――翌朝。
 フライトの時間もあり寝坊するわけにもいかなかった鳳はアラームを準備していた。が、設定した時間よりもはやく目が覚め、うっすらと瞳を開けた。そうして、ふ、と笑う。
 既に慣れてしまったとはいえ……目覚めれば隣にがいて、その身体の重みを真っ先に感じることができるのはこの上ない幸福だ、と彼女の寝顔を見やってしみじみと感じ入った。
 昨夜、彼女は髪をきちんと乾かしていなかったせいかくせ毛がいつもより寝乱れていて、そんな部分も可愛らしくてついつい喉を鳴らして笑ってしまう。
 すると振動が伝ってしまったのだろうか――、僅かに身を捩ったがゆっくり目をあけて、鳳は「しまった」と苦笑いを漏らした。
「すみません、起こしちゃいましたね」
「ん……」
「おはようございます」
「……おはよう……」
 ぼんやりとこちらを見た彼女は、不意にハッとしたように目を見開いて、次にはパッとこちらに背を向けて顔を枕に埋めてしまい鳳は目を瞬かせた。
「先輩……?」
「夕べ……けっこう飲んじゃったから、その……顔、むくんじゃってると思う、から」
 小さく恥ずかしそうに言った彼女の髪の間から覗く耳朶がうっすら染まっている。きっと、見ないで欲しい、という意思表示なのだろうが、その動作が小動物のようであまりに可愛らしくて、鳳はじゃれつくように後ろから抱きしめた。
 するとますます真っ赤になって顔を背けられ、ふ、と勝手に口元が緩んでしまう。
「夕べの先輩……、すごく可愛かったです」
 言えば、ピク、との身体が撓った。そうして小さく唸った彼女を見て、彼女もはっきり覚えていることを悟って鳳は自身の身体が少し熱を持つのを感じた。
「覚えて、ますよね……? 夕べのこと……」
 きっと追い打ちになってしまうだろうと自覚しつつもそう囁いて、後ろから彼女の耳の裏あたりに唇を寄せて首筋に滑らせた。の身体の前に回していた腕の指を彼女の唇に当て、柔らかい感触を確かめつつ――「あ、まずい」と自覚する。このままだと止められなくなってしまう。今日ばかりはうっかり欲のままに行動すればフライトを逃す憂き目に合いかねない。
 でも、ここで止めるなんて……と制止しなくてはならない意志に反しての唇にあてていた指を彼女の口内へ含ませようとした直後。部屋にセットしていたアラームが鳴り響いて鳳はハッとした。
 すれば当然引くしかなく、から身を離して鳴り響く機械音を止め、苦笑いを漏らした。に目をやるとシーツに顔を半分ほど隠してこちらをおずおずと見つめており、なお鳳は苦く笑って、ギシ、とベッドを軋ませつつ身を屈めると露わになっていたの額にキスを落とした。
「すみません、先輩。先にシャワー使わせもらいますね」
 ともかくいったん彼女から離れて落ち着かねば、との思いからそう告げ、彼女が頷いたのを見届けてから鳳はバスルームへと向かった。
 さすがにじっくりシャワーを浴びていると気持ちも落ち着いてきて、洗面台に立って毎朝必須である肌を整える作業に入りつつ思う。の肌はすべすべで柔らかくて、やっぱり自分とは全然違うよな、と自身を鏡で見つつ余計な事を過ぎらせたせいか手元が狂い「いッ」と思わず声が漏れてしまった。どうやら傷はついておらず、ホッと胸を撫で下ろしつつ身支度を整えてとバスルームを交代した。
 互いに準備も整えたところで朝食をとりに部屋を出てダイニングホールへと向かった。夕べディナーをとった所と同じ場所だが、今日はテラスではなく室内で食べようと案内されるままに座ればウエイターがメニューを手渡してくれた。どうやらホットミールはオーダーできる仕組みらしい。
「ビュッフェコーナーは隣の部屋になってるんだね」
「みたいですね」
 見ればビュッフェルームは専用に設置されているらしく、騒がしくなくていいね、などと互いに言い合いつつ料理を取りに出向いて戻ってくると、程なくしての頼んだオムレツと鳳の頼んだエッグベネディクトが運ばれてきて2人で旅行最後の朝食に舌鼓を打った。
 美味しい、と笑顔でオムレツに口を付けるを見つつ鳳は笑みを零した。
 彼女と旅行に来て、何より彼女が楽しんでくれて本当に良かった。としみじみ感じつつ朝食を終えてチェックアウトも済ませれば、向かうのはザグレブ国際空港だ。
 レンタカーを空港にて返却し、2人は午後一番のパリ便を待って機上の人となった。パリ便ゆえにキャビンアテンダントはフランス人もいたのか挨拶や放送が途端にフランス語メインになり、が嬉しそうにしていて鳳は思わず微笑んでしまった。
 きっとは久々のパリが嬉しいのだろうな、と思う心とは裏腹に鳳はやや緊張してきた自身を自覚した。日本へは三日後に帰国することになっているが、その間、パリののアパルトマンに滞在する予定なのだ。
 旅行よりも実はのアパルトマンに初めて入れてもらえる、という事の方が楽しみで嬉しくて緊張している、なんて知ったらはどう思うだろう? でも、彼女が普段どんな場所でどんな風に生活しているかずっとずっと知りたくて、ようやくチャンスが来たのだから……とジッとを見ているとがキョトンとして首を捻って鳳は慌てて笑みを浮かべた。
 無事にパリはシャルル・ド・ゴール空港に降り、タクシーに乗り込んで走り出せばはなお嬉しそうに笑った。
「やっぱりパリに着くとホッとするな……」
「先輩にとっては第二のふるさとですからね」
 うん、と笑いつつもはこちらを見上げてくる。
「でも、クロアチアほんとに楽しかった!」
「俺もです。また行きましょうね、色んな場所に。2人で」
 言いつつ鳳がの手にそっと自分の手を重ねると、も笑って頷いた。
 しばらくするとパリ・リヨン駅を過ぎ、パリ第6大学が窓から覗いて、鳳はの住まいのある6区が近いことを悟った。そのままタクシーはセーヌ川沿いを走り、パリ最古の橋であるポン・ヌフの少し手前で左折して路地に入ってから、おそらくはの告げた住所の前で止まった。
「メルシー・ボクー!」
 ドライバーに礼を言って荷物をトランクから出して見送り、に先導されるままについていくと、彼女はすぐそばの扉にデジコードらしきものを打ち込みながらこちらをちらりと見上げてくる。
「ここなの、私のアパルトマン」
 言いながら重々しいドアを開いたについて門をくぐると、薄暗い廊下の先に明かりが見えた。欧州によくある中庭が開けた造りのアパルトマンなのだろう。
 例に漏れず古い建築物らしく、鳳はに続いて中庭に出た先にあったもう一つの扉をくぐった。その先には螺旋状の階段の間に後付けで設置されたらしきエレベーターがあり、へえ、と鳳は上を見上げた。
「珍しいですね、パリのアパルトマンでエレベーターなんて。付いてない物件が多いって聞きましたけど」
「うん。設置当時は年輩のかたが多かったみたいで……どうしても、って要望が出たらしくて。でも、私も大きなキャンバス抱えてることも多いから助かってるの」
 がボタンを押せばゆっくりと降りてきたエレベーターは昨今そうそうお目にかかれないレベルで古そうなもので、中に入ればと自分と2人分の荷物でいっぱいになってしまい、便利だけど不便、というあべこべな言葉が脳裏を過ぎった。
 の部屋は最上階に位置しているらしく、鳳はやや緊張したま案内されるままにの部屋らしきドアの前に立った。
「どうぞ」
「お、おじゃまします」
 開いた扉の先には廊下のようなものが続いており、はやはり日本人らしく靴を脱いでスリッパに履き替えて鳳はハッとした。同時にもハッとしたのだろう。
「ごめんなさい、スリッパ用意するの忘れちゃってて……。どうしよう」
「いえ、構いません」
 申し訳なさそうなに笑いかけて靴を脱ぎつつ気づく。来客用のスリッパ、それも男性用がないということは。少なくとも男で初めてここに来たのは自分なんだよな、と感じて笑みが零れてしまった。
 はそれには気づかず、すぐ横のドアはトイレなどと説明しながらリビングらしき方向へ誘導した。が、リビングの手前にもう一つドアがあって鳳が無意識に眺めるとも気づいたのだろう。
「あ、そこは作業室なの。散らかってるから見ないでね」
 少し肩を竦めながらがはにかみ、頷きつつリビングに入って「わあ」と鳳は感嘆の息を漏らした。
 パリは万年物件不足、家賃は高く、恐ろしく狭い、という前評判を聞いていたものの、リビングだけでも十分な広さだ。が全ての窓のカーテンを引けば、パッと明るい日差しが差し込んで、休息用のソファやパソコンが置かれているデスク、奥にはダイニングテーブルと奥まった部分にシステムキッチンらしきものも見えた。
「バスルームは寝室からじゃないと行けないの。鳳くんも手、洗うよね?」
「あ、はい」
 言われて頷けば、がもう一つの扉をあけて電気をつけ、パッと現れた寝室に鳳は目を見張った。そして、このアパルトマンの間取りの意味を理解する。中央に置いてあったのはキングサイズのダブルベッドで、元来このアパルトマンは2人用を想定してあるのだと悟ったのだ。ゆえに部屋数も多く、作業室の必要なボザールの学生に長年愛用されているのだろう。
 というか、ホテルのダブルベッドよりも普段彼女が使っているベッドの方がよほど生々しい。とうっかり過ぎらせたことを気づかれないようそのままバスルームに入って手を洗いつつ、ふぅ、と鳳は息を吐いた。
「それにしても、いいアパルトマンですね」
「うん、私もすっごく気に入ってるの。紹介してくれた高校の先生に感謝しないと」
 言い合いつつリビングに戻り、は笑ってキッチンの方に行きつつこちらを振り返った。
「コーヒーでも飲む? なにがいい?」
 鳳もそのままキッチンに行けば、知る限り全てのイタリア人留学生が故郷から持参している型と同じ「マイ・エスプレッソメーカー」に加えて機械式のエスプレッソ・コーヒーマシーン、複数のインスタントコーヒーにサイフォンと一通りのコーヒーメーカーがずらりと揃っており、感心すると同時にのコーヒー好きを再確認して肩を竦めた。
「あ、紅茶の方がいい? 紅茶の茶葉、あったかな……」
「え、いいですよ、そんなお構いなく」
「でも……。あ、そうだ、お買い物に行かないと!」
 曰く、二週間も旅行で家を空けるのだからと冷蔵庫はあらかじめ空っぽにしており、食料品がないとの事だった。
 洗濯物もあれば出してくれというに従い、お互い旅行中はこまめにランドリーサービスを利用していたために洗濯物はそう多くはなかったものの、洗濯機を回している間に買い物に行こうという運びになっていったん外に出ることにした。
 いずれにせよ鳳にとっては数年ぶりのパリで、華やかな空気に自然と笑みが零れた。さすがにパリの中心地のもっとも賑やかなエリアだけあって、少し歩けばカフェというカフェのテラスが満席という光景が目に飛び込んできた。
「やっぱり6区は華やかですね」
「うん。夜も賑やかで人も多いし、食べるものにも困らないし、本当に便利」
「食べるもの……か。先輩、普段の食事はどうされてるんですか?」
「え!? んー……バゲットでサンドイッチ作ったり、お総菜買ったり……。一人だからけっこう適当かも。鳳くんは?」
「俺はカレッジのダイニングを利用してますけど……。朝は自分で用意することも多いです」
「お料理するの?」
「はい。たまにカレッジ内の寮で友人と夕食を作ったりもします。イタリアの、特に男子学生は料理がうまくて、俺もイタリアンを色々覚えました」
「すごいね……! それに楽しそう、友達と一緒にお料理なんて」
「じゃあ、今日の夕飯は2人で作りましょうか」
 手を繋いで歩くだけでいつもより楽しいのは、数年ぶりのパリだから、というよりは彼女の住んでいる街だからかもしれない。と思いつつ当てもなく街をぶらぶら見つつ歩いていくと、どこか見覚えのある交差点に出て鳳は思考を巡らせた。何だったか、と記憶を辿り「あ」と思いついての方を見やる。
「あの路地の先にパン屋さんってあります?」
「あ……うん。カンパーニュの有名なお店があるけど……」
「あ、やっぱり。母がそこのクッキーに目がなくて、パリに来たときは毎回行ってましたから、何となく見覚えがあったんです。今も定期的に直輸入してる百貨店に通っては買ってきてるみたいなんですよ」
 記憶を脳裏に描きながら少しだけ肩を竦めると、そうなんだ、とは呟いて店のある方向に目線を流した。
「じゃあ、そのクッキーをお土産に持っていったら喜んでもらえるかな?」
「え……!? え、でも……」
「実は何を持っていったらいいかちょっと悩んでたの。帰国する日に買って持って帰るね」
 ニコ、とが笑って鳳は予想外のことに少々面を喰らったものの、肯定して頷いた。クロアチア旅行中に、帰国したらお互いの家に挨拶に行くことは既に話し合って決めていたがゆえの発言だろう。
 自分はどうしよう――、と考えつつ、そろそろマルシェにでも買い物に行こうかと言うに聞きそびれていたことを思い出して声をかけた。
「先輩」
「ん……?」
「あの、この辺ってドラッグストアあります?」
 え、とがキョトンとして首を傾げた。
「ドラッグストア……? シャンプーとかだったら私のじゃダメかな」
「え……いえ、そういうわけでは……」
「あ、でも、スリッパ買わなきゃいけないし……置いてあるかも」
 ――そうじゃない。が、まあ、いいか。とドラッグストアに行くべき理由を探しているらしきに苦笑いをしつつ、ここからほど近いドラッグストアへと2人で足を運んだ。
 足を運んだら運んだで見るものがあるのか、商品棚をゆっくり見て回るのそばをさりげなく離れた鳳は、パリ滞在中にコレだけあれば十分かな、という量の目的物を購入すると、カモフラージュというわけではないが共に購入したシャンプーと一緒にもらったレジ袋に仕舞った。
「あ、鳳くん。スリッパあった?」
「え、いえ……。なさそう……でした」
「そっか。訊いてみようかな」
「えッ!? だ、大丈夫ですよ。たぶん、他のお店にもあると思いますし」
 ははは、と苦笑いを浮かべていると「そう?」とは特に気にするそぶりもなく、そのままドラッグストアを出ると、常設のマルシェで野菜を見繕い、パン屋でバゲット類を購入して足りないものを買い足しつつ、スリッパも入手してアパルトマンへ戻った。
 購入したものを仕舞って洗濯物も干し終え、ふと鳳はパソコンデスクの上のコルクボードに目を移した。
 先ほどは気づかなかったが、多数のネックレスが下げてあり、その中にピンクゴールドの桜の形をしたペンダントを見つけて思わず笑みが零れる。6年前の家族旅行でパリに来た際にへのお土産にと購入して、卒業式に渡したものだ。
 ブダペストで偶然に再会したときにも着けてくれていたっけ、と懐かしく思い返しているとお茶がはいったとに呼ばれてハッと意識を戻した。
「ありがとうございます」
「ティーバッグしかなくて申し訳ないんだけど……」
「十分ですよ」
 ソファ前のローテーブルにが紅茶の入ったマグカップを置いてくれ、二人して腰掛けて鳳は紅茶を、はコーヒーを口につけた。
「明日・明後日なにしようか……、鳳くん、どこか行きたいところってある?」
「え……と。先輩はふだん何をされてるんですか? 俺と会ってない休日とか」
「え……? んー、色々、だよ。でも絵を描いてることが多いかな。部屋に籠もって描いてることもあるし、公園とか植物園に出かけて描いたりとか」
「じゃあ、先輩がよく行く場所に行ってみたいです」
 言いつつ、自らの発言に鳳は少しばかり呆れてしまう。の行動範囲も、のお気に入りも、彼女のことなら全て把握していたい、なんて。さすがに度が過ぎるだろうか、と自嘲したからだ。
 対するはこちらのそんな思惑など露ほども気づいていない様子で、きっと彼女は自分がどれほど彼女を好きかなんて知らないんだろうな、と思うと少し寂しいような、ホッとしたような、複雑な気持ちになって誤魔化すように熱い紅茶をグイッと喉に流し込んだ。
 そのままの普段の生活や学校でのことなども交え雑談していると、夕食の時間が近づいてきて何か作ろうという運びになり、揃ってキッチンに立って料理を開始する。
 パスタとサラダとスープという比較的簡単なメニューにして、鳳はイタリア人のカレッジメイトに習ったレシピを披露しつつ和やかに作り進めていく。
 留学するまでは料理経験などほぼゼロに等しかったが、他人との共同生活に加えて物理的に美味しいモノにありつけない国という環境は自ら料理をするという動機付けには十分で、この一年ちょっとでかなり上達したと自負している。
 しかしながらパリ住まいのは、自ら作らなければ美味しい物にありつけない、という圧迫感はきっとないのだろう。
 それでも2人で料理をするのは楽しく、出来上がった夕食をダイニングテーブルに運んで食卓を囲んだ。
「美味しい!」
「良かった……。実は初めて友人抜きで作ってみたんです。上手くできて良かったです」
「やっぱり誰かと一緒だと嬉しいな。家ではいつも一人だし、どうしても絵を優先しちゃうからあんまりキチンと食べてなくて……」
 ふふ、と少しが自嘲めいた笑みを零して、鳳はハッとした。
 は高校時代は寮に住んでいたが、卒業後はずっと一人暮らしだ。この一人で住むにはは余るくらいのアパルトマンで毎日一人で食事をとっているのかと思うと――自分には少々耐え難い気がした。自分ならばきっと寂しいだろうな、なんて。勝手に自分に置き換えて考えるのは失礼だろうか?
「ど、どうかした……?」
「あ、いえ。何でもないです」
 の怪訝そうな声にハッとして鳳は笑ってみせる。いま、が自分と共にいて笑ってくれているのだからそれでいいか、と思い直し、食事後の片づけすらと一緒だとウキウキと楽しいなんて、どうしようもない自分の重症ぶりももはや慣れたものだ。
 とはいえ、やっぱりこうしてちょっとだけでも「生活」を彼女と共にするのは新鮮である。
 まだまだ先は長いが、大学を卒業して無事に資格も取得した暁にはパリで就職して――と鬼も笑うどころの話じゃない連想をしてしまい、けれども洗い物を終えてタオルで手を拭きつつ楽しそうに笑みを浮かべているを見ると一度高鳴った胸はそうそう治まってはくれなくて、鳳はそっと手を伸ばしてギュッと後ろからを抱きしめた。
「な、なに……?」
「ちょっと抱きしめたくなっただけです」
 そう言ってみれば、がくすぐったそうに笑う気配が伝った。
 このまま永遠に時が止まってしまえばいいのに。なんて、自分の考えることは昔からずいぶんロマンチストじみていると思う。きっとに伝えても、鳳くんらしい、と笑って受け入れてくれるだろうが……と考えつつ、夜が更けて鳳は先にバスルームを使った。
 は自分のシャンプーとコンディショナーではダメかと言っていたが、鳳は自分用のものを昼間にドラッグストアで購入してに「置いていてもいいか」と了承をとっていた。おそらく今後もけっこうな頻度でのアパルトマンに泊まる機会があるだろうからだ。
 の使っているらしきシャンプーの隣に自分の購入したものを置き、鳳は勝手に頬が緩んでくるのを抑えられずに笑みを零した。まるで彼女の生活に自身が溶け込んでいるようだ。
 こういう高揚感は旅行では味わえなかったな、とバスルームから出て髪にタオルを当てつつ、がタンスの肥やしにしていたというバスローブの腰紐を緩く結んだ。北欧系の雑貨店でタオルを購入した際にセットで付いてきたフリーサイズのものらしいが、なるほど、真新しい理由が分かるというものだ。自分にとって少し小さいな、と感じるサイズはにはとても合わないだろう、と感じつつ薄暗い寝室ののベッドに座ってみる。
 ギシ、と軋んだベッドにうっかり心音が跳ねたのは気のせいではないだろう。
 いつもが寝ているベッドで、が使っている枕……と過ぎらせ「あ、まずい」と感じた鳳は少し首を振って、気を紛らわせるために足早にベッドルームを出た。
 窓際で外を見つつ何とか心を落ち着けようとしていると、しばらくして交代で風呂に入っていたが風呂を終えたのかリビングへやってきた。振り返って鳳はハッとする。少しは見慣れたはずだというのに、厄介なことに風呂上がりの彼女に心臓は勝手にドキッとしてして、勝手に視線は彼女を追ってしまう。今日の彼女は旅行時のようなパジャマではなく部屋着のようなワンピースタイプの服を着ていて、余計に胸が騒いだ。
「と、どうしたの……?」
「え、いえ……ちょっと考え事を……」
 はジッと自身を見据えられて怪訝に思ったのだろう。目を瞬かせて首を傾げつつもあまり気に留めなかったのか、彼女はそのままダイニングの方へ向かった。
「鳳くんも何か飲む?」
「いえ、俺は……大丈夫、です」
 訊かれて鳳はやや上擦りつつ答えなんとなくの方を見ていると、は喉を潤したあとにこちらへやってきて、「カーテン、閉めるね」と言って鳳もハッとした。
「あ、はい」
 鳳も手伝いつつ、そばを歩いたから、フワッ、と鼻孔をくすぐる甘い匂いが伝って鳳はゴクッと息を呑んだ。この匂い――いつものの匂いだ、と感じつつ脈を高鳴らせていると、閉め終えたがそばにやってきて鳳は誘われるように手を伸ばした。そのままそっとの腰を抱いて頭部へと唇を寄せる。
「鳳くん……?」
「いつもの先輩の匂いだ……」
 ふんわりと甘い香りは自分によく馴染んだ、に会うたびにドキドキしていた匂いでもある。一気に背筋をゾクゾクと高ぶりが走り抜けていくも、はそんな自分には気づかず、ああ、と微笑んだ。
「旅行中はホテルのアメニティを使ってたから、今日は久しぶりにいつものシャンプー使ったの」
 そう無邪気に微笑む彼女は、この「匂い」がどれほど自分を煽っているか知りもしないのだろう。――ふと、鳳の脳裏に、もうずっと昔の氷帝の中等部での出来事が過ぎった。
 確か、あれは初秋だった。が自分に黙って渡仏を決めていたなんて知らずに、おそらくは避けられていたとも知らずに、そして何より彼女への恋心さえ自覚できないまま、なかなかに会えない日々が続いて寂しさと焦りを覚えていた時。校庭で秋風に吹かれながらイチョウの木をスケッチする彼女を見つけたのだ。寒そうに見えた姿が気にかかって、そっと歩み寄って声をかけマフラーをかけ、他愛ない話をして、そうして寒さで震えていた彼女の手を自分の手で温めるように包んだ。そうしたら自然と距離が縮まって、ふわりとの良い匂いが伝って、訳も分からずドキドキした。
 何だか触れたくてたまらなくて、けれども、あの時の自分の感情が「そういう気持ち」だったなんて、あの頃の自分は少しも気づけなかった。――と過ぎらせつつ、の髪に指を通して唇をつけた。
 あの時、「触れたい」と感じた気持ちがに伝っていたかは分からない。けれども、避ける理由か否か「オイルくさいから」と逃げられて、その原因を作った宍戸を随分と恨めしく思ったものだ。――などとうっかり過ぎらせたものだから、鳳は尚さら渇望や独占欲も織り混ざって気持ちの興奮を覚えた。
 結局、自分の気持ちはあの頃と少しも変わっていない。昔はこの「気持ち」の正体が分からないまま、にこんな気持ちを向けている自分を申し訳なく思っていたが、今は――。
「鳳くん……?」
 どこかきょとんとしたようなの声を聞きながら、鳳は先ほどよりも強く「まずい」と感じつつも、ごく、と喉を上下させた。
 ――実は、たった数日とはいえプリトヴィツェからこっち少々不満が溜まっている。夕べのは最高に可愛かったが、寝坊するわけにはいかなかったためやっぱり無茶はできず……。けれども今日はその手の障害は一切ない。ここはの部屋で、明日の予定も特にないし、何も我慢する必要は――と過ぎらせていよいよ身体が熱を持って脈が早くなり、先ほどよりも強くの腰を引き寄せてギュッと強く腕の中にを閉じこめた。
「お、鳳く――」
 鳳くん、と言おうとしただろう唇を塞ぐと、やはり急なことに解せないと感じたらしきの反応が伝った。それでも追いかけるように舌を探って絡め、しばしキスを続けてから唇を開放し、なお瞬きをしたの片手を取って鳳は訴えた。
「すみません、先輩……俺……ッ」
「え……っ」
 グ、との手を自身の方へ導いて押しあてるようにして布越しに高ぶりを伝えれば、の手がぴくっとしなった。
「え……あ、……」
 抵抗はされなかったが、困惑気味のの手をそのまま自身に握らせるように動かして、鳳はの首筋に顔を埋めてなお熱を伝えた。
「ん……っ……」
 自分の高ぶりが伝ったのか、それとも緊張か、の鼓動が早くなるのが鳳の耳に明確に伝った。そのの音の変化に鳳自身、さらに煽られてしまう。それに――自分が触れさせて動かしているとはいえ、下着越しにの手で自身を捉えられて、高ぶりがこの上なく身体中を駆けめぐっていた。気持ちい……、とそのまま再びキスを繰り返して、の身体から力が抜けた所で鳳は彼女の身体を抱き上げベッドルームへ運び、ベッドへ乗り上げて下ろした。いつの間にか腰紐の解けていたバスローブを脱ぎ捨てつつそのままに覆い被さり組み敷けば、やけに大きくベッドの軋む音が辺りに響いた。
「あ、……や……っ」
 少し顔を背けたの頬は、暗がりでもはっきり分かるほど紅潮しているのが見て取れた。だが鳳自身、どうしようもないほど自分が昂揚しているのを痛いくらいに感じ、何よりが自分をこうさせていることを伝えたくて、覆い被さったまま足を割らせてぐっと下着越しに自身を押しつけ滑らせるように揺らした。
「ん……ッ!」
 はまさかこんな事をされると思わなかったのか恥ずかしそうに身を捩るも、敏感な部位ゆえかキュッと唇を結んで小さく首を振るって甘く呻いた。
「ぁ、っ……や……、ぁ……ッ」
「先輩の、せいです……っ」
 やや荒い息を吐きつつ言い下して、鳳はの頭を抱くようにして噛みつくようにキスをした。――彼女にも、自分と同じくらい強く自分を欲して欲しい。なんて、無理な欲求なのだろうか? いや、きっと無理なのだろう。だって自分でも時おり自分が怖くなるのだ。この激しい気持ちがどこから来るのか――。
「先輩、好きです、好き……ッ」
 彼女の匂いと、彼女のベッドのせい。というだけではきっとないのだろうが、それでも。今夜は彼女を腕の中から離したくない、と強く求めて鳳は強くの身体を抱きしめて没頭していった。



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