6月――、第2土曜の昼前。
 鳳はそわそわしながらケンブリッジ駅の改札前に立っていた。というのも、今日は初めてがここケンブリッジを訊ねてくるからである。
 彼女は既にロンドンに着いており、どのケンブリッジ行きに乗ったかは連絡をもらっているため、到着時間は把握している。鳳はチラリと電光掲示板を見やった。あまり信用ならない英国鉄道とはいえ、始発駅がキングス・クロスで終点がケンブリッジの場合、それほど乱れはしない。今日もそうだ。特にディレイの情報は出ていない。オンタイムだ。
 そうこうしているうちに到着の時間が迫り、時間が来ればプラットホームの方が少しばかり賑やかになって鳳はパッと表情を明るくした。
 程なくして、初夏らしい爽やかなワンピースに防寒のためかやや厚手のジャケットを羽織って小旅行用らしい大きめのバッグを抱えたが他の降車客の中に見え、鳳は手を振った。
「せんぱーい!」
 もはや世界規模で長身の部類に入る自分にもすぐ気づいたのだろう。ふわりと笑って手を振り返してくれ、鳳も表情を緩めた。
「こんにちは。今日はお招きありがとう」
「いえ、こちらこそわざわざ来て頂いて……」
 改札を抜けてきたと挨拶もそこそこに鳳は彼女のバッグを持ち、先導するようにして歩き出した。駅から中心部へは少々距離があるが街の探索も兼ねて二人は徒歩を選び、鳳は自分の街を紹介するようにして説明していく。
 ケンブリッジは「ケンブリッジ大学」を成す30を越えるカレッジから成り立つ歴史ある学生の街だ。名の通り「ケム川」にかかる「橋」の街でもあり、古い建物のそばを縫うように流れるケム川に幾重もの橋がかかり、緑も豊かな瑞々しい風景が自慢の街でもある。
「ちょっと、カレッジを見学しながら行きましょうか」
 近況報告をしながら歩いているとあっという間に中心地が近づき、鳳はちょうど道沿いにあるダウニング・カレッジをさしてに笑みを向けた。
 入れば、入り口からは想像も出来ないほどに広大な中庭が続く大きな学び場が現れ、わあ、とは感嘆の息を漏らした。
 すぐそばにはギリシャ神殿風の建物が建っており、左手の奥には広い中庭の先に広々としたサッカーコートが広がっている。
「きれーい! こんな素敵なところで毎日勉強してるんだね、鳳くん」
「はい。ダウニングは俺も気に入ってるんです。駅も街も近いし、テニスコートもあって、なにより俺の学部がすぐ裏手なので通いやすそうで。でも他のカレッジも素晴らしくて……用もないのに色んなところに行ってみたりしてます。何だかんだ、一番愛着があるのは自分のカレッジですけどね」
「あ、鳳くん。クレア・カレッジによく通ったりしてるんじゃない?」
 言われて、え、と鳳は狼狽えた。――クレア・カレッジはケンブリッジ大学の中でも音楽に長けた学生が伝統的に多く、何かしら演奏のできる学生ばかりである。持ち前のオケも群を抜いて高レベルで、足を運べばパイプオルガンの音色が聞こえてくることもしょっちゅうで、の言うとおり顔を出すことも知人友人も多いカレッジでもあった。
「え、先輩……どうして知ってるんですか?」
「だって、あのカレッジは音楽に強い学生が多いって聞いたから」
 いや、だからなぜそれを知っているのだ。と問う前には数歩先を進んで、景色を吟味するように手でフレームを作って緑の芝に見入っている。
 そしてしばしの寄り道を終えて街の中心部に出ると、観光客でごった返すキングス・カレッジの横を抜けて、鳳は自身の学生IDを見せてケンブリッジ大学の中心とも言うべきトリニティ・カレッジへととともに足を踏み入れた。なぜなら、がまずトリニティに行ってみたいと希望したためだ。すればケンブリッジいち素晴らしいとも謳われる美しいグレイトコートが姿を現し――、は一際感じ入ったようにため息を漏らしていて、珍しく黙り込んで見入っているを不思議に思いつつも鳳は微笑んだ。
 このずっと先の庭ではいつもたくさんの鴨が闊歩しており、癒されるものだ。連れて行ったら喜ぶだろうか? などと、どこかうっとりしてグレイトコートの噴水を見やるの横顔を見つめる。
 とはいえ、広大なトリニティはとても短時間で回りきれるものではない。講堂やチャペル・図書館などを見学したあと、二人はケム川を臨むベンチに腰をおろして少し休憩を取った。
 川を挟んで隣のカレッジが見て取れるこの場からの風景は美しくも神秘的で、はスケッチブックを広げながらどこか懐かしむように呟いた。
「お父さんも……こうやってここに座ったりしたのかなぁ」
「え……!?」
「うちのお父さん、若い頃にトリニティ・カレッジに留学してたの。いまも時々、学会ついでにここに来たりするみたいで……私もいつか来てみたいなってずっと思ってたから。来られて嬉しい」
 言われて鳳は目を見開いた。――そうして理解する。の父は自然科学の教授で、詳しくは聞いていないがそれなりの立場だった覚えがある。なるほど、ケンブリッジはことさらサイエンスに関しては強いという歴史がある。若い頃、優秀な学生ならば、国費での長期留学ということも十分あり――の父もその手なのだろう。すれば、がケンブリッジのカレッジに詳しいのも合点がいくというものだ。先ほど黙り込んで感じ入っていたのも、父の面影を追ってのことだったのだろう。
「そう、だったんですね。あの……もしかして、博士課程、ですか?」
「そうだと思う。最後の学位がここだったみたいで、愛着があるみたいだし」
「そ、そうですか……、トリニティでサイエンスの博士号を……。すごい、大先輩だな……」
「鳳くんがケンブリッジに決めたって言った時は少し驚いちゃったけど……。やっぱり、ちょっと、嬉しかったな」
 ふふ、とが笑う。ケンブリッジは特に建築学に強いというわけでもなかったが、鳳としては父の強い希望もあり、カリキュラムも独特かつ興味を惹かれるもので最終的に決めたのだが、と口元を緩めた。
 いずれはの父親とも会わなければならないこともあるだろう。その時に、同じ空間を共有していたというのはきっと大きいはずだ。
 そうこうしているうちにすっかり昼食時間も過ぎ、鳳はハッとしつつも考えあぐねて唸った。
「先輩、お昼ってまだですよね? なにか食べたいものとかありますか……?」
「え……?」
「あ、でも……パリより美味しいものは、ちょっと、ないかもしれないですけど」
 鳳は自らの発言に苦笑いを漏らす。ここケンブリッジ、いや英国は物価の高さの割に美味しい食事にありつけるのことは無きに等しい。それでも首都ロンドンは選択肢が無限にあるが、ここはそうはいかない。もきっと分かってはいるだろうが、と探るように見やると、うーん、とは口元に手を当てた。
「せっかくイギリスにいるんだし……、久しぶりにクリームティーが食べたいな」
 クリームティー、とは紅茶とスコーンのセットのことである。うーん、と尚さら鳳は唸った。紅茶とスコーンなら確かに外れはない。きっと正解に近い選択だろう。が、パブ等に入ってのイギリス料理は遠慮するということだろうか。と考えるのは卑屈になりすぎだろうか。
「良いティールームだったら、隣町にあるんですけど……」
 そんな話をしながらカレッジの外へと向かう。すぐそばにはオープンテラス・室内を問わず地元の人間と観光客でごった返すティールームがある。結局二人はそこへ決め、自家製スコーンとサンドイッチがセットになったティーセットをランチとした。
 ティールーム、とはいえコーヒーがないかといえばそう言うことはない。が、は明らかにコーヒー派であるものの紅茶の選択肢が多い環境は物珍しいらしく、ティールームに入ればコーヒーではなく毎回紅茶を選んでいる。
 今回も2人はそれぞれ違う茶葉を選んで香りの違いを互いに楽しみ、よりはだいぶん紅茶に詳しい鳳はついつい饒舌になってしまう。そしてたっぷりのクロテッドクリームとジャムで食べるスコーンは、パリのスイーツほどの美麗さはないものの、終始が上機嫌で「美味しい」と笑い、鳳もその笑みを見て頬を緩めた。
 その後、街の中心を抜けて鳳はいよいよ自分の所属するカレッジへとを案内した。なかなかに独創的なカレッジで、「わあ、かわいい」と声を弾ませるを伴って細かく説明しながら奥まで歩いていく。
 カレッジ、とはここではすなわち「居住エリア」のようなもので、全ての学生、並びに教員は「ケンブリッジ大学」に所属すると同時にどこかしらのカレッジに所属している。各カレッジは私立の独自運営であり、学生は国立の大学に所属すると同時に「カレッジ」という私立の機関にも所属をしているというシステムなのだ。ゆえに、学費は当然、大学とカレッジの両方に支払わねばならないため、通常よりも跳ね上がる。
 大学の学部そのものは大学、つまり「ユニバーシティ」の運営であるため、大学は学生のカレッジでの生活に関与はしないが、カレッジは学生の勉強も含めて生活全般の面倒を見る。すなわち二重体勢で学生は勉強を叩き込まれる環境におり、また、各々が私立だからこそ「うちのカレッジから優秀な学生を、研究を」という競争心が常にあるというのもケンブリッジ大学を今なお名門たらしめている要因の一つでもある。
 とはいえ、父親がトリニティの出身ならばは当然そのような事情は知っているのだろうな、とちらりとを見ていると、は奥に建っているモダンな建物を見やって訊いてきた。
「あれはなに……?」
「ああ、あれは寮の一つです。このカレッジでは一番新しい寮ですね」
 どこのカレッジもカレッジ内部にいくつか学生用の住まいが入っている建物があり、これは鳳のカレッジも同じである。そして、学部生の大半はカレッジ内部の寮に住んでおり、特に鳳のカレッジでは1年目の学生はこの中のいずれかに入るのが決まりだったが、鳳は調整でも付かなかったのか手配ミスか、外部の建物を使っていた。
 一人の学生がずっと同じ場所に居るということも多くはなく、来年度は住む場所も変わるのだろうか、と巡らせつつ歩いていくと、ちょうど奥のテニスコートが賑わっている様子が見えた。さすがに試験明け、学生たちの表情は明るい。
 二人してテニスコートを見学していると、コート内の学生がこちらに気づいたのだろう。白人の青年が手を振って声をかけてきた。
「チョータローウ! ちょうどいいところに来た、打ってかないかー!?」
 鳳にとっては仲の良い友人で、「え……」とまごついていると、隣では微笑ましそうに口元を緩めた。
「行ってきていいよ。私、見てるから」
「え……でも」
 ほら、と促されて鳳は逡巡ののちに頷く。
「じゃあ、少しだけ。待っててください」
 部活動として全国制覇を目指していた頃の真剣勝負も良いものだったが、こうして趣味として友人と打ち合うというのは純粋に楽しいものだ。誘われるままに鳳はコートに入り、ラケットを借りてしばし友人たちと打ち合い――ひと汗かいたところでテニスコートを後にした。
「鳳くん、テニスクラブには入ってないの?」
「時々、顔は出してます。実はカレッジ対抗戦も何度か出てて……」
「え、そうなの?」
「俺、テニスばかりしている時間がないのが申し訳ないですけど。でも……、来年度はケンブリッジ・ブルーの一員としてケンブリッジ代表でオックスフォードと対戦できる機会があるんです。威信をかけての真剣勝負だから、燃えますね」
「対オックスフォードか……、なんだかすごいって話は私もお父さんから聞いたことある。ライバルだもんね。でも、きっと鳳くんが勝っちゃうよね、氷帝の部長だったんだし」
「それは……どうかな」
 もう高等部の頃より下手になってるだろうし。と肩を竦めつつ、もしも代表に決まったら見に来てください、という話もそこそこに様々な施設を見て回り、まだまだ陽は高かったものの時計の針は夕暮れ時を指す頃合で、鳳はそろそろカレッジの所有する敷地内にある自身のフラットに戻ろうとを促した。とたん、は緊張気味にごくりと息を呑む。
「私、英語あんまり話せないけど……大丈夫かな」
「大丈夫ですよ。一人、フランス語の堪能な友人もいますから」
 鳳は軽く笑ってみせる。鳳のフラットメイトである二人はイギリス・カナダ出身でどちらも公用語は英語だが、カナダ人の方はフランス語を母国語とする。とはいえ、カナダ人の喋る言葉は相当にハイスピードで聞き取りづらいことも多く、フランス語にしても本家とはアクセントが違ったりもするらしいが――その辺りはどうなのだろう? 一つの言語が広範囲に広まると、その土地で様々な変化を遂げて定着していくらしく、鳳はうっすら一つの言語を巡って互いに互いを罵り合っている場面にうっかり何度か遭遇してしまった経験を過ぎらせた。
 しかし、に限ってそんな極端な事にはならないだろうし、高校時代は留学生も多かったというのだからフランス人以外が話すフランス語にも慣れているだろうと思い直しつつ歩いていく。
 鳳の住んでいるフラットはこじんまりとしたフラットが続くフラット群で、その一つ一つが長屋のように独立しており、それぞれを学生数人でシェアしている。
 入り口のドアへ続く数段の階段をあがると、鳳はインターホンを押した。
「はーい」
「ただいま。俺だよ」
「あ、チョウタロー! ちょうど良かった、ちょうど準備が終わったのよ!」
 アリッサの声だ。隣で瞬きするに笑いかけて待つこと数十秒。ガチャ、と扉が開いたかと思うと大きな破裂音が聞こえ――次の瞬間には火薬のニオイと共にカラーテープが振ってきて鳳もも大きく目を見開いた。
「ハッピーバースデー!」
「ようこそケンブリッジへ!」
 クラッカーを放ったのだ、と鳳は理解するも迎え頭にこんな事をしてくるとは思ってもおらず、とっさに反応できないでいると、アリッサがこちらに歩み寄っての方へと手を差し伸べた。
「はじめまして、あなたが? 私はアリッサ・ハミルトン。よろしく」
「あ……、はじめまして。よろしく」
 はどこか緊張気味にアリッサの手をとった。アリッサは「ふーん」と言いたげにの全身をくまなく観察して、ふ、と肩を竦める。
「やっぱり日本の子ってちっさいわねー」
「え……。え……小さい……? えっと、私は平均身長よりは高いはずだけど……」
「あら、そうなの? じゃあやっぱりみんな小さいのね。チョウタローはこんなに大きいのに」
「彼は日本でもすごく大きい方だから」
 が不安げな色を顔に広げている。やはり使い慣れない英語、言葉を返すのに精一杯なのだろう。が――もう一人のクラッカーを放った主がやってきての表情が一変した。
「ボンソワー、マドモワゼル」
「――! ボンソワ」
「ボクはブライアン。フランス語が話せるって本当かい?」
 ブライアンがつらつらとフランス語で話しかけ、はホッとした表情で「ウィ」と頷いた。そこからはブライアンの表情も一変し、カナダ人らしい早口で勢いよく捲し立てた。
「ワーオ! 何ヶ月ぶりだろうフランス語を使うのって! あ、ボクのことはブリアンって呼んでもいいよ! フランス読みだとブリアンだからね! え、ダサい? パリジェンヌはブリアンのことをブライアンっていうのがツウなのかい? まあ、キミがクールだと思う方で呼んでくれよ!」
 こうなると鳳にもアリッサにも意味は分からず、青筋を立てたアリッサが「分からないわよ!」と一蹴するまでブライアンのトークは続いた。
 そうしてリビングに入り、ホールケーキをはじめとして様々なオードブルが並びすっかりホームパーティの準備が整った様子を見ては「わあ」と感嘆の声をあげると「そうだ」と呟いてカバンから手土産を取りだして三人に差し出した。
「これ、フランスのワインとマカロン。みんなで食べて」
 途端、口元を押さえたアリッサは頬を紅潮させて勢いよくに抱きついた。
「ワーオ! パリのスイーツ!! なんて良い子なの!!」
 とかく食べ物に関しては恵まれているとは言えないイギリスにあって、フランスのものというだけでブランド力が違う。まして最先端を行くパリのお菓子とあっては女心を掴むのには持ってこいだったのだろう。しかし、喜ぶアリッサとは対照的に鳳は「え」と狼狽えた。
「ワインなんて……どうりで重いと思ったら……。すみません、先輩。こちらが呼びつけたのにわざわざお土産まで持ってきていただいて」
「そんな……。招待してもらったんだし、鳳くんたちの進級祝いだって聞いたから、お祝いだよ」
 ハッとして鳳は「進級祝いの品だって」と通訳すると、途端、ことさらにブライアンの表情が凍った。
「そ、それはメルシー。でも、うん、たぶんオッケーだと思うけど……まだ全部結果出てないからね……」
 ここでは進級に関しては非常にシビアで、一教科でも落とせば即退学である。試験は終わったが、結果が全て出揃うまでは心からは安心できないのだ。
「ま、まあ。進級できたってことにして。カンパイしましょ。のバースデーと私たちの進級を祝って!」
 アリッサが手を叩き、鳳はその前にテニスで汗をかいたからシャワーを浴びて着替えてくると言ってリビングを後にして、たちはグラスやシャンパンの用意をしながら話をした。
は、チョウタローの幼なじみなんですって?」
「え……幼なじみ?」
「ジュニアハイスクールから一緒だったって聞いてるわよ」
「あ、うん。私が一つ上なんだけど……」
「あら、一つ上なの? じゃあ私とブライアンと同じ学年じゃない? でも、あなた、六月生まれよね……」
 鳳は一年生で、アリッサとブライアンは鳳より一学年上である。あ、とは理由を察したように肩を竦めた。
「日本の学期は四月から始まるから、四月生まれから三月生まれまでが同級生なの」
 そんな話をしていると、戻ってきた鳳が「なんの話?」と話題に入ってきたものだからは鳳の方を振り返って苦笑いを浮かべる。
「欧米式だったら、私は鳳くんより二学年、上だったっていう話」
「え……!? あ、そうか。そう言えば、そうですね」
 そんな話もそこそこに、鳳が戻ってきたことでみんなでテーブルを囲んでグラスを鳴らし、まずはシャンパンで乾杯をした。は込み入った話になると用途によって日本語とフランス語を使い、なんとも複数言語が飛び交う空間になってしまったものの話は尽きない。鳳のカレッジでの様子、普段の生活などとしては聞いているだけで飽きないものだったのだろう。自然と口元に笑みを浮かべていた。
 そうしてほろ酔いになってきたころ、うふふ、と笑いながらアリッサはの持ってきたワインに口を付けながら言った。
「チョウタローは、ほんっとうに私が出会った中でさいっこうの日本人よ! グッドルッキングガイで背も高くて、紳士的! ちょっと押しに弱いのが難点だけど、テニスも音楽もできて欠点がないんだもの!! 前回、テニスのカレッジ対抗戦の時にダブルベーグルで勝利を決めた時は一躍スターになったわ! カレッジの誇りだもの!」
「ちょ、ちょっとアリッサ……」
「あらー、本当じゃない。あなたはもう少し自分に自信を持った方がいいわよ。ねえ! この前のテストだって”ファースト”評価をいくつも取ってたし、優秀なのよ」
 ケンブリッジにおける試験の評価は、上から順にファースト、セカンド、サード、そして落第である。大半の学生はセカンド評価となり、ファーストはやはり優秀な証だ。
 へぇ、とは感心したような息を漏らした。
「凄いんだね……」
「そ、そんなことないです! たまたま、幸運だっただけで……」
「なによチョウタロウ、そんなに卑屈になることないじゃない」
「いやァ、ボクはチョウタロウの控えめなところを評価するよ! 偉そうなチョウタロウなんていやだよ!!」
「なんですって、ブライアン!」
 そして言い争いに発展したフラットメイトを見やって、鳳は苦笑いを漏らすしか出来ることはなかった。
 そうして夜もすっかり更けてきた頃、が帰る準備をしていると「あら」とまだ飲んでいたアリッサがグラスをテーブルに置いた。
「帰るの? 泊まっていけばいいじゃない」
「今日はホテルをとってるんだ」
 鳳がそう答え、アリッサは一度瞬きをする。
「なんだ。じゃあごゆっくり」
 ひらひらと彼女は手を振り、は今日の礼を言って、鳳は彼女と共にフラットの外へ出た。さすがにもう日は落ちて辺りは暗い。やや肌寒いが、まだ酔いの醒めていない身体には心地良かった。
 フラットを出てすぐは人通りも少なかったが、すぐにシティセンターが近づき、すれば土曜の夜とあって辺りは着飾った若者たちでいっそ煩いほどに賑わっている。周囲にはバーやクラブが複数あり、彼らにとって遊び場には事欠かないのだろう。
 特にに聞いたことはないが、自分と会っていない週末などは彼女はパリでどう過ごしているのだろう? などと過ぎらせるも鳳がとったホテルはシティセンターの一番便利な場所だったため、ハッとして鳳はをホテルのエントランスに誘導した。
 ロビーに入り、鳳はレセプションに行ってのチェックインを済ませた、が、レセプショニストは傍目には判別できない程度に不思議そうな顔をした。――それを鳳は、彼女しか泊まらないことが疑問だったのだろうな、と悟ったがさっくりと済ませてポーターにの荷物は自分が運ぶと伝えると彼女を誘導して部屋へと向かう。
 ケンブリッジは小さな街で、ホテルの選択肢もそう多くはないため、鳳はこのホテルで一番グレードの高い部屋を彼女のためにとっていた。とはいえ「マスタースイート」の名にふさわしいほどのものではなく、通常のジュニアスイートよりも若干狭いといった具合だ。
 それでも通常の部屋よりはだいぶ広く、にすれば予想外の広さだったのだろう。ドアをあけて部屋に足を踏み入れた瞬間、わ、と呟いて立ち尽くしていた。
「ス、スイート……?」
 声がやや困惑している。にしてみれば、ただ寝るだけなのになぜ、という思いもあったのかもしれない。
「お、鳳くん……あの……」
「あまり豪華とは言えませんが……。誕生日プレゼントだと思って、受け取ってください」
 戸惑っているに笑いかけ、鳳はリビングスペースのテーブルの椅子にの荷物を置いた。
「あ……」
 するともう一つの大きなローテーブルの上に冷やしたシャンパンとフルーツが置いてあり、に声をかける。は取りあえずジャケットを脱ごうとしていたのだろう。先ほどフラットでは特に意識しなかったというのに、目線の先では上着に隠れていた彼女の肌が露わになっており、鳳はとっさに目をそらした。
 瞳を伏せた先でテーブルを見やれば、シャンパンとフルーツの横にはバースデーカードが添えてあり、あ、と鳳は納得した。シャンパンもフルーツも、彼女へのサービスなのだろう。
 鳳としては荷物を置いたらすぐに帰ろうと思っていたが、に「せっかくだし、一緒に飲もう」とせがまれて二人してソファに腰をおろし、シャンパンをあけてグラスに注いだ。
「では……、あらためて。お誕生日おめでとうございます、先輩」
「ありがとう」
 くすぐったそうに少し目元を染めてが笑い、鳳も口元を緩めた。けれども鳳は内心焦る。これ以上酔ったら、まずい気がする。
「今日はほんとに素敵な一日だったな……、お父さんや鳳くんが学んでる場所が見られてすっごく嬉しかった」
「俺も紹介できて嬉しかったです」
「いいところだね、ケンブリッジ。可愛いし、静かだし、緑がいっぱいで色んな場所でスケッチし甲斐がありそう。明日も楽しみ」
 言ってがフルーツボウルから木イチゴを摘んで口に含み、無意識に鳳は彼女の唇を追ってしまって、ごく、と喉が鳴った。
 触れたい……、と思うも、おそらく触れたら歯止めがきかなくなると痛いほどに理解しており、なんとか踏みとどまる。
 けれどもこれ以上この場にいたら衝動的に抱きしめてしまいそうで、鳳はグラスに入ったシャンパンを飲み干すとテーブルに戻して話もそこそこにゆっくり立ち上がった。
「俺、そろそろフラットに戻ります」
「え……」
「もう遅いですし、俺、宿泊客じゃないですからね……」
 僅かに残念そうな声がの口から漏れたのは思い違いだろうか? 肩を竦めてみると、も目を伏せて「そうだね」と小さく呟いた。
 ドアのところまで行って改めてに挨拶をしようと振り返ると、はどことなく沈みがちな表情で目を伏せている。
「先輩……?」
 問いかけると、は鳳のシャツの裾をキュッと掴んで、ドクッ、と鳳の心臓が跳ねた。
「先輩……」
「もう少し……一緒にいたい……」
 だめ? と見上げられ、一瞬、頭の中が真っ白になる。クラッ、と目眩がしそうなほど甘い誘惑だったが……、にはたぶん「そういう」意図はないに違いない。言葉どおりの意味だろう。それに――今日は、と自分自身に叱咤して一度肩を落として自身を落ち着ける。
「先輩……」
 そっと右手での頬に触れると、はそれが合図のように瞳を閉じ、鳳は誘われるようにしての唇に軽く触れるだけのキスを落とした。
 チュ、と僅かな音をさせただけですぐに離れ、意外だったのか瞳をあけたに鳳は、ふ、と笑ってみせた。
「明日、10時に迎えに来ます。ゆっくり休んでくださいね」
「鳳くん……」
「おやすみなさい」
 ニコッ、とさらに笑いかけると、鳳は後ろ髪引かれる思いだったもののに背を向けて部屋をあとにした。
 そして足早にホテルを出て夜風に髪を遊ばせ、危なかった……、と深いため息を吐いた。
 いや、でも。これで良かったんだ、と気を紛らわせるように早歩きでフラットへ戻り、緊張していたせいかカラカラになった喉を潤そうとダイニングに向かうと、二人で飲んでいたらしきアリッサとブライアンがギョッとしたような顔でこちらを凝視してきた。
「チョ、チョウタロウ!? やだ、なんで戻ってきたの!?」
「彼女とケンカでもしたのかい?」
「え……!?」
 鳳はその反応に驚いて、なにやら誤解しているらしき二人に説明すると、なお二人は解せないといった面もちを浮かべている。
「彼女一人のために部屋をとったって……、それならここに泊まらせれば良かったのに。別に私たちは気にしないわよ?」
「そうだよ、てっきりチョウタロウも一緒だと思ってたのに……」
「彼女、誕生日なんだし寂しいんじゃないの?」
 そんな風に言われ、鳳は思わず上擦った声で弁明した。
「た……誕生日だから、だよ」
 言って冷蔵庫から自身のミネラルウォーターを取り出し、コップに注いで喉を潤した。
 アリッサの言ったことはもっともかもしれないが……、自分の誕生日ならともかく、彼女の誕生日に自身の欲求を押しつけるような真似は自分の中で自分に納得がいかなかったのだ。
 それに――じき夏の休暇だ。
 夏には二人でバカンスに行く約束を既にしているのだし、その時で……と鳳はもう一度深く深呼吸をしてゆっくり頷いた。

 一方、は一人ぬるめの湯船に浸かって大きなバスタブの中で膝を抱えていた。
 蒸気のせいか、少し酔いが回っているのか、まだ頭がボーっとしている。
 しばしぼんやりと湯に浸かってからバスタブを出、バスローブを羽織ってから部屋へと出てみる。改めて、自分にとっては一人で使うには広すぎる部屋だ。
 鳳は、自分がロンドンへ泊まりがけで鳳に会いに行く時にはホテルを用意してくれていて彼はケンブリッジに帰っていたため、いつも夜は自分一人だった。
 だから、こういう事には慣れているはずだが……と大きなベッドに腰を下ろした。
 お酒がけっこう入っていたせいだろうか? それともこの部屋が広すぎたせいなのか。さっきは一人で残されるのが寂しくて、もっと鳳と一緒にいたかった。いまだって、やっぱり寂しい。
「鳳くん……」
 だが――、と、とっさについ先ほど鳳を引き留めるような真似をした自身を思いだしてはカッと頬を染めた。思わず隠すように両手で顔を覆う。
 どう思われただろうか? あの時は、ただ鳳と離れるのがいやで、ちょっとお酒も入っていて、でも、本当に離れがたかっただけなのだ。
 まったくそれ以上の深い意味はなくて……、と思うも、もう付き合って二年が経っているのだし……と過ぎらせてなおさら身体が熱を持ってふるふると首を振るう。
 未だに抱きしめられただけでドキドキしているのに、それ以上は、やっぱりまだ想像できない。
 でも、だけど、夏に2人でバカンスに出かけようと既に約束しているし……たぶん鳳はそういう事を期待しているだろうし、と過ぎらせるも、やはり考えられなくて恥ずかしさに唸りながらなおふるふると首を振った。
 そして、もう寝よう、と呟くと髪を乾かしてから電気を落とし、ベッドに入ってそっと目を閉じた。



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