日曜日――17時ごろ、鳳は少々緊張気味に有楽町マリオン前に立っていた。
 日本は欧州ほど服装マナーにうるさくないが、一応は着込んできたスーツの腕を少しまくって腕時計に視線を落とす。開演が18時、開場はその30分前で、有楽町から歩いてすぐであるため17時15分にマリオン前で、というのがとの約束だ。じき、彼女も来るだろう。
 の自宅は有明ゆえに、おそらくはりんかい線で新木場に出て有楽町線に乗り換えるはずだ――と有楽町線方面に視線を送っていると、程なくしてうっすら茜色の空間に春らしい色のワンピースの上にスプリングコートを羽織ったの姿が見え、あ、と鳳の表情が緩む。
「先輩……!」
「こんにちは、鳳くん。今日はお誘いありがとう」
「いえ、こちらこそ。来て頂いて嬉しいです」
 しかし互いにどこかぎこちない挨拶になってしまったのは緊張ゆえか。数秒見つめ合ってから、「い、行きましょうか」と鳳は先を促した。
 今日のコンサートは、中欧をクローズアップしているということで、ポーランド出身のショパン、ハンガリー出身のリスト、チェコ出身のドヴォルザークの代表曲で構成されており、特にショパンの奏者は前回のショパンコンクール優勝者で、鳳としては以前から楽しみにしていたコンサートだ。かといって通好みではなく初心者でも取っつきやすい内容になっており、ならば十分に楽しめる内容だろう。
 会場に着いてはコートをクロークに預け、二人してホールに入って指定された席に着くと思いのほか良い席で、演奏者たちのチューニングを耳に入れながらはどこか恐縮気味に眉を寄せている。そして姉の来るはずだったコンサートに自分が来てしまって申し訳ないというようなことを言ったものだから、鳳は努めて柔らかく笑った。
「大丈夫ですよ。元は俺が行きたいって言ってて姉が付き合ってくれた形だったんですから。それに――」
 ひょっとすると姉はが帰国していると知って気を利かせてくれたのでは。というのはさすがに勘ぐりすぎだろうか。
「それに……?」
「いえ。せっかくですから、楽しみましょう。ね?」
「う……うん」
 頷いても柔らかく笑い、そこからは二人して演目を見ながら開演を待った。
 そうして主催や来賓の挨拶が済むと、オープニングにショパンのピアノソロが流れはじめる。今回の演目は一般的に広く知られた曲、かつ「中欧」と「民族」を意識しているらしくショパンはマズルカ中心の構成だ。実のところ「ショパンはポーランド人にしか弾きこなせない」と言われており、それはやはり民族愛・言語のリズム等さまざまな理由ではあるものの――納得せざるを得ないようなポーランド出身のピアニストによる溜め息の出るようなマズルカで、鳳は自然と笑みを浮かべていた。
 続くリストからは二曲、「スペイン狂詩曲」及び「コンソレーション第三番」。スペイン狂詩曲はまさにリストらしい超絶技巧がふんだんに取り入れられた難曲であり、ピアニスト泣かせだ。鳳にしても「弾くだけ」ならこなせる難易度であるが「聴かせる」レベルに消化するのは厳しい。踊り唸るようなピアニストの指を見て、息を呑んでしまうのは弾き手の気持ちが分かるからだろうか? 息つく間もなく大いに盛り上がり――続く「コンソレーション第三番」はリストの幅広さを知らしめるための選曲か、はたまた聴き手への配慮なのか。しっとりと美しい旋律がなんとも心地よい、まさに癒されるような音色だった。
 そのまま幕間となり、ちょうど夕食時であるがゆえに二人してロビーで軽食とドリンクで喉を潤しつつ、後半はオーケストラ仕様となってドヴォルザークの「交響曲第9番」が通しで演奏された。
 コンサートはアンコールの「スラブ舞曲」まで滞りなく進み、終幕して会場を出る頃にはすっかりと日も落ちて辺りは繁華街らしい電飾で照らされていた。
「ステキなコンサートだったね。特にドヴォルザークはすごい迫力だった。私は普段はあんまり交響曲って聴かないけど……生のオーケストラだと気迫がぜんぜん違う」
「はい。俺はやっぱりショパンのマズルカに聴き入っちゃいましたけど……。さすがに東ヨーロッパ……今でこそ中欧って言いますけど、あちらの民族音楽はどことなくエキゾチックで、俺たちにも親しみのある旋律ばかりですよね。リストも……生涯かけて、なんとか祖国ハンガリーの音を見いだそうとしていたんですし」
「リストは……すごく対照的な選曲だったね。私はリストってどっちかというと、技巧派なイメージがあったんだけど……」
「もちろん、そうですけど。彼はすごく長寿だったから、若いときから後年の曲調の変化という意味では様々な曲を書いていてとても興味深いですよ」
 歩きながらついつい饒舌になっていると、がどこか小首をかしげてこちらを見上げてきた。
「鳳くん……。やっぱりステージに立ってみたい?」
「え……!?」
 だって、そんな表情してたから。とが続けて鳳は少しばかり頬を赤らめる。やはり、良い演奏を聴いていると、純粋に感動する気持ちと「あの場所に自分がいたらな」と逸る気持ちが入り交じってしまうものだ。
 あはは、と笑ってまだ少し肌寒い夜風に鳳はくせ毛を揺らした。
「でも俺、テニスの試合を見てたら”俺もプレイしたい!”って思っちゃいますし……、たぶん音楽一筋にはなれないんです。気が多いのかな」
 欲張りですよね、と自嘲しつつ「でも」と人波に身を委ねる。
「アマチュアで、趣味で構わないから……そういう機会があればいいですね」
 言うと、そうだね、とが微笑み――すぐに駅が見えてきて、別れを切り出される前に鳳は先手を打った。
「先輩、ご自宅は有明でしたよね?」
「え……?」
「俺、送りますよ。もう遅いですし」
 時刻は既に8時を回っている。本当ならコンサートのあとはゆっくり食事やお茶でも楽しみたいところではあるが、今の自分たちには分不相応なことだろう。の家に辿り着く頃にはきっと9時を過ぎてしまう。
 でも、とは一度躊躇したが状況的に反論は無駄だと悟ったのだろう。「ありがとう」と受け入れてくれ、二人してメトロへ向かい、終点の新木場でりんかい線に乗り換えて「国際展示場」で降りた。改札をくぐり、としては左右どちらの道を行っても差し障りなかったのだろう。ゆりかもめの臨時終点である有明駅の方へ二人して足を向け、そのまま橋に登って歩いていく。すると、台場界隈らしい華やかな光景が目の前に現れて鳳は自然と口元を緩めた。
「湾岸部だから……、なんだかロマンチックですね」
「そう、だね。公園も多いし……スケッチポイントに困らないところは気に入ってるかな」
 目線の先にはテニスの森公園――有明コロシアムが映り、鳳はどことなく懐かしい気持ちになる。もそう感じてくれているのだろうか? どちらともなく黙って橋を渡り終え、テニスの森公園を横切って少しすると、立派な塀に囲まれた一戸建てが目に入り――門の前に着くとがそっと足を止めた。
「うち、ここなの。わざわざ送ってくれて、ありがとう」
「あ……はい」
 つられて鳳も足を止め、互いに向き合うとは鳳を見上げて緩く微笑んだ。
「素敵なコンサートに誘ってくれてありがとう。とっても楽しかった」
「い、いえ! 俺こそ……楽しかったです」
 ここで別れを切り出されるまでの数秒に言葉を発せなければ、本当に終わりだろう。躊躇っている場合ではない、と鳳は少々身体を強ばらせつつ「あ、あの!」とどもりながらに向かった。
「その……。俺、またこんな風に先輩と出かけたいなって思うんですけど……!」
「え……?」
「今日は、ほら、コンサートだったしあまりお話もできなくて……」
 何とか言い下せば、は目を見開いた後に口元に手を当てて視線を少しばかり下へと流した。
「あ、で、でも……私、来週にはパリに戻る、から」
 そっちじゃない。いや、ワザとはぐらされているのか? と鳳は小さく歯がみする。しかしがフランスに戻ってしまうのは切実な問題であるし、と拳を握りしめる。
「いつ、戻られるんですか?」
「え、と……金曜のお昼過ぎの便で」
「金曜……」
 明日から週中までは生憎と部活で予定が埋まってしまっている。今日のようにコンサートでもない限りは夜に付き合わせるのは非常識だろうし、それなら、と鳳はスッと息を吸い込んだ。
「じゃあ、木曜の午後って空いてますか? 俺、木曜は午前で部活終わりですから。もしも空いてるなら……その時間、俺に下さい」
「鳳……くん……」
「その時間からだと、遠出はできないし……。どこでもいいんです。俺、話したいこともありますから、先輩と会えるならどこでも」
 困惑したようにの瞳が揺れる。もっとスマートで上手いやり方があればそうしたかったが、あまりに時間がない。がパリへ戻ってしまえば、また長い時間、会えなくなるのだから。
 はしばし俯いて逡巡の様子を見せ、再び顔をあげると少しだけ視線をそらせてふわりと夜風に髪を揺らせた。
「私……、絵を描きたい」
「え……?」
「どこか景色の良いところで……。それでも、いい?」
 とたん、ハッとして鳳はパッと表情を明るく染めた。
「は、はい! 俺も……久々に先輩とスケッチしたいです。じゃあ……俺、部活終わったら有明に来ます!」
「え……!?」
「先輩も、さっきこのエリアってスケッチし甲斐があるって言ってましたよね? 俺、この辺りって試合以外じゃ来ないからゆっくり見てみたいですし」
 ね? と笑って言うと、も納得したのか小さく頷いて今度は真っ直ぐ鳳を見やった。
「じゃあ、私はたぶん朝から描いてるから……」
「はい。近くまで来たら連絡入れます」
 うん、と頷いたに鳳は改めて一礼すると「それじゃ、木曜に」と微笑んで手を振った。も手を振ってくれ、彼女が門をくぐって家に入ったのを見届けてから、ふ、と改めて目の前の家を見上げる。
 ここがの生まれ育った場所……、と少しだけ新たに彼女のことを知れた嬉しさと、そして少しばかり緊張もしていた。
 帰ったら気持ちを切り替えて少し勉強しよう、などと考えつつも思う。――木曜日、か。と次の約束を浮かべつつも、気を引き締めていま来た道を歩いていった。

 一方、自宅にあがって自室に戻ったはコートをクローゼットに仕舞ってから息を吐いてベッドへと腰を下ろしていた。
「話って、なんだろう……」
 話したいことがある、と言っていた鳳。しばし考え込むも、分かるはずもなくふるふると首を振るう。
 ――楽しかったな。と、思い返すことが辛さもともなって、懲りない自分に自嘲してしまう。
 そして改めて思う。姉のかわり……とはいえ、鳳と外で待ち合わせて出かけるなどはじめてのことだった、と。
 もしも自分が渡仏していなければ、今日のように二人で出かけるようなこともあったのだろうか。とつい浮かべてしまい、自嘲しながら眉を寄せる。きっともう二度とないだろう。あんなに心地よく、楽しい時間は。
 分かっているのに、なぜ自分でさらに辛くなるような真似ばかりしてしまうのか。と更にふるふると首を振るい、お風呂にでも入ろうとはベッドから立ち上がった。
 短い一時帰国とは言え、ぼんやりしている時間はそうはないのだ。感傷に浸っている暇などない。自分が一時帰国すると聞きつけて「日本で買ってきて欲しいものリスト」を作って渡してきた友人たちのために買い付けにもいかなければならないし、帰国すれば試験が待っているのだから勉強しないわけにもいかない。――そもそも、一時帰国した最大の理由は父親と勉強をするためだ。バカロレア最難関と言われるもにとっては難易度の一番低い「理数系」を受けるため、父に勉強を見てもらい、最高の成績でパスする。そのために帰国したにすぎない。
 それに――、受かっていると仮定して、いよいよ秋からは小さい頃からの夢でもあったエコール・デ・ボザール・パリに通うことになるのだ。
 いまは余計なことを考えて、目の前のことをおろそかにするのはきっと許されない。と、は強く自分に言い聞かせた。



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