木曜日の朝――。
 10時頃にが自宅の玄関を開けると、どこから飛んできたのかふわりと視界に桜の花びらが舞い映った。ソメイヨシノは四月上旬の今が盛りだ。
 は目を見張ったあとに少し微笑み、そして無意識に少しだけ眉を寄せていた。

『一緒に桜を見にいきません?』
『先輩、桜が髪についてます』
『ね?』

 ちょうど4年前、鳳と上野で桜を見ながら一緒に絵を描いた。その日の出来事が否が応でも脳裏に過ぎったからだ。
 あの春、鳳と出会って一年が経って、ハッとするほど大きくなった後輩に改めて気づかされて驚いて、自分と同じようにいつもスケッチブックを持ち歩いていることを知って驚いて。でも、彼は出会った頃となにも変わらない、舞い散る桜に見入って瞳を輝かせる様子など本当に出会った頃と一つも変わってなくて、いつも優しくて……。
 記憶に蓋をして気持ちを押しとどめても、なぜこうして幾度となくこの感情が胸に蘇ってしまうのだろう?
 幸せだった記憶は、幸せだった分だけ今も自分の胸を抉り続けているのに、と数え切れないほど繰り返した自身への問いを今日もまた何とか誤魔化して歩き慣れた湾岸部を巡るようにして歩いていく。
 視界を覆う桜並木はやはり美しく、はギュッとスケッチブックを握りしめてあてもなく歩き続けた。時おり散歩の人たちとすれ違うが、人通りはそこまで多くはない。
 結局、台場のメインシンボルの一つでもある大観覧車を見渡せる対岸の公園に落ち着き、ベンチに腰をおろしてスケッチブックを広げた。台場界隈でも、特にこの公園はにとって気に入っている場所でもあった。時間があればここに座ってぼんやりと東京湾を眺め、釣り人を眺め、徐々に近代化して移ろっていく景色を眺めて描きとどめてきた。
 そういえば、もうじき、ついにゆりかもめが終点の豊洲駅まで繋がるという。帰国してその話を聞いたとき、自分がここを離れている数年の間にも確実に色々なことが変わっていっているのだと実感したことを改めて思い出し、は少しだけ胸に感傷のようなものが飛来したのを感じた。
 こんな気持ちになるのは――、目の前の見慣れた故郷の姿とも今日でまたしばらくお別れとなるからだろうか。それとも、と巡らせていると不意に携帯が鳴ってハッとする。鳳からだ。部活が終わったのだろう。長引いたのか既に時刻は昼過ぎだ、と画面を確認してから受信ボタンを押す。
 鳳は今からりんかい線に乗るところらしく、は自分がいる場所を伝えて携帯を切ると、ふ、と一つ息を吐いた。
「話って……なんだろう」
 ボソッ、と気を紛らわせるように呟いてみる。どんな話だろうと、結果は変わらない。結局は何度も何度も告げた別れを、また今日も繰り返さなければならないだけなのに、といよいよ後ろ向きになってくる思考を振り切るようにスケッチに集中してしばらくすると、小走りで駆けてくるような足音と共に、自分を呼ぶ声が耳に届いた。
「せんぱーい!」
 鳳の声だ。顔を上げると、一度家に帰ってから来たのか私服に身を包んでこちらに手を振っている鳳の姿が映り、自然とも立ち上がって迎えた。
「すみません、お待たせしてしまって」
「ううん。部活、お疲れさま」
 そんな挨拶を交わして二人してベンチに腰を下ろす。すると、夕べの出会い頭でもそうだったように、ややぎこちない空気が流れて会話が途切れた。
 が、もしかしたらそう感じたのは自分だけだったのかもしれない、とが感じたのは鳳が微笑んだような気配が伝ったからだ。
「俺、テニスの森には試合で何度も行ってますけど、こうやって東京湾やお台場をこちら側から見たのって初めてです」
 え、とが小さく呟いて鳳の方を見上げると、でも、と鳳はさらに笑みを深くした。
「先輩は、ずっとこの風景を見て、ここで過ごしてきたんですね……」
 言って、鳳は自身のバッグから鳳自身がいつも持っているスケッチブックと水彩色鉛筆を取り出した。が、の方はあまりに柔らかい声でそんなことを言われて息を詰め、無理やりに鳳の横顔から目をそらした。パラパラとページを捲る音がやけに大きく響いてくる。
 鳳の何気ない一言は昔からいつも自分の心を乱して、そしていまは――やはり辛い。
「先輩とスケッチするの……、ブダペスト以来ですね」
「う……うん」
 鳳と一緒に並んで絵を描く。――かつては何ごとにも代えがたいほど嬉しかったことだというのに。いや今も、こうして鳳と一緒にいられることは嬉しい。
 でも、なるべく嬉しいと感じないように抑えなくては、と無意識にいつものように感情を誤魔化そうと必死に気持ちに蓋をする。
 そしてしばし目線を落としてジッと自身のスケッチブックを見つめていると、ふわりと風が一陣舞って、反射的には「わ」と自身の髪を左手で押さえた。
 すると鳳が「あ」と小さく呟き、は自然と鳳の方へと目線をやる。見上げた先の鳳は、先ほどのように穏やかに口元を緩めながら左腕を少し上げて掌を上向けた。
「桜だ……」
 すれば、風に乗ってきたのか桜の花びらが二人の間にひらひらと舞い落ちてきて、ドクッ、との胸が脈打つ。そのまま花びらは吸い込まれるように鳳の掌に落ち、ギュッとは胸元で手を握りしめた。
「でも、どこから……」
 当の鳳は対岸の方へ目線を送っている。確かにうっすら対岸には桜並木の淡いピンクが確認できるが、今の風でここまではさすがに届かないだろう。
「こ、この公園……反対側は庭園になってるの。桜の木も植えてあるから、たぶんそこからじゃないかな……」
「あ、なるほど。そうなんですね」
 何とか言い下せば鳳は興味深そうに探るようにして背後を見やり、は自身を落ち着かせるようにして小さく息を吐いた。――思わず強く過ぎってしまった。4年前の、上野で二人で桜を見上げたあの日のことが。眉を寄せつつ、何とか話題を変えようと試みる。
「あ……そうだ。あの、この前は宍戸くんに聞きそびれちゃったんだけど……私の同級生たちは、ほとんど氷帝の大学部に進んだんだよね?」
「え……?」
「でも、やっぱり大学部になると一気に遠くなっちゃうかな」
 急にそんな話を切りだしたせいか、鳳は少しばかり目を丸めていたが、すぐにこちらに向き直って頷いた。
「そうですね。学部によってはキャンパスも遠くなりますし……、外部進学された方もいますしね」
「そ、そっか……」
「忍足さんなんか、それで医学部に進まれましたし」
「うん、そうみたいだね。……あ、そういえば、跡部くんはどうしてるの?」
 そして自身、本当に宍戸に聞きそびれたことを思い出して言えば、予想外に鳳の頬が、ぴく、としなった。としてはそんな反応が来るとは思わず、首を捻る。すると鳳は沈思するような面もちを見せてから、改めてこちらへと視線を送ってきた。
「跡部さんは……イギリスです。帰国、って言うのかな? あちらの大学に進学されるみたいで……」
「え、そうなの!? そうなんだ……。あ、でも国籍もあっちだったっけ? そっか……イギリスか……。オックスフォードとか?」
「いえ。なんて言ってたかな……ちょっと田舎の方にある……、私大って聞いたような」
「あ……! バッキンガム?」
「あ、そうです! バッキンガム大学」
 英国唯一の私立大学で最新設備を取り入れ、なおかつ王室や政界と関わりの深い大学だ。跡部は確か跡部家の一人息子だと聞いた覚えがある。ということは、財閥を継ぐのは彼しかいないということで、必要な知識をそこで学ぶのだろう。
「そっか……跡部くんらしいかも。それにしても、イギリスか……」
 思わぬところで近しい人になってしまった、とは空を仰いだ。パリとロンドンならばユーロスターで2時間ちょっとである。むろんも日帰りや週末の小旅行でロンドンに行くことはあり、にわかに跡部に少しだけ親近感を覚えていると、隣で鳳が少し緊張気味に喉を鳴らした気配が伝った。
「俺、も……」
「え……?」
「俺も、進学はイギリスの大学にしようと思っているんです」
 え、と先ほどの比ではない不意打ちには瞳を大きく見開いた。その先で、緊張気味ながらも真剣な面差しの鳳と目があって、思わず口元を手で覆ってしまう。
「ど、どうして……」
「最後まで悩んだんです。やっぱりピアノの道に進もうかどうか。でも……向いてないって分かってますし、さすがに手遅れっていうのも分かってて。けど……やっぱり芸術面には携わっていたくて、あっちで建築の勉強をしてみようかなって思ったんです」
「あ……」
 そういえば、とは鳳が昔から建築物に興味を示していたことを思い出した。ロマンチストな彼らしく、古代から時間を繋いでくれているようなモノに惹かれるのだ、と。
 しかしひとえに建築と言えど、史学面から実践面まで、更には文系から理系と幅広く――鳳は話を続ける。
「最初は、建築をやるならトリノ工科大って思ったんですけど……、イタリア語が必須で、今の俺には無理ですから、そこは諦めたんですけど」
「で、でも……。そうだ、イギリスで建築ってものすごく時間がかかるんじゃなかった? 詳しくは、知らないけど」
「はい、学士を取るだけなら他と変わりませんけど、資格を取ろうとしたらそうですね。俺は……どっちかというと史学・修復面に興味があるんですけど、でも……もちろん未来への街作りも興味がありますし、デザインもちゃんと学んでみたいんです。それに、父が行くからには半端なことは許さないって言って、俺もそうだと思いますし、ちゃんと資格を取るまでやるつもりです」
 とにかく、根気強く勉強頑張らなきゃ、と鳳が続けてはとっさに反応することが叶わなかった。それは、とても鳳らしい選択とも言える。しかし――と言葉を発せないでいると、ニコ、と鳳が笑った。
「フランスとイギリスだったら、海を挟んで目と鼻の先だから……。少し、先輩とも近くなりますね」
「――ッ」
 そこまで言うと、鳳は再びスケッチブックに目を落として水彩色鉛筆を滑らせはじめた。裏腹に、の心音は早鐘を打ち始める。
 鳳の「話したいこと」とはこのことだったのだろうか? 鳳がイギリスに留学してくる。確かにそうなれば、日本よりはずっと距離は近くなる。でも。一体どういうつもりなのだろう? しかし進学理由に自分とのことがあるのかもしれない、と考えてしまうのは自意識過剰だろうか。音楽を続けるにしろ、別のことを学ぶにしろ、留学自体は鳳らしいことであるし、鳳の家は十分にそれをさせられる力があって――おそらくは自然のことだ。
 けれど……、学士だけで終わるつもりはない、ということは。ひょっとして就職もあっちでと考えているのだろうか? と思い至っては自身に巡る動揺を抑えることは不可能だった。
 潮騒が遠くに聞こえる。遠くで行き交うフェリーの汽笛が時おり響いて――さらさらと筆を進める鳳とは裏腹にはあまり筆が乗らないまま、ついには陽が傾いてきてしまった。
 ろくに言葉も交わさないまま、絵すら描けずに鳳が描き進める様子を見つめたまま、身動きさえもあまり取れずに――、ふと西日が顔にあたってハッとする。
 翌日はパリに戻るため、今日は早めに帰宅するよう母から言われていたことが過ぎって、は開いたままだったスケッチブックを閉じた。
「あの、鳳くん、ごめんなさい。私……そろそろ帰らないと」
「あ……! そっか、もうこんな時間」
 言葉が否が応でも固くなってしまう自分とは裏腹に、鳳はいつもと変わらない。立って歩き出したはいいが、かける言葉にすら窮してしまう。理由は簡単だ。さっきの話を聞いてしまったせいに他ならない。鳳がイギリスにくる……。素直に、頑張ってね、と言えば済むことだというのに。いや――分かっている。これが他の人間なら「頑張って」「たまに会えるね」と心から笑って言える。
 鳳だから――、と無意識に肩に掛けたバッグの持ち手を強く握ってちらりと鳳を見上げると、鳳はすぐそばまで迫っていたテニスの森公園の方へ目配せした。
「ちょっと寄り道していきません?」
 言われて、特に拒む理由もなかったは鳳と共にテニスの森公園へと足を踏み入れた。
 夕暮れのコートにはまばらに人がいて、いくつか使用しているコートもあり乾いたインパクト音が響き――どことなく懐かしい気分になる。それは苦しさではなく、むしろ落ち着きを与えてくれるもので、は少し胸を撫で下ろして薄く口元を緩ませた。
「なんだか、あの関東大会、全国大会を思い出しちゃうな」
「そうですよね。俺は何度もここで試合してますけど……先輩はあのあと、フランスへ行っちゃいましたから」
 鳳が少し笑う。そして「でも」とちょうど見えてきた、関東大会で青学と戦ったコートに目線を送った。
「あの年の試合はやっぱり特別です。正レギュラーとして初めて臨んだ大会でしたし……宍戸さんとペアを組ませてもらって、初めて勝てた試合でもありますしね」
「私も、感動したな……あの試合」
 言いながらは脳裏に4年近く前の夏の光景を過ぎらせた。試合が終わってコートからあがってきた鳳たちと会って――確かに共有して交わし合った昂揚感。いま思い出しても胸がいっぱいになるほど、満ち足りていた時間だった。少しだけ寂しさを滲ませながら微笑み、目を伏せる。
 そしてその後、全国大会に出られることになって、この場所で、本当に色々なことがあった――と茜色の空間をゆっくりと歩いていけば、やっぱりあの頃の思い出は懐かしく、は今度は薄く微笑んだ。
「全国大会の……青学との試合も凄かったよね」
「そうですね……、あの時はみんなで気合いを入れて臨んだのに、サスペンデッドなんてことにもなりました」
「そうだったね……。あの時、私ずぶ濡れになっちゃって……鳳くんがジャージを貸してくれたっけ」
 どしゃ降りの雨の中で、勇ましく対戦相手を見据えていた鳳。かと思うとずぶ濡れの自分に気づいて真っ先にタオルとジャージを貸してくれた鳳は、いつもの優しい鳳で。そのことが胸を締め付けられるくらい嬉しかったんだった……、とは鳳を見上げた。
「私、あのあと気が気じゃなかったよ。鳳くんが風邪でも引いたらどうしようって」
「俺だってそうですよ。先輩が風邪引いたらどうしようって」
 いつの間にか笑い合い、二人して青学戦の行われた懐かしいコートを見やった。
「あの試合で鳳くん、肩を痛めたのにサーブを打ち続けてたよね。もしも故障でもしたらどうしようってハラハラしたけど……、凄く素敵だったな」
 ともすれば浮かんだ思い出に涙が滲みそうになるほどで、そんなに鳳は、ふ、と口元を緩める。
「俺……あの日に先輩に頂いたタオル、今も試合の時は必ず持っていってるんです」
「え……!?」
「なんだか、先輩が見てくれてるような気がして心強いですから。……あ、こういうの、女々しいのかな」
 微笑んだかと思うと、鳳は顎に手を当てて若干眉を寄せ――も小さく目を見張りつつも薄く微笑んだ。
「ううん。嬉しい……ありがとう」
 あの4年近く前の夏から時を経てここにこうして二人で立っていることが不思議で、やっぱり心地よくて、でも明日になればまた遠い異国へと戻らねばならないというのに。と笑みを寂しげに変えて僅かに苦しさを滲ませていると、「ね」と鳳が少しだけ声のトーンを落とした。
「三年前のバレンタインに俺が言ったこと、覚えてます?」
「え……?」
「俺たちは、お互いにまだ知らないことの方が多いって。俺は、もっと先輩と一緒にいたいし話がしたい、って」
 つ、とは息を詰めた。
 忘れるはずがない。あの日は鳳の誕生日で、鳳の誕生日だと初めて知って。そして彼は――別れを告げた自分に会いに来て「納得できない」と激情を露わにしていたのだから。
「あの時は、俺はまだ中学生で……先輩はフランスに行くことが決まってたから、どうしようもなかった。だけど……今は違う。俺がイギリスに行けば、日本とフランスよりは近いし……そりゃ違う国だしお互い勉強でしょっちゅう会ったりはできないでしょうけど、会えない距離じゃないですよね」
「そ、それは……」
「あ、誤解しないで欲しいんですけど……。留学を決めたのはブダペストで先輩に会うずっと前ですから、俺自身が勉強したくて決めたことなんです。そりゃ……ほんの少し、先輩に会いに行けるかも、くらいは思ってましたけど。ていうか……ぜったい会いに行ったと思いますけど、でもそれだけで進学を決めたわけではないですから」
 途端、決まり悪そうにうっすら鳳は目元を染めた。おそらく鳳の言うとおり、ブダペストで再会していなければ自分は何も知らないままで鳳はイギリスに留学して欧州に来ていたのだろう。そして……いま鳳が言った通り、パリに会いに来てくれていたのかもしれない。
 そっか、と呟くと鳳が少し屈んだ気配がした。
「でも……、俺の気持ちはあの時と同じです。俺は……もっと先輩と一緒にいたいし話がしたい。もっと先輩のことを知りたい」
 そうしてそっと手を取られ、間近で鳳と目があっての心臓が跳ねる。
「お、鳳く――」
「俺のことも、もっと知ってもらいたいんです。先輩……」
 変わらない、鳳の真っ直ぐな瞳。いっそ痛いほどに真っ直ぐで――でも、別れを選ばなければならなかった中学の頃とはきっと違う。でも――。
 でも――でも、心音が痛くて、真っ直ぐな視線が痛くて、突然のことに思考回路がうまく回らない。
「で、でも……私、これからきっと絵の方に忙しくなるし……、きっとあんまり一緒にいられない、し……。鳳くんが望むようには……たぶん、できない……よ」
 触れられた手が熱くて、頭は既に真っ白で、なにをどう返せばいいのか分からない。しどろもどろに呟くと、鳳は少し目を見開いたのちに僅かだが肩を竦めるような仕草をした。
「先輩……、さすがに俺、先輩がどういう人かは知ってますから。分かってますよ。俺はそんな先輩が……」
「え……?」
「ていうか、それでめげるくらいなら俺とっくに諦めてますし。今さらというか……」
 言って鳳は一度の手を離し、スッと息を吸い込むような仕草を見せた。そして、もう一度真っ直ぐに、怖いほど真剣な瞳でこちらを見つめながら唇を開いた。
「ハッキリ言います。俺、先輩が好きです。だから……俺とお付き合いしていただけませんか?」
 刹那、は息を呑んで両手を口元にあてた。
 その言葉は、ずっとずっと胸のうちに溜め込んで抑えつけてきた全ての想いを一気に溢れさせて、ずっとずっと気づかないふりをしてきた自分の願いも気持ちも感情も真っ直ぐ自分に自覚させて、勝手に視界が滲んでしまって鳳の顔さえぼやけてしまう。
「先輩……?」
「――はい。よろしくお願いします」
 そう答えるだけで精一杯だった。ぼやけた視界の先で、つ、と鳳が息を詰め――次の瞬間には力強い腕に引き寄せられて、すっぽりと鳳の胸に抱きしめられていた。
「良かった……!」
 声が震えている。相も変わらず鳳の体温は高くて、その温もりにさらに視界が緩みそうになっているとそっと鳳が髪を撫でて噛みしめるようにしてさらに声を震わせた。
「ずっと、こうしたかった。やっと掴まえた……」
 そうして鳳はの額に唇を落とし、もう一度強く抱き寄せて言った。
「もう、離しませんから」
 もキュッと鳳の腕を掴み、瞳を閉じて小さく頷いた。



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