がケンブリッジを訪れた翌週――。

『今夜はカレッジのメイボールさ!』

 そんな件名と共に受信していた鳳のフラットメイトであるブライアンからのメールを見やって、はくすりと口元を緩めた。ブライアンとはメールアドレスを交換していたのだ。
 そのメールには、タキシードでかっちり決め込んだ鳳とブライアン、華やかにドレスアップしたアリッサのセルフ撮影と思しきスリーショットと、ブライアンが撮ったのか鳳ひとりの写真が添付されていた。
 鳳はいつも下ろしている前髪を上げてセットしており、甘いマスクが引き締まって凛々しさが増している。こうして改めて見ると、本当に素敵だな、とついつい見とれてしまい、そんな自分にはハッとして頬を染めた。
 あんなにあどけなくて可愛い後輩だったのに……、と、うっかり記憶を7年前まで遡らせれば、出会った頃の鳳はまだ12歳になったばかりだったはずで。そんな彼と今では恋人同士で、と過ぎらせるとさらに恥ずかしさが加速しては思わず思考を散らすように首を振った。
 メイボール、とはケンブリッジの伝統的な学年末の舞踏会、という名のオールナイトのお祭り騒ぎであり、男子学生はタキシードを、女子学生はイブニングドレスを纏いドレスアップして辛い試験を乗り越えた喜びを一晩中噛みしめる。らしい。
 鳳は自分もぜひにと言ってくれたが、あいにくと平日で自身は授業があったために断っていたのだ。
 6月は学年末のためかケンブリッジらしい伝統的なイベントが多いらしく、それらはいわゆる「上流階級」じみたモノであり、なかなかに一般の人間がこなすのは大変。――というのはもちらりと父親から聞いてはいた。写真の鳳のタキシード姿を見れば父の言葉の理由は一目瞭然だ。
 が、「上流階級」のなんたるかは多少は高校時代の友人たちのおかげで慣れている。慣れてはいても、たぶんフランスの社交界とイギリスのそれでは違うだろうな、と思うとやや気が重くなってきた。今後、ケンブリッジがらみの行事に呼ばれることもきっとあるだろうと感じたからだ。ネックは英語である。

 ――とはいえ。
 ――いずれは英語もできるよう勉強しなくては。と思いつつ、6月も下旬の金曜は昼下がり。

 はクローゼットを開いてしばし悩んでいた。
「うーん……」
 眼下に並んでいたのは数着の水着である。むろん、鳳とのクロアチア旅行用の準備に頭を悩ませているのだ。
 高校時代から夏にはよくビーチバカンスに友人と出かけていたため、水着は何着も持っている。それこそお気に入りの可愛いビキニだってあるにはあるが――。
 鳳とのクロアチアへの旅行は、最終的に2週間ちょっとをかけてクロアチアを横断する形で複数都市を巡ろうということでまとまっていた。自身の望みはプリトヴィツェ国立公園だったが、鳳はせっかくのバカンスなのだから海へも行きたいという。
 そこで結局、交通手段はが手配して、鳳が宿泊施設を手配することで話が決まり、鳳は「楽しみにしていてください」と言うのみでどこに何泊するのかすら自身は聞いていない。
 プリトヴィツェは最低でも3泊はしたいという要望だけは出したが、鳳のことだから、それなりのホテルなのだろうな。ということで服装もそれなりのものを用意しようとは思っている。が。問題は――、と思い浮かべて、は自身の水着を見つつ薄く頬を染めた。
 友人たちとビキニで泳ぐことにはあまり抵抗はなかったが……、やっぱり少し恥ずかしい。それとも気にしすぎなのだろうか? 一方で「水着、新調しようかな」なんて考えてもいるのだから、本当に自分の思考は矛盾していると思う。
 楽しみなのに、楽しみじゃない、わけではないが……とぐるぐる考えているうちにまた体温があがってくるのを感じ、うぅ、と小さく唸るも思考が更にぐるぐると勝手に回り始めてどうしようもない。
 旅行は楽しみだし、今さらイヤだとも言えないし、そもそもイヤではないし。でも――、何も考えずに思い切って行ってしまえば、楽しいのだろうか?
 ずっとずっと鳳のことが好きで、付き合ってから2年以上が経っているというのに、それでも未だに「今のままでいたい」と感じている自分がおかしいのか。
 ほんの少し、物足りない、とか。別れるとき、寂しい、とは思うものの、その気持ちが「今のままでいたい」気持ちを上回ることはなくて。でも、鳳はきっとそれを望んでいる。そして、きっと彼は随分と待っているのだということも、頭では分かっているのだが――。と考えつつはクローゼットを閉じ、ため息を吐いた。
 このところ、毎日同じ事を繰り返している。気持ちは一進一退。やっぱり楽しみと前向きになったり、重く感じてしまったり。
 ふと部屋の時計を見やり、はハッとした。3時から約束があるのだ。少し早いが出かけよう、と準備をすると自身のアパルトマンを出た。
 今日は気持ちのいい陽気だ。メトロ12号線に用があるため、少し遠いが歩いていこうとは観光客で賑わうサンジェルマンデプレの方へ向かった。
 サンジェルマン教会が近づいてくると、そばにあるパリでも1,2を争う有名なカフェは、相も変わらずたくさんの観光客と地元の常連とで賑わっている様子が見えた。そんな彼らを横目で見つつ歩いていると、ふとの瞳にテラス席で優雅に読書をする一人の青年が目に止まった。
 横顔しか見えないが、ブラウンの髪を緩やかな風に遊ばせて、見るからに上質そうなシャツを身に纏って優しげに目を伏せて本を追っている。上品さが滲み出ているようなその姿はには見慣れたもので、は気持ち駆け足でその青年のそばへと寄った。
「アンソニー!」
 声をかけると、一瞬、青年は目を見開いてこちらを見上げ、すぐに「ああ」と笑みを浮かべて立ち上がった。
「やあ、!」
 そして互いに軽く両頬を触れ合わせるようにして挨拶し、青年――アンソニーは「久しぶりだね」と言いつつに席に座るよう促した。
「元気にしてる?」
「うん。アンソニーは……えっと、なんか……やつれた……?」
 彼はの高校時代の同級生であり寮メイトでもある、特に仲のいい友人の一人でもあった。
 言われて、アンソニーは苦笑いを漏らした。
「そうかもしれない」
 言いつつ、彼は軽く手を挙げてそばを通ったウエイターを呼びとめる。
「失礼、ムッシュ。彼女にカフェ・クレームを」
「かしこまりました」
 さも当然のような、美しくさえ見えてしまうほどの自然な流れに、え、とは後追いで瞬きしてしまう。
「え、私、すぐ行くのに……」
「コーヒーを飲む時間くらいはあるんじゃないかい?」
 しかし穏やかに笑みで返され、も一瞬の間を置いて頬を緩めて笑みを返した。
「ありがとう。ここのカフェ・クレームすごく好きなの」
「それは良かった」
「アンソニーは今もリセでしょう? クラス・プレパトワールはどう?」
「もし僕がやつれて見えるとしたら、それが原因だよ。でもやっと試験も終わって、今日は久々の自由時間なんだ」
「そ、そっか……、アンソニーはどこ志望だっけ?」
「ポリテクニーク。合否が出るのは来月だから、落ち着かないよ」
「ポリテクニークって……、アンソニー、技術官僚志望だったっけ……?」
「いいや。最近は理系の土台をしっかり学んでからビジネスに活かすやり方がいいとされてるんだ。ポリテクニークで学んだあとは、シアンスポで経営を学ぶ予定だよ」
 ”ポリテクニーク”とはフランスを代表するグランゼコールの一つであり、理工系グランゼコールの名門中の名門でもある。かつては物理学者のアンリ・ベクレルや社会学者のオーギュスト・コントなど数多の著名人が学んでおり、現日産自動車の社長であるカルロス・ゴーンもここの出身である。
 ポリテクニーク志望者は、おおよそのグランゼコールと同様に高校卒業後に2年間の準備学級を経て試験を受けなければならず、アンソニーは高校に残って勉強を続けていたのだ。
 そっか、とは息を吐いた。
「確か、ポリテクニークって国防省の管轄だよね」
「うん。ナポレオンが技術将校のために軍に所属させたから、その名残だね」
「学生の正装も独自の軍服だもんね。アンソニー、きっとすっごく似合うと思う。素敵だろうな……」
「無事、着られるといいんだけどね」
 やや勉学にやつれたような様が昔よりアンソニーを大人っぽく見せ、は、ふふ、と微笑んだ。きっと彼の正装は本当に絵になるほど美しいだろう。
「でも、アンソニーはビジネスか。そうだよね。ご実家がそうだもんね。官僚志望なのは……リュリュだったかな」
「ああ、そのリュリュといま待ち合わせしてるんだ。僕の方が忙しくて、なかなか会う機会が持てなかったからね」
 リュリュ、とはたちの同級生であり、よく一緒に出かけていたメンバーの一人でもある。
 そんな話をしていると、ウエイターがカフェ・クレームを持ってきてくれ、は礼を言いつつ笑みをこぼした。ここのカフェ・クレームはコーヒーとホットミルクが別々にサーブされる独自のスタイルをしているのが特徴だ。
「そういえば、はすぐそこのボザールに通ってるんだろう? リュリュ、元気にしてる?」
「え……」
 がカップにどういう割合でミルクとコーヒーを注ごうか思案していると、そんな事を聞かれて思わず目を瞬かせた。
 彼は第一志望だったシアンスポに現役で合格して、今はと同じ二年目を終えるところだ。シアンスポは6区にあり、このカフェからは目と鼻の先。のアパルトマンからも歩いて10分程度でもある。それ故の問いだったのだろう。
「えっと……、年末、パーティで会ったときは元気そうだった」
 カップを持ち上げつつ答えると、アンソニーは少し肩を竦めつつ「君らしいね」と笑った。
「でも年末はアンソニーが来れなかったから……みんな残念がってたな」
「僕もだよ。行ければ良かったんだけど……。そうだ、夏の予定はもう決まってるかな? リュリュともその話をしようと思っていたんだ。僕も今年はバカンスを取れそうだし、みんなでニースの僕の家で過ごそうかってね」
 穏やかに笑って言われて、は口に含んだコーヒーの苦みで噎せそうになるのを何とか耐えた。夏の予定、との言葉にさっきまで部屋で悩んでいた諸々のことが過ぎったからだ。
「あ……え、と、その……夏は、帰国しようと思ってるの……」
 事実の一部を伝えれば、そうか、とアンソニーは少し残念そうな声を漏らした。
「それなら仕方がないね……」
「できれば行きたいんだけど……。みんなによろしくね」
「うん。あ、そうそう、君の噂は時々聞いてるよ。リセの頃から”コンクール荒らし”なんて呼ばれてた君だけど、最近の活躍はめざましいそうじゃないか」
 祖父から聞いたよ、と言われては少しはにかんだ。――そのあだ名はなぜか日本でも付いていたが。ここパリでもまた、公に認められるには公の評価は必須である。高校の頃から、フランス語の習得と並行してできる限り絵画には費やしていた成果はそれなりに出ていた。
「君の友人であることを誇りに思うよ。将来、の絵はぜひ僕に扱わせて欲しいな」
「本当……?」
「もちろんさ。それに、そのうちきっと僕も肖像画を用意しなきゃいけない時が来るから、ぜひ君にお願いしたい。その頃にはきっと、頼むのも難しい人になっているだろうね」
「そんな……。でも嬉しい、もし実現したらぜったいに良い絵にする!」
 彼らとは純粋に友情を育んでいる一方、画家という職業を生業にするにあたってはどうしても画商や上流階級との繋がりは絶てない。高校時代に彼らとの強い繋がりを持てたことは、にとっては15歳という若さで渡仏した苦労に勝る利益だったと言える。
 とはいえ、やはり高校時代という特別な時間を共有した彼らに対して先に来る感情は「友情」だ。彼らもそうだろう。だからこその将来的な「利益」とはいえ、それはあくまで結果論。高校時代の友人は、やはり特別なものだ。と、久々のアンソニーとの語らいを楽しみつつコーヒーを堪能し、ハッとした。既にけっこうな時間が経ってしまっている。
「私、そろそろ行かないと」
「え……もう? リュリュには会っていかないの?」
「ごめんなさい、約束があるの」
「そっか。彼、きっとすごく残念がると思うよ」
 言いつつ立ち上がると、アンソニーも立ち上がった。
「ごめんね。久々に会えて嬉しかった」
「僕もだよ」
 そうして先ほどと同じように互いの頬に軽くキスをして挨拶をする。
「じゃあ、アンソニー。コーヒーごちそうさま。リュリュによろしくね」
「うん、また連絡するよ」
「うん」
 手を振ってアンソニーに背を向けると、は急ぎ足ですぐ突き当たりの角を左折し、予定を変更してすぐそばの地下鉄の駅に入った。歩くよりも取りあえず地下鉄に乗って乗り換えた方が早いと判断したのだ。
 それにしても、と思う。
 ニース――、友人たちとのバカンス。やっぱりちょっと参加したい、と思った。もしも彼らのバカンスが帰国中のことであれば、予定を変更してフランスに戻ってきたいくらいだ。
 が――、はっきりと分かった。もしもニースに行くために鳳との旅行を断ったとしたら、と。そんなことが過ぎった瞬間、自分の頭はそれを拒否した。
 きっと鳳との旅行がダメになったら、自分はひどくショックを受けるだろう。すごく簡単なことだ。今だって、会えるなら今すぐにでも会いたいのに。
 旅行を取りやめるなんて絶対にできるはずがない。心から楽しみにしていると、いやでも自覚してしまった。
 そう、こんなにこんなに楽しみにしているのに。鳳と色んな場所に行って、同じ景色を見て、同じ時間を共有できることはこれ以上ないほど嬉しいことなのに。
 だというのに、ほんのちょっとの、自分でもよく分からない漠然とした後ろ向きな感情がまだ消えない。――とはやってきたメトロの作り出す風に髪を押さえながら、小さく息を吐いた。 



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