一方、鳳は――。

 たちを見送ったあと、自室に戻ってベッドに横たわり、ぼんやりと天井を眺めていた。
 久々にに会えて嬉しいはずだというのに。嬉しさ以上に、どこか彼女が作っている壁のようなものを感じてしまって、どうにも出来なかった自分に失望していやでも気持ちが沈んでしまった。
 そして思う。宍戸がこちらを驚かせようと黙していたからとはいえ、あまりに突然の再会で驚いてしまったのだ。だから、彼女の作っていた壁を取り払うことが出来なかったのだ、と。
 でも、だけど。帰国したら連絡して欲しい、なんて。迷惑でしかなかったのだろうか、と更に思考が沈みがちになっていると、ブルッと携帯が震えて、鳳はハッとして携帯を手にした。宍戸からだ。
「宍戸さん?」
「おう。お前、ちょっと出てこれるか?」
 曰く、近くの公園にいるという。鳳は母親に夕食までには戻ると告げると、足早に宍戸の待つ公園へと急いだ。中に足を踏み入れると、気怠げにベンチに座っている宍戸が目に入り急ぎ駆け寄る。
「宍戸さん、一体どうしたんですか? 先輩は……」
「ああ、駅まで送っていったぜ」
「そ、そう……ですか。でも……一体……」
 呼び出された意図が分からずに、鳳も取りあえずベンチへと腰を降ろす。すると、宍戸は若干言いづらそうな表情をしてガシガシと頭を掻いた。
「お前……。一体どうする気だ?」
「え……?」
「とぼけんなよ、のことに決まってんだろうが」
 え、と鳳は極限まで目を見開いた。まさか宍戸がそんな話を振ってくるとは、思ってもみなかったからだ。
「ど、どうする、って……」
「お前、中等部の時からずっと未練たらしくアイツのこと忘れられてねぇんだろ? どんだけ女に告られても片っ端から断ってたしよ」
「そ、それは……」
 鳳は戸惑って視線を下に流す。宍戸らしからぬ話題に戸惑いつつも、なぜいきなりそんな事を言うのだろう? 女性からの交際申し込みを断っているのは宍戸とて同じではないか、と問いかけられたことへの反発心が勝ってギュッと拳を握った。
「宍戸さん、こそ……」
「は……?」
「宍戸さんこそ、先輩のこと……!」
 言うと、宍戸は不意打ちを受けたように目を大きく丸め、ジロリと睨み付けるようにしてこちらに強い視線を送ってきた。
「んだよ、ソレ。なんだ? お前、俺がアイツに惚れてるとでも言えば譲る気か? 昔、俺にレギュラー譲ろうとしたみたいによ」
「――ッ!」
「その程度の気持ちってんなら、金輪際アイツに近づくんじゃねーよ!」
 凄まれて、鳳はグッと言葉に詰まる。ずっとずっと、昔から葛藤してきたことだ。宍戸とが付き合っているという噂を耳にしたあの時から。が、自分ではなく宍戸を選んでしまったらどうしよう、と。そうなっても仕方がないと懸命に自分に言い聞かせつつも、どうしても納得できなかったことを浮かべて強く首を振るう。
「イヤです、俺、例え宍戸さんでも……! あなたも先輩が好きというなら、俺、戦いますから!」
 それに譲るとか譲らないとかそういう問題ではない。と強く言おうとしたところで宍戸はぽかんとした表情を晒し、次いで大笑いしたものだから鳳は再び慌てふためいてしまった。
「え、ちょ、宍戸さん……?」
「わ、悪ぃ悪ぃ! ……いや、まあ、安心したぜ」
「え……?」
「けどよ、お前にこう言うのも何だが……俺は俺なりにのことを知ってるつもりだ。アイツは、ほっとくと追いつけない場所まで勝手に行っちまうヤツだぜ」
「わ……分かって、ますよ……。そんなこと」
 それこそがまさにの本質であり、に別れを告げられた一番の理由なのだから。と鳳は苦い過去の思いを過ぎらせつつ眉を寄せると、ハァ、と宍戸が肩を落とす気配が伝った。
「ま、分かってるならいいけどよ。それに耐えられないんなら止めとけ。男らしくすっぱり諦めろ。中途半端なことされても、アイツも迷惑だろうしよ」
「けど……!」
「けど、じゃねぇよ! ……ま、どのみち、俺がどうこう言う問題じゃねぇけどな」
 言って、宍戸はベンチから立ち上がる。
「宍戸さ――」
「悪かったな、わざわざ呼び出しちまって。……じゃあな」
 自嘲さえ浮かべたような横顔を残して宍戸は鳳に背を向けたまま手を振り、鳳はしばし宍戸の背が見えなくなるまで呆然とその場に立ち尽くしていた。そうしてしばらくして、クシャ、と自身の髪に手をやる。
「分かってます、けど……」
 宍戸の言いたいことはイヤと言うほど分かった。宍戸がを好いているかどうかはこの際、どうでもいいことだ。さっきも言ったとおり、例えそうでも負けるつもりはないのだから。けれど、宍戸がを大事に思っているのは事実であり、おまけに今日の出来事に至っては宍戸は巻き込まれたと言っても過言ではなく、全ては自分の不手際だということも痛いほど分かっている。
 けれど……どうすればいいのだろう? 宍戸の言うとおり、確かに未練がましくを忘れられずにいたかもしれない。いや、はっきりと忘れられなかった。そして既に三年という時間が経っているのだ。もしもこの先、が自分の手を取ってくれるというのなら何年だろうと待っていられる。何だってできるだろう。けれど、はどうなのだろう? おそらく恋人も想い人もいないだろうと確信しているが、あくまで自分の希望的観測に過ぎない。それに――いくら中等部のころよりは多少なりとも成長したとはいえ、まだ子供である自分に何が出来、何を言えるというのだろうか。
 こんな自分だから、ああして宍戸も痺れを切らして叱咤してくれたのだろうが――と考えつつ鳳はトボトボと自宅へと戻った。そうして姉の帰宅を待っての夕食となり、母親が今日の宍戸との訪問を何気なく話題に出したものだから姉がにわかに色めき立ち、鳳は仕方なしに苦笑いを浮かべて適当に話を合わせつつ食事を終えると自室へと引きこもってベッドに身を投げ出し、ハァ、吐息を吐いた。
『男なら逃げずに立ち向かってこそだろーが!』
 ふと、まだ中等部の頃に宍戸から言われた一言が頭を過ぎった。
『お前、俺がアイツに惚れてるとでも言えば譲る気か?』
『その程度の気持ちってんなら、金輪際アイツに近づくんじゃねーよ!』
 そのまま昼間の宍戸の強い視線を浮かべていると、コンコン、とドアをノックする音が聞こえて鳳はハッとベッドから身を起こした。
「はい」
「長太郎、ちょっといい?」
「どうぞ」
 姉の声だ。カチャ、とドアが開いて姉が何やらヒラヒラと紙切れを手にして部屋の中へと入ってくる。
「あのね、今度の日曜のことなんだけど……」
「うん。コンサートだよね、覚えてるよ」
「それが……ゴメンね! どうしても外せない用が入っちゃって」
「え――!?」
「だから、誰か友達でも誘って行って? ね?」
 言って姉は申し訳なさそうに手にしていたチケットを鳳に握らせると、「じゃあね」と足早に部屋を去っていった。パタン、とドアの閉まる音を聞いてから鳳は握らされたチケットに目を落とす。それは都内でのクラシックコンサートのチケットで、かねてより姉と行こうと約束していたものだ。
「友達っていったって……」
 急な話に頭に手をやるも、パッと浮かんだテニス部のメンツは誰も彼もクラシックとは縁遠い人々で、やれやれ、と肩を落としつつ鳳はハッとした。――そうだ、と、ある人物を浮かべてごくりと喉を鳴らす。そうして携帯を取りだして、最新の登録番号を表示させてもう一度、鳳は息を呑んだ。
 そうだ、がいるではないか。イースター休暇は約2週間であるため、三日後の日曜はまだ日本にいるだろう。――を誘おう、と思い至って鳳は自分でも嫌になるほど身体中にばくばくと響く心音を自覚して眉を寄せた。そうして乾いた唇をペロリと舐める。
 思えば、を自発的に何かに誘うのは初めてのことだ。いつも、学園で自然と一緒にいたり、出先で偶然顔を合わせたりが続いたためにこういう機会が不思議なほどなかった。本当に、自分たちは何も始まっていない、奇妙な関係だと思う。だけど――踏み出さなければ何も始まらない。だってもう「黙って忘れる」というのは不可能だと知っているのだから。
「男なら立ち向かってこそ、か……」
 改めて、昔に宍戸から受けた言葉を思い返しつつ、意を決して鳳は発信ボタンを押した。

「もしもし……」

 一夜明け、は殺風景な自宅の自室で小さくため息を吐いていた。
 ――夕べ、鳳から電話があった。
 コンサートのチケットがあるから行かないか、という誘いの電話だった。なんでも一緒に行く予定だった姉が急用でキャンセルしてしまって、という事情のようだったが――とは小さく眉を寄せる。
 コンサートの中身は、中欧をクローズアップしているということで、ポーランド出身のショパン、ハンガリー出身のリスト、チェコ出身のドヴォルザークの代表曲で構成されているらしく、いかにも鳳の好みであり初心者にも取っつきやすく、にしても興味を惹かれる内容ではあった。断る理由は何もない。ないのだが、とは胸元の――昨日鳳に会ったときには外していたペンダントにそっと触れる。
 パリに戻ればまた目まぐるしい日常が待っているのだ。バカロレアに向けて勉強漬けで、美術学校への合否を問わず並行して絵の勉強もやらねばならず、高校を卒業すれば引っ越しもしなければならないし今度こそ絵の勉強一本の生活になるはずで。――ふとした瞬間に鳳のことを思い出したとしても、余計なことを考えている暇などあるはずもない。と、浮かべつつも抗うようにキュッとペンダントを握る。
 これが宍戸からの誘いだったら、久々に宍戸と会えて嬉しい、と素直に言えたのに。きっとお互い、そうだろう。会えば中等部の頃のまま、永遠の親友。例え一生会えなくとも、それは変わらない。
 けれども、鳳は違う。それは――結局は自分の中で気持ちに決着が付いていないからに他ならない。きっとお互いに、だ。半年前にブダペストで会ったことはキッカケに過ぎず、あの場で再会していなくても互いの気持ちの風化を待たない限りは同じことだ。
 けれども、いつまで待てば、「風化」とやらが訪れるのか。どうにもならないと分かっているのに。鳳にしても――なにを考えているのだろう?
『俺は、納得してませんから……!』
『俺はもっと先輩と話したいし、先輩と一緒にいたい。なのに……ッ』
 中等部の頃の、ちょうど彼の14歳の誕生日に鳳はそう憤っていた。あれからもう三年以上が経っている。お互いに違う場所で違う生活を続けたこの三年という時間は、きっとお互いを「先輩後輩」というポジションに戻してくれるだろうと思った淡い期待は虚しく、結局、何も変わっていない。
 だけど、それでも。やはり「先輩後輩」でいなければならないだろう。何の葛藤もためらいもなかった、出会った頃のように音楽室で二人笑い合っていた関係のまま。
 そうしなければ。――と考える自分自身が矛盾を孕んでいることには気付いていた。
 本心からそう思っている。本心からそうならなければと努めている。
 でも、できない――、とはグッとペンダントを握りしめてギュッと目を瞑った。

「それじゃ、10分間の休憩のあと、一年生は球拾い、二年生はランニング、準レギュラー・正レギュラーはコートで打ち合いを行う!」
「はいッ!」
 その日の午後、氷帝の高等部テニスコートにて部員達を前にそう言い放った鳳は散っていく部員達を見届けてからベンチに置いていたタオルを手にとって汗を拭った。
 及ばずながらテニス部の部長に就任して半年ほどが経つ。とはいえ、副部長は日吉で、中等部の頃と比較して単に部長と副部長が入れ替わっただけであってそこまで変わり映えはしない。メンバーすらほぼ変わっていないのだから、たまに「日吉部長!」「鳳副部長!」と誰かが言い間違えては笑いが起きることも日常のことだ。しかしながら正味な話、細々とした作業に強い日吉の方が副部長職には向いており、本人も「こっちの方が合っている」と感じているようだが「部長」ポジションを明け渡したことは大いに不満らしく、自分たちの関係性も相変わらずである。
 選抜後のいまはテニス部にとってはインターバルのようなもので、それぞれが来る夏に向けて自身の技の強化や開発に勤しみつつ基礎能力の強化に励んでいる最中だ。
「鳳部長! 来月の青学との練習試合なんですが……」
「うん、話した通り、俺はキミとダブルスで出るから」
「光栄です! けど、それじゃシングルスは……」
「いいんだよ、俺は桃城とも海堂とも何度もやってるし、今回は日吉が海堂とやりたいってさ。それに……ダブルスも鍛えないといけないしね」
「は、はい! よろしくお願いします!」
 部活後に駆け寄ってきた後輩と並んで歩きながら、鳳は、ふ、と微笑んだ。彼は宍戸達が引退したことで繰り上がってきた選手だ。今のところダブルスで入ってもらっている。相も変わらずダブルスは氷帝の弱点でもあり、鳳はほぼシングルス一本でやってはいたものの三年生の引退後はこの後輩とちょくちょくダブルスを組んでいた。素直で自分を慕ってくれているのが見て取れ、「可愛い後輩」でもある。
 宍戸にとっての自分もそうであったのかな、と彼を見て思うも――自分はもっと生意気だったか、と苦笑いを浮かべた。そして今になって思う。宍戸もきっと「先輩なんだから頑張らなければ」なんて思って張り切っていたんだろうな、と。
 自分はまだまだ子供であるが、やはり、中等部の頃とは何もかもが違う。
 そうだ。変わってないようで、変わったんだ。――などと巡らせつつ鳳は自宅に戻ると、着替えてから自室の机に向かった。英語で書かれた難しげな参考書を広げてしばし格闘を続け……ふと走らせていたペンを置いて、ふ、と息を吐く。
「跡部さんみたいに第2、第3外国語まで堪能だったらなぁ」
 鳳自身は英語はもともと日常会話は問題なく、具体的な英語力を証明するための「スコア対策」をみっちりやり始めてからは、もう少し伸びる余地はあると思っているものの、世界中のどの国に出しても恥ずかしくない程度の数値を修めることには成功している。が、あくまで英語のみの話で、あとはドイツ語を少しとイタリア語がほんの少しだけ、というレベルである。昔は複数の言語を自在に操ることに憧れてもいたが――さすがにもう難しいかな、とも思う。自分はやはり、英語に絞るしかない。
「先輩は……、英語よりフランス語、か」
 の場合、フランスで絵の勉強をするという明確な目標を幼い頃から持っていて、尚かつ高校からフランスに身を置いているがゆえにフランス語で困るということは今はないのだろう。そう、くらい幼い頃からもう少し真面目にやっていれば――と本棚のイタリア語辞典を睨んで鳳は溜め息を吐いた。
「音楽用語なら分かるんだけどなぁ」
 おそらくイタリア語と英語の混ざった音楽の講義であればほぼついていけるだろうが。いやしかし。ウィーンに留学していた時も、授業は英語、生活を含めればドイツ語も必要だったがそれほど困ったことはない。が……英語は最低条件だ。跡部のように複数の言語が出来た方が選択肢は広がるし、マルチリンガルは欧米では決して珍しいものではない。
 ハァ、と溜め息をついてから鳳は気を引き締めて勉強に没頭し、夕食に呼ばれて風呂も済ませ、また勉強に没頭してふと気づいたときには時計の針は夜の11時を指していた。
 さすがにそろそろ寝ようか、と腰を上げ伸びをしてから部屋の電気を落としてベッドへと入る。――明後日は、とコンサートに行く予定だ。
 二人きりで出かけることを、夕べの電話口で彼女は相当に躊躇していたように感じた。昨日だって、あえて宍戸を連れて三人で会ったのだからが自分と二人という状況を避けていたのは明白だ。彼女にしてみれば、何を今さら、という気持ちなのかもしれない。でも――。
『アイツは、ほっとくと追いつけない場所まで勝手に行っちまうヤツだぜ』
 そう、宍戸の言うとおりだ。待っていても、彼女は永遠にこちらを振り返ってはくれず距離は遠くなるばかり。でも、自分を相手に戸惑いを見せ、躊躇しながらも結局は「うん」と頷いてはくれるのだから――少しは希望を持ってもいいだろう。
 ともかく、今は純粋にコンサートを楽しみにしていよう、と鳳はそっと瞼を閉じて眠りの淵へと落ちていった。



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