翌朝――。
 ふと気づいてうっすら目を開けた鳳の視界に、薄暗い天井がぼんやりと映った。どうやら早朝らしい、とカーテンの隙間から差し込んでいた光でうっすらと悟る。
「ん……」
 隣を見やると、はまだ夢の中にいるようで、鳳はその寝顔を見やって思わず口元を緩めた。
 そっと軽く額に口付けてから、うっかり起こしてしまわないよう慎重にを抱いていた腕を彼女から離して手探りで自身の寝巻き代わりのハーフパンツを探した。
 どうやら下着はちゃんと穿いてから眠っていたらしい、と妙に自身に感心しつつ見つけたハーフパンツを穿き、シーツの上に引っかかっていたTシャツを掴んで腕を通しながらベッドから降りた。そうしての肩が露わにならないようシーツを掛けてやってからバスルームへと向かう。
 顔だけ洗ってからバルコニーへと出てみる。すると朝の少しだけ肌寒い清涼な空気が頬を撫でて、ふ、と鳳は笑みを零した。
 この部屋は広さはそれほどでもないが、代わりにバルコニーが付いていた。他の広い部屋は窓からの景色があまり良くないらしく、それならばと鳳は部屋の狭さを承知でバルコニー付きの部屋を取ったのだ。プリトヴィツェに来た目的はホテルリゾートではなく景観の観賞であるため、この選択は正解だったなと感じつつ朝靄に包まれた木々を見つめていると、数羽の野鳥がこちらにやってきて鳳は目を見開いた。
 手すりに乗った数羽の小鳥が可愛らしく鳴き、鳳は目を細めた。日本の実家では、庭に毎朝やってくる小鳥に餌をやることが日課だったことを懐かしく思い出したのだ。
「ごめんね、いま餌持ってないんだ」
 どことなく餌をねだるような顔つきの小鳥に鳳はそう声をかけた。そのまま飛び去ってはまた新たにやってくる小鳥たちをしばし眺めていると、バルコニーの扉が開く音がして鳳は振り返った。すると、こちらも取りあえず寝巻きを羽織ったのかパジャマ姿のがいて、ニコ、と鳳は笑った。
「おはようございます」
「おはよう」
 はこちらにやってきて、一度伸びをしながら遠くに目をやっている。
「今日も良い天気だね。気持ちいい……!」
「はい。きっと今日も絶好のスケッチ日和ですね」
「鳳くん、いつから起きてたの?」
「少し前です。ベランダに出たら野鳥がやってきて、実家の小鳥を思い出してつい見とれてしまってました」
「そっか。そういえば毎日、朝に餌をやるのが日課だって言ってたもんね」
 ふふ、と微笑むに鳳も笑い返してそっとの腰を抱き寄せつつなお微笑み合っていると、また小鳥がやってきて二人して「かわいい」と言い合う。
「いま、まだ7時前だよね。ね、朝食の前に少し散歩に行かない?」
「え……」
「きっと気持ちがいいと思うもん。ね?」
 そうしてがそう言ったため、鳳も特に断る理由はなく互いに身支度を整えると朝食前にホテルの外へと散歩に出かけた。
 周り全体が国立公園であり緑は深く、ぼんやりと歩いているだけで癒されるようだ。は上機嫌で辺りをくるくる見渡しながら笑みを浮かべており、鳳は彼女のそんな姿を見て、ふ、と笑った。
 するとふいに、あ、とが弾かれたような声をあげた。
「リスだ! 鳳くん、リスだよ!」
 振り返ってが弾けるような笑みを見せ、なお彼女はリスのいたらしき木の枝に目を向けた。
「あ、もう一匹いた! 可愛い!!」
 見やると本当に二匹のリスが小枝にちょこんと乗っており、目を輝かせて近づいて手の枠越しに覗き込んでいるが可愛くて鳳は笑みを零した。
 観光客が多いせいで人に慣れているのか、幹を伝ってリスが下りてきて、はしゃがみ込んで熱心に見やり鳳も屈んで様子を見守った。
 そのうちに行ってしまったリスを追うように立ち上がってなお目で追いつつ、「行っちゃった」とは残念そうながらも笑みを漏らした。
「可愛かったね、親子だったのかな」
 ふふ、と笑うをそっと後ろから抱きしめて「恋人だったのかも」と囁いてみたらは少し目を見開いたのちにくすぐったそうに笑ってこちらに身を預けてきた。
 二週間近くずっと一緒にいるせいか、こうして一緒にいることがもはや当たり前のようで、鳳にはそれがたまらなく嬉しかった。それに、きっと「自分の恋人」としては少し変わった。やはり以前は、こう気安く触れさせてはくれなかったように思う。もちろん抱きしめることを拒否されたことなどはないが、それでもどこか彼女と自分の間には壁があったはずだ。そういう意味ではようやくちゃんとした「恋人同士」になれたということで、ついつい嬉しくてギュッと抱きしめて頭や耳に何度かキスをしていると、は小さく呻いて頬を赤くしていた。
 こういう反応は前と変わってないな、と肩を竦めつつ、そろそろ朝食にしようかとホテルに戻る。
 そして朝食を済ませれば、今日も張り切ってトレッキングである。
 今日はまず昨日は回っていない上湖群を見に行こうと入り口から専用のエコロジーバスで一番上流のビューポイントまで向かった。
 上湖側は下湖側より森の深さを思わせ、バスを降りてしばし歩道を歩いていくと周囲からは無数の滝が作り出す音が近くで途切れることなく聞こえてきて、すぐに青い湖が見えてきた。
 上湖群の方が石灰分が多いせいか、ひときわ青が濃く目に映る。その青は歩いていると光加減で様々な表情を見せ、「わあ」と途切れることなく感嘆していたはついにグッと鳳の腕を引いた。
「ここで絵が描きたい……!」
 逸り気味のの訴えを鳳はもちろん聞き入れ、木陰に二人して腰を下ろした。
 はこのプリトヴィツェでのスケッチのためにと持ってきた使用頻度の高くない水彩色鉛筆を取り出し、ジッと真剣に景色を睨むようにして見据えている。
 こうなると鳳はもう手も足も口さえも出せることはない。大人しく自分も絵を描こう、と自らもスケッチブックを取りだしてしばらく。おそらくはかなりの時間が経過したのだろう。

「Comme c'est magnifique!」

 他の観光客が景色に感嘆している様子は幾度となく耳にしたが、やけに近くで声が響いてハッと鳳は顔を上げた。
 すると白人の家族と思しき親子連れがの絵を覗き込んでおり、は――おそらく「メルシー」と言った。すれば親子の表情が変わり、おそらくフランス語で言葉を続け、はそれに笑って応えるという一連の流れを鳳はぼんやりと眺めていた。
 鳳が何とか理解できたのは、は自らの名を告げたということくらいで、しばらくして親子が手を振って去り、も手を振って見送って鳳はの方を見やった。
「フ、フランスの方ですか……?」
「うん。素敵な絵だね、って言われちゃった」
 へへ、とが笑った。名前を告げていたことに疑問を寄せれば、はなお微笑んで言った。曰く、パリの美術学校の学生だと言うと、いま描いている絵は売ってくれるのかと訊かれたらしく、今は売れないがそのうちにきっと展示会に出すこともあると思うので、機会が有れば足を運んで欲しいという旨で名を告げたという事だった。
 鳳は思わず感嘆の息を漏らしてしまった。
「すごいです、先輩。ここでもファンを獲得するなんて……!」
「そ、そんな大げさなものじゃないと思うけど……」
 は気恥ずかしそうに謙遜したものの、鳳はいまが描いている絵に目を落としてハッと瞠目した。光の加減が絶妙で、本当に、なぜ慣れていない色鉛筆でこんな色が出せるのか分からない。比べるのもおこがましいが、自分にはとても出せない色だ。むしろ自分もこの彼女の絵が欲しいな、など厚かましい事まで浮かべて鳳は肩を竦めた。
 改めて、彼女の創る作品は彼女にとっては立派な商品となっていくのだな、という気持ちもそこそこに2人ともその場での作業を終えて、また歩き出してゆっくりと景色を堪能した。
 そのまま昼過ぎには下湖近くまで下り、プリトヴィツェ最大の湖であるコジャック湖を渡る遊覧船に乗った。
 水深は最大で50メートル近くあるらしく、鳳は満員御礼状態の遊覧船の席の最端に座るの肩をしっかり抱きつつ景色を見やった。抱きしめていないと景色に見とれて遊覧船から落ちてしまいそうで怖い、なんて思っているなんてに知られたら、きっと気を悪くさせるだろうな、と苦笑いをしているとが不審そうに見上げてきて鳳は慌てて笑ってみせた。
「どうかした?」
「い、いえ、なんでもないです。やっぱり夏だからか、すごい人だな、と思って」
「ほんとだね。上湖のほうが空いてたよね」
 でもやっぱり綺麗、とまた笑って外に目を向けたに、ふ、と鳳も笑ってもう少し強く抱き寄せてコメカミに唇を落とした。
「対岸についたらお昼にしましょうね。俺、お腹すきました」
「ん……」
 返事もどこか生返事だ。はいったん意識が絵に向かうと食欲すら忘れてしまうことも多いらしく、やっぱりそばについていないと心配、なんて言えないよな、という思いもそこそこに対岸に着いたら2人は遅い昼食を取り、その後は昨日チェックしておいたスケッチポイントで日が暮れるまで絵を描き続けた。
 としては上湖群で絵が描き足りなかったらしく、明日は中間ポイントからスタートして登っていこうという話をしつつホテルへ戻っていく。
 暮れ始めた空はうっすら星が見え始め、きっと完全に陽が落ちたらさぞ美しいのだろう、と2人で笑いあった。
 ――あと数日でバカンスも終わりだ。
 そう思うとなんだか寂しくて、繋いでいたの手をギュッと握りしめた。



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