7月――、鳳は既に全ての試験の結果が出揃い、かつ好成績で二年への進級を決めており、夏の長期休暇に入っていた。 3学期制をとるケンブリッジの夏の休暇はかなりの長期となり、およそ4ヶ月に及ぶ。むろん遊びほうけていれば落第即退学の憂き目に合うことは必至で、学生たちは常に勉学のことを忘れてはいないのだが――辛い試験から解放されての夏休みは、彼らが何よりも楽しみにしているリフレッシュの時間だ。 一方のもケンブリッジほどではないものの夏の休暇はそれなりに長い。 ということで、鳳は休暇に入って一ヶ月ほどはフラットに残り勉強を続け、はでコンクール品の製作や課題に時間を割いて残りの休みを休暇に当ててられるよう準備してから旅行に行くという日程になっていた。そして、8月の頭には二人そろって帰国しようと既にチケットも取ってある。 7月も中旬にさしかかったある日の朝、は荷物の最終チェックをしていた。 スケッチブック他の画材道具はもちろんとして、ビーチサンダル等々。それから窓の鍵の締め忘れをチェックして、中型のスーツケースを携え部屋を出る。 鳳とはフランスの玄関口であるシャルル・ド・ゴール空港の第一ターミナルにて待ち合わせをしている。としてはクロアチアで落ち合う形でも良かったのだが、鳳が一緒のフライトが良いと望んだため、2人一緒のパリからの便を取ったのだ。 その鳳は夕べはロンドンに泊まり、朝一番のユーロスターでパリに来るという。 そろそろかな、と空港の第一ターミナルに着いてチェックインカウンターの前でチラチラと時計を見やっていると、程なくしてこちらを呼ぶ声がした。 「せんぱーい!」 見やると、帰国用と思しき大型ハードケースを転がしながらやってきた鳳の姿が映った。 「こんにちは、鳳くん。……重そうだね、移動大変だった?」 「いえ、中身はけっこうスカスカですから軽いです。それに、ユーロスターは快適でしたしね。俺、ドゴールに来たの久々です」 そんな会話をしながら二人並んでチェックインカウンターへと向かう。――目指す先はクロアチア航空、ドブロブニク国際空港行きだ。 「俺、今日がとても楽しみで、ほとんど眠れなかったんですよ」 「うん、私も楽しみ。特にプリトヴィツェ国立公園はずっと行きたかったから」 「もちろん、観光も楽しみなんですけど。俺は先輩と旅行できるのが嬉しくて」 ニコニコと笑顔でさらりと言う鳳に、は一瞬歩みを止めた。――2人きりの旅行。もちろん、分かっているのだが、改めてそう言われるとイヤでも「2人きり」を意識してしまって頬が熱を持ってしまう。が、見上げた鳳はニコニコといつもの笑みを崩さない。 今回、移動手段はが手配し、宿泊施設は鳳が手配したため、はドブロブニク空港に着いたらレンタカーを使おうと考えていた。ドブロブニクからスプリットを経てプリトヴィツェに移動し、更にそこから首都ザグレブの空港に戻るというルートを計画したため、車は必須だからだ。 しかし、鳳は既に空港からホテルへの送迎をオプションで手配してしまったらしく、は移動日にドブロブニク市内からレンタカーを借りることにしたのだが。改めて、いったいどんなホテルを予約したのだろう? と考えつつチェックインを済ませ、二人は機上の人となった。 パリからドブロブニクまでは約2時間である。午前中のフライトだったため昼過ぎには着き、外へと出ると真っさらな青空が広がっていた。広く近代的なシャルル・ド・ゴール空港に比べてこちらはこじんまりとしており、迷わないという点ではいいかもしれない。 「ちょうどいい時間みたいですね」 鳳が腕時計に目を落として言った。チェックインは14時からであるが、既に時計は14時を回っている。 外に出ると、待っていた送迎用の車はの想像していたマイクロバス等々とは違う立派なハイヤーで、は若干おののきつつ乗り込むと、走り出した車の窓からはフランスともイギリスとも違う、のどかだがどこか東欧の色が残る光景が流れていく。 ここドブロブニクは著名な観光地であるが、いわゆる有名なのはアドリア海に浮かぶ旧市街であり、たいていの宿泊は旧市街の外――ということになるのだが、鳳が予約した場所は旧市街を臨むアドリア海沿いに立つ、たびたび来賓を招くために使用されているホテルらしく、はハイヤーの中で改めてそれなりに心積もりをした。 そんなホテルのエントランスに降り立ち、は思わず自身の足下を見やった。散策用のシューズはスーツケースの中で、いま履いているのは履き慣れたウェッジソールだ。来賓用の5つ星とはいえここはリゾート地である。うん、たぶん大丈夫、とホッとしてちらりと鳳に目をやると彼は当然のように革靴で、スマートカジュアルの基本を外していない。 元々中等部の頃からきちんとした振る舞いが自然にできる少年ではあったが、イギリスで生活していてさらに場に合わせた立ち振る舞いが身に付いたのだろう。鳳は自身の大型のスーツケースとの荷物をポーターに任せ、をエスコートしながらレセプションまで行くと予約している旨をレセプショニストに話しかけた。 クロアチア語は分からない二人であったが、レセプショニストは英語必須という事実を除いてもクロアチアは英語の良く通じる国だ。こうなると、は鳳に任せっきりとなってしまう。むろん英語が喋れないということはなかったが、鳳の方が格段に堪能なためだ。 無事にチェックインを済ませて、ポーターに促されて部屋へと入り――ポーターはチップを受け取って部屋を出たが、はしばし絶句して部屋の様子を眺めてしまった。 鳳がカーテンを引けば、アドリア海を臨むバルコニーが姿を現したのだ。程良い広さの部屋の奥にあるアドリア海の澄み渡った青がバルコニー越しに視界を覆って、胸の躍るような開放感だ。が、それよりもまず――部屋の中央に置かれていた大きなダブルベッドこそがが絶句した理由だった。 「先輩……?」 「ツ、ツインじゃ、ないんだ……」 「え……!?」 バルコニーの方から鳳がこちらを振り返るもが一人ごちるように小さく呟けば、彼はひどく驚いたような声をあげた。 ベッドがツインかダブルかなどというのは今さら些末な問題でしかないのだが。いざ目の当たりにすると、想像以上のインパクトで、否が応でも色々なことが連想されてまともに鳳の顔が見れず、俯いてしまう。 鳳がどんな気でいるかなど、今さら訊くのは愚の骨頂だろう。そんなこと、とっくに分かっている。――でも、と口元に手をあてて頬を染めていると、ふわり、と後ろから鳳に抱きしめられてはハッと目を見開いた。 「いや、でした?」 頭上に鳳の熱い息がかかって、はくすぐったさに身を捩るも鳳の腕がそれを許してはくれない。 「俺、中一の頃から……7年以上待ったんですよ」 どこか拗ねたような声色で、は少しだけ苦笑いを漏らしてしまう。 「中等部の頃を入れるのは……ズルイと思う」 言いつつも思う。鳳とちゃんと付き合うようになってから既に2年以上が経っているのだ。けれども最初の一年は日本とパリとの遠距離で、今も住んでいるのが違う国で、互いに勉学に追われて頻繁には会えず、としては「2年」という言葉の響きほどには「恋人」として関係を深められたとは思っていない。 とはいえ、きっと、「2年」は一般的には長いのだろう。ならばやはり、自分が待たせすぎたのだろうか、とぐるぐる考えていると鳳の唇が頭上から耳元へと滑るようにして移動してきた。 「ん……ッ」 耳たぶを甘噛みされて、ぴくっとの身体がしなる。熱い息がかかり、首筋を唇でなぞられての唇からくぐもった声が漏れた。少しだけ熱に浮かされそうになるも、自身を捕らえていた鳳の腕がゆるゆると胸元の方へ移動していき――ハッとしたは思わず鳳の腕を掴んでしまった。 「ま、待って、待って!」 「え……」 「あ、その……。そうだ、ほら、泳ぎに行こうよ! ね?」 鳳の腕の力が一瞬抜けた隙に、は彼から逃れてしどろもどろながらに提案すると、鳳は困ったような残念なような複雑な表情を浮かべた。が、確認している余裕はにはなく、返事を待たずにスーツケースを広げる。 「そう、ですね。まだお昼ですし」 呟いた鳳の声にピクッと手が反応して一気に赤面しただが、ふるふると首を振るってから水着を取りだしていると鳳も着替えようと思ったのだろう。自分のスーツケースを広げていた。 アドリア海沿岸はビーチリゾートとしても有名であり、多くのホテルはプライベートビーチを持っている。このホテルにしても例に漏れずで、宿泊者はホテル内から直接海側へと出られるようになっていた。 プライベートビーチ、といってもこの界隈は岩場が多く、このホテルにしても「泳ぐ」というよりは「眺める」用だったが、ビーチに出てまず飛び込んできた青い海に二人は、わぁ、と溜め息を吐いた。アドリア海に注ぐ太陽がいっそう海の青を引き立て、その側で人々は日光浴を楽しんでいる。 しかし。海の美しさは疑うべくもないが、日本人であるは白人のように灼熱の太陽の下に肌を晒すなどということはできず――、まずはビーチサンダルのまま開いていたパラソルの下に入ると、設置してあったビーチチェアに荷物を置き、部屋から羽織ってきたバスローブを脱いで日焼け止めを塗るという作業に入った。 「手伝いましょうか?」 隣のチェアに腰をおろしてその作業を見守っていた鳳が手を差し出してくる。おそらく、手の届かない背中のことを差しているのだろう。 「え……あ……」 「一人でやったらムラになりますよ、ぜったい」 言うが早いか鳳はまごついていたの手から日焼け止めを取り、は言われるがままに鳳に背を向けた。 「じゃ、じゃあ……お願いします」 こんな事くらいで無駄に緊張してしまう自分が嫌だ、と思いつつは背にかかる自身の髪に手をやると軽くまとめ上げてゴムで留めた。すると背に鳳の大きな手が滑る感触が伝い、つ、と息を詰める。――顔を見られなくて良かった、とは熱い頬を持て余して震わせた。 「はい、済みましたよ」 「あ、ありがとう」 「せっかくだし、泳ぎます? かなり深そうですけど……」 「も、もちろん。大丈夫だよ、私、泳ぐのけっこう得意だし」 「じゃあ素潜り対決でもしましょうか」 ははは、と冗談めかした鳳の笑顔に太陽の光があたり、は思わず目を細めた。軽くストレッチを済ませてから、鳳に手を取られて海へと降りられるようになっている階段に近づく。改めてみると、吸い込まれそうなほどに澄んだ青だ。 海に足を入れると、最初はひやっとしたものの、徐々に慣れていく。が、水深は自身の身長を軽く超えており、手すりを離したは必然的に泳がざるを得ない。 けれども眼前に広がるアドリア海は恐怖よりも興味をそそり、は潜ってみたい衝動にかられてハッとした。部屋にゴーグルを忘れてきてしまったのだ。しまった、と思うも好奇心には勝てず、は思い切って海面下に顔を沈めた。しかし。やはりゴーグルもなしに目をあける勇気はなく、すぐに海面から顔を出すと、ふいに手を引かれた感触が伝う。 「わ……!」 海水を拭ってなんとか目を開けると、眼前では鳳が肩を竦めて苦笑いを漏らしていた。彼はそのままの腰を片手で抱き、もう片方の手で岩場の小さな岩を抱いて海中で姿勢を保っている。 「こんな深い場所でゴーグルもなしに潜るなんて……危ないですよ」 呆れたような声が降ってきたが。それより。水着を着ているとは言え――ビキニしか身につけていない状態で密着されているという状況に、既にの鼓動は痛いほどに脈を打っており、鳳の言葉を認識する余裕など与えてくれない。けれどもここの水深はおそらく数メートル。には鳳の身体にしがみついているしか術がなく――海水に隔てられているとはいえ直に感じる肌の感触にますます心音は高鳴っていった。いっそ周りのカップルたちの人目を憚らない親密ぶりがすがすがしいほどだ。 「先輩……?」 「な、なんでもない……ッ」 意識をそらそうとしても、裏腹に脈がどんどん速くなる。鳳は平気なのだろうか? なぜこんなに身体が熱くなるのだろう。普段ならここまではならないだろうに――やはり、夜のことを意識してしまっているのか。 付き合ってそれなりに長いとは言っても、抱きしめられるのでさえ未だにドキドキしてたまらないのに。どうすればいいのだろう、と顔を上げられずに俯いていると、額に鳳が軽く触れた感触が伝った。 「ん、しょっぱいな」 軽い笑い声と共にそんな声が降ってきて、の頬はなおさらカッと熱を持った。こんなに意識してドキドキしているのは自分だけなのだろうか、となお顔をあげられずにいると、スッと岩の方に背中を押しあてられて、は思わず顔をあげた。 しかし。声を発する間もなく唇を塞がれて、反射的に目を瞑る。口内に少しだけしょっぱい味が広がった。自分の額についていた海水が鳳の口に移っていたせいだろうか。 「んー……ッ」 そのまま追いかけるように求められて、しがみつく手に力が籠もってしまう。ただでさえ鳳にしがみついているしか術はないというのに、より自ら身体を密着させてしまい、一瞬、唇が離れた隙には逃げるようにして再び俯いた。 「先輩……?」 すると熱を帯びた囁きが降ってくる。彼はそのまま唇を頭上から額に移してきて、下半身を絡ませるようにの両足の間に自身の片足を割り入れて先ほどよりも強く抱き寄せ、は必然的に鳳の胸に自身の頬を寄せてギュッと目を瞑った。 響いている心音が、自分のものなのか鳳の音なのかさえよく分からない。いや、何をされているのかさえもはやよく分からない。荒い息づかいは波の音に掻き消されて、そもそも思考回路がぐちゃぐちゃでちゃんと耳に入ってこない。けれどこうされているのが嫌というわけではなく、でも。と、まとまらない思考のまま鳳のキスを受けていると、彼は耳元へと唇を寄せてきた。 「部屋、戻ります?」 ぴく、との身体が撓った。それはどういう意味か、など、聞けるわけがない。けれど、どう答えれば――と答えられずにいた時間がどれほどの長さだったかは分からない。鳳はその沈黙をどう捉えたのか……、の手を引いたまま岩場から離れた。 浮力のせいで何もしなくても鳳に引っ張られていく形となり、は促されるままにビーチサイドへと連れ戻されて海からあがり、ふいに襲った重力にふらつきそうになった身体を何とか支えつつ呼び止めるようにして鳳の右腕を掴む。 「お、鳳くん……」 「はい……?」 「あ、その……」 鳳は部屋に戻るつもりでいたのだろうか? 彼の真意は読めないが、は自身の葛藤を振り切るように何とか笑みを浮かべた。 「わ、私、絵が描きたいな」 「え……?」 「ほ、ほら、こんなに素敵な景色なんだし。ね……?」 そうして、一度海の方を見やってから、返事を待たずに荷物を置いていたパラソルの下へと駆け寄ってビーチチェアに腰をおろす。深く深呼吸をしてからタオルを肩に羽織っていると、追ってきた鳳も隣のチェアへと腰をおろし、はなお笑ってみせた。 「お、鳳くんも描かない?」 すると彼は少しだけ肩を竦めて、苦笑いのような笑みを漏らした。 「そう、ですね。……はい、そうします」 ホッとは息を吐いた。 スケッチブックを広げれば、いつものペースが戻ってくる。 改めて見やるここからの風景は、入り江に突き出たようにして視界の先に映る旧市街が海面に浮かんでいるようにさえ見え、未だに多くの人々をこの場に惹きつけている理由が手に取るように分かる光景だ。 チラリと鳳を見上げると、彼もそう感じているのか微笑んでいて、もつい頬を緩ませた。すると鳳は気づいたのか、こちらに視線を流してきて、ニコ、と笑った。 「綺麗ですね。このオレンジと青のコントラスト……きっと中世から変わってないんだろうな」 そうして鳳は再び視線を海にやって、うん、とも頷く。 「夕暮れもきっと綺麗なんだろうなぁ……。でも、日が暮れるの、9時くらい、だよね」 言いながらついつい日の入り時刻を計算しては少し肩を竦めた。ヨーロッパの夏の日の長さはありがたくもあるが、夜景を楽しむという意味ではいささか不便でもある。 「旧市街にも行ってみたいな……。まだ明るいし、これから行ってみない?」 「え……、明るいって言っても、もう4時過ぎですし、俺、8時にレストラン予約しちゃいましたから」 「じゃあ明日は一日、旧市街で絵を描きたいな」 「先輩の体調が良ければ、もちろん」 サラッと笑って言われて、は「え?」と首を捻った。鳳はそのまま自身で用意していたらしきスケッチブックに視線を落とし、も追及はせずに自身のスケッチブックに視線を落とした。 きっと画材一式持ってきて、この場でキャンバスに向かえればもっと楽しいのだろうな。と考えつつモノクロの絵を複数枚仕上げる頃には随分と時間が経っており、いったん部屋に戻ろうという運びになった。 そうなれば、とたん、もとの木阿弥で――。 しきりに先に使ってくれと譲らなかったに根負けして、鳳は部屋に戻ると先にシャワーを浴びつつ、少しばかり困惑していた。 と交代し、一人残された部屋でそれなりに質のいいシャツを羽織りつつバルコニーに出て、ふぅ、と息を吐いた。 の様子がややいつもと違うのは、自分の気のせいではないだろう。 けれども旅行は二人で決めたことだし、無理強いした覚えはない、はずであるし、も楽しみにしてくれていたはずで。――というか、きっと緊張しているだけだろう、というのは理解しているのだが。と鳳は目線を落とす。 もしも。もしも自分の「望み」を拒まれたら、仕方がない。2週間は一緒にいるのだし、そのうち二人でいることに慣れてくれれば。――と思うも、もしもずっと受け入れて貰えなかったらどうしようか、と鳳は肩を竦めた。 今までずっと我慢してきたつもりだが、さすがに同じ部屋で何日も夜を過ごして堪えきれるかといえば、自信がない。 今日だって朝から、いや夕べから昂揚も緊張も抑えきれず、さっき海の中でに触れたときはどうしようもなく舞い上がって、どうしようもない身体の熱さをに伝えたい気持ちと悟られまいと制御する気持ちでせめぎ合って必死だったのだ。 はずるいと言ったが――、もう、こんな気持ちを抱えて7年が経っている。あの頃は、彼女にこんな感情を抱く自分を責めもしたが、今は。 ぼんやりと海を眺めながら考えていると、後ろから物音が聞こえてハッと鳳は振り返る。すると着がえてすっかり身支度を整えたが立っており、鳳は薄く笑ってみせる。 「何か飲みます?」 「え……」 「俺、持ってきますね」 どう声をかけようか迷っていたらしきは少しホッとしたような表情をして、鳳はやや肩を竦めたものの、そのまま部屋に戻るとミニバーからガス入りの水とグラス2個を持ってバルコニーに戻り、バルコニー用のテーブルにそれらを置いてにも座るように促した。 「ありがとう」 鳳は笑みで応えて、自身もグラスに口をつけて喉を潤す。思いの外、喉が渇いていたことに後追いで気づきつつ、少しだけ目線を外にやってからテーブルにグラスを置いた。 「ここで朝食を取ったら、きっと気持ちがいいだろうな……」 明日はそうしようか。などと考えながら潮風に緩いくせ毛を遊ばせる。 「俺、クロアチアって魚介類が美味しいって聞いてたんで、すごく楽しみにしてたんですよ」 そしてに目線を戻せば、もいつものように緩く微笑んで頷いた。 「うん。アドリア海沿岸の料理はイタリア料理に似てるって聞いて、私も楽しみだったの」 「パリもどちらかというと魚介類はメインではないですからね。イギリスなんかは……」 そこまで言いかけて、鳳はつい言い淀んだ。自分は決してイギリス料理が嫌いなわけではなく、むしろ好きであるのだが。瞬間的に頭に浮かんだ魚料理が、フィッシュ&チップスとウナギのゼリー寄せで、後者は非常に苦手としており思わず口元が引きつってしまった。 も察したのか、どことなく同情気味の表情を浮かべている。 鳳は苦笑いを浮かべて、再びグラスを手に取った。 「クロアチアはスパイスをふんだんに使ったクッキーが名物だと聞いたんで、買ってかえろうかと考えてるんです」 「私はお父さんにネクタイ買って行こうかな……、ネクタイってクロアチア発祥なんだよね」 「はい。ザグレブではあまり時間取れませんけど、雑貨巡りでもしましょうか」 「うん、楽しみ!」 そうして話を始めればやはり普段通りで、鳳は言葉通り楽しそうに笑うを見てホッと胸を撫で下ろしつつ笑みを浮かべた。 やはり、彼女も楽しんでくれなければ意味がないよな。と考えつつしばし会話に興じていると、8時が迫ってきて鳳は自身の腕時計に視線を落とした。 午後8時はこちらではディナーにはまだ早い時間帯だが、混んでいる時間帯を避けられるという意味ではちょうどいい。そろそろ行こうか、と促して鳳はと共に部屋をあとにした。 |