翌朝――、目覚めたは部屋のカーテンと窓をあけた。 少し肌寒い風が入ってきたが、天気はすこぶるよさそうだ。澄み切った空の青を見て口元を緩めた。 そしてシャワーを浴びようとバスルームに入って、ふと自身の顔を見て少しだけ目を見張った。夕べのアルコールのせいか寝起きだからか、やや顔がむくんでおり苦笑いを漏らす。 マッサージをすれば戻るかな、と考えつつ熱いシャワーをじっくり浴びてからバスタオルを巻いてバスルームを出て、クローゼットをあける。そして夕べのうちに掛けておいた昨日とは別のワンピースを見やった。イギリスでは、初夏にあたる6月ですら夜はもちろん昼間であっても厚手のコートを要することも珍しいことではない。が、今日の天気を見るに昼間は厚手のジャケットは不要だろう。天気の良い日も想定して長袖のワンピースも持ってきたのだ。これ一枚で大丈夫かな、と手に取った。 そして身支度を整えてから朝食を済ませ、それほど多くもない荷物をまとめてから約束の10時少し前にロビーに降りていくと、既に待っていたらしき鳳がこちらに気付いて手を振ってくれた。 「おはようございます、先輩」 「おはよう」 「よく眠れました?」 「うん。素敵なお部屋をありがとう」 いつも通りの鳳にはどことなくホッとし、チェックアウトを済ませて荷物を預かってもらって外へと出る。そうしてどちらともなく自然と手を繋いで街を歩き、ケム川を目指して歩き始めた。 今日はケンブリッジ名物でもあるパンティング――舟遊び――を楽しむ予定なのだ。 いくつかある船着き場の一つはシティセンターを抜けて左折した先にある橋の横にあるらしく、と鳳は道なりに歩いていたが、ふとは船着き場を飛び越えた先の建物が気になって鳳の方を見上げた。 「あれもカレッジ……?」 「え? あ、はい。モードリン・カレッジです」 「あ……やっぱり。川と公道が交差してる場所に唯一女子学生を受け入れない保守的なカレッジがあった、ってむかしお父さんが言ってたんだけど……、あのカレッジのことなのかな?」 特に他意もなくがそう言えば、鳳は肩を竦めた。 「そう、みたいですね。はい、そうだと思います。今は共学になりましたけど、でも……共学になった当時は男子学生が喪章付けたり棺桶担いだり……色々あったみたいですし……」 「そ、そうなんだ……」 「メイボールでも未だにあそこだけがホワイト・タイを着る決まりみたいですしね。あ……そうそう、メイボールと言えば来週から本格的に始まるんですよ!」 「え……? メイボールって……学年末の舞踏会、だっけ?」 「はい。各カレッジ主催でやるんです。良かったら先輩も――」 そんな話をしているうちに眼前に船着き場が迫っており、「お!」と見知らぬ声が2人の間に割って入った。見れば一人の番頭がこちらを凝視しており、なにやらツカツカと歩み寄ってきた。 「チョウタロウじゃないか! なんだよ珍しく女連れか?」 やや浅黒い肌に黒髪の青年だ。しかしながら、白いシャツの袖をやや捲ってベストを着込んだ出で立ちはまるでパブリックスクール出の良家の子息がそのまま大きくなったような装いで、かなりの上流階級の人間なのだと雰囲気が物語っていた。 が――、鳳はその人物を視認するなり、う、と言いたげなやや苦い顔を浮かべた。 「ドミニクか……、なにしてるんだ?」 「バイトさ、見て分かるだろ?」 ドミニク、と呼ばれた青年はすぐさま視線をに移して歩み寄り、鳳と繋いでいなかった方の手をとって満面の笑みを浮かべた。 「はじめまして、美しいセニョリータ。僕はドミニク、チョウタロウの同期さ」 「は……はじめまして」 ――スペイン人だろうか。と反射的には悟った。どことなく、いやと言うほど馴染みのある行動様式に若干引きつつも笑みを浮かべると、鳳がムッとして手を払いのけようとする前に彼はパッと手を離してニッと笑い、再び鳳に目線を向けた。 「乗りに来たんだろ? 俺の船に乗れよ、特別に貸し切りで乗せてやるぜ」 「いいけど、それってケンブリッジの学割利いたりするのか?」 「貸し切りにしてやるつってんだから正規料金払えよ」 「ならやめとこうかな」 「なんだよ、俺達同期だろ!?」 何やら早口で軽口を叩き合っている様子だったが、その表情からは何となく彼らは親しい仲なのだと感じた。 結局、おそらくは彼の好意でと鳳は貸し切りのパントに乗り込み、ケンブリッジのカレッジ群を横切る船の旅に繰り出すこととなった。 彼、ドミニクはイタリア系スペイン人で、学部は鳳と同じ建築学部であるがカレッジはトリニティ所属だと聞き、としては親近感が沸いた。それに、自身は英語よりも高校時代に第一外国語としてとっていたスペイン語の方を得意としており、それを知るや否やドミニクは言語をスペイン語に切り替えた。 「僕もフランス語はけっこう出来るほうなんだ、セニョリータ! ……ところで、ごめん、まだ名前を聞いてなかったね」 「・です」 「……?」 そこでドミニクはきょとんとした表情を晒して、船を操舵するための約5メートルほどの棒状のポールを遊ばせて思案顔をした。とたんに船が岸に寄り、「ドミニク、前!」との鳳の叫びで何とか事なきを得る。 鳳は、ふぅ、と息を吐いてから訝しげな表情でドミニクを見上げた。 「どうかしたのか?」 「いや……、うちのメカニクスのプロフェッサーが話してた”日本の友人”てのと同じファミリーネームなんだ。って日本人によくあるファミリーネームなのか? スペインでいう、ガルシアみたいなさ」 「え……? いや、そんなことないんじゃないかな。あ、でも……彼女のお父さんはトリニティの卒業生らしいよ」 「は……!?」 「研究職で、今も学会ついでにけっこううちの大学にも寄ってるって話だったけど……」 「それだ!! プロフェッサー・だ!!」 鳳と話す際はドミニクは英語に切り替えており、いまいち慣れないスピードでは瞬時に理解できずに首を傾げるしかない。 ただ、自分のことを話されているのはさすがに察せ、何の話……? と聞く前にドミニクは思い切り視線をこちらに向けてくる。 「セニョリータ! 君はプロフェッサー・の娘って本当かい? バイオニクスが専門の!」 「え……? お父さん……? う、うん。そうだけど……」 頷くや否や、彼は「なんてこった……」と呟き、鋭い視線を鳳に向けてポールを突き刺すようにして川に振り下ろした。 「チョーータローー!! お前、ガールフレンドがうちのプロフェッサーの友人の娘ってどういうことだ!? さすが抜け目ないな、うまいことやったなオイ!」 「ど、どういう意味だよ」 「お前がプロフェッサーのお気に入りの理由が分かったぜ……、そういうことだったんだな」 「え……、な、なに言ってるんだよ、彼女のお父さんは関係ないよ。俺、それ知ったの昨日なんだし」 「ホントかァ?」 言い合いを聞いているとしては正確に意味を理解できなかったが、先ほどのように軽口を言い合っているだけかな、と取りあえず笑みを浮かべておいた。 ともあれ、船は様々なカレッジの有名な橋の下をくぐりながら進み、目の覚めるような美しいブリティッシュガーデンを船の上から眺めるのもまた格別で、は手で枠を作って枠の中をゆっくり流れる風景に頬を緩めて感嘆した。 一方の鳳たちはというと――。 「やあ、ドミニク! 調子はどう?」 「あ、チョウタロウだ! チョウタロー!!」 船頭はどうやらケンブリッジ生のメジャーなバイト先らしく、すれ違う船の船頭や川岸の芝生にいた学生から次々に声がかけられていた。特に、クレア・カレッジを横切った際に芝生で本を読んでいた女の子から鳳に声がかかって鳳は少し困ったような顔を浮かべたものの笑って手を振り返しており、は瞬きを数度繰り返した。 「……ほんとにクレア・カレッジの子と仲がいいんだね……」 「えッ!? え……と」 としてはそれほど他意なく呟いたのだが、鳳が一瞬固まり、ドミニクは内容を察したのかハハハッと明るい声で笑った。 「セニョリータ、僕がチョウタロウを疎ましく思ってる理由の一番がコレだよ。なぜか女の子にモテモテ。信じられないよ、まったく」 「ドミニク! 余計なこと言うなよ」 「おいおいセニョール、いつからキミはスペイン語が分かるようになったんだい?」 「何となく分かるんだよ! ロクなこと言ってないって!」 言い合いを聞きながら、は思う。鳳は氷帝時代も女の子からの人気は絶大だったが……世界規模でそうなのか、と実感するとやや複雑な気がして、木漏れ日が瞳にあたって思わず目を窄めた。 「先輩……?」 「あ……、その、ちょっとね、羨ましいなって思ったの」 「え……?」 「こんな素敵な場所で、鳳くんと一緒に学生生活を送れる子たちが羨ましい」 それは含みも他意もない本心で、鳳は意外だったのか少しだけ目を見開いてから、ふ、と笑った。 「俺だってそうですよ。先輩と同じ空間で過ごせる人たちが羨ましいです」 そうして笑い合っていると、船尾でドミニクがゴンドリエーレよろしくカンツォーネを高らかに歌い始め、しかもそれは失恋の歌で、鳳が頬を引きつらせてドミニクに何か言っているのを見て、ふふ、とは笑みをこぼした。 鳳にしても諦めたように、やれやれ、と肩を竦めている。 「そういえばドミニク、このバイトは夏休み中やるつもりなのか?」 「まさか。スペインに戻って友達とバカンスに出かけるよ。チョウタロウは? 国に帰るのか?」 「うん、彼女と一緒にね。でも、その前に二人でクロアチアにバカンスに出かける予定なんだ」 ね? とそんな話ついでに鳳が手で軽くの頬を撫で、思わずドキッとしたはパッと頬を染めた。 「う……、うん」 瞬間、ドミニクが「E tu dice: "I’ parto, addio"〜」と再び高らかに歌い始め、途端に鳳の眉が寄った。ついいま歌っていたカンツォーネ・帰れソレントへの一節だ。 鳳にしてみれば、縁起でもない、ということだろう。にしても、その言葉――さよなら――はかつて彼に言ったことのある言葉で。事実、そう告げたときは、もう鳳とはお別れして会えない覚悟だったのだ。 そう思うと、こうしていま鳳と向き合っていられるのが嘘のようで、嬉しくて、幸せで、思わず涙が滲みそうになってそっと自ら鳳の手に自分の手を重ねた。 鳳はハッとしたように目を瞬かせたものの、すぐに柔らかく笑ってくれ、どちらからともなく肩を寄せ合ってゆったりと船の揺らめきに身を任せた。 初夏の日差しがまばゆくて、肩から伝う鳳の体温が心地よくて、眠気さえ誘発させるような穏やかさにはふと懐かしい気持ちになった。 「昔……、中等部の頃、私が3年の時の今ごろだったかな。鳳くんと話してる時に寝ちゃったことがあったよね」 「ああ……、中間試験明けですね。先輩、目にクマ作ってましたからね」 ははは、と鳳が懐かしそうに笑って、はよりハッキリその時のことを思い出して息を詰めてから頬を染めた。そうだ、あまりの寝不足に疲れ果てていて、無意識のうちに鳳の肩にもたれかかって30分ほど寝てしまっていたのだ。 「あの時の先輩の寝顔、可愛かったです」 さらに追い打ちをかけるように言われて、は少々居たたまれなさを覚えて耳まで赤く染めた。 けれども、あの頃は……たぶん鳳は自分にとって「親しい後輩」でしかなくて。それとも気付かなかっただけで、もうあの頃には彼のことが好きだったのだろうか? 鳳の方はどう思っていたのだろう、などと考えているうちに船は折り返し地点をすぎて元の船着き場へ着き、先に降りた鳳が手を引いて岸へあがるのを手伝ってくれた。 「それじゃドミニク、今日はありがとう」 「ああ、礼は課題の共同作業でいいぜ」 最後まで軽口を叩き合ってる2人だったが、にしても改めてドミニクの方を向き笑みを浮かべた。 「どうもありがとう、楽しかった」 「チョウタロウに飽きたらいつでも連絡待ってるよ、セニョリータ!」 すれば態度がパッと変わり、やはりいくら「右から左に流せ」と言われてもこのノリは何年経っても慣れない、と苦笑いを浮かべつつは鳳と共に船着き場をあとにした。 まだランチまでは少し時間があり、二人は船着き場の少し先にある広大な芝生の広がるジーザス・グリーンを目指した。 そしてしばし芝生の上を歩いてから、が常時持ち歩いている小さなレジャーシートを木の下に広げて腰をおろし、一息つく。あまりに広大すぎるためか人がまばらで、遠くの木々の先にどことなく見覚えのあるテニスコートがうっすら映って、あ、とは呟いた。 「ここから鳳くんのカレッジが見えるんだね」 「はい、ここはカレッジのすぐ裏手ですから」 「なんだかのんびりしてて、ほんとに素敵なところ……。パリとはほんとに全然違う」 「そりゃ、先輩がお住まいの場所はパリでも一番華やかな場所なんですから」 「もちろん、パリは好きだけど……」 「勉強だけをするならすごくいい環境ですけど、ロンドンやパリと違って物足りないことも多いですよ」 「そうなの? あ、でもそういえば、勉強が辛くて逃げ場もなくて落ち込んじゃう学生もけっこういるってお父さんが言ってたような気がする……」 ぼんやりと芝生を見つめながら他愛のない話をしていると、ごく自然に鳳に肩を抱き寄せられ、は目を見張ったもののそのまま鳳の胸に身体を預けた。すると鳳が右手で髪に触れ、指に絡めながら薄く笑った気配が伝って、の頬がうっすらと色づいた。 じゃれるように額に唇を落とされて、少しくすぐったくて身を捩るも、心音が痛い。でも、もちろんいやじゃなく、心地良いのにいつまで経っても慣れなくて。そうこうしているうちに鳳の手が頬に滑ってきて、キスされる……と過ぎらせる前にあごを掬い上げられて唇を塞がれ、反射的には瞳を閉じた。 今日は触れるだけのキスではなく――、まるで昨日の足りなさを補うように徐々に激しさを伴って、も懸命に鳳に合わせた。 「ん……っ、ん」 こうしている時、思考回路をまともに働かせろというほうが無理だろう。ズキズキするほど脈が波打って、でも離れたくなくて。鳳もそうだったのか一度離れても追いかけるように何度も何度もキスされて、時間の感覚さえ麻痺してしまう。 おそらくかなりの時間をそうしていたのだろうな、とようやく開放されたあとにギュッと抱きしめられて、も鳳の背にしがみつくようにして朦朧とした頭で感じた。息があがっているのは鳳も同じなのだろうか。それとも自分だけなのか。落ち着かせるように何度も髪を撫でられ優しくコメカミに唇で触れられて、きっと真っ赤になってるだろう自身が恥ずかしかったが、やっぱり心地よくて。じんわりと鳳が好きでたまらない自身をあらためて自覚した。 だけど――。 「先輩……?」 ほんの少しだけ、自分でも無意識のうちに密着してしまうのを避けるような仕草をしてしまったのが伝ったのだろう。熱を帯びた鳳の声にやや疑問を孕んだような音が混じっていて、の頬がぴくっと撓った。 大きな手が頬を滑るように撫でてきて、指の腹が唇に触れた。間近で目が合った鳳の眼は探るような色を宿していたものの、焦れたように唇を指でなぞられて、先ほどの続きを促しているのだといやでも悟った。 「ん……」 考える間もなく両手で頬を捕らえられて唇を重ねられ、もうどうにもできない。 すぐに深く口付けられ、わざとか否か鳳の長い指が頬を捕らえながらも耳を撫でて、ゾクッ、と背中に甘い痺れが走っては少しだけ自身に恐怖した。 「んんっ……ん……!」 でも、自らキスをやめる気にもなれなくて、そうこうしている内に鳳の手が頬から首に滑って肩に伝い――、自然と唇が離れて思わずは下を向いた。すると、唇の代わりと言わんばかりに額にキスされて、ますます頬が熱を帯びてきて……。どうしよう、とはリアルに脳裏に浮かべた。こんな場所でこれ以上どうこうされるという事はきっとないはずだ。が。 自分が意識し過ぎているのだろうか。と、ドキドキしたまま鳳の腕の中で考えていると、何度も頬や額にキスを繰り返して落ち着いたのか、ふ、と鳳は苦笑いのような息を吐いた。 「先輩、顔見せて」 不意に耳元で囁かれて、びく、と肩が撓った。無意識にずっと下を向いたままだったらしく、促されるように目線をあげると鳳は少し困ったような顔を浮かべていた。それがまた恥ずかしくて、少し目線をそらせてしまう。 鳳のこういう言動は、きっと氷帝の中等部にいた時から変わっていない。自分がいちいちドキドキして、でももちろんいやじゃなくて、恥ずかしいけどやめてほしいなんて思っていないのも一つも変わっていないのに。あの頃は、たぶん、「その先」があるなんてリアルに意識していなかった。――と少し鳳から身体を離した。 時計を見やると、本当に長い時間2人でこの場にいたらしく、既に時計は一時近くを指している。 「そ、そろそろ、ロンドンに戻らないと……」 「え……?」 鳳は驚いたように自身の腕時計に視線を落とした。時間的には「そろそろ」というよりは「もう少ししたら」と言った方が正解だ。 とはいえ、3時過ぎにはロンドンに着いておきたいため、そこまで余裕があるわけではない。と考えていると、うーん、と鳳が唸った。 「ちょうどお昼……ですね。先輩、なにか食べたいものあります?」 「え……」 「日曜だし、サンデーローストでも食べますか?」 言いながら、鳳はやや苦笑いのようなものを浮かべた。”サンデーロースト”とはイギリスの日曜の伝統的な昼食であるが、大手を振って美味と呼べるかは疑問であるため、謙遜の苦笑いだったのかもしれない。 が、は「あ」と目を瞬かせた。 「私、行ってみたいパブがあるの。お父さんから聞いたことがあるんだけど、ケンブリッジにはすっごく広くて古くから続いてるっていうパブがあるって……」 「あ、イーグルですね。分かりました、じゃあそこにしましょうか」 鳳はのその言葉だけでどこの事か察したらしく、2人は取りあえずレジャーシートを仕舞ってジーザス・グリーンをあとにする。 聞けば、そのパブはコルプス・クリスティ・カレッジの所有する土地の一角に建っているらしく、観光客と地元の人でいつも賑わっているという。 「昔は学生や研究者がパブでよく議論してたって聞いたけど……お父さんも通ってたのかな……。鳳くんは行ったりする?」 「え? 行ったことはありますけど、頻繁には行かないですね。何だかんだ、自分のカレッジ内が便利ですから」 話しながら著名なカレッジ群のそばを歩いていると、今日も街は観光客で賑わっている様子が見て取れた。その中の最も有名なキングス・カレッジを通り過ぎて道を曲がれば、鷲の絵をあしらった深紅の看板がすぐに見えてもそこが目的地であると察した。 中に入れば薄暗い店内はやはり込み入っており、はキョロキョロしつつ鳳に誘導されるままに中へ入っていく。いくつか独立した部屋が連なっている作りで、数段の階段を上がった先の部屋に空席を見つけて、ここでいいかという鳳には頷いた。 最初からサンデーローストにしようと決めていたため、サンデーローストとパブオリジナルのビールに決め、は席について鳳はテーブル番号を確認すると注文をしにその場を離れた。パブのシステム上、注文するときに自分の座るテーブルを店員に告げるのが決まりなのだ。 パブというのは一律なようでいて、それぞれで個性がでるもので。やはり長く続いているパブだからだろうか。この空間に座っているだけで伝わってくる重厚な雰囲気はきっと何世紀も変わっていないのだと思うと、ヨーロッパに住み慣れた今となっても自分もその空間に存在しているという不思議な感覚に囚われてしまう、とは感じた。いや、きっとここは特別だ。なにせ、この場所でいくつもの科学的な偉業が討論され、発見されてきたのだから。と、思えば思うほどに自分は紛れもなく科学者の血を引いているのだと自覚しつつ薄く微笑みながら店内の窓の外を見やると、初夏ゆえか随分と賑わいを見せるオープンテラスの席も見えた。そのまま微笑ましく見つめていると、程なくしてビールを携えた鳳が戻ってきて、彼はそれらをテーブルに置いた。 「ありがとう」 「いいえ」 「30年くらい前、お父さんもここに座ってビールを飲んだりしたのかな……」 少しだけ上機嫌で、ふふ、と笑うと鳳は若干苦笑いを浮かべ「かもしれませんね」と頷いた。 その反応に、もしかしてパパっこだと思われたのだろうか……でも、否定はできないし、とが若干バツの悪い顔を浮かべてビールを口につけていると、すぐにウエイターが2人分のサンデーローストを運んできた。 大きな皿に、グリーンピースとポテトとくたくたのにんじん類が所狭しと盛られ、ローストビーフにヨークシャープディングを添えてグレービーソースをかけた一品は、まさに典型的なブリティッシュプレートと言っていいだろう。 しかし――。これら全てに味付けは一切されておらず、味がない野菜をどう食べるか、というのはフランス料理に慣れた舌を持つにとっては永遠の課題でもあった。フランスでは、野菜ましてソースに味がなくコクもない、ということはないと言い切っても過言ではない。 「あ……、ポテト美味しい……!」 黙々と食べ進めて、ふとポテトに口をつけるとカリッと揚がったポテトが思いのほか美味しく、が声を弾ませれば鳳も同調して笑った。 「俺、ヨークシャープディングってけっこう好きなんです。これを器にしてビーフシチューを出してくれるパブなんかもけっこうあるんですよ」 「そ、そうなんだ……」 取りあえず郷に入れば郷に従えということで、イギリスの習慣に倣いサンデーローストを堪能すると、と鳳はパブ・イーグルをあとにした。 そのままホテルに寄って預けていた荷物を受け取り、向かう先はケンブリッジ駅だ。 あまり時間的余裕もなかったためバスに乗ることを選択して、シティセンターから駅を通るバスに乗る。2階建てのイギリスらしいバスで、たちは2階に上り空いていた最前列の席に座った。 見晴らしの良さには頬を緩めるも、どことなく言葉が少なくなってしまうのは別れが近づいてきたせいだろうか。もう少し一緒にいたい、なんて思ってもユーロスターの時間もあるし、と視線が下を向いてしまう。 けれど……、来月に予定している旅行は長く鳳といられるとはいえ、きっと「一緒にいる」だけでは済まなくて。と、考えるとどうしても消極的になってしまうが、やっぱり一緒にいたい。 きっとすごくワガママなんだろうな、と自覚していても、自分でもどうしようもない。なんて考えているうちに駅が見えてきてしまった。 バスを降りて駅のそばに近づけば、それほど大きな駅ではないというのに駅前はやはり行き来する人々で溢れかえっている。 「先輩……」 駅の前までくると、鳳も別れがたいと思ってくれたのか、ギュッと抱きしめてくれてもキュッと鳳の背を掴んだ。 「また、ケンブリッジに来てくださいね。俺、まだまだ見せたいところがいっぱいあるんです」 「うん……」 「そのうち、フォーマルホールに招待します。俺、先輩と参加したいですし」 「――え!?」 「そうだ、船に乗る前も言いましたけど、今月はイベントがいっぱいあるし、何ならずっとここにいてもらっても……」 「え、ちょ、ちょっと待って。私、まだ学校あるし……」 「じゃ、じゃあ……また土日とか……」 「う、うーん……」 さすがには鳳の腕の中で苦笑いを漏らした。 「でも……来月、旅行に行くんだし……」 「クロアチアに行くのは来月の中旬なんですから……、俺、それまで会えないなんてイヤです」 すると拗ねたように言われて、今度はは困惑しつつも薄く笑った。 「うん、私も、会えたら会いたい」 「ほんとに?」 「ほんとだよ」 そんなやりとりをしつつ鳳が頬を撫でてくれ、がくすぐったさを覚えつつも笑みを零せば鳳も笑った。 「今回はお招きほんとにありがとう。すっごく楽しかった」 「俺もです」 「うん、じゃあ、行くね」 「はい、お気を付けて」 そうして名残惜しげに話していると鳳がキスをしてくれ、もそれに応えてからもう一度顔を合わせて微笑み合った。 そしては鳳に背を向けて、復路のチケットを取りだしてから改札をくぐるとホームへと向かった。 その背を見送ってから、鳳は駅に背を向けた。 いっそロンドンまで送り届けても良かったかもしれない、とさっそく後ろ髪を引かれている自分に苦笑いを漏らしてしまう。 それに――。夕べ……、かっこつけすぎたのかもしれない。って、ほんの少しだけ思っている、なんてが知ったら軽蔑されてしまうだろうか? あのまま自身のフラットへ引き返さずにとホテルで過ごしていたら……と、もう夕べから何度も何度も過ぎらせたことをまた過ぎらせて自身の大きな右手で口元を覆った。 ハァ、とため息を吐いて肩を落とす。が2人で旅行することに同意してくれて、ちゃんと日程も決まっていて。という事実が今の自分をなんとかせき止めているようなものだと思う。 子供の頃は……こんな感情をに抱いていた自分を浅ましく思ったりもしたが。今は、あの頃の自分に、それは彼女に恋するがゆえなのだと、自然で当たり前の感情なのだと教えてあげたいほどだ。 彼女のことをもっと知りたい、と思う気持ちのなにが悪いというのだろう? というのはさすがに開き直りすぎだろうか、と苦笑いしつつ鳳は気持ちのいい初夏の空を見上げた。 にしても。 まさか、の父親が先輩にあたる人物だったとは――。 これは吉と出るのか、それとも凶なのかな。と浮かべつつ瑞々しい木々からの木漏れ日に眼を細めた。 |