エコール・デ・ボザール・パリ。
 正式名はエコール・ナショナル・シュペリエール・デ・ボザール・ド・パリ。各種のグランゼコールと同様の国立高等専門学校――大学の上の権威にあたる――である。
 かつてルノワールやモネなど数多の巨匠も通ったこの美術学校に、無事にが進学して早くも二年目に入っていた。
 高校にあたるリセは名門私立であり、フランス各地から富豪の子息が集っていたが、ここでは一転、様々な生い立ちの学生が切磋琢磨している。
 にとっては、氷帝を経てリセで社交界のなんたるかをある程度経験でき、そこで多くの友人を得たことは将来への大きなプラスになったことは間違いないが、このパリ・ボザールで才能ある学生たちと共に美術を学び、語れることは以前にも増して魅力的なことだった。
 何よりパリ・ボザールのシステマチックで技巧的かつ独創面も大事にする教育方針はに合っており、今まで以上に充実した日々である。

 けれども、充実の理由は他にもあるのだろうか……、と、秋も深まってきたある日の日曜。週末を使ってロンドンに赴いていたは、うすく微笑みながらテムズ川を眺めつつスケッチブックを広げていた。
 対岸に観覧車を臨む近代的な眺めはどことなく故郷の有明に似ていて、くすぐったさを覚えるものだ。
 ふと手を止めて、空を見上げる。飛行機雲を追って、遠い日本への叶わない想いを募らせていたころがいまは遠い日のことのようで、くすぐったさに少しだけ笑みをこぼした。

 ――鳳が渡英してくるまでの一年間は、日−仏間の遠距離で。
 それでも、以前のように「気持ちを無理に抑えなくてもいい」というのはにとっては得難い幸せだった。メールで近況報告は出来たし、たまにだが話だってできて。もう一生会うことはないだろう、と思っていたころを思い返せば十分すぎるほどに満ち足りていた。
 鳳は本当に随分と前から相当に本腰を入れて留学の準備を重ねていたらしく、もともと海外進学に強いコネクションを持っている氷帝のアプローチの甲斐あってか、高等部3年の初夏に英国大学進学に必須であるA−Levelの第1段階の試験を受け、ほぼ最高の結果を出して志望校に願書を提出し、その年の年末に面接を経て卒業の前には条件付きだったものの入学の許可を取った。
 そして氷帝を卒業してすぐにビザ抜きで渡英して、数ヶ月はA−Levelの最終試験をパスすべく集中的に弱点を強化させてくれる予備校に通っていたらしく、最終的に出された条件を満たせた鳳は晴れて秋から英国で大学生としてスタートを切ることとなった。

 渡仏したばかりの自分がそうであったように、高3の頃の鳳はテニスと勉強に追われて死にものぐるいで死にそうなほど必死で、たまに日本とイギリスを行ったり来たりしていたものの会える時間など取れず。渡英して来てからも、あくまで受験の息抜きでほんの時たま短い時間をロンドンで会うのみで落ち着いてデートなどはしていられなかったが、としては十分に幸せだった。
 10月の入学を前に今度は正式な留学生として渡英してきた鳳と会えるのは、いまは2,3週間に一度という具合で、の方がまだ時間のやりくりに慣れているため毎回が鳳のスケジュールに合わせる形でのデートとなっていて、毎度「すみません」を連呼する恐縮しきりな鳳をなだめるのが現状であったが――としては、特に不満もなく、こうして鳳を待っていられることに胸の暖かさを覚えていた。
 裏腹に、ロンドンはすっかり秋模様。いや、すでに初冬と言っていい。
 夏の日の長さとは対照的に冬は恐ろしいほど日が短いロンドンだ。この季節、パリからロンドンへの日帰りは困難で、この日、は小旅行を兼ねて土日を使ってロンドンへと赴いていた。
 対する鳳は課題を抱えて日曜しか時間が取れないということで――、ここテムズ川のほとりで今なおは鳳を待っている。
 最初こそ、互いに落ち合いやすい「キングス・クロス駅」か「セント・パンクラス駅」のカフェやホテルのロビー等で待ち合わせていたが、慣れれば存外にどこでも平気なものだ。だから今日もこうしてテムズ川をぼんやり眺めて待っているわけであるが――、と、瞳に映るロンドン・アイに目を細めていると、遠くから近づいてくる足音が耳に入った。
「せんぱーい!!」
 振り返ると、長身の青年が焦りを湛えつつも満面の笑みでこちらに向かって手を振って駆けてくる様子が映り――は、パッと華やかな笑みを零した。彼と、鳳とこうして会える瞬間というのは何よりも胸が騒いで、何よりも胸が高鳴る瞬間だ。
「鳳くん……」
「先輩……!」
 眼前まで来た鳳に笑いかけると、鳳も頬を緩めて――そして感極まったように抱きしめられ、は鳳の胸にすっぽりと包まれた。頭上からはにかんだような声と安堵の息が振ってくる。
「俺、こうやって先輩に会えた瞬間がとても好きです」
 同じ事を考えてしまうのは感性が似ているゆえか――。も久々に感じる鳳の腕をキュッと掴んで「うん」と頷いた。
 そうして寄り添ったまま二人でぼんやりと川岸を眺め、ベンチに腰を下ろして話すのは本当に他愛もない、近況報告などだ。
「大学はどう? もう慣れた?」
「いえ……まだまだですけど、環境はとてもいいし、フラットメイトにも恵まれて充実してますよ。なにより、入学が確定するまでは生きた心地がしなかったんで、今はホッとしてます」
「凄いよね、鳳くん。テニスと両立しながら第一志望に受かっちゃったんだし」
「条件付き……でしたけどね」
「それでも凄いよ。ケンブリッジは自然豊かで綺麗なところみたいだから羨ましいな。うちはお父さんが……」
「え……?」
 うっかり口を滑らせそうになったはハッとして「ううん」と首を振るうと「私も行ってみたいなぁ」と口元を緩める。すると鳳も笑いながら緩く頷いた。
「パリほど都会じゃないというか、本当に小さな街ですけどね。でも……ちょっとした空き時間に友人とテニスしたり、そうそう、俺のフラットのリビングにはアップライトだけどピアノもあって息抜きに弾いたりしてます」
 鳳の人柄もさることながら、スポーツと芸術があっという間に国境の壁を越えてしまうのは常で、彼は友人作りにも困ってはいないのだろう。協調性もある鳳ならば数人で共同生活を送るフラットシェアでも上手くやっていけそうで、生き生きした鳳の表情からも今の環境が気に入っている様子が伺えた。
 鳳くんらしい、と笑っては視線を流す。
「私は高校卒業して一人暮らしを始めて一年以上経つけど……、気が楽な面もあるんだけど、たまにちょっと寂しいな。あ、でもね、隣のアパルトマンを使ってるのが国立コンセルヴァトワール・パリのピアノ科の学生さんみたいで、よくピアノの音が聞こえてくるから、そこは気に入ってるんだけど」
「え、ホントですか!? いいなぁ……コンセルヴァトワールの学生なら、すごくレベルも高いでしょうから、俺も聴きたいな」 
「うん。私も、ちょっと行き詰まった時とかすっごく刺激になるよ。頑張らなきゃ、って」
「あはは。先輩、負けず嫌いですからね。どうせなら、ボザール首席卒業を狙ってください」
「え……!? それは……ちょっと……」
 さらりと何ということを言ってくれるのだろう、とは頬を引きつらせた。けれど、難関と言われるパリ・ボザールに入れたからと言って終わりがあるわけでなし、そのくらいの気概で臨まなければならないのは間違いない。
「が、頑張ってみる」
 言うと鳳は、あはは、と笑った。
「でも、ピアノが聞こえてくるのはホントに羨ましいな。先輩って……お住まいはパリの6区でしたっけ?」
「うん、学校まで歩いて数分だし、すっごく気に入ってるの」
「よく見つかりましたね……。パリは万年物件不足って聞いてましたけど」
「そうなの。特に6区は物価が高くて予算オーバーで……、14区とか11区で探してたんだけど、それでもなかなか見つからなくて、もうモンマルトル辺りまで条件を広げて探してたんだけど……」
「え……、それは、ちょっと……」
 パリのモンマルトル界隈は芸術家も多く住むが、お世辞にものどかな場所とは言えず。頬を引きつらせる鳳に、「でも」とは微笑んだ。
「高校の先生の知り合いがボザールの学生で、ちょうど私と入れ替わりで卒業してパリを出るから、ってそこを紹介してもらえたの。代々パリ・ボザールの学生に貸してくれてるみたいで、すっごくいい間取りで、6区なのに家賃も破格なの。……ホントに良かった」
「俺も……良かったです。やっぱり先輩が一人暮らししてるの、心配ですから」
 鳳がそんなことを言って、は少し肩を竦めた。
 パリで条件のいい部屋を探すのは困難である。とはいえ、学費から何から高額のイギリスに比べれば、フランスは学費はあってないようなものなのだから、その点は恵まれてはいるだろう。
 そんな話をしている間にも秋の風が吹き抜けていき、フランスより更に緯度の高いロンドンの秋風は驚くほどに肌寒い。膝に置かれていたの手が無意識のうちに震えているのに気づいたのか、鳳はそっと両手での手を覆った。
「だいぶ……冷えてきましたね」
「う、うん……。こっちは、パリより寒い、ね」
 相も変わらず鳳の体温は高くて、は少しだけ目を伏せて頬を染める。こんな鳳の行動に相も変わらず心音を高鳴らせているのは自分だけなのかもしれないと思うと、どうにも気恥ずかしい。
 少し鳳が身を乗り出し、彼の唇が髪に触れては小さく息を詰めた。そうこうしているうちに鳳の右手がそっと自身の左頬に触れて――左耳の後ろあたりを捉えられ、はまるでそれが合図のようにそっと瞳を閉じた。
「……ん……」
 唇が触れ合った感覚に、は僅かに頬を震わせた。こうして唇を重ねるのは初めてではないというのに、まだ慣れない。まるでふわふわと夢を見ているようで、でも痛いくらいにドキドキして、重ねていた手を自然に指と指を絡めるようにして繋ぎながらしばし軽いキスを重ね――唇を離してから鳳は、コツン、との額に自身の額をくっつけた。
「先輩、これからどこか行く……? それとも、もう少しこうしていましょうか」
 息が触れ合うほどの距離で囁かれて、は小さく「うん」と頷いた。すると、ふ、と鳳が笑い、再び唇を重ねられても鳳の肩へと手を回した。

 夏であれば日も長く、時間を忘れて長居もできるものだが、秋となればそういうわけにもいかず――、街を歩いて寒さしのぎにティールームへ入り、至る所にあるミュージアムに入ってなるべく寒さから逃れつつ少し早めの夕食を済ませれば、すぐにお別れの時間となってしまう。あたりは既に真夜中と見まごうほどどっぷり闇の中だ。
 ホテルに預けていた荷物を取りに行き、共にユーロスターの発着駅であるセント・パンクラス駅へと行くと、鳳はしきりに「気を付けて帰ってくださいね」と心配しきりな様子でを見送った。
「鳳くんこそ、気を付けて」
「はい」
「じゃあ、またね」
 名残惜しげに手を振っては鳳に背を向け、ゲートの方へと向かった。入国の際は割と厳しい審査も、出国に関してはほぼスルーであるためそのまま形式だけパスポートを見せてから構内へと入る。そしてコーヒーショップで手に入れたカプチーノを手にユーロスターに乗り込んだ。さすがに週末をロンドンで過ごしてパリへと帰る旅行者も多いのか、至る所からフランス語が聞こえてきてはホッと息を吐いた。やはり言葉が通じるというのは、いいものだ。
 鳳は――英語での会話に困るということはまずないだろうが。でも、ホームシックにならないといいのだが。と、本人が聞いたら「あ、俺のこと子供だと思ってます?」と拗ねそうなことを浮かべては一人苦笑いを浮かべ、一口コーヒーを口に付けてからそっと窓の外を見やった。

 一方の鳳も名残惜しげにの背中を見送ったあと、すぐ隣のキングス・クロス駅に移動してケンブリッジ行きの列車に乗った。
 4、50分もすれば着いて、駅前からバスに乗り、シティセンターで降りて少し歩けば自身の住むフラットまですぐだ。
 玄関の鍵をあけて自身の部屋へあがり、室内用の靴に履き替えて手を洗うと、暖かい飲み物でも淹れようとダイニングへ向かう。
 するとフラットメイトの一人が焼いたパンに市販のサラダをテーブルに並べ、夕食をとっていた。
「あら、チョウタロウ。ロンドン行ってたんでしょ? はやかったわね」
 調理台はもちろんあるが、彼らは――とはいえ人種によるが――あまり料理はしないらしく、最初はその文化の違いに驚いた鳳だったが今では慣れたものだ。
「うん。出来ればもうちょっとゆっくりしたかったんだけどね」
 なにせをパリへ帰さねばならないし、自分も明日の準備がある。とまでは言わず、鳳は紅茶かコーヒーかしばし迷った末にコーヒーを淹れ、自分の部屋へ戻っていく。
 鳳のいま使っているフラットはキッチン・バストイレが共用で個室がそれぞれに付いている数人用のフラットだ。
 最初はごく当然のように性別関係なくシェアすることと、共同生活をすることへの不安もいささかあったものの、彼らにとってはごく当然のことらしく、みなマイペースで互いに深く干渉はせず良い距離が保てていると思う。
 彼女の他にもう一人男性のシェアメイトがいるが、二人とも鳳より一学年上で、入ってきたばかりの鳳は完全に打ち解けたとは言えないが、気を遣わず過ごせているいまの環境を鳳は気に入っていた。
 部屋に戻り、コーヒーに口を付けて一息つく。久しぶりにに会えた昂揚と、まだ一緒にいたかったという名残惜しさが入り交じった複雑な感情が巡っている。
 去年の春――、ようやく自分を受け入れてもらえてと付き合いはじめたものの、それよりもまずテニスと受験第一で話す時間も会う時間もそうそう取れなかった。いまも、入学したてだというのにさっそくけっこうな量の課題が毎週出ており講義に慣れてついていくのに必死だ。
 でも勉強は楽しいし、に会う時間だって作りたいと思えば不思議と効率もあがって、なにも不満はないのだが。
 でも、別れたそばからまた会いたいと思ってしまっている自分は贅沢なのだろうか……と鳳は自嘲した。
 もう少しすればクリスマスだし、そうすれば休暇だし、どこか泊まりで旅行に誘ってもいいだろうか、と思わず過ぎらせてゴクッと喉を鳴らし、ハッとして首を振るう。
 なにを考えてるんだ。せっかく受け入れてもらえたのに、嫌われては元も子もないではないか。――けれども、だって自分が触れて嫌がっているようには見えないし、もっと――といよいよ身体が熱を持ち始めて、鳳は慌てて明日の予習をするために棚から参考書を取り出して気持ちを切り替えた。
 朝が来れば、当然のように自分で朝食を用意せねばならない。むろん、カレッジは学生に朝食を提供しているが、鳳の住むフラットから食堂まではやや距離があるため、朝に毎日通うのは煩わしさがあるのだ。
 身支度を済ませてダイニングで一人朝食を用意する。他の2人はまだ夢の中らしい。思えば実家にいたころは何もせずとも母親が用意してくれていたのだから、改めていかにありがたかったか確認させられる。自分が自分のために用意する朝食は、せいぜい目玉焼きにトーストくらいのものだ。
 それでも自分は食堂にいけば自身の手を煩わせずとも食べ物にはありつけるが、は毎日どうしているのだろうか? などとついつい考えてしまう。パリもむろん食べるところには困らないだろうが、一人暮らしというのは色々大変だろうな、という思考もそこそこに準備を整えると、自身の自転車に乗ってフラットを出た。
 鳳の住まいから建築学部はけっこう離れており、またバスしか交通手段がなく公共交通機関が決して便利とは言えないケンブリッジで自転車は必須だ。冷たい風を切って自転車を走らせるこの道も、ようやく通い慣れてきた。また一週間頑張らねば、と鳳は見えてきた目的地を目に映して、ふ、と笑った。
 一学期目は飛ぶような速さで過ぎ、すぐに短い冬の休暇が目前に迫ってくる。
 常々、休みも気を抜かず勉学に励むよう言われているが、それはそれとして、鳳はやはりドイツかウィーンのクリスマスマーケットにを誘おうと密かに計画を立てていた。
 がもし二人で泊まることに難色を示せば、少し寂しいが、別室を取ったっていい。やっぱり二人でどこかに出かけたい。ウィーンはしばらく行っていないし、ドイツ圏のクリスマスマーケットは華やかで……と考えていた矢先。
「今年のクリスマスとお正月はこっちで過ごしなさいって! もう、フォルトゥナータがずっと不機嫌なんだから何とかしてよね」
 姉からそんな電話がかかってきて、鳳はとっさに返事がかなわず携帯を握りしめたまましばし固まった。
 自分たち日本人はクリスチャンではないのだから、クリスマスに必ずしも家族と一緒に過ごさなくてもいいのでは……などと反論するのはこの場合は無駄だろう。もしかしたら神様が自身の邪な考えを見抜いていたのではないか、と恨みがましく思うも八つ当たりも甚だしいというものだ。
 にそれとなくクリスマスの予定を聞けば、彼女はクリスマスは非クリスチャン圏の友人と過ごし、年越しは高校時代の友人の家に呼ばれているという。
 の学校は冬の休暇が比較的長いが、自分は年明けにはすぐ二学期が始まるし……ゆっくり会えるのは当分先か、と肩を落としつつその年の暮れは鳳は実家へと帰省することとなった。



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