しばしスケートを楽しんだあと、鳳とはウォータールーを目指した。
 そろそろテムズ川の夜景を眺めるのにもちょうど良い時間帯であるし、せっかくなのでロンドン・アイに乗ろうという話になったのだ。
「ロンドン・アイに乗るの、久々だね」
「そうですね。初めてロンドンでデートして以来ですよね」
「そうだったね。あの時は……日が長くて、まだ外は明るかったっけ」
 搭乗を待ちながらそんな話に花を咲かせる。は、ロンドンではこの辺りのテムズ川界隈が好きだという。おそらく、どことなく景観が故郷の有明に似ているからだろう。
 ただしロンドン・アイのカプセル収容人数は一基につき25人であり、名前の通り瞳の形をした独創的なカプセルに大人数が一緒に乗り込む他の観覧車とは一線を画したシステムになっている。
 やはりバレンタインの夜、面白いようにカップルだらけで、自分たちの番がやってきて鳳は微笑ましく思いつつも少し肩を竦めた。けれども、たぶん自分の考えていることも他の男性陣と一緒だろうな、とを誘って窓際の方へ寄った。手すりに手を置くを後ろから覆うようにして自分も手すりに手を置いて外を眺める。こういうときは、かなりの体格差があることを便利に感じるものだ。
 しかし。上昇をはじめたカプセルからの光景は、にはロマンチックなムードよりも画家としてのスイッチを押してしまうことを優先させたらしく、「わあ」と弾む声をあげながら多方面を手の枠で切り取って吟味している。
「夜のビッグ・ベンってほんとに素敵! でも、夜景って表現が難しいんだよね。このカプセル大きいし、もしも貸し切れたらキャンバス持ち込んで描いてみたいな……!」
 はしゃぐを見て微笑ましく思う反面、やや失敗したかな、と鳳は苦笑いを漏らした。さすがに30分もこのテンションは続くまいと思うも、絵に関しては続くのがだ。――こういう時、もしかして跡部だったらロンドン・アイを彼女のために貸し切ってしまうのだろうか、と思考がいよいよ現実逃避を始めてハッと首を振るう。
「そうだ先輩、写真撮りましょう!」
「え……?」
「せっかくですから、撮ってもらいましょう」
 ね? と鳳はに念を押した。撮ってもらう、を強調しなければカメラも得意としているは自らがカメラマンになってしまうからだ。
「う、うん」
 が頷くや否や、鳳はそばにいた男性に声をかけて無事にツーショットを撮ってもらうことに成功した。
 一旦思考が切り替わったためか、の意識も少しは絵からそれてくれたようだ。ふ、と笑いつつさっそく手に入れた写真を待ち受けに設定すると、覗き込んだが困惑気味に頬を染めている。
「え……、ま、待ち受けにするの?」
「ダメですか?」
「は、恥ずかしいよ」
「2人なのに?」
 以前、鳳はのピン写真を待ち受けにしようとして拒まれた経緯がある。以来、待ち受けはフォルトゥナータとなっていたが、ツーショットならばいけると思ったのだ。
「先輩とは毎日会えるわけじゃありませんから、こうやって身近に感じていたいんです」
 笑って言えば、は目元を染めて視線をそらせてしまった。ふ、と更に笑みを深くしつつ携帯を閉じようと画面に目をやって何となく時刻を確認する。ちょうど8時を過ぎたあたりだ。
 するとも気になったのか、自身の腕時計を見て「8時か……」と呟いていた。
「そういえば、お腹すいてきちゃったかも。晩ご飯どうしようか? なにか食べたいものある?」
 テムズ川の水面が近づいてきた。もうじき終わりだ。としては今日はあくまで自分の誕生日であるため、最後までこちらをもてなそうとしてくれているのだろう。一生懸命、どこがいいかおそらくあまり詳しくないだろうロンドンのレストランを考え思案顔をしている。
 そう思うと、少々申し訳ない気もするが――。と、ついに一周回り終えたカプセルから降り、テムズ川沿いを歩き始めて鳳はの方を向いた。
「先輩、晩ご飯なんですけど……」
「うん、どこがいい?」
「俺、レストラン予約してあるんです」
 言えば、はまさに不意打ちを受けたように目を大きく見開いた。
「え……!?」
「ここから歩いて15分もかからないと思うんですけど……」
「え……、え、でも、今日は鳳くんの誕生日、だし……」
 にしてみれば、ゲストがいきなり鳳から自分に入れ替わったようなもので、目を瞬かせつつ困惑しているのが見て取れた。けれども、こちらではバレンタインは男がエスコートする日と相場は決まっている。
「俺はもう十分祝ってもらいましたから。今度は俺にもさせてください」
 ね、と小さく念を押せば、の頬がぴくっと撓って息を詰めたのが伝った。そのまま、ふ、と笑って鳳はの手を取って歩き出す。
 には申し訳ないが、自分は彼女をエスコートしている方が好きで。でも、ことあるごとに「先輩」っぽくあろうとする彼女を可愛く思っていることと、未だに彼女の中で自分は「後輩くん」なのだろうかという不安と不満が自分の中にあると知ったら、彼女は機嫌を損ねてしまうだろうか?
 できればもう少し頼って甘えて欲しいんだけどな、と思いつつ歩いていると目的の場所が川沿いに見えてきた。
 その建物はちょっとしたタワーもある、カフェやショップ、アトリエなどが多数入っている総合商業施設だ。最上階はレストランやバーが入っており、ロンドンでは数少ない展望の良いレストランだと評判の場所でもある。
 最上階へ登ってレストランに入れば、程良く照明を落とした空間にうっすらブルーで統一されたライトで彩られた空間が現れ、鳳はスタッフに予約していることを告げた。
 そうして、鳳が事前にリクエストしていた通り窓際の眺めのいい席に通され、はコートを脱ぐのをウェイターに任せてから預け、鳳も自身のコートを預けて席に着いた。
 開放感のある窓からは、薄ぼんやりとテムズ川の夜景に浮かび上がったセント・ポール寺院が見えた。
「素敵だね……」
「そうですね。いい席に通してもらえて良かったです」
 周りもまた、当然のようにバレンタインのデートを楽しむカップルばかりだ。が、はやや気後れしているように見えた。もしかすると、まだ、自分がこちらの誕生日を祝うべきなのに、と感じているのかもしれない。が――もう慣れてもらうしか他ない。
 鳳は取りあえずシャンパンを頼み、改めてと向き合ったが、おそらくとしてはディナーも自分が招いて「おめでとう」ではじめるつもりだったのだろう。言葉が上手く出てこないといった具合にまごついており、鳳は肩を竦めた。
「あまり気に入りませんか……?」
「えっ、そ、そんなことないよ! すっごく素敵だし……でも、その……」
「だったら笑って、楽しんでください。俺は先輩に楽しんでもらいたいんですから」
「鳳くん……」
 イベントの日と誕生日が重なることの不便さは、いままで生きてきて痛いほど身に染みているが。今日ほど厄介に思ったことはないかもしれない、と思いつつ少し寂しさも感じて眉をさげると、はこちらをしばし見つめてから、小さく「うん」と頷き笑みを見せた。
 そうして鳳も笑みを返し、少しのあいだ微笑み合ってからメニューを確認した。レストラン自体はモダン・ブリティッシュ料理を謳っており、なるほど元来のブリティッシュとは違う多国籍なインターナショナルという印象のメニューだ。
 それぞれ前菜とメインを決め、鳳としては「食ではパリに勝てないから、せめて景色だけでも」と景色の良さに拘って予約したレストランだったが、運ばれてきた料理は予想よりも遙かに美味しく、2人でその意外な美味しさに笑みをこぼして舌鼓を打った。
 昼間にケーキを食べたせいか、はデザートは頼まず、ゆっくりと食後のコーヒーを堪能しつつテムズ川の夜景もじっくりと堪能した。やはり、景色もいいと気分もいいものだ。これでもしも夜も一緒に過ごせるなら、バーなどでもう少し2人で過ごしたいところだが……と思いつつ、レストランを出れば、外は深々と冷えていた。
 既に10時を回っているというのに、テムズ川のほとりではまだまばらにカップルが語らっている。
「美味しかったね」
「はい。俺、久々にあんな美味しい料理を頂きました」
「夜景も綺麗だったし……。ありがとう、鳳くん」
 そしては嬉しさとやや申し訳なさが混じったような笑みを浮かべて、鳳は思わずハッとして足を止めた。
 いえ、と呟くも、の方は白い息を吐きながら少し前を歩いて、テムズ川の対岸の方を見やっている。
 また景色を吟味しているのだろうか――、自分はいつもそんな彼女を見つめていて、気づいて欲しくて、振り向いて欲しくて。だけど。
『俺とはもう、話もしたくない?』
『俺はもっと先輩と話したいし、先輩と一緒にいたい。なのに……ッ』
 一歩踏み込もうとして拒否するように避けられたのは、ちょうど5年前の今日だったっけ、と忘れられない痛みを思い出してしまった自分に自嘲した。
 もっと彼女のことが知りたい。もっと自分のことを知って欲しい、とあの日に言った言葉は、いまも少しも変わってない。と、鳳はの方に歩み寄るとそっと後ろから彼女を抱きしめて自分の胸へ閉じこめた。
 わ、と呟いた彼女の身体が熱いのか冷えているのかさえ分からないのがもどかしい。
「先輩……」
 どうしても触れたくて、鳳はの胸の前で交差させていた自分の左手で右手に着けていた手袋を外すと、そっと親指の腹での唇に触れた。
「っ……」
 ぴく、との身体が腕の中で撓った。鳳はその柔らかい感触を確かめてから人差し指の関節で顎をとらえ、そのまま横を向かせて上から覆うようにの唇に自身の唇を重ねた。
 指で感じた以上の柔らかさに目元が震えたのが自分でも分かった。いつもと変わらない彼女の唇の心地よさに目眩を覚えつつ性急に深く口付けると、がコートの上から腕をキュッと掴んだのが伝った。
 しっかりと耳元を手で捕らえて、追いかけるように夢中でキスしたあとに少し呼吸を入れれば、白い息が逃げていく。その息さえ飲み込むように再度、今度は正面から重ねて、彼女の熱さを堪能しながら自身の熱を懸命に伝えた。
「んっ……、ん」
 口の端から漏れてくる彼女の声が甘くて、ゾクゾクと脳が痺れるような感覚で支配されていく。――こうして触れ合うたびに、もっとその先が欲しいと感じるのは傲慢なのだろうか? 本当は、今日自分が一番欲しいものを伝えたら。彼女は、どうこたえるのか。
 少しだけ唇を開放すると、は両手でギュッとこちらの腕を掴んで荒い息を吐いた。白い靄がかかった先のとろんとした表情にゾクッとする間もなく、彼女は力なく胸に寄りかかってくる。
「先、輩……」
 もう少し先に進みたい、と急く気持ちが身体中を巡って熱い。けれど、せっかくこうして受け入れてくれているのに、いま急かして嫌われたら……とそっと彼女の後頭部に手を添える。髪の毛に隠れたの耳は、暗がりではっきりとは分からないものの赤く染まっているように見て取れた。
 やはり衝動的なことはよそうと思い直し、右手でそっと彼女の髪を撫でながらハッとする。腕時計を見ると、すでに10時半を指していた。
「そろそろ、帰りましょうか」
 そっと身体を離しながら言えば、は小さく頷いた。
 そのままの手を引いて通りに出ると、辺りに待機しているタクシーに声をかけて乗り込む。そしての泊まるホテルを経由してからキングス・クロス駅に行ってくれるよう伝えた。
 どちらともなく肩を寄せ合って、無言で手を重ね合わせた。さっきのいまだからというわけでなく、たいていは別れが近づくと言葉が少なくなる。寂しい、と感じてくれているのなら嬉しいのだが。と探るような目線でを見やると、気づいたのか彼女は薄く笑った。それだけのことでまた心音が勝手に跳ねるのだから、本当に自分でも重症だと思う。
 昼に訪れた劇場を通り越して少しすると、タクシーが止まった。着いたのだろう。
 は礼を言って降り、鳳も見送ろうと一旦外に出た。やはり、帰してしまうのは少し寂しい。
「今日はありがとう。楽しかった」
「いえ、こちらこそ。プレゼントもありがとうございます。大事にします」
「うん。じゃあ、またね」
「はい。おやすみなさい」
 言いつつ、名残惜しくて鳳はそっとの頬に手を伸ばすと上唇を挟むようにしてキスをした。すぐに離すも、は少し頬を染めて俯きがちで視線を流した。
「お、おやすみ」
 鳳は、ふ、と笑い、がホテルに入ったのを見届けてから車内に戻ると車を出してもらった。
 そして時計を見やる。どうやら11時過ぎの列車には間に合いそうだ。ケンブリッジに着くのは12時前後か、と思いつつそっと窓の外を見やった。

 一方、の方はチェックインを済ませてから自室に向かった。
 ロンドンには午前中に着いたために、チェックインはまだだったのだ。預かってもらっていた荷物は既に部屋に運んであるという。
 見たところ、このホテルはタウンハウスを宿泊施設に改築した良くあるB&Bタイプだ。相当に古そうだが上品な感じで、価値のある建築物なのでは、と階段を上がりながら思う。まだ鳳が氷帝の高等部にいた頃、一人でロンドンに来た時などはもっと簡素なB&Bに泊まっていたものだ、と懐かしく思いつつ指定された部屋に入っては絶句した。
「え……」
 目に飛び込んできたのは一面豪奢なアンティークで取りそろえられた、まるで貴族の部屋のような凝った内装の部屋だったのだ。温かみのあるブラウンでまとめられた室内に置かれたベッドには、灯り避けか3分の1ほど屋根で覆われてカーテンまで付いている。
「え……、なに……」
 てっきりB&Bだと思っていたは虚を突かれて目を見開くしかなかった。これはB&Bではなく、かなり高級なブティックホテルでは、と驚きのままキョロキョロとしつつ、恐る恐るバスルームを覗いてみて更には目を見張った。
 ヴィクトリア様式のバスルームの奥にドンと置いてあったのは、いわゆる猫足のバスタブと呼ばれるタイプのものだ。よほどデザインに拘ったのか、ヒーティングまで内装に合わせてアンティーク調にアレンジしてある。
 ――鳳は、いつものホテルが取れなかったから別のホテルにしました、と事前に言っていた。決していつものホテルが悪いわけでなく、大きく便利なチェーンホテルだ。が、代替にしてはかなり違う気がする、となお困惑しつつも取りあえず自身の荷物を探していると、ふとテーブルに何かが置かれているのに気づいた。
 アメニティの一種だろうか? と近づくと、何とも可愛らしい小さな箱だ。
「チョコレート……?」
 考えてみれば今日はバレンタイン。ホテルからかな、とそばに置いてあったメモを手にとって目を通し、はなお目を見張った。
 ――あなたのボーイフレンドから。と英語で短く書いてあり、思わず手で口元を覆ってしまう。
「ッ……」
 そのチョコレートが鳳からのプレゼントで、そもそも、このホテル自体が鳳からのプレゼントだったのだと悟って、なぜだか訳も分からず視界が滲んできた。
 今日は鳳の誕生日だというのに、自分の方が何倍もしてもらってしまっている。嬉しいのに、なんだかもどかしくて申し訳なくて、さっき別れたばかりなのにどうしようもなく会いたい衝動にかられた。
 鳳はまだロンドンだろうか? いてもたってもいられず、逸るように携帯を取り出して鳳へとかけてみる。
「はい、鳳です」
「あ、鳳くん? まだキングス・クロスにいる?」
「ええ。あと5分ほどで出発です。さすがに昼間に比べて閑散としてますね」
 携帯の先で軽く笑っている声ですら、キュッと胸が締め付けられる思いがした。
「あの、ホテル……! それから、その、チョコレートが部屋に置いてあって……」
 逸った気持ちのまま言えば、一瞬、鳳は息を詰めてから薄く笑ったような気配がした。
「気に入ってもらえました?」
「うん、すっごく!」
「良かった」
「でも、私、今日はしてもらってばかりで……」
「俺だって色々もらってますよ。ロンドンまで来てもらってるし、絵だって楽譜だって頂きましたしね」
「でも……」
「先輩、俺、ホントはそばにいたいんです。いまだって、できればケンブリッジに戻りたくない」
「え……!?」
「できないから、先輩が少しでも今日の夜を楽しんでくれれば俺はそれが嬉しいんです。できれば、俺のことを考えて想ってもらえれば、もっと嬉しい」
「え……」
「あ、すみません。列車が出ちゃうんで行かないと。じゃあ先輩、おやすみなさい」
 ピッ、と通話が切れて、少しばかりは惚けてしまった。――いま、なんだかとんでもないことをサラッと言われた気がする。と後追いで気づいて、カッと頬が熱をもつ。
 そのまま耐えきれずに両手で頬を覆って力なく椅子にへたり込む。すれば、一気に今日起こった出来事が色々と頭を巡り始めていよいよどうしようもない。
「やだ、もう……」
 もはや自分で恥ずかしさに耐えられずに、は気を紛らわせるため風呂に入ろうとバスルームに駆け込むとバスタブの蛇口を捻った。
 まだ頬が熱い。たぶん身体は、一日の大半を寒空の下で過ごして冷えているはずなのに――とお湯が溜まったところで湯船に身体を沈めるも思わず膝を抱いてしまった。
『できれば、俺のことを考えて想ってもらえれば、もっと嬉しい』
 なにを言うんだろう。鳳のことなんて、言われなくたってずっと考えている。ずっとずっと、好きでたまらないのに、と意識して自ら恥ずかしくなってぶくぶくと顔の半分をお湯に沈めて気を紛らわせてみた。
 何だかんだ、お風呂に入っていると落ち着くな、と改めて日本人らしいことを思って風呂を終えて部屋へと戻り、改めて凝った作りのベッドをまじまじと見やった。
 無意味にカーテンをつついたりして物珍しい感触を確認しつつ、そっとベッドにあがってみる。
 ――鳳の誕生日はずっと楽しみで、自分に多少なりともできることと言えば絵を描くことくらいで、鳳が喜んでくれたら嬉しいと彼の誕生日に相応しい絵を描いたつもりだ。生意気かもしれないが、おそらく値を付ければそれなりになるだろうという自信もある。楽譜だって、随分と悩んで相談して喜んでくれそうなものを選んだつもりだ。
 そう、本当に心から今日を楽しみにしていた。
 だけど。自分はたぶん、どこかで彼がパリに来ることは避けていたと思う。もしもパリだったら、もし鳳が自分のアパルトマンに泊まりたいと言えば。断る理由はなにもなくて、鳳が自分の部屋に泊まるということは、たぶん”そういうコト”で。
 鳳が、ソレを望んでいるだろうことも分からないほど鈍感ではないつもりだ。
 恋人同士なのだからきっと自然なことだと思う反面、まだいまの関係のままでいたくて――。
 でもやっぱり、寂しいな、と俯いてはハッとした。
「あ……」
 そういえば、何となく流してしまったが、昼間に鳳が何か言っていた気がする。夏にどこに行きたいか聞かれて、確かクロアチアに行ってみたいと答えて。ならば夏はクロアチアに行こう、と鳳が言って。
『俺、楽しみです。先輩とどこかへ遠出することって初めてですから』
 正確に鳳の声と台詞が脳裏にリフレインして、思わずは顔をあげた。
「え……!?」
 一気に感傷的な気分は飛んでしまった。
 もちろん、行きたいと思った気持ちに嘘はないのだが。とんでもない約束をしてしまった気がする、と一気に頬が熱を持った。
 たぶん、今度こそ避ける理由も拒む理由もない。自分だって鳳と一緒に旅行できるなら嬉しいし、もっと一緒にだっていたい。
「夏休み……」
 夏の休暇まで3ヶ月以上はある。それまでにちゃんと心づもりをしなければ、と考えれば考えるほど体温があがってきて、この問題をいま対処するのは無理だと悟ったはそこで考えるのをやめた。
 取りあえず寝よう、と電気を落としてベッドに入る。色々あったけど、やっぱり楽しかった――と少し微笑んでからはそっと目を閉じた。

 その頃、ケンブリッジの自身のフラットに戻った鳳はシャワーを浴び終えてバスローブ姿で自身の髪にタオルをあてていた。
 既にからもらった絵は壁に飾り終えてあり、チラリと見やって、ふ、と微笑む。
 は謙遜していたが、こちらはに恋愛感情を抱く以前からのファンでもあるのだ。これだけで十分すぎるほどに贅沢なプレゼントだ。それに――、どう選んだのか、楽譜はドビュッシーのワルツだった。鳳としてはドビュッシーはそれほど好きな作曲家ではなかったが、譜面を見るとかなりドビュッシー色は薄く、ショパンなどの影響が見て取れる曲のようだ。店のスタッフか隣の住人か、から相談を受けただろう人物に脱帽するとともに軽く嫉妬さえ覚えてしまった。
 それにしても――、と思う。
 は、今日の自分の言葉をどう受け止めたのだろう?
 いまの関係をもう少し先に進めたい、という自分の気持ちは……おそらくは伝わっているとは思うが。
 いずれにしても、イースターは無理でも夏の休暇には今度こそゆっくり2人で過ごす時間が取れるだろう。別に焦る必要はない。取りあえず夏までは、いまのままでも平気だろう。たぶん。と、やや自信がなく自嘲してしまう。
 やっぱり欲張りなのかな、と思う。ようやく自分の気持ちを受け入れてもらえたのに。けれどもその反面、もうずっと――12歳の頃から、ずっと待っているのだから。と考えてしまうのは身勝手だろうか。
 今のままというのがいやなわけではない。けれどももっと、もっとのことを知りたい。――と、先ほどテムズ川のほとりで交わしたキスの感触をうっかり思い出してしまい、「うわ」とうっかり声が漏れてしまった。
 思い出しちゃダメだ、と自身を叱咤するも、脈が熱く波打って心拍数が勝手に上がってくるのだから我ながら厄介だと思う。
「先輩……」
 ――夏までだと思えば。たぶん耐えられる、よな。と巡る熱を持てあましつつ、鳳はそっと部屋の電気を落とした。



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