ケンブリッジの学生にとって、3学期目にあたる”イースター・ターム”は一年の総決算時期だ。
 そして、学生を恐怖のどん底に陥れる5月の学年末試験に向けて、鬱々とした空気がケンブリッジ全体を覆う時期でもある。

 鳳も結局はイースター休暇のほとんどをケンブリッジで過ごしつつ、一週間ほどは同カレッジの同じ学部の同期たちとエディンバラまで遠出したりしてみた。
 幸か不幸か鳳の所属するカレッジには建築学部生が他のカレッジよりは多く、その分、結束も強ければライバル意識も強い。これも幸か不幸か学部の担当教授が同カレッジ所属であり、常にそばで見張られており、「気を抜けない」度ではもっとも緊張感のあるカレッジに所属しているとも言えた。しかしながら自分が望んだ勉強であり、そしてテニスも音楽も何不自由のない環境でやれている。とだって月に1,2回とはいえ会えて、全てにおいて人生でもっとも充実している時期であることも事実で、鳳としては不満どころか充実した学生生活を送れていると思っていた。
 も学校の勉強の傍らアトリエ通いやコンクール等々忙しくしているらしく、イースターに鳳がエディンバラまで出かけたことを羨ましいと言っており、鳳はそのうちに一緒に行こうと答えてお互いそれぞれが忙しい日々を過ごしていた。
 なにより鳳にとっては試験さえ終われば長い夏の休暇が待っており、既にとの旅行も具体化していて、この山を越えれば夏だと思えば忙しさもまるで苦ではなかった。

 そんな欧州事情とは裏腹に――日本。首都は東京では、金曜の夜を晩酌に費やす男の姿があった。
 名は宍戸亮。年は20歳。氷帝学園大学部・経済学部に在籍。一年目をちゃんとやり過ごし、何とか二年目を終え、無事に三年へと進級も叶ってそこそこにキャンパスライフを満喫していた。
 彼女は、いまだナシ。
 いや、正確に言えば外部から多数の学生が入学してくる大学部はメンバーもガラリと変わり、宍戸なりにいわゆる「男女交際」をやってみたりもしたわけであるが――いずれも長くは続かずいまに至っている。
 中学の頃は「女に興味なし」と硬派を気取り、高校の頃は「テニスで忙しい」と突っぱねていたが、さすがに今日日そこまで何かを取り繕おうとは思ってはいない。
 ハァ、と宍戸は自宅の自室で溜め息を吐いた。鳳も、も、二言目には「勉強が忙しい」と深刻な声で言っているが――果たして本当にそうなのだろうか? 本音を言えば、テニスに追われていない今の生活はどちらかというと暇である。むろん、今年度からは実習も始まるし、最低でも中・高の教員免許は取得しておきたくて自分とて時間はいくらあっても足りないほどなのだが――。
「イギリスは……ちょうど夕飯時か」
 時計の針はもうとっくに深夜。いや、夜明けすら近い。と、宍戸はちらりとビールを片手に時計を見やってそんなことを呟いた。
 鳳が渡英してからすでに一年が経っている。これで自分の世代の「テニス部正レギュラー」メンバーは跡部と鳳の二人がイギリスにいることになるが、いずれ日本を飛び出して行くことになるのは誰か? と問われれば誰もが名前を挙げるだろう二人でもあるため「やっぱりな」という感想しかない。
 それに、イギリスとフランスは隣国同士で首都は約二時間ほどで行き来できるという。と浮かべて宍戸はパリにいるの事も浮かべた。
 に最後に会ったのは、一昨年の夏だ。鳳が「最後の全国大会だから見に来て欲しい」と頼み、もそう思ったのか高校卒業と同時に引っ越しという多忙の合間を縫って八月上旬の短い間だけ一時帰国していた。
 鳳としては部長として臨む最後の全国大会で、自身の勇姿を彼女に見せたかったのだろう。功を奏したのか氷帝学園は緒戦から好プレイを連発し、全国制覇は叶わなかったもののベスト4という快挙を成し遂げて氷帝の歴史に新たな一ページを刻んだ。
 鳳は、トーナメント運があったんですよ、などと謙遜していたが、実力だろう。
 宍戸としてもむろん後輩の活躍は見逃せず応援に駆けつけ――例によってと共にいたために「あ、宍戸先輩の彼女だ」などと後輩が騒ぎ始め、それを諫めるのに言い放った鳳の一言はいま思い出しても頬が引きつりそうになる、とビール缶の腹を握ってコメカミをヒクつかせた。
『違うって。宍戸さんのじゃなくて、俺の彼女だから』
 大勢のギャラリーを背負ってさらりとそう言い放った鳳は――もはや立派に「氷帝の部長」そのものだった。
 長年の誤解に決着をつけてくれたのはありがたいことだが、どうものことになると鳳は自分のことを目の敵にしているように思う、と宍戸は一人拗ねたように唇を尖らせる。
 ついでに長年の疑問を、と鳳がどこでどう知り合ったのかを訊けば、鳳は幼稚舎の頃からに憧れを抱いており――鳳が中等部にあがってすぐに出会って、それから自然と仲を深めていったのだという。
 改めて、自分の入る余地などどこにもなかったのだ、と宍戸は思い知らされた。元より鳳がどれほど自分を敵視していようが、が自分など見向きもせずに鳳のことしか見ていなかったのだから勝負にすらならない。
「激ダサ……」
 ボソッ、と宍戸は一人吐き捨てるように呟いた。――は誰よりも近くにいて、とても大切な存在で。やはり、彼女に抱いていた感情は恋心だったのだろうか。と今さらに思い返しても仕方のないことだ。むしろ、が惹かれたのが鳳で良かったではないか。鳳がどれだけ好ましい人間かは自分が一番と言っていいほどに知っているのだから。成長してすっかり頼もしさを身につけて、こちらも「先輩でいなければ」と肩ひじを張らなくなってよくなったいま、年下の鳳はすっかり頼りになる良き友人でもある。 
 ふ、と息を吐いて宍戸は机に置いてあるノートパソコンを弄った。世の中ずいぶんと便利になったもので、通信ソフトを使えばインターネットを通じていつでもどこでもフリーで話せるのだから一昔前では信じられないほど変化したものだ。
 カチ、カチ、とマウスを操作して遠くイギリスの友人を呼び出すと――程なくして、パッと画面に友人であり後輩の姿が映った。
「よう、長太郎」
「宍戸さん。こんばんは、ですよね? って、また夜更かししてるんですか?」
「ウルセーな。どうよ、調子は」
「相変わらずです。でも何とか進級できそうな目処が立って、一安心しているところです」
 鳳は勉強でもしていたのか、メガネをかけて肩を竦めている。もともと彼の視力は良くもなく悪くもなく、といった具合で、時と場合によってはメガネをかけることもあるのだという。
 鳳の勉学についてはまったく分からない宍戸だったが、鳳の生活環境はスポーツ好きの人間にとっては涎が出るほど恵まれているらしく、テニスのことも含めてカレッジでの生活のことなど聞きつつしばし雑談に興じていると、ふと、ドアをノックするような音が響いて、おもむろに「バタン」と乾いた音が響いた。友人だろうか? 鳳のフラットメイトが鳳の私室に入り込んでくることはそう珍しいことではないらしいが――。
「チョウタロー! ちょっと課題手伝って! 私死んじゃう!」
「え……!? あ、ちょっと」
 急に耳に入ってきたのは英語で、宍戸は自然と耳を凝らす。さすがにこの程度の会話なら分かるのだが――と感じていると、いきなりカメラにはキャミソールで肌を露わにしたセクシー美女が写りこんできた。
「あら、チョウタローの友達?」
 相手は屈んでいるせいか、くっきりと胸の谷間が飛び込んできて、宍戸は思わず画面から身を引いた。視界の映像の中で、鳳が慌てている様子が映っている。
「わ、ちょっと……! アリッサ!」
「ハーイ! はじめましてかしら?」
「ちょ、ちょっと……、すぐ行くから先にリビング行ってて!」
「なによ、いいじゃなーい」
「いいから!」
 返事のままならない宍戸が唖然としているうちに、彼女は鳳に押しやられる形でフレームアウトし――鳳は深いため息を吐いた。
「すみません、宍戸さん。お騒がせして……」
「いや、いいんだけどよ。誰だ? いまの女」
「あ……ええと」
 そうして鳳は手短に説明したものの、つい今の約束があるからと通信を切ってしまい、宍戸は腕組みをして唸っていた。
 鳳がイギリスでどんな生活を送っているかはむろん詳しくは知らない宍戸であったが、宍戸の中の常識では夜に男の部屋に女が入り込んでくるというのは「あり得ない」ことである。恋人ならともかくも――、いや、これは欧州では普通なのか? と思うもどうにも納得しがたい。
 なにより、こんな事態をは知っているのだろうか――と浮かべてしまったものだから宍戸は歯がみをした。
 他人の恋愛に口を出す気は全くないが、彼らのことだけは知って知らないフリはできない。一応、いま見たことを伝えるべきだろうか。――とは言え、連絡ごとに関しては恐ろしくドライであるのことだ。携帯を鳴らしても繋がるかは分からない、ネットにも繋いでいるかどうか。と思案しつつ画面上での名を探すとやはりオフラインになっている。
 いや、もしかしてオフラインに見せているだけでオンなのでは、と思い至って宍戸はへと通信を入れてみた。心の奥底に、単にと話せる口実を無理やり作っただけだ、という本音を沈めて、しばし呼び出し音がを聞き続ける。が――やはり出てはくれず、そろそろ切ろうかと思った瀬戸際で、急に画面が華やいだ。
「ごめんなさい! ちょっと席外してて……」
 パリも今は週末の夜のはずだ。帰宅したばかりのような装いの久々に見るの顔に、宍戸は眉を寄せつつも微笑んだ。
「よう」
「宍戸くん! どうしたの……? 日本っていま真夜中なんじゃ……」
「いや、まあそうだけどよ。一人寂しく晩酌してたらこんな時間になっちまっただけだ」
「そっか、修学旅行の時と違って、もうビール飲める年齢だもんね。フランスは16歳からだから、他よりちょっとはやかったけど」
「それズリーよなぁ」
「そう言われても……。でもフランスはワインの産地でもあるから、本当にワインが身近にあって楽しいよ」
 そんな会話を楽しみつつ、ふと宍戸は探るように言ってみた。
「お前、さ。その……長太郎とは上手くいってんだよな?」
「え……!?」
 宍戸の口からそんな台詞が出るとは思っていなかったのだろう。は目を見張って瞬きを繰り返し、訝しげに首を捻った。
「うん、変わらないと思うけど……。どうして?」
「あ……いや」
 つい今のことを言うか否か。これは告げ口というものなのだろうか? しかも言ったところでよりを不安にさせるだけではないのか。いかしかし、でも。鳳に限ってあり得ないとは思うが、の知らないところで自分の部屋に女を連れ込んでいたとしたらそれはそれで大問題であろう。
「その……俺の勘違いならいいんだけどよ」
「うん」
「さっき、長太郎と話してたら……アイツのパソコンのカメラに、その、女が映ったモンだから気になっちまって」
「え……!?」
「い、いや! 他意はねーと思うんだけど、よ……」
 目を見張ったにしどろもどろになりつつ説明すると、ああ、とは肩を落として苦笑いを浮かべた。
「その人って、たぶん同じカレッジのフラットメイトだよ。鳳くんのフラットって、建物自体か一階あたりかは知らないけど数人用だって言ってたから、たぶんその中の一人なんじゃないかな」
「い、いや、けど……!」
「日本じゃあり得ないかもしれないけど、こっちだと男女関係なくハウスシェアするのって普通のことなの。でも、慣れないとちょっと変な感じだよね」
 画面の中のが肩を竦め、宍戸はむーと唇を尖らせた。
 欧州では”アレ”――夜に男の部屋に入ってきて、ワザとかどうかはともかく谷間を見せ付ける――が、普通なのか。と思うと、羨ましい。いや、やはり危ないのでは。などと悶々と考えてしまうが、これは自分の感覚がおかしいだけなのだろうか? 間違いがあってからでは遅いのではないか。と考えてしまうのは老婆心だろうか。
 いずれにせよ、が何も知らないというわけではないと確認できただけでもいくらかホッとした。――いや、たぶん、久々に話せて単に嬉しかったなどという本音にはむろん気づけず、宍戸は雑談もそこそこに通信を切って一気に残りのビールを飲み干すとベッドへと身を沈めた。 

 一方その頃の鳳は、宍戸がに通信まで入れていたなど露知らず、学年末試験前ということもあって結局はリビングにフラットメイト全員が集って諸々参考書等を広げることとなっていた。
「チョウタロー! ここ分かる? どうやればいいと思う? アイディアある?」
「マジでボクやばいよ進級! 6月が怖い!」
 鳳にとって、最初は「英語」で、しかも高度な内容に付いていくのにやや戸惑ったものの、勉強内容はどれも興味深く、慣れさえすれば勉強も別段苦でもなく、成績も好調で「進級できない」という程の恐怖はなかった。だからこそ少し余裕があり、彼らの質問に丁寧に答え、自分もまた参考書と向き合う。
「マスやフィジックなんてこの世から消えるべきだよ! 誰だい、万有引力なんて発見したのは!」
 ――俺らの先輩なのでは。と発狂気味の声を耳に入れつつ鳳は脳裏で突っ込みを入れた。
 そうしてしばらくして眠気覚ましのコーヒーを淹れる頃には、鳳の眼前の二人はゲッソリしてテーブルに突っ伏してしまっていた。
「大丈夫?」
 はい、とミルクを添えて淹れたコーヒーを差し出すと、鳳の方を向いた青い瞳が緩む。
「ありがとう。チョウタローはほんっとに優しいわね!」
「そんな……、普通だよ」
 ははは、と苦笑いを浮かべると、彼女はカップの持ち手に力を込めた。
「にしても、さっきの通信相手は誰なの?」
「あ……ああ。一級上の友達だよ、高校の時の」
 先輩という面倒な概念は説明せずに言うと、なぜだか肩を竦められてこう言われた。
「せっかくこっちが挨拶してるのに、返事もしなかったじゃない。ほんっと日本人てなに考えてるかわかんないわ! おどおどしちゃって、暗ーい!」
 それは自分としても痛いところだ、と鳳としては反論に詰まると、ハッと、彼女――アリッサは途端に可愛らしく手を叩いて小首をかしげた。
「あ、もちろんチョウタローは別よ!」
 感情に素直というか、起伏が激しいというか。確かにこれほど喜怒哀楽を素直に表現できる性格ならば日本人は理解しがたいのかもしれない。と思うも、一年近くも同じ空間で生活しているのだから既に慣れたものである。
「隣でギャンギャン騒がれるより、ボクは大人しい子の方がいいなぁ……、ジャパニーズガールなんて最高だよ……」
 勉強疲れで青い顔をしてテーブルに突っ伏していた男性の声に、さっそくアリッサは矛先をかえて噛みついていった。
「なんですって!? ブライアン! アンタ、単に自分の思い通りにいく女がいいだけでしょ! そんな女、この世にはいないの!」
「ウルサイなぁ……。そんな夢みたいな女の子がたくさんいるのがジャパンなんだよ! パラダイスだよパラダイス。サムライ・ゲイシャ・フジヤマ・アニメ!!」
 鳳にとっては変に飾られることもなく、かといって馴れ馴れしいわけでもないこの二人のフラットメイトは居心地のいい存在であるため、日常茶飯事のやりとりを微笑ましく見つめていると、一頻り言い合いが終わったらしく「そうだ」と男性――ブライアンの方がこちらに視線を送ってきた。
「チョウタローのガールフレンドもジャパニーズガールだろ? やっぱり大和撫子って感じかい?」
「え……!? あ……、いや……。う、うん、可愛い人だよ」
「フランス語、堪能なんだろう? 一度連れてきてくれよ! ボク、フランス語が恋しいんだ」
 彼はカナダのケベックからイギリスに来ており、英語・フランス語ともに話すがフランス語の方が日常的に使っていたという。鳳が返事に窮していると、「そうね」とアリッサも話に乗ってきた。
「チョウタローの彼女なら私も会ってみたいし、見てみたいわ! どんな子か興味あるもの」
「ええッ……!?」
 一瞬、鳳は狼狽するも、そうそう、とさらにブライアンが相づちを打つ。
「確か、6月って彼女の誕生日なんだろ? ここでパーティを開いて招待するってのはどうだい? ボクたちも進級決まってるだろうし、みんな揃ってハッピー・ナイトだよ!!」
「ええッ!? ていうか……よく覚えてるな、俺の彼女の誕生日とか」
「あら、私も覚えてるわよチョウタロー。アンタ、去年の6月はA-Levelの試験に追われてて、要求通りの成績取れなかったら入学できないから予備校通いで缶詰だったんでしょ? せっかくの彼女の二十歳の誕生日なのに祝ってあげられなかったー、とかって何度も懺悔してたじゃない。確か、私がソレ初めて聞いたのってチョウタローがカレッジに入ってきてすぐの秋だったわよ」
「そうそう、教授の蘊蓄に付き合わされてバーから帰ってきた後とかさァ」
「そ……そうだっけ……」
 確かに去年の春先は受験生でもあったし、予備校通いでてんてこ舞いで、せっかくのの二十歳の誕生日にそばにいて祝ってやることは出来なかった。それは未だに心残りではある。が、後々それに関してクダを巻いた覚えは微塵もない。が、でも……、記憶にないだけでそういうこともあったのかなぁ、と鳳は頬を染めてバツの悪そうな顔を浮かべるも、一方で「いいかもしれない」と微笑んだ。
 カレンダーを確認すると、の誕生日はちょうど土曜にあたる。6月に入れば試験からも解放されているし、休暇にも入るし、なによりも以前ここケンブリッジに来たいと言っていたのだ。本当にいい機会だろう。
 思い立ったが吉日で、さっそくに連絡を取れば喜んで承諾してくれ、鳳はそれを励みに気を緩めず日々を過ごし、一年でもっとも辛い試験期間をどうにか乗り切って無事に一学年目を滞りなく終えた。



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