機上だということを忘れてしまうほど快適な時間が過ぎ、ごく自然と目を覚ましたは無意識的に視線を揺らした。そして目に入った「ファーストクラス」と表示された壁によって自身がいまどこにいるのか自覚する。
 身を起こして専用モニターをオンにすれば、ドイツは午前五時、日本は正午だということが確認できた。着陸まであと一時間半である。
 ふと隣の席に視線を落とせば鳳はまだ夢の中にいて、は少々身を乗り出して彼の寝顔を確認しつつ頬を緩めた。おおよその場合、鳳は自分より先に目覚めていたために彼の寝顔を見られるのは珍しいことだ。と思った瞬間、逆に自分はいつも彼に寝顔を晒していたのかと今さらながら気づいて目線が泳いでしまった。
 けれども。ここ最近はずっと鳳に抱かれて眠るのが当たり前になっていて――、隣にいるのにこうやって隔たりがあるのが寂しくて物足りない。などと過ぎらせてしまい、ハッとしては首を振るった。
「き、着がえてこよう……!」
 言い聞かせるように一人ごちて、着がえ一式を持って化粧室に入り、ゆっくりと顔を洗って身支度を整える。この環境を利用するためにどれほどの資金が必要か、ということを度外視すればやはり機内とは思えないほど快適だ。
 そうして席へ戻れば鳳が目を覚ましていて、は笑みを零した。
「おはよう」
「おはようございます」
 自分のベッドは着がえている間に通常の席に戻されており、腰を下ろせば鳳が仕切り越しに手を伸ばしてきて挨拶のように額に軽くキスしてくれた。はやや目を見開くも彼のこういう行動はいつものことで、ふふ、と笑みを零しそのまま鳳の肩に頭を預けようとした刹那。ハッとして鳳から身体を離してパッと跡部の席を見やってホッと息を吐いた。一瞬すっかり跡部の存在を忘れていたが、まだ彼は寝ているようだ。
 鳳もそうだったのか、跡部の方を振り返ってやや苦笑いを漏らしていた。
 程なくして昼食――たちには朝食になるが――が始まり、終わればすぐに着陸準備に入った。にとっては久々の日本だ。
 窓から日本の青い海が覗いて、と鳳は顔を見合わせて微笑み合った。


 ――成田国際空港。

 入国審査を終えて荷物を受け取るためにターンテーブルに向かえば、跡部の荷物に続いて鳳との荷物も先頭で出てきて、2人は目を見開いた。
 乗り継ぎ時間が長かったゆえに、ファースト用として対処されたのだろうか。などと鳳は考えつつを伴って跡部と共に外へ出た。
「お帰りなさいませ、景吾ぼっちゃま」
「ああ」
 すると跡部家の使用人と思しき人物が待っており、鳳は周囲からの好奇の視線を感じて肩を竦めた。跡部と一緒にいた氷帝時代はこの手の事は日常茶飯事であったため慣れてはいるものの、と居心地が悪そうにしているを見て苦笑いしつつ歩いていく。
 鳳もも既に迎えはいらないと家族には連絡してあった。なぜならフランクフルトで搭乗待ちしていた際に、既に跡部から自家用車で自宅まで送り届けるとほぼ拒否権のない状態で言い渡されていたからだ。
 相も変わらずの黒塗りのリムジンが待っており、鳳達は乗り込んで空港を後にした。
 外の人間からどう思われているかはともかくも、広いリムジン内は快適ではある。これだけ長時間の移動が快適になるのならば、資産家が移動に莫大な資金を投入する気持ちも分かるな、と鳳は苦笑いを漏らした。
 空港側から順にの家、鳳の家、跡部の家であるため、その順のまま降ろしていくという。の実家のある有明までは一時間ちょっとといったところだろう。
「ところで鳳、お前、日本用の携帯は持ってねぇのか?」
「え? あ……、えっと、家に戻れば滞在中はプリペイド式の携帯でも使うことになると思いますけど、今はちょっと分からないです」
 訊かれてそう答えれば、跡部からは面倒そうな息が漏れてきて鳳は肩を竦めた。隣のも、そっか、と目を瞬かせている。
「私は日本用の携帯も持ってるけど……」
「家に戻ったら連絡します。すみません、不便で」
 はさっそく日本用の携帯の電源を入れて家族に着いた旨を連絡したらしく、手には中等部時代に使っていたと思われるかなり古い型の携帯が握られていた。
 程なくして首都高は湾岸線に入り、有明が近い事が見て取れた。
「先輩……」
 無意識に鳳はの肩を自分の方に抱き寄せた。この3週間近くずっと一緒にいたため、きっと離れることに抗ったのだろう。自分だって久々の帰国で久々に家族に会えるのは楽しみだが、と離れるのは――と頭を寄せ合って触れ合おうとした直前で跡部の後ろ姿を意識してしまいハッとする。自分はあまり気にしないのだが、やはり不味いかな、と自重しているとが少し苦く笑った気配が伝った。
 あらかじめ住所を伝えてあったためリムジンは滞りなくの自宅前に停まり、は運転手と跡部に礼を言って車を降り、鳳ものスーツケースを出す手伝いのために一緒に外に出た。
「ありがとう」
「いいえ」
 抱きしめてキスしたいが、すぐそばに跡部。しかもここは日本。という状況的に無理かな、と鳳は小さく息を吐いた。
「先輩、俺……本当に楽しかったです。旅行も、その、先輩の部屋で過ごせた事も」
「うん、私も。すっごく楽しかった」
「家に帰ったらすぐに連絡しますから」
「うん……」
 そっとの手を握って、額にキスくらいなら許されるかな、と思った鳳だったが、リムジンのせいかやや遠方から歩行者の視線を感じてやはり止めておいた。
 名残惜しげに手を放し、が門の先へ入ったのを見送ってからリムジンへと戻る。そうして再び走り出した車内で鳳は、ハァ、と息を吐いた。
 抱きしめてキスもできないなんて。想像以上にストレスだな、と祖国だというのにはっきりと違う文化圏に舞い戻ってきて感じてしまったのだ。そんな自分に苦笑いを漏らしてしまう。
 いや、それよりも、だ。これからしばらくはに会えない日々が続くかと思うと、その方がよほど耐え難い。いくらこの3週間近くがイレギュラーだったとは言え、さっそくがいなくて寂しいと感じている自分にいっそ呆れてしまう。
 そのままぼんやりと外の懐かしい風景を見ていると程なくして自宅に着き、鳳も礼を言ってリムジンを降りた。
 さすがに久々の自宅を前にすれば笑みが戻り、スーツケースを転がしながら門をくぐりインターホンを押す。
「はい、どちら様――」
 すると相変わらずおっとりした母の声が聞こえ、途切れた。おそらくカメラで自分の姿を確認したためだろう。笑って鳳は手を振った。
「ただいま、母さん」
「まあ、長太郎……! 少し待っててね、すぐ開けるから」
 母にしては逸り気味の声がインターホン越しに聞こえ、しばらく待っていると、ガチャ、と扉の開く音がした。
 そうして扉が開いたと思えば――、第一に目に飛び込んで来たのは母の姿ではなく、愛猫の姿だった。
 鳴き声が聞こえたかと思えば飛びかかってくるように抱きついて来られ、鳳は「わ」と目を見開きつつも抱き留めて胸に抱いた。
「ただいま、フォルトゥナータ! 元気だったかい?」
 嬉しそうな鳴き声で胸にすり寄ってくるようにして甘えられ、鳳は頬を緩めた。会いたくてたまらなかった、と訴えられているようだ。
「俺も会いたかったよ、フォルトゥナータ。元気そうで嬉しいよ」
「本当にフォルトゥナータは長太郎が帰ってくると元気になるわね……。この前のお正月も、長太郎がイギリスに戻ったあとはしばらく元気がなかったのよ」
「そうなの? 困ったなぁ……」
「でも長太郎も元気そうで良かったわ。疲れたでしょう? お茶淹れるわね」
「うん。ありがとう、母さん」
 鳳は母に笑みを向けて家に入り、スーツケースの車輪を拭いてから家にあがった。そして取りあえずシャワーを浴びようとバスルームに向かえばフォルトゥナータも付いてきてシャワー中は外で待機し、あがれば部屋までついてきて、着がえてリビングに降りていってソファに座れば膝に乗って甘えてきて、鳳は用意された紅茶のティーカップを手に取りつつ肩を竦めながらも笑みを零した。
「そういえば、姉さんは?」
「あの子ったらお出かけしてるのよ。でも、今日は長太郎が帰ってくるからきっと早めに帰ってくると思うわ」
 そっか、と鳳は息を吐いた。姉への土産、気に入ってもらえるといいのだが。
 それになにより、父も含めて家族にのことを話して、ちゃんと紹介する日取りを決めないと、と過ぎらせつつ鳳は紅茶に口を付けて、しばしフォルトゥナータと戯れる時間を堪能した。

 一方のはスーツケースを片づけて土産品などを整理してから母親と共にお茶を囲んでいた。
「今日、お父さんってはやく帰ってくるかな?」
「さあ……、が今日帰ってくることは知ってるから、早く帰ってくると思うけど」
「私ね、お父さんにネクタイ買ってきたの! それに……お父さんに話もあって……」
 言い下しつつは頬が熱を持ってきて、「え?」と聞き返してきた母に「なんでもない」と言葉を濁した。
 できれば今週末に、父がいるときに鳳を家に招きたいのだ。元々、鳳は自分の家族に交際を告げたいと言ってくれていたが父親が自身の先輩にあたると知るや否や是非にも会いたいと言ってくれている。
 にしても父と鳳に共通点があることは嬉しく思っていたし、たぶん、会えば盛り上がるのだろうな……と思うとうっかり微笑ましいよりちょっと鳳に嫉妬してしまいそうで、そんな自分に苦笑いを浮かべた。
 取りあえず部長――美咲に帰国した旨でもメールしておこうか。日本滞在はそう長くはないのだから早めに予定を決めないと、と携帯を取りだした。
 その夜の夕食は母がいつも作ってくれるバランスの取れたメニューに加え、自身の好物――オムライスやグラタン――も食卓に並べられており、はこれ以上は食べられないというほどの母の手料理を堪能した。やはり慣れ親しんだ味というのは、この上なく嬉しいものだ。

 その晩――鳳家。
「長太郎、日吉君からお電話よ」
 ふと部屋でくつろいでいた鳳は母親に予想外に呼ばれて「え?」と狼狽えた。
「日吉から? なんだろう……」
 いやにタイミングがいいな、と降りていって受話器を取ると、相手からは開口一番に不機嫌そうな声が漏れてくる。
「オイ、お前、なんで携帯持ってねえんだ?」
「え!? え……、あ、日吉……その、久しぶりだね」
「久しぶり、じゃねえ! たく……跡部さんから伝言だ。明後日の10時、跡部さんちに集合だとよ」
「え――!?」
 曰く、これこれこういう事を自分に伝えておけ、と日吉は跡部から連絡を受けたらしく、受話器の先から聞こえてくる刺々しい声をかいつまむと、帰国早々に宣言通り跡部の部長時代の元レギュラー陣に声を掛けたらしい跡部は勝手に日時を指定して会合を開くことにしたらしかった。むろん、各自テニス道具持参の上だ。
 相変わらずだな、と鳳は苦笑いを浮かべたものの、跡部時代の先輩たちに会うのも久々で「楽しみだな」とも思いつつ受話器を切る。
 ついでと言ってはなんだったが、鳳はそのまま家電での携帯に電話をかけてみた。
「あ、先輩? 鳳です。すみません、まだプリペイド用意できてなくて――」
 何となくリビングでは話しづらくて、子機を持ったまま廊下に出てしばし話をした。
 は家族と話をしてくれたらしく、次の土曜の午後なら大丈夫そうということで、鳳はその日に挨拶に行くことを決めた。
 自分の方は両親が揃っている日との予定を合わせるのは厳しいかもしれないな、と思いつつ電話を切ってリビングへ戻ると、子機を置いた背後に誰かの気配を感じて鳳は振り返った。
「長太郎、ご機嫌みたいだけど誰とお電話?」
「わ――、姉さん!」
 姉だ。姉としては他意のない言葉だったのかもしれないが、うっかりドキッとしていると、先の方から母のおっとりした声が聞こえてきた。
「日吉君からお電話だったのよ。久しぶりにお話できて嬉しかったんじゃないかしら」
 ――違う。けど、まあ、いっか。と肩を竦めながら鳳は適当に笑った。
 が家に来るなんて言ったら。もしかして姉も同席するのかな、なんてうっかり浮かべてしまい、鳳の口からはなおさら乾いた笑みが零れた。



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