――1月中旬。

 パリ・ボザールの後期にあたる春学期は、通常1月の終わりから始まる。それ以前は冬休み兼試験期間でもあり、は勉強に追われつつも、暇を見つけて自身のアパルトマンの作業室で私用のために小さなキャンバスに向かっていた。
 ――鳳は冬休みの間は日本に帰国しており、また、ケンブリッジ大学は1月初旬早々に二学期が始まるため、鳳の新学期と入れ替わる形で試験期間に突入したは、当然ながら彼と会う時間は取れていない。
 冬休みにゆっくりと会う時間が取れなかったことは、むろん残念であったが、としてはほんの僅かだけ安堵した部分もあった。
 それは……、と考えて、ぴく、と手首が撓る。
 鳳と会う時はいつもロンドンで、はたいていホテルに泊まるが、鳳は夜にはケンブリッジに帰っていた。
 なまじ週末しか会えないという中で、いままでは鳳がまだ生活に慣れていないこともあって彼がパリに来てくれたことはないが……、来たとしたら、鳳も自分と同じようにパリにホテルを取るのだろうか? それとも――。と、つい考えてしまう。
 鳳をこの家にあげることに抵抗はもちろんない。が、でも……とその先のことまで過ぎらせてはハッとして少し頬を染めた。
 冬休み、もしも鳳が帰国していなければ、きっとゆっくり会う時間が取れただろう。週末という制限もないのだから、きっと数日は一緒にいられたはずだ。
 もちろんそれは嬉しいが――、付き合っている相手と数日間一緒にいることは、おそらく”そういうコト”が避けて通れない。それに対して、どうしても積極的な心境になれない。冬休み、自分はクリスマス・年末ともにこちらの友人たちに誘われており、さらに鳳からは帰国すると聞かされて、ちょっと残念に思ったのとは裏腹にほんの僅かだが安堵してしまった。そして、そんな自分を鳳に申し訳なくて嫌悪した。
 けれども、抵抗がある、と感じている反面、ロンドンに一人残って鳳を見送る夜などは、寂しい、と感じてしまうのだから我ながら矛盾していると思う。
 でも……、と錯綜した思いが巡って、は一旦気持ちを切り替えようとキャンバスの前から立ってダイニングへと向かった。
 コーヒーを淹れてから、ほっと一息つく。
 2月に入れば、すぐに鳳の誕生日――バレンタインがくる。今年のバレンタインは、土曜日だ。
 だから、会いたいな。と思う反面、どうしても先ほどのようなことが過ぎってしまう。もしも泊まりで会いたいと言われたら? と。
 でも――。鳳の誕生日をそばで祝えるのは、今年が初めてだ。やっぱりちゃんと祝って、一緒にいたい。もしも鳳が忙しくても、「おめでとう」の一言だけでも顔を見て言いたい。
 そう考えると、自然と鳳の笑顔が浮かんでの頬も自然と緩み、そしてふと時計を見上げた。
 夜にでも連絡を入れて相談してみよう、と自身に頷くと再び作業部屋へと戻ってキャンバスに向かった。

 一方、その日の夜。鳳は自身のカレッジダイニングで夕食を済ませた後、外へ出て目的地であるクレア・カレッジへと向かっていた。そこの音楽用練習室でクレアに所属する友人の合奏練習に付き合う予定なのだ。その後は、きっとカレッジのバーで雑談も交えつつ過ごすことになるだろう。予習復習に費やす時間をどう取ろうか、と考えつつ登っていく白い息を見上げる。
 そのまま夜道に肩を震わせて歩いていると、ふと携帯が鳴った。ハッとして画面を確認すると発信元はだ。自然顔が綻んでしまった。
「はい、鳳です」
「鳳くん、こんばんは。いま大丈夫?」
「大丈夫ですよ。先輩こそ……どうですか、試験は?」
「うん、まあ、そこそこかな。あの、ね……」
 少しだけの声が細くなり、鳳は耳を澄ませた。すると、誕生日の予定はどうかと聞かれ、もちろん二つ返事で空いていると答える。
「良かった。じゃあ14日……ロンドン、でいい?」
「いいですけど……、いつも来てもらってるし、俺がパリに行ってもいいですよ。たぶん、そんなに忙しくもないと思いますし」
「えっ!? で、でも、鳳くんの誕生日なんだし……わざわざ来てもらうのは気が引けるよ」
「そう、ですか? はい、じゃあロンドンで」
「うん。鳳くん、なにか欲しいものある?」
「え……?」
 訊かれて、鳳は無意識に歩みを止めた。プレゼントという意味だろうが、返答に困る質問の一つだ。
「そんな……、俺、先輩に祝ってもらえるだけで十分です」
「で、でも……。じゃあ、何か食べたいものとか。あ、行ってみたいレストランとかある?」
 携帯の向こうでが必死に考えている様が浮かんで、鳳は少し肩を竦めて苦笑いを漏らした。
「お気持ちだけで十分です」
 言うと、やはり携帯の向こうでは困ったように唸っていた。鳳としてもその答え方は良くないのは分かっていたが、それ以外、答えようもないというのもまた事実だからどうしようもない。
「先輩、14日にロンドンに来られるんですか?」
「え……、うん、そのつもりだけど……。朝、ロンドンに行って、その……遅くまで一緒にいたいし、日曜にパリに帰ろうかなって考えてるんだけど」
「分かりました。じゃあ、ホテルをとっておきます」
「えっ!? い、いいよ、鳳くんの誕生日なんだし、今回は自分で取るから」
「先輩、その日は確かに俺の誕生日ですけど……、バレンタインでもあるんですよ?」
 言えば、つ、とが言葉に詰まった気配が伝った。バレンタインは、日本では女性が男性にチョコを贈る日となっているが、一般的には男女が互いの愛を確かめ合う日だ。むしろここヨーロッパでは男性が女性に花などのプレゼントを贈るケースが多い。も当然、分かっているだろう。
 結局、詳しい待ち合わせ時間などは後日ということで、会う約束だけして電話を終え、鳳は薄く笑った。
 がロンドンへ来るとき、鳳はキングス・クロス駅そばのホテルを彼女のためにいつも用意していた。本当ならばユーロスターもこちらで手配したかったが、それはが頑なに固辞しており、鳳もそこは譲っていた。が、豪華なホテルを手配すればが引いてしまうことは分かっていためそれも諦め、今のところ遠出をして来てくれているの方が負担が大きいのではないか、というのが鳳としては心配な点でもあった。
 が、今度は少し豪華なホテルを用意しよう、と考えて鳳はなお笑みを深くした。理由は、バレンタインだから、で通るだろう。
 ヨーロッパ……特にここイギリスでは、バレンタインは男性が女性をエスコートしてロマンチックなデートを演出する日でもある。なまじ自分の誕生日でもあるため、どうデートの誘いをかけようか考えあぐねていたためからの誘いは渡りに船だ。
 むろん彼女が自分の誕生日を祝おうと考えてくれていることは嬉しいが、バレンタインにかこつけてに何かしてやれるほうがよほど嬉しい、と実感してしまった鳳は少しばかり自嘲した。

 結局、鳳は勉強に追われているのと大学も二学期目となって親しい友人と過ごしたりスポーツ・音楽イベントに積極的に参加することで益々忙しさを増し、が試験中であったことも相まってバレンタインまでに会うことなく日々を過ごすこととなった。

 バレンタイン当日。
 朝に鳳を起こしたのは意外にも日本の家族からの電話だった。時差があるため、タイミングを見計らっていたのだろう。
 寝ぼけ気味に携帯を取ると、家族からの祝いの声に混じってフォルトゥナータの鳴き声が聞こえ、どうしても笑みがこぼれてしまう。
 起きてシャワーを浴び、身支度を整える。は朝一番のユーロスターで来ると言っていたため、10時前にはロンドンに着くだろう。今回は自分がユーロスターの発着駅付近ではなく、ウエスト・エンドにホテルを取ったため、待ち合わせは11時あたりにピカデリー・サーカスのコーヒーショップでということになっていた。
 9時には自身のフラットを出ると、自然と気持ちが逸ってくる。にはもう2ヶ月近く会っていない。これほど長く会っていないのは久々だ。白い息を吐きつつシティーセンターでバスに乗って駅に向かい、ロンドン行きの列車に乗ってしばらく列車に揺られた。
 ロンドンに着けば慣れたように人波に身を任せてピカデリー・ラインの入り口に向かい、切符代わりであるオイスター・カードを改札にあててゲートをくぐる。さすがにロンドンは世界有数の大都市、生まれ故郷の東京に似た部分も多々あり、こうしてロンドンにいると長らくこの地に住んでいたかのような錯覚にさえ陥ってしまう。
 ピカデリー・サーカスに出れば、いよいよ東京に酷似しており、鳳は薄く笑った。この辺りは特に日本の店舗が目立つ界隈でもある。
 目的地のコーヒーショップに着くと、まだの姿は見あたらずに、鳳は紅茶を頼んで窓際の席を取り、しばしを待ちつつ外の人波を眺めていた。やけに花を携えた人がいつもより多い気がするのは、気のせいではないだろう。きっと花屋も今日は書き入れ時のはずだ。
 自分もに花を……と考えもしたが、たぶん邪魔になってしまうだろうと諦めたために、プレゼントらしき花束を抱えた男性が目に入って少し羨ましく感じた。やはりパリで会うことにすれば良かっただろうか。そうすれば花束を抱えていっても大丈夫だっただろうに……と考えていると、窓に待ち人の姿が映って、反射的に頬が緩んだ。
 入り口の方に目線をやると、入ってきた待ち人――がぐるりと店内を見渡し、こちらを見つけてパッと笑う姿が見えた。
「鳳くん……!」
 そしてそばまで来ると、よほど外が寒かったのか、紅潮した頬で彼女は本当に嬉しそうに笑みを浮かべた。
「お誕生日おめでとう!」
 久々に会ったためだろうか。その言葉と笑みだけで胸がいっぱいになってしまい、思わず立ち上がった鳳は力の限り彼女を抱きしめたい衝動をどうにか抑えて涙腺さえ緩みそうになった自分に叱咤して微笑んだ。
「ありがとうございます」
 そうして顔を見合わせてお互い照れたように笑い合い、取りあえず席につく。
「ごめんなさい、待たせちゃった?」
「いえ、俺が早く来すぎただけです。久々だから、どうしてもはやく会いたくて気持ちが逸ってしまって」
「わ、私だって会いたかったよ」
 そうしてなおは照れたようにはにかみ、ハッとしたように「そうだ」と呟いて携えていた大きめの紙バッグをこちらに差し出してきた。
「これ、プレゼントなの。気に入ってもらえるといいんだけど……」
「ありがとうございます。すみません、わざわざ」
 鳳は笑って受け取るも、はなお気恥ずかしそうにソワソワしており、首を捻る。そして紙バッグを覗けば、額縁のようなものが見えて鳳はハッと顔をあげた。
「せ、先輩……これ」
「え、と……。その……」
 の絵だ、とその反応ですぐに分かった。鳳は逸る気持ちで見てもいいかと問えば頷いてくれたため、額縁を手にとって取り出してみた。
「わ……!」
 それほど大きなサイズではなく、鳳の部屋に飾っても邪魔にならない程度の大きさのキャンバスには、のもっとも得意とするだろう風景画が描かれていた。青い空をバックに揺れる白い花――カモミールだ。鳳の誕生花でもある。
 いまにも風に踊り出しそうな様子だというのに穏やかで、それでいて爽やかに匂い立つようで。鳳はその絵そのものの魅力にしばし魅入られて絶句してしまった。
 しばし黙って絵を見つめたあと、鳳は感嘆の息を吐いた。
「先輩……、俺、本当に頂いてもいいんですか?」
「も、もちろん! その、自分の絵をプレゼントなんて……どうかな、って思ったんだけど。でも、ちゃんと描いたつもりだから、もらってもらえると嬉しい」
「そんな……! 先輩の絵を頂くなんて、こんな贅沢ありませんよ」
「そ、そう言ってもらえると、嬉しいけど」
「それに……」
「え……?」
 まだ気恥ずかしそうにしているが目線をこちらに向け、鳳はニコッと笑った。
「絵を描いてる間、ずっと俺のこと考えてくれてたんだな、って思ったら、俺、ほんとに嬉しいです」
「え……!? そ、それは、その」
 なおニコニコと笑いかけると、は耳まで赤くして俯いてしまった。
 しかし、いま言ったことは鳳の本心だ。きっと題材選びから構図から着色まで、自分と自分の誕生日のことを考えながら長い時間をかけて仕上げてくれたのだと思うと、紛れもなくその時間のの頭には自分の存在しかなかったのだからこの上なく嬉しい。
 そのまま上機嫌で絵を見つめてから、丁寧に仕舞おうと紙バッグを持ち上げると、もう一つ何か入っているのが見えて「あれ」と鳳は瞬きをした。
 するとがパッと顔をあげ、今度は笑みを浮かべて言った。
「もう一つ、プレゼント。鳳くんの部屋、アップライトがあるって聞いたから、ピアノの楽譜なの」
 丁寧に包まれたラッピングを解いて中を確認することは叶わなかったが、の声に鳳は目を丸めた。
「本当ですか? ありがとうございます! なんの曲ですか?」
「えっと、私、選べるほど楽譜に詳しくないから、隣の学生さんがよく行くっていう楽譜屋さんを教えてもらって……、それで鳳くんの好きな曲のイメージとか伝えてなるべく持ってなさそうなものを選んでもらったの」
「あ……、そういえば言ってましたね、コンセルヴァトワールの学生が隣に住んでるって」
「うん。それで、作曲家はドビュッシーなんだけど……」
「ドビュッシー……」
 意外な人物の名が出て、鳳は目を一度瞬かせた。どんな曲を選んでくれたのか想像も付かなかい。フランス人だからだろうか、などと巡らせていると「気に入ってもらえるといいんだけど」というの声にハッとして鳳は口元を緩めた。
「ありがとうございます、弾いてみるのが楽しみです」
 いずれにせよ楽譜集めが趣味の一つである鳳としてはこれ以上ない贈り物で、もホッとしたように笑ってくれてしばし向かい合って微笑みあった。
 そうして場所を移そうという話になり、とりあえずコーヒーショップを出たものの、なにせ外は寒い。気温はさほど低くなくとも、体感温度は氷点下である。
 チラリとに視線を送れば、手を頻繁に使うから煩わしいと滅多なことがなければ手袋をしない彼女ですらバッグから手袋を取りだしてつけている。
「耳当て、もってくれば良かったかな……」
 そうしては小さくそんなことを呟いた。普段、寒い中でも絵を描いている彼女は耳当てや帽子を常備しているが、人と一緒にいるときは話し声が聞き取りにくいからと外してしまう。今日は持参すらしていないということだろう。
 鳳としてはモコモコの耳当てをしているは可愛らしくて気に入っているのだが、などと考えているとがこちらに視線を向けた。
「鳳くん、寒くない?」
 としては男性の方が髪が短いため、より寒いのではないかと感じたのかもしれない。
「少しは。でも大丈夫ですよ」
 言って、手袋越しにの手を取って歩いているとすぐにピカデリー・サーカスが見えてきた。
「鳳くん、どこか行きたいところある?」
「え……」
「あ、ミュージカルの昼公演とか、いまからでもチケット取れるかも」
 言いながらはちらりとチケット販売ブースに目線を送っている。演目や割引状況の確認のためか、いつも人の絶えない場所だ。
「でも、もうすぐお昼だし……。あ、そうだ誕生日ケーキ食べないと!」
「え……?」
「さすがにホールは食べきれないかもしれないけど……。ね?」
 としては、あくまで「バレンタインのデート」ではなくこちらの「誕生日」を祝うつもりでいてくれてるのだろう。楽しそうに見上げられて、鳳は笑いつつも少し肩を竦めた。
 取りあえずチケットブースも近いということで、見るだけ見てみようと他の客に混じって2人でチケットのセール状況を確認した。今日も多種に渡る演目が当日ディスカウントで出ている。
「ここからだったら、ハーマジェスティシアターが近いよね? あ、まだ残ってる」
「オペラ座の怪人は、もっといい席で観た方がぜったいいいですよ」
「ライシアム・シアターってどこだっけ……」
 そんなことを言い合いつつ、ちょうどお昼を済ませてから行けばいい時間帯だということもあり、鳳たちはここからほど近い劇場でやっているメリーポピンズを観ることにして、とりあえずこの界隈を歩きつつランチにしようと決めた。
 この辺りは日本の三越も含め、百貨店やショッピングストリートのひしめくロンドンでも有数の賑やかなエリアだ。ショッピング目的であれば、ただ歩いているだけでも飽きることはないだろう。
 とはいえ。食事にしても買い物にしても、パリの中心地に住んでいるからすれば特に魅力ではないかもしれないな。と思うのはさすがに卑屈になりすぎだろうか、と鳳は苦笑いを漏らした。
 せっかく日本のものが多い界隈にいるのだから、お昼は和食でもいいかな、と思いつつも自分がいま住んでいるケンブリッジの数少ない和食店はどれも地雷しかないのを思い出して自然と頬が引きつってくる。ロンドンにしてもレストランの数だけは多いが、選ぶのはかなり難しいものだ。
 はいくつかチョコレートの有名な店を挙げたが、鳳としては子供の頃ならいざ知らず、ケーキやチョコレートは是が非でも食べたいものではなかったため、それよりもゆっくりお昼を食べようと提案した。結局ぶらぶらと歩きつつ、最終的にイタリアンで落ち着き、ドルチェも数種類置いてあったために鳳は食後のデザートにチョコレートのケーキを選んで改めてから祝いの言葉を受けた。
「鳳くんのお誕生日を一緒に祝えるの、初めてだから嬉しい」
 はしきりにずっとそのようなことを言っており、鳳も笑みで応える。自分にとっては、誕生日にがそばにいてくれることが何より嬉しい。いつもいつも、捕まえようとしては逃げられていたのだから、と思い返したくもないことまで過ぎらせて、鳳は少し首を振った。
「先輩、少し気がはやいですけど……、先輩の学校ってイースター休暇はあるんですか?」
「え……?」
「俺の大学、3学期制だから3月に入れば中旬には休みになるんです。イースター休暇がけっこう長くて」
 ケンブリッジ大学は3学期制をとり、さらに授業があるのは各学期それぞれ8週間のみである。つまり一年の半分はオフということで、一見楽そうに見えるが、その分、学生は他の大学と比較にならないほどしごかれるため実際にはまったく甘くない。鳳にしても常々「休みはないものと思え」とばかりに勉強に追われている。
 が、それはそれ。氷帝時代から勉強・部活の両立は慣れていたし、公私で気を抜くことなくやれていると自負している。
「そっか……、私は一週間程度はあると思うけど、今年はいつからだったかな」
 はそう言って思案顔をした。
 鳳としては、うまく休みが合えば今度こそを旅行に誘いたい、という思惑があったのだが、今の答えでゆっくり遠出は無理かなと悟った。自分にしても休み全てを遊びに使うつもりは全くない。なまじ先の休みは大半を帰国に使ってしまったため、新学期前後はてんてこ舞いをする羽目になったのだ。
 ならばやはり、夏休みかな、と思う。バカンスの時期であるし、季節としては最高だ。
「夏休み……は、さすがに同じ時期ですよね?」
「え? うん、そうだと思うけど」
「帰国する予定とかってあります?」
「んー……、まだ決めてないな」
 そんな会話を続けながら、どう切り出そうか、と鳳は考えていた。少しずつでも自分の意志をそれとなく伝えておかなければ、直前に切り出しても渋られる可能性があるし、なるべくそういう事態は避けたい。
「鳳くんは? 夏にも帰るの?」
「俺もまだ決めてないです。でも、長い休みなので……やっぱり帰るかな。もし、先輩も帰られるなら、一緒に帰国しませんか?」
「あ、それいいかも! でも……お互い直行便のある国だし、一緒の便っていうと……、ドイツとかオランダ経由にして空港で落ち合うとか?」
 ――そうじゃない。毎回毎回、言いたいことをこうしてワザと回避されているような気がするのは被害妄想がすぎるだろうか? と鳳は思わず苦笑いを漏らしてしまった。
「いえ、俺がパリに行けば、パリから一緒に帰れるかなって思って……」
「え……!? でも……それだとわざわざユーロスターで来ないといけないし……。あ、ロンドンからパリ経由の便を取ればいいのかな」
「それもいいですけど……、揃って帰国する前に、どこか2人で出かけませんか?」
「え……」
 努めて柔らかく言ってみると、としてはまったく考えていない事柄だったのか、いったん持ち上げていたコーヒーカップをカタッとソーサーに戻して目を見張っている。
「どこか、行きたい場所ってあります? 例えば……そうだな、ビーチだったら、スペインとか」
 が反論を思いつく前に鳳は一歩勝手に話を進め、もそう言われたからか目を瞬かせてから考え込むような仕草を見せた。
「スペインかぁ……」
「まだ行ったことない場所とかありますか? ブルガリアとか、チェコ、クロアチアとか」
 そこで何かが思いついたようにハッとした。
「あ、私、プリトヴィツェ国立公園に行ってみたい!」
「え……、クロアチアの?」
 うん、と笑うを見て鳳も頭を巡らせる。確かクロアチアのプリトヴィツェ国立公園は世界遺産にも登録されている湖群公園だ。その美しさは名高く、鳳家でも数年前の中欧旅行で最後までクロアチアかハンガリーかと選びあぐねていた場所でもある。
「そうか……、クロアチアか」
 呟きつつ、鳳にしても「いいな」と思った。クロアチアといえばアドリア海の湾岸部を多く所有しており、欧州では屈指のビーチリゾートでもあるのだ。
「では、夏は2人でクロアチアに行きましょうか」
 ニコ、と笑いかけると、途端に「え」との表情が固まった。
「え……、え……と」
「いや、ですか……?」
「え!? そ、そんなこと、ないけど……」
 聞いてみれば、は少し俯いて頬をうっすら染めた。その反応を見て、鳳は自身の意図が伝わっていたことを知った。
 けれども、彼女と少しでも長く一緒にいたいし、同じ時間を共有したいというのが一番の大きな目的であることには変わりない。
「俺、楽しみです。先輩とどこかへ遠出することって初めてですから」
「う……うん。そう、だね」
 の方は反応に困ったのか、気恥ずかしそうにしつつエスプレッソをグイッと喉に流して苦さからか少しばかり眉を寄せた。
「まだ夏まで時間もありますし、日程とか具体的な場所はあとでゆっくり考えましょう」
「う、うん」
 そうして話題を打ち切り、腕時計に目線を落とすとそろそろ頃合の時間だ。劇場に向かおうと席を立った。
 メリーポピンズは大人から子供まで楽しめるタイプのミュージカルで、どちらかというとカップル向けではなくファミリー向けであるが、鳳はこの演目で良かったと心底思った。
 歌にダンスにとも楽しそうで、うまく気分の切り替えができたようだ。
 劇場を出る頃にはすっかり陽も落ちており、ピカデリー・サーカス界隈は益々華やかになる。
 テムズ川沿いも、既にロマンチックにライトアップが映えているころだろう。
 とはいえ、まだ5時。ディナーにも夜景を見ながらの語らいにもやや早い。
 はどこか行きたい場所があるだろうか、とチラリとを見やると、呼応するように彼女もこちらを見上げてきた。
「ウィンターワンダーランドってもう終わってるかな?」
「え……、あ、ええ。あそこは先月の頭までだったと思います」
 ウィンターワンダーランドとは、クリスマスの時期にハイドパークにて開催される移動式の遊園地兼クリスマスマーケットだ。まさにその名の通り夢のような賑やかさと幻想の世界で、ロンドンの老若男女が楽しみにしている冬の目玉でもある。
 そっか、とは呟いた。
「一度、あそこでスケートしてみたいって思ってたんだけど、残念」
 また来年かな、と言うにハッとする。なぜこんなとっておきのロンドンっぽいデートをいままで考えつかなかったのだろう。と自身のうかつさに呆れつつも鳳は笑った。
「それなら、リバプール・ストリートに行きましょう! 確かあそこならまだやってたはずです」
 そうしての手を引いて地下鉄の方へ向かう。
 リバプール・ストリート駅はロンドンでも利用人数の多いターミナル駅だ。金融街に位置するも、その実、蚤の市のようなマーケットエリアも混在するビジネスマンと観光客が雑多に行き交う場所だ。
 駅について、鳳は屋外リンクのある駅の裏手に行く前にキョロキョロと辺りを見渡した。いくつか連なっている露店を見つけ、そちらへ足を向ける。
「鳳くん?」
「スケートする前に、準備しないと。先輩、寒そうですから」
 はふわりと裾のラインが女性らしいピンクベージュのコートを着ており、少しだけその下に着ているスカートのフリルが見え隠れしている。やや厚手の黒いストッキングを履いてはいるが、ロングブーツからスケート靴に代えればきっと下半身は冷えるだろう。
 ならば頭部だけでも、と鳳は露店で売っているふわふわの帽子を見繕ってにかぶせてみた。
「かわいいです、先輩」
「え……え、」
「俺も買おうかな、氷の上って見ためより寒いですからね」
 言いつつ、しばしどれがいいか2人で悩んでから購入し、スケート場に行けば予想外に小さいリンクは人で溢れて混雑しており、わ、と二人して呟いてしまった。
「カ、カップルばっかり……」
 さすがにバレンタインと言ったところだろうか。呟いたに笑いかけてスケート靴を借り、荷物をロッカーに預けてリンクへ向かう。鳳としては本格的に滑りたいわけではないため、混雑具合はあまり気にならなかった。
 が、はどうだったのだろうか。人の多さにどう滑って良いか分からないと言った具合に壁際に寄ってキョロキョロしている。
「滑りましょう、先輩」
 取りあえず、鳳はの手を引いた。も自分もまったく滑れないわけではないので、この程度では転ぶことはまずない。むしろどう人を避けて上手く滑るかは腕の見せ所でもある。
 周りからは聞こえてくるのは賑やかで楽しそうな声のみだが、それも当然だろう。冬の屋外スケートリンク、特に日が沈んでからはカップルにとっては屈指のデートスポットなのだから。元々ひと目を憚る習慣のない彼らが、更にひと目を憚っていない。が、鳳としたら既に慣れたことであるし、15歳からパリに住んでいるにはむしろこちらが「普通」だろう。この文化は、どちらかといえば鳳にとってはありがたかった。――と、しばし滑って息を整えるようにリンクサイドに寄って仕切りに手を付いたを、ふ、と笑ってそっと抱きしめた。
 対するは、少し目を見開いたものの、すぐにまた楽しそうな笑みを漏らした。
「スケート、久々だから難しい」
「俺も。足首に変な力が入っちゃいますよね」
 言いながら彼女の頬に唇を寄せると、は少し身を捩った。
「寒くない?」
「ん……、平気」
 軽く、チュ、と口付けて笑いかけると、腕の中でも笑った。こうしてといられることが、決して「当たり前」ではないということを思い知ったせいか、彼女が腕の中でこうして笑っていることがどれほど嬉しいか、きっと言葉で表すのは無理だろう。
 だというのに、それ以上を求めている自分は――やはり欲張りなのかもしれない。
 でも、今だって分厚い冬服と手袋に阻まれて彼女に触れられないのがもどかしい、と思っているなんてきっとは想像すらしていないだろうな、という自嘲もそこそこに、それから小一時間ほど滑って2人はリンクをあとにした。



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