ドブロブニクには、ドブロブニク市全体を陸側から見渡せる「スルジ山」という山がある。
 一通り旧市街を見た後、鳳とはスルジ山に登ってみようと旧市街の外にあるロープウェイ乗り場に向かった。
 途中でチケットを購入してそれほど待つことなく搭乗し、2人を乗せたロープウェイは山頂を目指して登っていく。
「わあ……!」
 ロープウェイのカプセル内で空中遊泳を楽しむ最中にもどんどんと旧市街の全体図が眼下に浮き彫りになってきて、オレンジ色の屋根と鮮やかな海の青が作り出す見事な光景がの声を弾ませた。
「オレンジ色の屋根、可愛い!」
「中東欧にはこういう造りが多いですよね」
「うん。はやく描きたいな……!」
 そのままどんな風に景色を描こうか吟味しているうちに頂上へと着き、外へと出たたちは改めて海からの風に吹かれつつ景色を見下ろして口元を緩めた。
 が……、少し辺りを歩いて見渡せば、壁や建物の至る所に弾痕と破壊のあとが見られ、はキュッと胸元で手を握りしめた。――クロアチア紛争終了から、まだ10年ほどしか経っていない。クロアチアは急速に発展を遂げてはいるが、ユーゴ紛争の傷は東欧諸国に大きな爪痕となって今なお残っている。
 無言でそれらを見つめていると、そっと鳳が肩を抱き寄せてくれた。見上げれば、鳳もまた痛ましそうな表情を浮かべていて、感じていることは同じだったのだろう。
 鳳が慰めるように何度も髪を撫でてくれ、はそのまま柵でガードしてある崖のギリギリまで寄ってしばし旧市街の美しい風景を眺めた。その光景はやはり美しく、他の観光客からも途切れることなく感嘆の声があがってくすりと笑みが零れてしまう。やはり隣国、見知ったハンガリー語がいくつも聞こえてきて高校時代のルームメイトを思いだしていると、鳳は鳳で「あ、ドイツ語だ」などと呟いて微笑んでいる。ウィーンへ留学した時のことでも思い出しているのだろう。
 目の覚めるようなアドリア海の美しさと、どこかほの暗い哀愁が漂う東欧の風情はフランスでは出せない独特の色だ。は改めてここにしばらく留まって絵に自身の体感を残しておきたいと強く思い、鳳も同意したためにそばの適当な岩場にの常備品であるレジャーシートを広げてそれぞれスケッチブックを取りだした。
 はいつもは常備していない水彩色鉛筆と水筆も取りだし、あれ、と鳳が目を瞬かせた。
「珍しいですね、先輩が色鉛筆なんて」
「うん。せっかくプリトヴィツェにも行くんだから、やっぱり色を付けたくて……」
 本当はキャンバスと絵の具を持ってきたかったのだが、物理的に難しくて水彩色鉛筆にしたのだと告げると、そっか、と微笑んだ鳳は自身がいつも常備している水彩色鉛筆を取りだした。
 そうして互いに描くことに集中する。は専門が油絵で得意なのはもちろん油絵だったが、だからといって水彩色鉛筆を使うのが苦手ということはなく、道具の一つとして扱うのにはまったく問題ないレベルだと自負していた。
 水彩色鉛筆は淡い色合いが出せるのが特徴だが、はどうしても印象に残った陰りの部分を絵に残したくて悪戦苦闘しているといつの間にか長い時間が経っており――、ふいに隣から絵を覗き込んできたらしき鳳の感嘆の声でハッと意識を取り戻した。
「こんな色が出せるなんて……、先輩、凄いです!」
「あ、ありがとう」
 目線を鳳にやれば、彼はしばし笑みを浮かべてこちらのスケッチブックを見ていたものの――、次第にどこか顔色に落ち込みを滲ませて呟いた。
「先輩……水彩色鉛筆も凄く上手いんですね。普段、ぜんぜん使ってないのに……」
 鳳は知る限り常にスケッチ画といえば水彩色鉛筆を使っていたはずだ。その鳳は……鳳自身の技量としては、なかなかにどう誉めればいいのか難しい絵を描くのでいつも表現に困るのだが。と恐る恐る鳳の絵を覗き込めば、相変わらず不思議な絵を描いていたものの、昔と違って形は整っており、思わずは、わ、と感嘆した。
「鳳くん、パースがしっかりしてきてる……! 絵の勉強してるの?」
「え……!? あ、いえ……絵の勉強はしてないですけど、図面なら引いてます。その、建築学部ですし……」
「あ、そっか、そうだよね。そっか、図面か……楽しそうだね」
「はい! 絵と違って正確にやらないとダメなのは難点ですけど、そこがまた面白いというか。全て綿密な計算と芸術が融合して建築物が建って歴史を刻んできたんだなって思ったら……俺も頑張ろうと思えるんです」
 美術史の講義もあるんですよ、と続ける鳳にはなお感嘆して笑みを零した。鳳は成績優秀だとは聞いていたが、本当に自身の学部での勉強を楽しんでいる様子が垣間見えて安堵もした。それに、まったく同じ分野でないとはいえ、近しい分野を学んで共通の話題があるということはやっぱり嬉しいものだ。
 きっと鳳がいつもスケッチブックを持ち歩くほど絵が好きだったことも、いまこうして鳳と付き合えている理由の一つなんだろうな、と感じつつ再び絵に没頭して、気づけば時刻はすっかり夕刻となっていた。
 とはいえ辺りはまだまだ煌々と明るかったが、さすがに19時を回って二人はスケッチブックを閉じた。
「ここから夕焼けを眺めたら、きっとすっごく綺麗だっただろうな……」
「俺もそう思いますけど、仕方ありませんよ、あと2時間しないと見られませんから」
 もう一度高台から旧市街を一望して後ろ髪引かれる思いで再びロープウェイに乗って街へと下り、そのまま夕食にしようと旧市街へと向かいつつ何が食べたいか話し合う。そうして2人とも今日もシーフードにしようということで意見が一致し、ふらふらと街を歩きながら適当に目についたレストランに入って席に着いた。
 前菜、スープ、メインと全てオススメのシーフード料理を選び、今日はそれに合わせてクロアチアの白ワインも頼んで2人で二日目の夜に乾杯した。
 ワインは口当たりが良くて軽く、料理もどれも美味しくて、も鳳も感嘆しつつゆっくり味わってレストランを出る頃には日も落ち旧市街はライトアップで彩られていた。
「わあ……!」
 旧市街の石造りは光に照らされて、まるで雨に濡れたような色合いの独特の世界が出来上がっておりは思わず声をあげた。
「昨日、城壁の外から見たライトアップも素敵だったけど、街中も綺麗……!」
「ほんとですね。まるで道が浮かび上がってるみたいです」
「ワインもお料理も美味しかったし……、来て良かった」
 ふふ、と笑うと鳳が一瞬だけ間を置いたのちに柔らかく微笑んだ気配が伝った。
 それからどの料理が一番美味しかったかや2人でシェアしたリゾットが絶品だった等々雑談しながら歩きつつはふと気づく。やっぱり、今日の鳳はいつもよりももっとゆっくり歩いてくれているような気がする。声とか仕草とか、やっぱりいつも優しい鳳がもっともっと優しい気がして……思い違いなのかな、それともお酒が入ったあとだから? とチラリと鳳を見上げると、目が合って、ふ、と微笑んでくれて思わず頬が熱を持って少し目をそらした。
 旧市街を出てホテルへの道を歩きつつ、すぐ横の海を見やる。さすがにもう浜に人影は見えず、すっかり夜だな、と意識しては繋いでいた手にうっかり力を込めてしまった。
「先輩……?」
「あ、ご、ごめんなさい」
 ――ホテルに戻ったら。と、うっかり考えてしまったのだ。ホテルに戻ったら、やっぱり今夜も夕べのようなコトをするのだろうか。と意識しては自分で恥ずかしさに耐えられなくなって俯いた。その間にもホテルが迫って、あっという間に着いてしまい、部屋に入れば外出中にすっかりベッドメイキングも済んだ部屋が姿を現した。
「喉、乾きましたね」
「え? う、うん。そう、だね。ワインけっこう飲んじゃったし」
 うっかりまた緊張してしまって声が強ばった自分に落胆しつつ、鳳が水を用意してくれて取りあえずはソファに座った。鳳はというと、あ、と思いついたように目を瞬かせた。
「姉さんへのお土産、ちゃんと仕舞っておかないと……」
 午前中に修道院で買ったコスメの事だろう。よほど姉を気にしているのか、スーツケースを広げて丁寧に仕舞っている鳳を見やってはくすりと笑った。
 鳳はドブロブニクは二泊しか取っておらず、明日は移動日だ。それほど荷物も出してないし、パッキングはチェックアウト前で十分かな、と感じつつは「あ」と気づいてなお微笑んだ。
「そういえば……、こんなに鳳くんと長く一緒にいるの、初めてだね」
「え……?」
「いつも鳳くん、夜にはケンブリッジに帰ってたから。いつもこの時間ってお別れの時間だもん……」
 デートの際に鳳と夜を共に過ごすことに抵抗はあったものの、やはり別れの時間が来るのはいつも寂しく感じていた。が、旅行中はそう感じずに済むのだと気づいたがはにかめば、鳳は少し目を見開いたあとに目を細めた。
「それは……、嬉しいって意味で、ですか?」
「も、もちろん! 嬉しいよ、ずっと一緒にいられるんだもん」
 言い下してからはハッと頬を染めた。むろん、本音であるため恥ずかしがる必要などないはずだが……でも、と少し俯いているとこちらへやってきた鳳に手を引かれ、抱き抱えられるようにして立たされて、わ、と呟いた時にはすっぽりと抱きしめられていた。
「俺もです。俺は……ずっとこうしたかったんですから」
「お――」
 言い終わると同時にキスされて、は目を閉じた。――こうしたかった、ってどういう意味だろう、などと考えている余裕などあるはずがない。少し酔っているせいもあるのだろうか。何度かキスを重ねて、ふわふわした気分のままぎゅっと鳳に抱きついては心地よさに目を瞑った。身体はドキドキしてズキズキして煩いが、それでもこうしてくっついているのが心地いい。と、酔いなのか何なのかうっとりしていたら、そっと鳳が唇を耳に寄せてきた。
「お風呂、一緒に入ります?」
「――え!?」
 とたん、一気に気持ちが現実に引き戻されて、パッとは頬を染めた。眼前には探るような目線をしている鳳がいて、恥ずかしさに目をそらしてしまう。
「え……、えっと……その、それはまだ……ちょっと」
 しどろもどろでそう言えば、鳳は薄く苦笑いのようなものを零してから、チュ、と頬にキスしてくれた。そして今夜も鳳が先に使うことで話がまとまり、バスルームへと鳳が入ったのを見届けてはホッと胸を撫で下ろしてベッドへと腰を下ろした。
 ――やっぱり。今夜もああいうコトをするのか、なんて。きっと愚問、なんだろうな……と意識すればするほど恥ずかしくて、小さく呻いて顔を覆ってしまう。けれどもイヤじゃないし……なんて過ぎらせればますます恥ずかしくて唸っていると、鳳はシャワーだけで済ませたのかすぐに出てきて、は交代でバスルームへと入った。
 つい夕べは、自分でもどうしたらいいのか分からなくて、きっと鳳を随分と困らせていたと思う。やっぱり少し怖くて。でも、自分でもおかしいと思う。なにをどう「怖い」と思っていたのか、もうほとんど忘れてしまった……とは温かいシャワーを浴びながら考えた。
 きっと自分の身体は都合良くできているのだ。夕べ、あんなに痛いと思ったはずなのに……いまはもう「痛かった」という事実を機械的に覚えているだけで、それがどれくらいの痛みだったのか、具体的にどう痛かったのか、すっかり記憶が霞んでしまっている。事実、夕べ二度目をしたときはそれほど痛んだ覚えもなく、それよりも鳳がいっぱいキスしてくれて、身体中優しく触れてくれて、ずっと甘い言葉をかけてくれて、恥ずかしくて潰れそうなほどドキドキしてたけど幸せで……と過ぎらせていると身体が自分で熱くなっていくのを感じてはハッとした。
 これではまるで期待しているみたいだ――。と気づいて恥ずかしさに耐えられずに壁に額をついて小さく唸った。
 こうして意識しているのが自分だけだったらどうしよう、と勝手に真っ赤になっている自身を鏡で見て、なお恥ずかしさに苛まれつつは髪を乾かしてパジャマを羽織った。鳳のようにバスローブのみというのはやはりまだ抵抗があり、夏場に二週間の旅行ということもあって夜着も数着用意していたのだ。
 部屋へ戻ると、夕べのように部屋の灯りが落としてあり……鳳の姿を探すと、彼はベランダに出て海の方を眺めているように見えた。きっと今晩もレストランでは音楽が流れているに違いない。夜景を見つつ流れてくるピアノの音を楽しんでいるのかもしれない。
「鳳くん……?」
 窓を開けて声を掛けると、鳳はこちらを振り向いてニコッと笑った。
「やっぱり凄い夜空ですね。俺、実は夕べは緊張しちゃってて……せっかくの夜空をあまり覚えてなくて」
 そして少しバツの悪そうにそんなことを言ったものだから、も少し目を見開いて小さく笑みを漏らした。
 鳳が差し出してくれた手を自然と取ってもベランダに出ると、しばし2人で星を見上げて笑い合った。
 そうして部屋へ戻り――、なんとなく2人でベッドへあがって、は僅かばかり、どうするのかな、と過ぎらせた。おやすみ、って言ってこのまま寝る、のかな。それとも……とドキドキしていると、鳳の右手が頬に触れて、ドキッと心音が跳ねると同時になぜだか少し安堵した。
 鳳は薄く笑って少しのあいだ頬を撫でてくれ、そっとどちらともなく唇を重ねてはそのまま瞳を閉じて鳳のキスを受け入れた。それでも身体はどきどきズキズキして治まらなくて、鳳に片手で器用にパジャマのボタンを全部外されて肩から落とされ、抱き寄せられながらブラのホックも外されて器用に脱がされて、首筋に顔を埋めてくる鳳の肩をバスローブ越しにぎゅっと掴んで、つ、と息を詰めた。
「っ……ん……っ」
 這うように背中を撫でられて、胸元に吸い付くように何度もキスされて身体のズキズキがどんどん大きくなってくる。恥ずかしくて抵抗するように鳳の腕に手を添えるもまったく意味をなさずに、鳳の大きな手が確認するように幾度も身体に触れてきて自然と息があがってくるのをは感じた。
 けれども。上半身だけとはいえ自分だけが裸にされている恥ずかしさに耐えかねて、はそっと鳳の着ていたバスローブの襟に手を添えた。
「先輩……?」
 熱の籠もった吐息混じりの声が鳳の唇から漏れて、は少し目をそらす。
「お、鳳くん……も」
 小さく言い下すと、意味を理解したのか少し鳳が笑ったような気配が伝った。そうして鳳は自ら腰紐を解いて、はカッと頬を染めた。――自ら言い出したこととはいえ、鳳のその行動は脱がせられるのを待っているということで。小さく唸りつつも何とか肩からバスローブを落として鳳の両肩に手を据え、恥ずかしさに耐えつつは鳳と正面から向き合った。
 そして、ふと、とあることに気づいた。
 夕べは、まじまじと鳳の身体を観ている余裕などなかったが――、やっぱり、中等部の頃よりもずっとがっしりと大きくなった。と感じたは、一方で「まずい」と悟った。
 鳳の相も変わらず右肩が左肩に比べて発達したアンバランスな肢体を見て、「そういう雰囲気」よりも一気に画家としてのスイッチが入るのを感じてしまったのだ。
 うずうずと右肩に触れてみたい欲求が湧き出てきて。でも、さすがに今は不味いかな、と思うもなお食い入るように見ていると、おそらく鳳にも自分の雰囲気が変わったのが伝ったのだろう。触れても良いか、と聞いてみようとした直前で鳳はの腰を抱き寄せて耳元に唇を寄せた。
「今は絵より俺のこと考えて」
 甘い声で低く囁かれ、ペロッと耳を舐められてはぎゅっと鳳にしがみついて思考は途切れた。気づけば身体はシーツに沈められていて、鳳の頭を抱くようにして夢中でキスを繰り返していた。触れ合った肌が温かくて心地よくて、痛いくらいドキドキしてるのになんだか安堵して――。まだ酔いが醒めていないせいなのだろうか? それとも……なんて考える余裕もないほど頭の中は鳳のことでいっぱいで、いまはただただ離れたくない、とひたすら強く願った。



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