目覚めたのは、いったい何時だったのか――。 ぼんやりと目を開けたとき、はっきりと日の光がカーテンの隙間から差し込んでいるのが映って既にかなり陽が高いだろうことを鳳は悟った。 「う……ん」 無意識に動いてしまったのか、が寝返りを打った気配が伝ってハッとして鳳は少し身を起こした。 まだ寝息を立てている彼女は、きっと疲れているのだろうな。と感じ、起こすのも忍びなくてほんの囁く程度の声で伝えた。 「シャワー、お借りしますね」 そのままそっとベッドから降りてバスルームへ向かい、シャワーを浴びる。 身支度を整えてリビングに出て時計を確認する。10時半だ。そこまで遅くもなかったかなと肩を竦めた。 もじき起きてくるだろうし、バゲットや野菜は昨日買ったし、サンドイッチでも作って待っていようか。とキッチンの方へ向かった。おおよそどこに何があるか聞いているし、好きに使っていいと言われているし、と思うもやはり勝手に使うのは――と少々躊躇していると、ふとどこからかピアノの音が聞こえてきてハッとした。 すぐさま窓のそばに歩いていってカーテンを引き窓を開けてみれば、どうやら音は隣のアパルトマンから流れてきているようで、そういえば、と隣の住人がコンセルヴァトワール――パリ国立高等音楽院――の学生であったことを思い出した。 流れてきている曲はショパンの幻想即興曲だ。むろん鳳も弾けるが、比べるのはおこがましいよな、と肩を竦めつつも質のいい音に感嘆すると同時に羨ましさも覚えてしまう。 聞き入っているうちにすっかり時間が経ってしまっていたらしく、鳳の意識を戻させたのはベッドルームの扉の開いた音だった。 見やるとシャワーを浴びて身支度を整えたらしきが立っており、シャワーの音すら耳に入らないほど聞き入っていたのだと悟って鳳はやや自嘲した。 「おはようございます」 「おはよう……」 時刻は既に正午に近い。おはよう、は似つかわしくなかったものの、はそのままキッチンに歩いていきコーヒーをいれようとしたのだろう。自分にも飲むかと聞いてきた。頷いて、2人分のカプチーノを入れたからマグカップを礼と共に受け取り、もカプチーノに口を付けて開いていた窓を見やった。 「なにしてたの……?」 「ピアノを聞いていたんです。たぶん、隣のアパルトマンの方だと思うんですけど……」 「あ、そっか。うん、コンセルヴァトワールの学生さんみたいなの。知ってる限り、みんなピアノ科みたい」 「お話とかされるんですか?」 「んー……、顔を合わせたら挨拶くらいはするよ。そうそう、学生じゃないみたいだけど日本の人も住んでるみたいで」 「え……!?」 ごく普通にが言い進めて、鳳は少々驚いた。隣人に日本人も含まれていたとは初耳だからだ。 「え……それって、女性、ですか? それとも男性……?」 「え? 男の人だよ。5つくらい年上なんじゃないかなー……ちょうど私がこの部屋に越してきた時期にパリに来たみたいで。でもフランス語すっごく上手かったし、お互い最初は日本人って知らなかったの。おかしいよね」 ふふふ、と笑ってはその人物とは最初はフランス語で挨拶や雑談を交わしていた事を話し、鳳はやや焦ってしまう。 「え……、と、ど、どんな方なんですか? 先輩、仲いいんですか、その人と」 「どんな、って……。んー……鳳くんほどじゃないけど、背が高くてスラッとした人だよ。仲がいいっていうか……普通のお隣さんだよ」 ややせっぱ詰まった物言いになったせいか、は不審そうに少し眉を寄せてから肩を竦めた。 我ながら情けない、とは鳳自身思ったものの――やはり自分以外の異性の存在は気にするなというほうが無理で。のパリでの交友関係や生活など、やっぱりまだまだ自分はについて知らない部分も多いのだな、と自然と目線が降りてきていると「ね」とが窓を閉じつつ話を変えるよう見上げてきた。 「私、お腹すいちゃった。鳳くん、もうなにか食べた?」 「え、あ……まだです」 「そっか。どうしよう? 昨日のスープが残ってるし……サンドイッチとスープでいいかな?」 「あ、はい」 言いつつキッチンへ向かうを追って鳳も気持ちを切り替えた。 「あ、卵も昨日買ったんだった。帰国するまでに使っちゃわないと」 「じゃあ俺、オムレツでも作りましょうか?」 「ほんと? ありがとう」 2人で冷蔵庫を物色しつつ、サンドイッチやオムレツを作ってスープを温め直していく。 は普段はシステムキッチンに付いている脚の高めの椅子が備わったイートスペースを使っているらしいが、鳳としてはやはり向き合って食べたくて夕食時のようにキチンとダイニングテーブルに運んでセッティングした。 いただきます、と互いに向き合い鳳はサンドイッチに手をつけたが、が小さくため息のようなものを吐いたのが気にかかっていったん手を止めた。 疲れているのかな、と思い至るも、疲れているかわざわざ訊くのも悪趣味な気がして。なにせ自分自身、夕べはわりとやりすぎたと自覚しているし――、と自省していると、が首を傾げてきて鳳は何でもないと苦笑いを漏らした。 そうしてブランチとも言えないような遅い「朝食」を終え、鳳はに休んでいるよう言って後片づけを済ませた。手を拭いての方へ戻れば、やはり彼女はまだ疲れが残っているのかソファに身を横たえて手すりに体重を預けており、鳳は少し肩を竦めた。 するとは気配に気づいたのか、ゆっくり身体を起こしてこちらを見上げてきた。 「ありがとう」 「いえ……。その――」 眠いか、とか、疲れてるか。とはやはり聞けず、鳳はが身体を起こした事で空いたソファの端にそっと腰を下ろした。 そのままの肩を抱き寄せて、自分の膝に頭を乗せ休むように誘導すれば、も素直に従って鳳の膝を枕に身を丸めた。 「鳳くん……、どこか出かけたい……?」 瞳を閉じたまま聞いてきたの髪をそっと撫でながら鳳は小さく首を振るった。 「いえ……。俺はこうしてゆっくりしていたいです」 「ほんとに……?」 「はい」 「じゃあ……、少し休んだら、せっかくパリに来てくれたんだし……どこかカフェにでも……」 カフェにでも行こう、と続けたかったのだろうか。は言葉を途切れさせ、代わりに寝息が聞こえてきて鳳は目を見開いたあとに小さく肩を落とした。 今夜は昨夜のような真似はきっとすまい。きっと。――と自分に言い聞かせつつ、そっと窓の方を見やる。窓の外に広がっている華やかなパリも確かに魅力的だが、とこうしている時間の方が自分にとっては何よりも甘くて。帰国したくないな、なんて過ぎらせてしまった自分に苦笑いを漏らした。 結局、その後はがボザールへの近道だといつも通り抜けているパサージュを通ってみたり、オススメのビストロやお気に入りのカフェ等々を聞いたものの。 結局のところは街に出かけるよりは部屋で過ごす時間が多くなってしまい、鳳は「もう少し落ち着いたら、もっとパリを2人で楽しもう」と考えつつもあっという間に帰国の日がやってきた。 帰国の朝、は早朝一番に6区内の有名ベーカリーにクッキーの手土産を買いに出かけ、戸締まりをチェックして、二人して大きなスーツケースを携えて部屋を出た。 そのまま呼んでいたタクシーに乗り込んで、シャルル・ド・ゴール空港を目指す。 「フランクフルト……、俺、楽しみです」 「フランクフルト、修学旅行以来だな……」 道すがらそんな話をして、の脳裏には懐かしい氷帝時代の修学旅行の光景が蘇った。 今回、帰国するにあたって2人はむろんパリからの直行便を探したが、ハイシーズンなせいか鳳・がいつも使っているアライアンスの日系キャリアが取れず、やむなくルフトハンザ便となったのだ。 は乗り継ぎ時間の少ない便を探したが、鳳がどうせフランクフルトに行くなら少し観光に出たいと希望したため、今日は7時間近くも乗り継ぎ時間の空いた便に乗ることとなっている。 「俺、先輩が修学旅行で行かれた場所に先輩と行ってみたいとずっと思ってたんです。そのうち2人でロマンチック街道にも行きましょうね」 鳳は機嫌が良さそうに笑い、は少し肩を竦めた。鳳は自分たち上級生が修学旅行で巡ったコースを同じように巡ってみたいらしい。鳳の時は確かドイツではなかったためにそう思っているのだろうか? それとも単純に自分と旅行がしたいと思ってくれいるのか。 でも、あの修学旅行の時は事前にドイツ語を鳳から少し教わっていて随分と役に立ったっけ。と思い返すとやはり懐かしくて薄く笑った。 そうこうしているうちに空港に着き、チェックインを済ませてたちはすぐに機上の人となった。 ――フランクフルト。ドイツ最大の都市にしてユーロの中心であり世界規模の大都市でもある。 そのフランクフルト・アム・マイン国際空港はまるで地の果てまで続いているのではないかと見まごうほど大きく……、滞りなくフランクフルトに降りたは、改めてもう一度、もう7年も前になる修学旅行での光景を脳裏に蘇らせた。 あの時は初めてのドイツにワクワクして、言葉が通じるかドキドキして。まるで冒険に出たかのように心を踊らせたものだ。 「先輩たち、修学旅行の時はどうやって街に出たんですか?」 「あの時は生徒用にチャーターされたバスだったの……。今日は鉄道かな」 「じゃあ取りあえず中央駅まで行って、お昼はレーマー広場でとりましょうか」 そんな会話をしつつ、案内に従って人混みの中を歩いていく。ドイツの空港は相も変わらずルフトハンザの色でもある山吹色で彩られ、ビールやソーセージを出すバーがいくつも目の端に映ってフランスと異なる独特さに口元を緩めてると、の耳を先ほどよりも強烈なデジャブが襲った。 「おい、お前……鳳か……?」 その独特の尊大そうな声にはむろん、声をかけられた鳳も「え?」と立ち止まった。 「あん? それに……じゃねえか。久しぶりじゃねーの」 ――この声は、と鳳と同時に顔を見合わせ、二人して声のした方を向けば、声の尊大さを裏切ることなく尊大そうな表情の男性がこちらを見て口の端をあげており、と鳳の声が重なった。 「跡部くん……!」 「跡部さん……!」 その男の名は跡部景吾。鳳にとっては中等部・高等部と世話になったテニス部の部長であり、にとっては氷帝時代の同級生だ。 「お前ら、こんな所でなに2人揃ってやがんだ。デキてんのか、アーン?」 数年経っても相も変わらずな物言いには頬を引きつらせたが、鳳は慣れているのだろう。ええまあ、と受け流して笑っている。 「彼女とは正式にお付き合いさせて頂いてます」 「そうか……。で、お前らなにやってんだ?」 「俺たち、今日の夜便で日本に一時帰国する予定なんです。跡部さんは……」 「ほう、そりゃ奇遇じゃねぇの。俺様もちょうどこれから日本に戻るところだ。ちょっとデュッセルドルフに用があってな……いま着いたんだが……」 言いつつ跡部は腰に手を当てて、ふ、と不敵な笑みを漏らした。 「今日の夜便なら俺様のフライトと同じじゃねえか? 搭乗券見せてみろ」 「え……!?」 「はやくしろ」 言われて訳も分からないまま2人が搭乗券を出して見せれば、跡部は「ハッ」と呆れたような声を周囲に響き渡らせた。 「貨物席じゃねえか」 その言い様に鳳は肩を竦め、は少し頬を膨らませる。 「エコノミーだけど、ちょっと足下の広い席だよ」 帰国便を予約する際、鳳は自身のマイルでビジネスにアップグレードしようかと提案してくれたがは断っており、鳳が身体的な問題でエコノミーは辛いということで若干料金を上乗せして広い席にすることで落ち着いていたのだ。 「ったく、しょうがねえな」 跡部は呆れたような同情のような表情を浮かべると2人の搭乗券を持ったままきびすを返し、え、と慌てた2人は慌てて後を追った。 「ちょ、と……跡部くん!?」 スタスタと歩き出した跡部は何やらスタッフと思しき制服を着た人物に話しかけており、その人物は更に跡部を別方向へ促して面食らっていると跡部は一度こちらを見た。 「悪いようにはしねえ。黙ってついてきな」 そして言うが早いかまたスタスタ歩き出してしまい、たちは着いていくほか術はない。 何なんだ、いったい。と思いつつも着いていった先はルフトハンザのデスクで、跡部は何かを交渉している様子だったがドイツ語で聞き取れず、鳳も聞き取りが難しかったのか顔をしかめている。 そのうちパスポートを出せと言われて素直に出してしばらく経ち――、パスポートと共に搭乗券を返されては目を見開いた。 「え――ッ!?」 視界の端では鳳も同じく大きな目を見開いている。 搭乗券は先ほどまでの物ではなく一新されており、新たな搭乗券には大きく”F”と印字されて右上の端には”First”と刻印されていた。 「ま、機上で不便には変わりないが、貨物エリアよりはマシだぜ。ありがたく思いな」 満足げに跡部がそう言い下したものの、も鳳も絶句したまま動けない。 「代わりに搭乗まで俺様の暇つぶしに付き合ってもらうぜ。……あん? どうかしたか?」 「あ、あの……これ……」 「い、いいんですか? 跡部さん」 「なんだ、お前らファーストクラスは初めてか?」 どうやら跡部が勝手に自分たちのブッキングクラスをエコノミーからファーストにアップグレードしたらしい、と理解するや否やそんなことを言われ、頷く他はない。 そうか、と呟いた跡部は再びデスクの方を見やってスタッフに話しかけた。そしてしばらくすると別のスタッフがやってきて着いてくるよう先導され、言われるままに着いていけば明らかに一般エリアでない場所に通されて地上に出され、待ちかまえていたメルセデスに乗せられて飛行場の誘導路を走り出してしまった。 いったい何が起こっているのだろう、と鳳と顔を見合わせていると跡部が説明を始めてくれた。 フランクフルト空港はファーストクラス専用の、いわゆる「ファーストクラス専用ターミナル」を持っている。跡部としては今日は乗り換えだったためファースト専用ターミナルは使用せず自分たちを連れてファーストクラスラウンジへ行こうとしていたが、ファーストは初めてという自分たちを見て気が変わったらしく、専用ターミナルへ連れて行ってくれと交渉したということだ。 何だかとんでもないことになった。と思うも、連絡バス以外で滑走路付近を移動できる機会などそうそうなく、物珍しい光景についつい見入ってしまう。 そうこうしているうちにそれらしき建物が近づき、入り口付近で下ろされて建物内に入ると広々としたロビーにレセプショニストと思しきスタッフが立っていた。 恐縮してしまうほどの挨拶を受けつつ、先ほど交換したばかりの搭乗券とパスポートを出して預ける。搭乗時まで預かってくれるシステムになっているらしい。 そのまま跡部に連れられるようにして中に入り「わ」とは思わず呟いてしまった。モダンな造りのだだっ広いラウンジエリアが広がり、ガラス張りの壁から滑走路を臨むその空間に人影はほぼ見えず、先ほどまでの空港内とはまるで別世界が広がっていたのだ。 跡部に言わせれば、雑音から逃れられて落ち着くらしいが、この静けさはかえって緊張する、と選び放題の場所からバーラウンジのソファに取りあえず揃って腰を下ろした。 「ま、まずはシャンパンでいいだろ」 どうやらずらりと奥に並べられているビュッフェ形式の食事に加えて高級レストラン並のメニューも好きに注文できるらしく。うっかりキョロキョロ見ていると跡部がそう言い下してやってきたコンシェルジュにシャンパンを頼んでいた。 「す、すごいね……広いし、ほとんど人がいない」 「ま、庶民から隔絶されるために作られた専用ターミナルだからな」 「でも……こんなに利用者少なくて、運営大丈夫なのかな……」 思ったままを言えば跡部は呆れたような表情を晒し、鳳が苦笑いを漏らした気配が伝った。が、としては本音であり――そして自分の想像できないような資金が知らないところで回っているのだろうと納得する。 「腹が減ったらそれなりに質のいい料理も出してくれる。搭乗待ちという無駄な時間を潰すにはここは最適だぜ。仮眠室やバスルームもあるしな」 「え……!?」 その一言にははっとして跡部の顔を見やった。 「お風呂があるの……?」 「ああ」 「じゃ、じゃあ……搭乗前に入ってもいい……?」 「好きにしな」 思わずは笑みを零してしまった。長時間のフライトで長い間シャワーも浴びられないのはやや苦痛であり、今回はほぼ一日身体を洗えない予定の旅だったのだ。搭乗前に風呂に入れれば不快感はかなり軽減され、願ってもない事だった。 そうこうしている内にシャンパンが運ばれてきて、口を付ければ、それこそアンソニー他のフランスの同級生の家で出されるレベルと遜色ない味で、「美味しい」と呟いたに当然だと跡部が相づちを打った。 「世界中の酒が一通りは揃ってるからな。ところで……お前はパリのボザールに通ってんだったな」 「うん」 「俺様も何度かサロンでお前の名を目にしたぜ。それにニースのブラン家の長老がお前の絵を気に入ってるらしくてな……。去年だったか、モナコのパーティで会ったときにいくつか写真を見せられたんだが、お前、ブラン家と縁でもあんのか?」 「あ……、そこの孫息子とは高校の同級生なの。みんなでお屋敷におじゃますることもあるからお礼に絵を贈らせてもらったりしたんだけど……。気に入ってもらえてるなら嬉しいな」 「なるほどな。なかなかやるじゃねぇの。……で、鳳、お前は?」 「え……!? あ、その……俺は氷帝在学中にAレベルを受験して、そのまま卒業と同時に渡英しました。跡部さんが前年に受けられていたので氷帝でもノウハウができてたというか……スムーズにいきましたのでとても感謝してます」 「お前……イギリスにいたなら何で俺様に知らせねぇんだ?」 「え!? あ、その……俺、氷帝の頃の携帯解約しちゃってて……。跡部さん、バッキンガムって聞いたんで……その、遠いですし」 跡部は言いつつ鳳に携帯を出すよう促し、「お前はどこだ?」と鳳に訊いて鳳は携帯を手渡しながら少しはにかんだような仕草を見せた。 「俺は……その、ケンブリッジで建築学を学んでます」 さすがに予想外の返答だったのか、少しだけ跡部が目を見開いたのがの目にも映った。次いで跡部は低く笑う。 「やるじゃねぇの、鳳。お前……俺様が引退したあとのテニス部もベスト4まで連れて行ったそうじゃねぇか、アーン?」 「全国制覇は出来なかったんですが……、俺達なりにベストは尽くせたと思ってます。日吉や樺地も力になってくれましたし……。跡部さんは今もテニスを続けられてるんですか?」 「ま、なまらねぇ程度にはな。ああ、帰国したら元レギュラーの奴らを集めようと考えていたところだ。お前、腕はなまってねぇだろうな?」 「え……、あ、まあ、定期的に打ってはいますけど……」 そんな話をしつつようやく状況にも慣れてきたは、目の前にあの跡部がいることが何とも不思議だった。すっかり今の日常に慣れてしまっていたが、確かに彼は5年ほど前までは毎日同じ学園内にいた人で、跡部がいるだけで気持ちまで氷帝時代に戻っていくようなそんな錯覚を覚えたのだ。 「にしても、本当に久しぶりだよね、跡部くん。私、修学旅行以来にフランクフルトに来て、ちょうど修学旅行の事を思い出してたの。だから本当にびっくりしちゃった」 「そうか……。あの修学旅行は、俺様もお前らを率いて連れて行ってやったという意味ではよく覚えちゃいるが……。ま、全体的に庶民じみた旅行だったがな」 こんな物言いすらも懐かしい、と感じてしまう自分はだいぶんパリの自由主義に慣らされてしまったのかもしれないと肩を竦めた。 「それで……、トランジットの時間を利用して今日は先輩と2人で観光に出ようと思ってたんですけど……」 鳳がシャンパンを口にしつつも苦笑い気味に言い下すと、「あん?」と跡部は眉をぴくりと動かした。が、気に留めていない様子で「暇つぶしに付き合ってもらう」との言葉通り雑談を続けた。 それでも久々の再会は話題が尽きることはなく、そのまま軽く昼食を取り、搭乗時間まであと一時間と迫ったところでは席を離れてバスルームへ向かった。 案内されるままにバスタブのある浴室を選んで足を踏み入れて、あまりの広さに目を見開いた。 「わあ……!」 一流ホテルでもここまでの広さはないだろう、という浴室というよりは部屋レベルの広さにうっかり声が弾んでしまい、逸るようにお湯を張る。アメニティもバスソルトまで揃っている充実さで、はまずシャワーブースで全身を洗ってからゆっくりとバスソルトを溶かした湯に浸かった。 そして改めて思う。自分と鳳、特に鳳にすれば跡部のすることにはもはや慣れているのだろう、が、ファーストクラスへの2人分のアップグレード代はいくらかかったのだろう、と過ぎらせてしまいに不意に頭が痛んだ。それを当然にできる社会階層の人々、というのは跡部に始まりリセの友人たちを経て分かっているはずだが。久々に跡部に回帰してみればやはり住む世界が違うと実感させられる。 「あ……。跡部くんとアンソニーって知り合いなのかな……」 ふと気づいて、尚さらは頭の痛みを覚えた。もしかして他の同級生とも繋がっていたりするのだろうか。おそらく狭い世界ゆえにあり得ないとは言い切れず――、いまは考えないでおこう、と贅沢な空間でのバスタイムにじっくり専念してからバスルームを出た。 すればコンシェルジュがドリンクはどうかと訊ねてくれ、フルーツたっぷりのスムージーを頼んで今なお雑談に花を咲かせている鳳たちの元へと戻る。 「お待たせ」 「先輩……、どうでした? バスルームの心地は」 「すっごく広くて素敵だった」 鳳と笑みを交わし合って座ると程なくしてスムージーが運ばれてきて、新鮮な美味しさには笑みを零した。 「そろそろ搭乗時間でしょうか……」 「安心しろ、時間が来ればコンシェルジュが呼びに来る」 鳳が腕時計に目を落とした。も時間を確認する。離陸時間は19時ちょうどだ。あと30分ほどであるし、そろそろだろう。などと話していると担当のコンシェルジュが呼びに来てくれ、案内されるままにエレベーターで地上階へと下りて、既に出国手続きの終了していたパスポートと搭乗券を専用の出国カウンターで受け取った。 外にはズラリとメルセデスをはじめ各種ドイツ車――BMWやポルシェなどが送迎用に並んでおり、再びメルセデスに乗って駐機場まで連れられていく。 その先には更に専任スタッフが自分たちの到着を待っていたようで、メルセデスを降りたたちは案内のままにタラップを登って搭乗した。跡部曰く、二階がビジネス・ファースト専用となっているらしい。 ビジネスはおろかファーストクラスに客として足を踏み入れるのは初めてであるはやや緊張して客室乗務員の説明が入ってこず、というよりは跡部のせいか全てドイツ語で説明されて全く意味が理解できないでいると「今日はファーストは俺達3人だけみたいです」と鳳が耳打ちしてくれた。 ファーストクラス、と壁に書かれたファーストクラスエリアに入れば、エコノミーとはまるで種類の違う、空間を広くとった造りのシートが目に飛び込んできた。シート配列は両窓側が一席、中央席が二席並びとなっており、跡部がこちらを振り返った。 「好きな席に座れだとよ。今日は俺達しかいねぇからな」 言って跡部は最前列の窓側の席を取り、と鳳は顔を見合わせた。 「と、どうしよう……」 言いながらも取りあえず搭乗券に記載されている通りに最前列の中央の並び席に座ると、横から跡部の呆れたような声が流れてきた。 「お前ら……、なにわざわざ詰めて座ってやがんだ?」 言われて再び鳳と顔を見合わせると、鳳は少しだけ肩を竦めてはにかんだ。 「俺は先輩がイヤでなければ隣がいいんですが……、ダメですか?」 「う、ううん。そんなことないよ、私も隣がいい」 もそう応えて互いに微笑み合っていると、勝手にしな、と素っ気ない声が漏れてきて取りあえず座ってみる。見た目から分かり切っている事ではあるが、エコノミーとは桁違いの広さだ。 「なんだか凄すぎて、どう言っていいか分からない……」 「俺も、ちょっと緊張してます」 過ごし方が分からずにうっかりキョロキョロしていると客室乗務員がウェルカムドリンクを持ってきてくれ、程なくして離陸と相成った。 どうやら席はフルフラットになるらしく、ゆっくり眠れるらしい。足も伸ばせるし映画の種類も豊富で、機内だというのに恐ろしく快適だ。 夜便ゆえに離陸してしばらくするとディナータイムとなり、客室乗務員が席をセッティングしてくれた。中央の席は客が望めば向き合って食事ができるような作りになっているらしく、鳳ももそれを望んだためだ。 とはいえ跡部に一人で食事をさせるわけにもいかず、少々離れているものの3人で雑談を交えながらエコノミーとは180度違うフルコースの料理に舌鼓を打った。 としては離陸前に風呂にも入り、食事も終え、そろそろパリ時刻では21時になるし早めに眠りたいと考えていた。成田に着くのは昼過ぎであるが、生憎と自分の体内時間的には早朝となるのだ。なるべく寝て時差ボケを少なく抑えたい、と搭乗時に渡されたアメニティの一つであるパジャマを持って化粧室に入ると、とても機内とは思えない広さにただただ絶句した。今日はいったい何度驚けばいいのだろう? と、あまりに別世界の出来事にいっそ感心しつつ、ゆったりとした長椅子に腰を下ろして一息つく。顔を洗って歯磨きも済ませ、着ていたワンピースを脱いでパジャマに着替えて席に戻れば自身の席はすっかりベッドに様変わりしていた。客室乗務員がセットしてくれたのだろう。すると客室乗務員がやってきて、隣の席とパーテーションで仕切りを作るかと訊いてきて、は断った。 映画を見ていたらしき鳳がいったん中断して話しかけてくる。 「もう寝るんですか?」 「うん。夜だし……寝ちゃった方が時差ボケも軽く済むと思って」 ベッドにあがり、羽毛布団をかけて心地よさに頬を緩める。そして「おやすみなさい」と告げるとベッドに横たわって瞳を閉じた。室内はまだ明るいが、じきに消灯されるだろう。 クロアチアの旅行から3週間近くずっと寝るときは鳳と一緒だったため、久々の独り寝だ。もちろん鳳と一緒がイヤなわけではないが、連日連夜結局そういうコトになっていたし――と考えると僅かに頬が熱を持ったが、久々に無心でゆっくり眠れる、とはそのまま眠りの縁に落ちていった。 |