わりに紅茶ポットとカップの乗ったトレイを持ってのあとに付いていき、が開けてくれたの部屋と思しき部屋に足を踏み入れた。
「ほとんどなにもないけど、どうぞ」
 言われて見渡せば、必要なものは全てパリに持っていったのか確かに殺風景な部屋で、鳳は部屋のローテーブルにトレイを下ろしてぐるりと部屋を見渡した。
 やや驚いた表情を晒してしまったのか、が肩を竦めた気配が伝う。
「パリに行く前に部屋を片づけて出ていったから……、何だか自分の部屋なのに自分の部屋って気がしないの」
 そんなの言い分に鳳は自嘲気味の声を漏らした。
「俺の部屋なんて、俺が出ていった時のままですよ」
 単純比較は出来ないが、こざっぱりしたこの部屋の風景にの渡仏に賭けていた「覚悟」が見えた気がして、さっそく自分との差を無意識に感じ取ってしまったのだろう。苦笑いすら混じってしまう。それに、がこの部屋を去った頃の事は――、あまり思い出したくない記憶の一つだ。彼女に自分のなにもかもを拒否されて別れを告げられた、あの中等部時代のことは――、と少し眉を寄せていると、ふと壁にかけてあるコルクボードが目に入って何気なく近づき、鳳はハッとした。
 コルクボードには中等部時代の写真と思しきスナップが何枚も飾ってあり――、真っ先に、何枚もの宍戸とのツーショットが目に付いたのだ。
「……宍戸さん……」
 ボソッとうっかり呟くと、ハッとしたようにも隣に来てこちらを見上げてくる。
「宍戸くんとは、ほら、ずっと同じクラスだったから一緒に行動することも多くて……」
「先輩のお母さんも、宍戸さんのこと何度も話してましたよね。俺のこと……宍戸さんと思ってたりしたみたいですし……」
「そ、それはお母さんの勝手な思い込みだよ! その、だって……氷帝ってマンモス校だから3年間もクラスが一緒の人とか本当に珍しいし、私にとっては宍戸くんだけだったから……」
 それは逆に言うと、宍戸にとってもは唯一の中等部で3年間同じクラスの人間だったということであり。そして、2人はやはり自分がどう足掻いても持っていない共通の思い出を共有しているということだ。どうしようもないとはいえ、事実は事実として否定はできないだろう。
 そういえば、と鳳は昨日会った宍戸の事を思い浮かべた。彼が自分ととの事を何となく気にしているそぶりだったのは自身の思い違いだろうか?
 いずれにしても、例え宍戸であっても……やっぱり気持ちのいいものではないな、との後ろ向きな気持ちはどうにか仕舞い込んで、鳳はスッと腕を伸ばすとギュッとを胸に抱きしめて閉じこめた。
「お、鳳くん……?」
「俺のも、飾ってくださいね」
「え……?」
「パリのアパルトマンに。俺との写真も飾ってください」
 ね? と訴えかけるように言えば、少し目を見開いたはすぐに笑って「うん」と頷いた。鳳も薄く笑って、そっと手をの頬に滑らせてから顎を捉える。
 瞳を閉じる直前に、目の端に長髪時代の尊大そうな宍戸とのツーショットが映った。が、無意識に小さく口の端をあげて鳳はそのまま瞳を閉じての唇に自身のを重ねた。
「ん……」
 そのまま髪を撫でてもっと腰を引き寄せ、何度か軽くキスを重ねれば、瞬きの際にとろんとしたの表情が映って鳳は満足げに頬を緩めた。
 の背をコルクボードの方へ向け、腕をこちらの首に回すよう誘導して鳳はなおキスを重ねた。
「ん……っ、ん」
 ――数日ぶりだから欲したのか、それともの頭を自分だけで満たしてしまいたかったのか、それとも……別に理由があるのか、自分でさえよく分からない。
 けれども心地よさそうなの声が自分の名を呼んで、鳳は嬉しさとゾクゾクするような昂揚を同時に覚えての身体をギュッと抱きしめた。

 鳳は夕方5時過ぎにはの家を出ようと、再び両親に挨拶してから玄関を出た。
 2人とも玄関まで見送りに来てくれ、頭を下げてから「ちょっと外まで送ってくる」というと共に外へと出る。
「先輩、ほんとにもうここまでで大丈夫です。門までで」
「ん……」
 庭を横切りつつ鳳が言ってみれば、は生返事をした。別れ際に口数が減ってしまうところも相変わらずである。
 門の前まできて、鳳はもう一度と向き合った。
「今日はありがとうございました。わざわざお時間とっていただいて」
「う、ううん! こっちこそ……わざわざ来てくれて、ありがとう」
「来週はご足労願うことになりますけど……、よろしくお願いしますね」
 そうして、数日後に約束しているの自分の家への訪問の件を含ませると「う」とは言葉を詰まらせて少し頬を染めた。
「な、なに話せばいいかな……。たぶんすっごく緊張しちゃうと思う」
「あまり考えすぎないでください。俺がちゃんと紹介しますから……。それに今日は俺も緊張してしまって、うまく喋れずに失礼しました」
「そ、そんなことないよ! その……えっと……」
 するとは今日の鳳自身の発言でも思い返したのか、なおさら頬を染めて少し俯いてしまって鳳は少し目を見開いた。
「先輩……?」
「だって、鳳くん……あんなこと、言うから……」
 あんなこと? と鳳は眉を寄せて考えた。を昔から好きだと言った件だろうか? それとも他のだろうか? いずれにしても聞き返してもは答えてはくれないだろうなと察して鳳は少し笑ってみる。
「俺がご両親の前でお話ししたことは、全て俺の本心ですよ」
「う……、うん」
 すればなおさらの耳が真っ赤になって、そうしたかと思えば彼女はおずおずと腕を伸ばしてこちらの胸に身を寄せてきて鳳は一度瞬きをした。
「先輩……」
「帰国するまで毎日一緒にいたから……、お別れするの、寂しい」
 言ってはキュッとシャツを掴み、鳳は一度息を詰めた。そのままギュッと抱き寄せたいと強く思ったが、どうにか抑えて控えめに包み込むように抱きしめて、ふ、と笑う。
「俺もです。でも、またすぐ会えますから」
「うん……」
 ――この場所でなら、キスしても許されるだろうか。と一瞬迷った鳳だったが、やはり止めておこうと思い留まり、何度か優しくの髪を撫でてからそっと軽く額に唇を寄せた。
「では、失礼します。ご両親によろしくお伝え下さい」
「うん……。気をつけてね」
 を身体から離してもう一度笑いかけ、鳳は自ら門の扉を開けて外へと出た。見送りってくれるに再度手を振って背を向けてから歩き出す。
 そうしてホッと息を吐いた。やはり、自分はかなり緊張していたのだと思う。うまく話を出来ていただろうか? せめて悪い印象を持たれていないといいのだが――。

 鳳が帰宅してからもぐるぐると考えている頃、の家では夕食を済ませて食後に家族揃って鳳が持ってきてくれた手土産に舌鼓を打っていた。
 夏らしく、涼やかでオシャレなゼリーをチョイスした辺りが鳳らしい、とは見た目にも綺麗なデザートに鳳の気遣いを感じ取って、ふふ、と笑った。
「そういえば、鳳君はテニスが趣味だと言っていたね。大学のクラブには入っているのかな?」
 ふと父親がそんなことを言って、うん、とは頷く。
「鳳くんのフラットメイトが言ってたんだけど、すっごく強くてカレッジ対抗戦もダブルベーグルで勝っちゃったって。来年はケンブリッジ代表でオックスフォードとの試合に出るかも、って」
「へえ、それは凄い。それに、彼のカレッジは伝統的にスポーツに強いからね。合格基準にそれも見込まれてたのかもしれないな」
「で、でも……、鳳くん、年度末の試験でいっぱい”ファースト”取ったって聞いたよ!」
「なるほど……成績優秀でスポーツ万能でカレッジに貢献、か。教授陣の覚えめでたいのも分かるね」
「勉強もだけど、テニスも音楽も鳳くんのやりたい事がじっくりできるみたいで、本当に大学生活が肌に合ってるんだと思う。すっごく楽しそうだもん」
「彼の先輩としては、その気持ちはよく分かるよ」
 父が穏やかに笑い、はふと瞬きをした。父と鳳が自分にはわかり得ない所で何かを共有していると思うとちょっと複雑な気がして、む、と少し唇を尖らしていると父の隣で穏やかに母が笑った。
「それに背が高くてとてもハンサムね、鳳君。ったら、あんな素敵な後輩がいたなんて一言も話したことなかったのに」
「そ、それは……その」
 自身、今日まで一度も家族の前で鳳の話を出したことがなく、母に至っては氷帝の男子生徒と言えばイコール宍戸と思いこんでいる節がありそもそも宍戸以外の男子生徒を話題に出した覚えもなく。改めてそう言われると恥ずかしさが募って少しばかり頬を染めた。
 しかし。元から心配はしていなかったが。2人とも鳳のことを気に入ってくれたようだ――と分かって、ふ、と頬を緩める。その先で少し緊張も過ぎらせた。
 次は自分が鳳の実家に行く番である。鳳の実家は――、詳しくは聞いたことがないが、鳳の父は弁護士のはずだ。鳳の姉が法学部で、鳳は実家の事業にはノータッチらしいが。でも。
『学部を決めた時から、就職は向こうでと決めていました。できれば、パリで』
 鳳との将来はいまはあまり考えていない。先のことはどうなるか分からないのだし。でも――、と考えてくると視線が落ちてしまっていたのか母親から呼びかけられてハッとする。
 何でもない、とは思考を切り替えた。いまはあまり深く考えないでおこうと首を振って笑みを浮かべ、しばし家族団らんの時間を楽しんだ。



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