目が覚めたのはいったい何時だったのだろうか。
 カーテンでは遮れない日の光が、ぼんやりと目を開けたの瞳に確かに夜が明けたことを認識させた。
 すると目の前に鳳の寝顔が飛び込んできてハッとして目を見開く。無意識のうちに足を絡め合ったまま寝ていたせいか、自身の身体が強ばったのが伝ったのだろう。鳳がゆっくり瞳をあけて、反射的には目をそらしてしまう。
「先輩……?」
 いつも通りの鳳の甘い声が、寝起きなせいか掠れている。
「おはようございます……」
 寝ぼけているのか無意識なのか、それともワザとか。抱き寄せられて、チュ、と額にキスを落とされて、分かりやすいほどにの身体はカッと熱を持った。
「お、おはよう………」
「よく眠れました?」
「う、うん……」
 なぜこうもいつもと変わらないのだろう。いちいち意識してしまう自分が変なのだろうか、と考えていると鳳は独りごちるように「いま何時かな」などと呟いている。
「朝食、ルームサービスを頼みましょうか。それとも、食べに行きます?」
「う……、ううん」
 訊かれて、としても今から身支度を整えて食べに出るよりはルームサービスの方がありがたく、そう答えると鳳は頷いて上半身を起こした。
「シャワー、先に使っても構いませんか?」
「う、うん。もちろん」
 そのまま鳳はシーツの上に引っかかっていたバスローブを掴んでベッドから降り、は反射的に鳳から目線をそらした。
 もしかして恥ずかしいと思っているのは自分だけなのだろうか。と少々いたたまれないままゆっくりと身体を起こす。そうしてベッドに散乱していた自身の下着類を見つけてなおいたたまれなさに耳まで赤くしながら俯く。ともかく裸で動き回ることには抵抗があり、シャワーを浴びるまでのつなぎに回収した下着とパジャマを手早く身につけて、やや恐る恐るベッドから降りてみた。
 僅かに下腹部に鈍痛が残っていたが、思ったよりも軽く、ホッと胸を撫で下ろした。そのままゆっくり歩いて鏡の前まで行き、ジッと自分の姿を覗き込む。数秒間、自身と見つめ合っているとバスルームのドアが開く音が聞こえた。
「お先に失礼しました」
 先ほどと同じようにバスローブを羽織った鳳がクセっ毛の髪にタオルをあてている姿が映り、少しだけはハッとして見とれてしまう。
「どうかしました……?」
「え、……と、な、なんでもない! シャ、シャワー、浴びてくるね」
 キョトンとした瞳で見つめられ、気恥ずかしさにパッと瞳をそらすとは逃げるようにしてバスルームに飛び込んだ。
 ふぅ、と息を吐いてからパジャマを脱ぎ、シャワーを浴びて改めて洗面台の前に立ってバスタオル一枚を身に纏った自身を見つめる。そうして瞬きして思う。何も変わってないな……と。 
 あんなに何かが変わってしまうんじゃないかと恐れていたというのに。うん。大丈夫。いつもの自分だな、と感じたは自嘲気味の笑みを漏らした。
 そうして身支度を整えて部屋に戻ると、鳳はバスローブ姿のままバルコニーに出て海の方を見やっていた。
「なにしてるの……?」
「いえ、ただぼんやり景色を見ていただけです。改めて綺麗だな、と思って」
 振り返って目を細めた鳳の笑みに、少しだけの胸が騒いだ。――自分は何も変わっていないのに。もしかして鳳は少し変わった? などとあり得ないことを考えてしまった自分になお自嘲してしまう。
 鳳はがシャワーを浴びている間にルームサービスを頼んでいたらしく、程なくしてボーイが朝食を運んできてくれ、バルコニーのテーブルにセットしてくれた。
 セッティングが終わった後、鳳は気のせいか寝具の方を僅かに見やってボーイに何か告げながらチップを渡していたが、自分の視線に気づいたのかすぐにこちらに笑みを向けた。
 考える間もなくボーイが去って鳳は微笑みながらこちらにやってくる。
「頂きましょうか。俺、お腹すいちゃいました」
「うん、私も」
 も意識を朝食に移せば、クロワッサンの乗ったプレートはどことなくパリの朝食を思い起こさせて嬉しさに声を弾ませた。
 やはりバルコニーで景色を見ながらの朝食というのは贅沢な時間であり、自然と笑みを浮かべてしまう。
 普段通りに鳳と話ながら、は再度「本当に良かった」と感じた。何も変わってない。少なくとも、自分が恐れたような変化はない。――と考えているとうっかり涙腺が緩んできて、慌てて目尻を拭う。
「先輩……?」
「な、なんでもない」
「でも……。もしかして、どこか辛い……?」
 案ずるように言われてはハッとする。鳳は自分が身体の不調を隠しているとでも思ったのだろう。
 逆なのに――、と思いつつ顔を上げる。
「すっごく幸せ……」
「え……」
「幸せだな、って思ったらちょっと涙腺が緩んじゃって」
 ふふ、と誤魔化すように笑えば、鳳は驚いたように目を見開いたあと、ともすれば泣きそうな笑みを見せた。
「良かった……」
 そうしてしばし二人で笑い合って、朝食を済ませ、予定よりだいぶん遅れたものの旧市街へと観光に繰り出すために揃って部屋を出た。
 ドブロブニク観光のメインとなる旧市街は、ホテルから歩いて5分ほどだ。
 どちらともなく手を繋いで歩いていると、はふと、いつもよりやけにゆっくり歩いているような気がする。と違和感が過ぎったが、すぐに城壁に囲まれた旧市街の入り口の門が見えてきてそっちへと意識を移した。
「わー……!」
 石造りの家ばかりの風景が視界に広がって、フランスともイギリスとも違う光景についぐるりと視線を巡らせてしまう。
 ついつい目移りしてキョロキョロしていると、鳳には先に行きたい場所があったらしく、この場所からそう遠くない修道院の名をあげた。
 聞いてみれば併設の薬局が天然ハーブを使ったオリジナルのコスメを作っているらしく、早い時間に閉まってしまうため先に行きたいのだという。
「オリジナルのコスメかぁ……」
「はい。姉に買って帰ろうと思いまして。そういうのに目がないんです」
 逆に鳳の母は自身のスキンケア用品にこだわりがあるらしく、その場で購入するのは姉の分だけだという。
 そっか、と歩きつつは微笑んだ。
「お姉さん思いなんだね。私、一人っ子だからちょっと羨ましいな」
「というか……、後が怖いというか……」
 対する鳳はどこか苦笑いのようなものを浮かべている。
「鳳くんのお姉さん、美人だもんね。自慢のお姉さんだよね」
「そう、かな。うーん……そうなのかもしれませんけど、そうですね、俺にとってはずっと年上の女の人って姉そのもののイメージだったんで、”女の先輩”に接したのって先輩が初めてなんです」
「え……?」
「でも先輩は可愛くて、もちろん尊敬もしてますけど……姉と全然違ってて、ずっと俺にとっては特別でした」
 ニコッ、と柔らかく笑ってさらりとそんな風に言われ、の頬はカッと熱をもって少し目を伏せてしまう。
「わ、私だって……その、鳳くんのこと、ずっと可愛いなって思ってたよ」
「え……!?」
「弟がいたら、こんな風だったのかな……って」
 目を伏せた先で、一瞬、出会った日の眩しいばかりの笑顔でピアノを弾いていた鳳が頭に過ぎって、は思わず繋いでいた手にギュッと力を込めた。そんな彼と今では恋人同士で、夕べは――と余計なことまで過ぎらせて、いたたまれなさに視線が勝手に泳いでしまう。
 裏腹に、鳳はやや不審そうな声を漏らした。
「弟……って、まさか、今もそんな風に思ってるんですか?」
 え、と思わず顔を上げれば、少し困ったような表情を浮かべた鳳と目があって、こうして首が痛いほど顔を上げなければならないほどに成長した彼を改めて実感して。結果、の頬はますます熱を持って赤くなってしまう。
「そ……、そ……そんな……こと……」
「そんなこと……、ないですよね?」
 しどろもどろになった声を補足するように言われ、はキュッと唇を結んで俯きがちに、うん、と頷いた。すれば「良かった」と安堵気味の声が降ってきて、そのまま軽く抱き寄せられて、いっそ音が聞こえてしまうのではないかと案ずるほどズキズキと心音が響いてくるのをいやでも自覚した。
 今までも抱き寄せられるだけでドキドキしていたが、今日はもっと、なんだか身体がズキズキする。
 でも何故だか離れたくなくて、再び手を繋いで先へ行こうとする鳳の腕にギュッと身体を寄せると、意外だったのか鳳が歩みを止めてはハッとした。
「あ……! その、えっと……ご、ごめんなさい」
 なにを謝っているんだろう。自分でももう訳が分からない。でも、もうちょっとくっつきたかった、とは言えずに頬を赤くしていると、頭上から小さな鳳の笑みが振ってきた。
「どうして謝るんですか。俺は嬉しいのに」
 その言葉はを更に赤面させるには十分で、けれども、やっぱりもう少し触れていたくて、あえてどうするか選択させるように少しだけ手を伸ばしてくれた鳳の腕を組んでそっと身を寄せた。
 少しだけ目線をあげると、目があった鳳が、ふ、と優しく笑ってくれ、は惚けそうになりつつも、ふふ、と笑みを返した。そのまま笑い合ってゆっくりと目的地まで歩いていく。
「修道院のコスメってどういうのなのかな」
「地元で獲れるハーブを利用したコスメらしいです。詳しくは俺も分からないんですけど……」
「あ、そっか。薬局だもんね。じゃあラベンダーとかローズとかかな」
 話しながら修道院の入り口に連なる路地に入れば、入り口と思しき場所のすぐ隣に薬局のマークが見えて二人して「あ」と立ち止まった。
 たぶんここだろうと入ってみると、観光客の他に処方箋のようなものを持っている地元の人と思しき人も見え、現役の「薬局」なのだというのが伝った。
 鳳は薬剤師と思しき人に話しかけて、例のオリジナルコスメの話を聞いて商品をいくつか出してもらっていた。は横で聞きつつ、出されてきたローズウォーターやラベンダーウォーター、各種クリームを見やる。
 鳳はかなり真剣に考え込んでいる様子だ。きっと姉の好みなどを色々考えているのだろう。
「私もクリーム買おうかな……」
 もせっかくだからと全身に使えそうなクリームを一つ購入し、鳳は3,4つ見繕って購入して薬局を出て修道院の見学に向かった。
「お姉さん、気に入るといいね」
「ほんとにそう願います」
 鳳は肩を竦めて少しだけ苦笑いを浮かべ、としては「姉弟仲いいんだな」くらいに思いつつ修道院の中に入ると、石造りのせいかひんやりとした空間に立派な回廊が現れて、思わず感嘆の息が漏れてしまう。
 夏の太陽が回廊の中庭に差し込んで、なんとも神秘的だ。修道院という場所が余計にそう思わせるのだろうか――、一通り見学してから修道院を出ると、2人は再び街歩きに戻った。
 としてはゆっくり絵が描きたいと思っていたものの、細い石畳が連なる幾つもの路地への入り口が探求心を刺激して鳳に石段を登って路地を探検してみようと提案した。
 そうして路地に入れば細い道が路地の更に先にいくつも見え、その上方には洗濯物が旗のように干してあって人々の生活の模様が伺えた。石畳の脇には時おり猫がひなたぼっこを楽しんでおり、見かけるたびに鳳が目を奪われていては薄く笑った。鳳の実家は確か猫を飼っていたはずだ。思い出しているのだろう。ついにはあまり写真を好んでいない鳳がカメラを取りだして至る所の猫を撮影し始めては肩を揺らした。
 そばで自身軽く猫の様子をスケッチしつつ、探索を続けていく。
「先輩、喉乾きません?」
「んー……、そうだね、ちょっと乾いたかも」
「ジェラートでも食べます? もうお昼ですし、少し休憩してもいいかな」
 路地の至る所にはカフェというカフェが軒を連ねており、著名な観光地であることがイヤでも思い知らされる。鳳は一人ごちるように言い下してキョロキョロと辺りを見渡しており、2人で見繕ったテラス席に腰を下ろした。
 空気が乾いているせいかこまめな水分の摂取は必須であり、はサッパリした味を欲してレモンとラズベリーのジェラートを頼んだ。
 座って改めて見渡した路地の独特な石造りの景観はの好奇心を刺激するには十分で、しばしスケッチブックを広げたい旨を鳳に伝えれば彼は笑って頷いてくれた。
「俺はちょっとお腹も空いてきましたし……、なにか食べようかな」
 言ってウエイターに声をかけた鳳はメニューを持ってきてもらえるよう頼み、はジェラートを食べ終わると自身のバッグからスケッチブックを取りだして広げた。
 次から次へと観光客が横の小道を行き来し、カフェのテラスでそんな往来を眺めるなんてパリで慣れているはずだというのに――、こんなにも心が躍るのはなぜだろう? とスケッチブックから顔をあげると、視線に気づいたのか鳳がこちらを見て、ふ、と目を細めの心音がドクッと跳ねた。
 鳳とこうしてカフェで向き合うのもすっかり慣れたはずだというのに。改めて、あんなにあどけなかった少年がなんて大きくなったんだろう……と色々な感情が飛来して頬が熱くなってきてすぐに目線をスケッチブックに戻した。
 やっぱり鳳は少し変わったのだろうか? なんだか昨日よりももっと大人びて見えるし、もっともっと優しい。なんて、そんな一日で変わったりするわけないというのに。
 やっぱり自分がどこか変わってしまったのだろうか。と、風景に紛れ込む鳳も描き留めながらはキュッと唇を結んだ。



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