翌朝――。
 少し寝坊はしたもののゆっくり支度をしても朝食時間に間に合ったため、2人は朝食ビュッフェへ出向いた。
 ホテルの格にマッチした、朝からシャンパンの用意してある豪華な朝食には「わあ」と感嘆したが、飲み物はコーヒーのみに留めた。なにせ今日は移動日。にはレンタカーを運転するという任務があったためだ。
 ともあれ12時のチェックアウトまでゆっくり過ごそうということで合意し、は朝食後に余裕を持ってパッキングを済ませてベランダから海を眺めた。
「素敵なところだったね、ドブロブニク。2泊だけなのがもったいないくらい」
 潮風に揺れた髪を押さえながら言えば、隣にいた鳳も相づちを打った。
「そうですね。そのうち、また来ましょう」
「え……」
「記念の場所にもなりましたしね」
 ニコッと鳳は何の含みもなさそうにサラッと言って、カッとの頬が熱を持った。何の記念だろう、なんて聞けばやぶ蛇になる気がして、ニコニコといつもの調子を崩さない鳳に何とか頷くしかできることはない。
 でも。それでもやっぱり、鳳とこうして一緒にいられるのは嬉しいな、とそのままのんびり雑談しながらしばし海を眺め、12時も近づいたところでロビーへ下りていくと、やはりチェックアウト時間の直前。けっこうな人数がチェックアウト待ちをしていて、うーん、とは唸った。
 はクロアチア旅行にあたってレンタカーを手配しており、今日の12時半に受け取るという予約になっていたのだ。
 レンタカーの受け渡しはこのホテルでも可能であったが、なにせ自身はどのホテルに泊まるか事前に知らされていなかったため、市街地にあるレンタカーショップを指定していた。幸い場所はここから歩いてすぐの場所のようであまり心配はしていなかったが、さすがに12時も10分を過ぎては鳳に声を掛けた。
「鳳くん、レンタカーの予約の時間が迫ってるから、取りに行ってきていい?」
「え……一人で、ですか?」
「うん。もしチェックアウトが済んだらエントランス近くで待っててもらえれば横付けするから。荷物お願いしていいかな?」
「で、でも……大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ」
 鳳は一人で行かせることを案じでもしたのだろう。やや慌てた様子の鳳には少し苦笑いを漏らして、よろしくね、と念を押してスーツケースを託すとホテルを出て目的地へ向かった。
 クロアチアは見所が国中に点在しており、旅行者は足が必須であるが、バスはそこまで便利に発達しているとは言い難い。ゆえにレンタカーを使おうというのはも鳳も思っていた事であったが一つ問題があった。年齢である。鳳は日本で運転免許証を取得しており国際免許証も申請して取っていたが、まだ19歳である。はフランスで免許を取り、むろん国外でも使えるようしていて、2人とも運転自体は問題なかったのであるが……生憎とレンタカーの最低契約年齢はおおよその場合21歳なのだ。
 先月に21歳になったばかりとはいえ条件さえクリアしていればいいのだから必然的にが運転するしかなく、鳳はやや腑に落ちていない様子だったものの、決まりなのだから仕方がない。
 としては運転は嫌いではなかったためもちろん苦ではなく――、スムーズにレンタカーを受け取ってメタルシルバーの典型的な小型レンタカー車を走らせホテルに戻ると、エントランス手前の道沿いに鳳の姿が見えて車を停めた。
「お待たせ」
 言ってトランクをあけ、荷物を仕舞う作業を手伝おうと車を降りようとしたが、鳳が大丈夫だと制止したためそこは任せて車内でオプションで付けていたカーナビを起動させた。
 しばらくすると鳳が助手席に乗り込んできて、発車させる前には次の目的地の住所を聞いてみる。
「次は……スプリットだったよね? えーっと……、ホテルの住所って分かる?」
「あ、はい。……ちょっと待ってください」
 鳳はどこかドキッとしたような微妙な反応を見せたが、には真意はまったく分からず鳳が読み上げてくれた住所を入力していく。そして目的地がカーナビの地図上に示され――、え、とは目を瞬かせた。
「え……えっと、これ、合ってる? スプリット……だよね?」
 スプリット、とはスプリット海峡とカシテラ湾の間に位置する半島状態で突き出た港町である。が、示された目的地はどう見てもスプリット市内から10キロは離れた場所にあるのだ。示されている住所自体、広義ではスプリットといっても過言ではないが、ポドストラナという隣の市だ。
「え、えっと……その」
 すると鳳はどこか言いにくそうに目線を泳がせた。
「海沿いのリゾートホテルを取ったんです。せっかくのバカンスですし……のんびりしようと思って」
 確かに目的地は湾岸線沿いにあり、おそらくは鳳の言うとおりの立地なのだろう。そっか、と納得しかけたであったが、次の鳳の一言で瞠目せざるを得なかった。
「だから俺……スプリットでゆっくりしようとそのホテルは8泊取ったんですよ」
「――えッ!?」
 さすがに予想だにしていなかった事であり、は一瞬動揺してしまう。
「え……で、でも……じゃあプリトヴィツェは……」
「先輩の要望通り、3泊取りました」
「そ、そっか。……で、でも……9日もスプリットって……」
「大きなリゾート施設なんです。ホテルの中だけで生活できるよう作られているので……不便はないと思いますよ。その、バカンスなんですから」
「そ……そう、かもしれないけど……」
 確かにヨーロッパ人のバカンスといえば、一カ所に留まってひたすらぼんやり過ごして何もしないというのが王道ではあるものの。まさか鳳と旅行していてそうなるとは全くの予想外で――。しかしながらプリトヴィツェにちゃんと行けるならとしては他に希望もなかったために、「そういうものかな」と納得して取りあえず車を出した。
 しばし車と運転に慣らすように無言で車を走らせていると、助手席から僅かに強ばったような声が漏れてきた。
「お、怒ってます……? スプリットに長く滞在することを勝手に決めてしまって」
「え……? ううん、そんなことないけど……でも、どうしてスプリット?」
「せわしない旅行もどうかと思ったので、一カ所に長く滞在するのも良いかと思ったんです。それに、スプリットってクロアチア内でも特にテニスが盛んなんですよ!」
「え……?」
「ゴラン・イワニセビッチもスプリット出身なんです。長身のビッグサーバーで俺の尊敬するプロの一人なんですよ! イワニセビッチの影響かクロアチアってビッグサーバー多くて、俺にとっては憧れの地だったんです」
 鳳の声が一転、明るさが増し……、そういうことか、とは納得して微笑んだ。聞けばスプリットのホテルにはテニスコートもあるらしく、鳳はきっとテニスの盛んな地でテニスをやってみたいのだろうな、と感じて微笑んでいる間にもボスニア・ヘルツェゴヴィナの国境ゲートが見えてきた。ドブロブニクはクロアチアの飛び地のようになっているため、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを通らなければ別の場所には行けないのだ。
 パスポートを見せてスムーズにゲートを通り、約10キロほどのボスニア・ヘルツェゴヴィナの旅を終えて再びクロアチアに入った。
 すっかりお昼も過ぎており、道沿いの目に付いたレストランに入って昼食を挟みつつ約4時間の旅を終えてようやく目的地にたどり着いた。
 南国然としたビーチのそばに建つ白いホテルは予想以上の大きさで、かなりの広さのプライベートビーチも所有しているらしく、なるほど全てがホテル内で完結できるような長期滞在用なのだと見て取れた。
 車を専用の駐車場に停めてホテルへ入り、ロビーのある最上階へあがってチェックインを済ませると案内されるままに鳳とは予約していた部屋へと入った。
「わ……!」
 目に飛び込んできたのは明るい印象の広い部屋で、一面に広がる大きな窓のカーテンを引けば、広いバルコニーの先にはクルーザーの停泊する真っ青な海が広がっていた。――ベッドはドブロブニク同様に大きなダブルベッドで、はややドキッとしたもののあえて触れずに、別区画になっている十分な広さの収納にスーツケースを仕舞って鳳を見上げた。
「素敵だね……!」
「気に入ってもらえて良かったです」
 ドブロブニクもむろん良い眺めだったが、やはり鳳が言ったようにせっかくのバカンスなのだからビーチリゾートを楽しむのも良いかもしれない。きっと10日近くここにいても描くものには困らないだろうな、と改めて部屋を一望しつつワクワクしていると不意にスッと鳳に抱き寄せられては僅かに目を見開いた。
「しばらくの間、ここで二人っきりですね」
「え……」
 鳳は至極満足そうににこやかに言って、じゃれるようにコメカミにキスをしてきた。
「え……ちょ、と……」
 そのまま唇を滑らせるように頬に何度かキスされて、ついに唇を捉えられては内心戸惑った。
「ん……っ……ん」
 そのままキスをしながらベッドの端に倒れ込むように上げられ、なおキスを繰り返す鳳の胸を何とか押し返してみる。
「ちょ、ちょっと……待って」
「え……」
「ど、どうして……」
「どうして、って……」
「ん……っ」
 一瞬、熱で濡れたような鳳と目があってドキッとしている間にさらに体重をかけられ、首筋に舌を這わされてあっという間に身体から力が抜けてしまう。
「や……っ、ま、待って……! ね、まだ、お昼……だし……ッ」
 ギリギリなんとか押し倒されないよう身体を支えて訴えると鳳が顔をあげてこちらを見やった。
「イヤ……ですか?」
「い、いやっていうか……その……。そ、そうだ、お散歩に行こうよ! どんな施設があるのか見たいし……ね?」
 言ってみれば、鳳は焦れたような色を瞳に浮かべていたものの、小さく諦めたような息を吐いてからを引き寄せ、軽く額にキスしてから肩を竦めた。
「そうですね。そうしましょうか。時間はたっぷりあるんですし」
 言いながら鳳は腰をあげ、その言い分にの胸はどきりと跳ねたものの取りあえずホッとしてベッドから降りるとさっそく外出の準備に取りかかった。
 館内はスパや室内プール、ジムなど大きな高ランクのホテルであれば一通り揃っているものは全て揃っており、それにも増して規模自体が大きい。
 たちの部屋のちょうど正面辺りはマリーナになっており、けっこうな数のクルーザーが停泊していて、実際にそばを歩いてみるとなかなかに迫力があった。やはりアドリア海。セレブリティにも人気の場所なのだろう。
 遊歩道には緑がたくさんあり、プライベートビーチの浜ではたくさんの人々が日光浴を楽しんでおり、一面の青い景色には笑みを零した。
「この海だったら、遠くまで泳げるかな」
「どうでしょうか。遠浅なのかな……、マリーナもあるし、あまり浅くない気もしますけど」
 ゆっくりと海を眺めながら歩きつつそんな話をした。陸側には綺麗な屋外プール、その先にはナイター設備の整った立派なテニスコートもある。確かにこの場所は数日ではもったいないような作りで、長期滞在向けというのがよく分かるというものだ。
 はぼんやりと海を眺めつつ、いくら日が長いとは言ってももう午後6時近いし今から海水浴は遅いかな。ならば室内プールで泳いでゆっくりスパでマッサージもいいかもしれない。それとも久々にテニスコートそばでスケッチでもしようか。と巡らせつつ鳳と手を繋いで歩いていた。
「先輩、何か飲みますか?」
「んー……、いまは平気」
 そしてどちらともなく日除けも兼ねて近くの椰子の木にもたれかかり、はチラリと後ろのテニスコートを見やった。
「鳳くんはテニスしたい?」
「え……? したいですけど、いまは先輩といたいです」
 すると鳳はそんな風に言っての髪を撫で、自身の胸に身体を引き寄せた。
 そのまま鳳の胸に身体を預けてぼんやり海原を眺めていただったが、鳳が焦れたように額にキスしてきて反射的に目を瞑る。
「鳳くん……?」
 見やると、熱を孕んだような色をした瞳と目があって、大きな手が頬を撫でてきてドキッとの胸が騒いだ。
「鳳く――っ」
 鳳がこんな目をしている時は、キスをせがんでいる時だ……なんて過ぎらせる前に噛みつくように唇を捉えられ、ギュッとは鳳のシャツを掴んだ。相も変わらずキスだけですぐドキドキして、勝手に身体が熱くなってたまらない。
 しばしキスを続けたあと、鳳は熱い息を吐いて耳元に唇を寄せてきた。
「先輩、俺……2人きりになりたいです」
 熱で掠れたような声に、ゾクッ、と肌が粟立った。せっぱ詰まったような目で促すように頬を撫でられ、は少しだけ鳳から目をそらす。
「い、いまも、2人きり……だよ」
 つ、と鳳が息を詰めたのが伝った。
「ッ、そう、です……けど」
 ギュッと強く抱きしめられ、頭にキスを落とされては「どうしよう」と早鐘を打つ胸で考えた。鳳はたぶん、先ほどの部屋での続きを促していて。鳳の身体が熱を持っているのが伝って――。
 考えているうちに鳳の唇が耳元に寄せられて、先輩、と囁かれた。
「部屋、戻ってもいい……?」
 彼はどうにか自分を落ち着けようとして、やはり無理だったのだろう。そう小さく言われ、は少しだけ息を詰めた。きっとイヤだと言えば彼は無理強いはしないはずだ。けれども断る理由がなくて――こうして触れられているのもやっぱりイヤではなく、気づいた時には小さく頷いていた。
 そのまま鳳に手を引かれて部屋への道を戻っていく。繋いだ手が熱い。時刻はもう夕刻とはいえ、まだ昼間のように明るいのに……、きっと部屋に戻ってカーテンを閉めてもこの明るさは遮れないはずだ。どうしよう、と言葉だけがまだ頭に巡っているのに繋いだ手がどうしてもふりほどけない。戻れば何をされるのか、なんて分かり切っているのに。
 ぼんやり熱を持った頭で考えていると、部屋のドアが見えてきて痛いほどに心音が脈を打ち始めた。鳳がどんな顔をしているのか気になったが、恥ずかしくて顔があげられない。
 まだこんなに明るいのに――、と再度過ぎらせるも、部屋に足を踏み入れた途端、性急に続きを促してきた鳳によってぷつりと思考は途切れた。



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