スプリットを去る朝――。

 ゆっくりと起きたたちはその日の朝食を部屋で取ることを決め、はぼんやりと朝の海原をバルコニーから眺めていた。
 何だかんだ、ここからこうして幾日もクルーザーの行き交う海を眺めていたのだと思うと少しだけ去るのが寂しい気もした。
「先輩、食事にしませんか?」
 既に食事の用意はされており、後ろから鳳に呼びかけられては返事をしてバルコニーの椅子に腰を下ろした。
「今日でスプリットともお別れですね」
「うん……。でも、今日からプリトヴィツェだから楽しみ」
 オレンジジュースに口を付けつつ笑う。このホテルには8泊もしたが、せっかくのリゾート施設を堪能しきったかというと、そうでもない。街には一度だけだが観光に行ったし、一応は泳いだし、散歩だってしたし、スパだって利用はしてみたが。なにせ部屋で過ごした時間の方が格段に長かったのだし、とジッと鳳を見やると鳳は目を瞬かせた。
「先輩……?」
「プリトヴィツェにいる間はずっと絵を描いて過ごしたいな」
「え……っ」
 恨みがましい声を出したつもりはないが、もしかしたら少し拗ねたようになってしまったかもしれない。少しだけ鳳が焦ったような顔を浮かべた。
「も、もちろん、俺も先輩とスケッチできるの楽しみですよ……! で、でも、その……、不満、でしたか? スプリット」
 自分と鳳では体力の差がありすぎて。きっと鳳も結果的に自分がずっと部屋で休みがちになってしまったのは気にしてくれているのだろう。
 ううん、とは首を振るった。
 もしも狭い部屋でずっと10日近く過ごしていたら気も滅入ったかもしれないが。この部屋は部屋そのものもバルコニーも広くて、多くの時間を部屋で過ごしたとはいえ特に辛さは感じなかった。元々バカンスといえばビーチでのんびりが王道なのだから、過ごした場所が部屋かビーチかの違いだけであり、良い言い方をすればのんびり過ごせた事には変わりない。
 もっとやれたことはいっぱいあったかもしれないが、鳳を振り切ってまでしたかったとは思ってないし……と少し頬を染めていると、鳳はなお不安げに見つめてくる。
「ほんとに……?」
「ホントだよ。すっごく楽しかった。でも、プリトヴィツェではスケッチしたい」
「う……、は、はい」
 ふふ、と笑ってオレンジジュースのグラスを置くと、はクロワッサンを手に取った。
 マリーナから流れてくる風が心地いい。やっぱり少し堪能し足りなかったかな、という思いからは朝食後に鳳とともに散歩に出かけた。
 遊歩道を歩きつつ、ずらりと並ぶクルーザーを改めて「すごいね」などと言い合いながらじっくりと歩いていく。こうして鳳とこんな場所で時間を共有できることはやはりこの上なく贅沢で、あと数日で旅行が終わってしまうのはちょっと寂しいな、と思いつつキュッと鳳の手を握った。
 そうしてチェックアウトが済めば、いよいよにとっては一番心待ちにしていたプリトヴィツェへの出発だ。
 プリトヴィツェ――、プリトヴィツェ湖群国立公園、とは大小16の湖と92の滝から成る景観が世界遺産にも登録されている景勝地である。その美しさは名高く、にしても是非とも一度訪れてみたいと前々から憧れていた地でもある。
 鳳は国立公園内のホテルをとってくれたらしく、は教えられた住所をカーナビに打ち込んだ。ここからは約260キロ。3時間ほどで着くだろう。
 ドブロブニク・スプリットと海岸沿いの街が続いたが、これからは内陸側となる。と、プリトヴィツェへ向けて順調に車を走らせつつ、途中で昼食を取ってミネラルウォーター等を買い足してたちは目的地へと向かった。
 目的地が近づき、木々の生い茂る山道へと入れば今日から3泊を過ごす予定のホテルは丁寧に看板が出ており、迷うことなく無事に辿り着くことができた。
 山の中にそびえ立つ大型ホテルは社会主義時代の名残のする建築物で、東欧っぽさを感じつつロビーに入ると、やはり大きさゆえか団体客の姿が目に付いた。
 どうやら日本からの団体客もいるらしい、と感じつつチェックインしてはさっそくズボンとスニーカーに着がえ、画材一式を背負ってさっそく探索に行こうと鳳を連れ出した。
「ほんとに山の中だね……!」
「やっぱり緑に囲まれると気持ちがいいですよね」
 ホテルは国立公園入り口のすぐ裏手で、は逸る気持ちを抑えつつ時計を見やる。午後4時だ。明日、明後日と時間はあるのだから焦る必要はないのだが――。
「あ、日本語の案内がある」
「日本人、けっこう来るのかもしれませんね」
 入り口に並ぶ人の多さにさすがのハイシーズンだと思いつつ、地図を見つつ取りあえず中に入ろうということで2人は国立公園内へと入った。
 散策コースは5種類程度、短時間用・長時間用と用意されているらしく2人は地図を見つつ唸る。
「どのコースがいいかな……?」
「そうですね、今日はもう夕方ですし……先輩は絵を描きたいんですよね?」
「うん、でも……どこを描くかまだ決めてないし……」
「地図を見ると上湖側と下湖側に分かれてるみたいですが、写真などでよく見るのは下湖側のようですね」
「うん……」
「取りあえず、今日は下湖の方を見てみますか? 気に入った場所があれば、明日明後日またじっくり見ればいいですし、上湖だって明日以降に行けますしね」
「そうだね、そうしよっか」
 現在時刻と相談すれば、じっくり歩いて全てを見るというのは今日は不可能で、取りあえずここから公園内を走っているエコロジーバスに乗って下湖群の入り口まで行き、現在地点まで戻ってくるというコースを2人は選んだ。
 さっそくバスに乗り山道を走ってハイキングコース入り口に辿り着き、散策を開始する。少し歩けば滝から流れ落ちる水の音と共に観光雑誌でよく使われている光景が現実のものとして目の前に現れ、2人は「わあ」と声を揃えた。
 カルスト台地の作り出す受け皿のような光景の湖は一面のエメラルドグリーンで、幾つもの滝が連なって上方から下方の湖に水を注ぎ続けている。
 ひとえに「湖」と言っても他との違いは「エメラルドグリーン」としか言い表しようのない色合いで、ある種のファンタジーじみた光景に鳳もも興奮気味にじっくりと景色を吟味してから、もっと近づいてみようと散策コースを下りはじめた。すれば、間近で、直に湖そのものを見ながら横切ることが出来るからだ。
 プリトヴィツェの湖群を特徴付けるものの一つとして、極度な高さの透明度にある。そしてその水は主として青――エメラルドグリーン――に見え、また、光の加減によっても姿を変える。これは湖水に溶け出し沈殿した炭酸カルシウムが主な理由と言われており、ここプリトヴィツェの他では中国・四川の九寨溝で似たような光景が見られると言われているが、とかく珍しいものだ。
 生態も独自のものがあり、類を見ない透明度は湖底さえ鮮やかに浮かび上がらせている。鴨が遊ぶ水面をそばで覗き込めば、たくさんの小魚が泳いでいる様子が目を楽しませて、歩道用の渡り橋を歩きながらはたびたび立ち止まって「わあ」と声を弾ませた。
「わあ、きれい! きれーい……! どうしよう、絵に描きたいし、写真も撮りたい……! わあ……!」
 ともすれば身を乗り出しすぎて湖に落ちてしまうのではないかというのはしゃぎっぷりを目にし、鳳は微笑ましく思うと同時に危なっかしく思い、さりげなく腰を抱き寄せて自分の方に引き寄せた。
「ホントに綺麗ですね……」
「絵、描きたいなあ……、でももっと色んな景色も見たい……! どうしよう!」
「先輩のしたい方でいいですよ。でも、絵は明日以降でもゆっくり描けますから」
 きらきらとした目で訴えられて、鳳は微笑みつつも肩を竦めた。しかしながら、鳳にしてもゆっくりこの場に留まってしっかり記憶とスケッチブックに景色を留めておきたいと強く思うほどに素晴らしい光景であることには変わりない。
 ――こればかりは写真を撮って帰らなければ姉に文句を言われそうだ。と鳳は使用頻度のあまり高くないデジカメを取り出しながらシャッターをきり、ふ、と息を吐いた。
「まるで幻想の世界のようですね……」
 橋を渡りきり、改めて景色を見やって一面に広がる木々とエメラルドグリーンの湖面に囲まれた状況を鳳はそう表現した。
 隣でがくすりと笑みを漏らし、うん、と頷く。
「本当に現実じゃないみたい。今まで色んな場所に行って来たけど……本当に素敵」
 ふふ、と笑ったを鳳も微笑んで抱き寄せ、チュ、と額にキスをした。
 こんな夢のような光景の中でと2人……、やはり嬉しいものだ。きっともそう感じてくれているのだろう。嬉しそうに頬を緩める様子が目に映って、鳳は目を細めた。
 手を繋いで歩きながら、またここに来て絵を描こう、と明日以降の予定も話しつつしっかりと景色を堪能していく。とにかくが湖に植物にと一つ一つ嬉しそうに見ていることが鳳にとっては嬉しくて、鳳自身、景色を堪能する以上にはしゃいでいるを見ているのが楽しくて、通常の所要時間の倍近くをかけてじっくりと下湖コースを堪能して閉園時間前にホテルへと戻ってきた。
 も鳳もかなりの空腹状態であり、夕食はホテルでこの地方特有のマス料理を堪能した。
 料理も素朴で美味しく、鳳にしたら何も不満はなかったのだが――。唯一、不満があるとしたら、その後すぐに部屋へ戻り風呂を済ませて明日に備えてかすぐ寝ようとしているだろうか、と自身もシャワーを終えて鳳は肩を竦めた。
 このホテルにはバスローブが備わっていなかったため、鳳はシャツとハーフパンツを身に着けて髪にタオルを当てつつの方を見やった。もう寝る準備が済んだのか、彼女はベッドへと上がっている。
「先輩、もう寝るんですか……?」
 まだ21時をちょっと過ぎた辺りなんですけど、と含ませると訊かれた意図が分からなかったのかは2,3度瞬きをした。
「疲れちゃった……?」
 なお訊いてみれば、は「ううん」と首を振るった。
「そういうわけじゃないけど、明日、一日中歩いたり描いたりするんだし……」
 するとはそんな風に言って、やはり特に眠くなった、というわけではないらしい。が、おそらく彼女の頭の中は既に明日のトレッキングとスケッチのことでいっぱいなのだろう。早く寝て少しでも早く朝を迎えたいに違いない。
 肩を竦めて鳳もミネラルウォーターで喉を潤してからベッドへと上がれば、は少しはにかんだように肩を揺らしてから言った。
「おやすみ」
 そしてベッドへと身を沈めて目を閉じてしまったのだから鳳としてはたまらない。
 これは、今すぐ電気を消して寝ろ、という意味なのだろうか……、とが引っ張ったせいで自分の腰あたりまでかかったシーツを見やって苦笑いを漏らした。
「おやすみ……なさい」
 言って仕方なしに部屋の明かりを落としてみる。すると途端にカーテンの隙間からうっすら入ってくる外の街灯以外は全くの闇が広がって、鳳は暗闇の中でベッドに潜り込んだ。が、急に襲った暗闇で視覚が鈍ったせいか他の感覚がやや鋭くなり、微かなの息づかいや匂いがいやに強く伝い――、鳳は勝手に胸が高鳴っていくのを自覚した。
 そっと身体をの方へ向けてみる。彼女は何となく目は瞑ってはいるようだが、眠るには至っていないらしい。
「先輩……?」
「ん……?」
「起きてます、よね?」
「起きてるよ」
 くす、と小さくが笑った気配が伝って、鳳は小さく唸った。抱きしめたいな、と強い衝動が過ぎって。でも、抱きしめたらたぶんそれだけじゃ済まないと痛いほど自覚していて。
 けれども今だって、自分はたぶんこのまま冷静になって寝る事なんてできない。と勝手に切なさを過ぎらせていると、目が慣れてきたせいかの肩や顔のラインが視認できる程度には視界が開けて鳳はゴクリと喉を鳴らした。
 すぐそばに、触れてなくとも温かさが伝わる距離に彼女がいるのに。は今夜はそんな気分ではないのだろうか? もしかして、これは彼女の無言の拒否表示なのか? ぐるぐる考えるも、脈拍が勝手に早くなって収まりそうもない。呼吸さえともすれば勝手に荒くなりそうだ。落ち着け、といくら念じたところで無理に近いことは自分でよく理解している。
 ――拒否されたら、その時はその時だ。と限界だと感じた鳳はそのままパッと上体を起こして身体を浮かせ、バッとの上に覆い被さった。
 瞬間、驚いたように目を見開いたが視界に映ったが、そのまま求めるままに首元に顔を埋めた。
「え……っ」
 スプリットの時のようにはしないから。すみません、と脳裏に浮かべつつ、鳳はの身体を手で探りつつ首筋に舌を這わせた。



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