――春、3月末。

『帰国したら絶対に連絡くださいね!』

 久々に日本の地に降り立ち――、成田空港に着いて携帯の電源をオンにしたの脳裏に何度目か分からない鳳の声がフラッシュバックした。ス、と眉を寄せ、しばし考えを巡らせる。
 ハンガリーはブダペストで偶然に鳳と再会してから早半年。鳳はあの一方的とも言える約束を――やはり覚えているのだろうな、と悩み抜いた末に、約束を反故にするという結論が出せずに、は携帯のメモリーからとある人物の連絡先を取りだして、発信した。


「ったく。久々に連絡よこしたと思えば……」
 ぶつぶつと独り言を呟きながら、宍戸亮は既に卒業式を終えて卒業をした氷帝学園高等部の正門前に立っていた。
 ――昨日、中等部の卒業式以来となる丸3年ぶりに中等部の時の腐れ縁でもあったから連絡が来た。曰く、鳳と連絡を取りたいのだが、という用件で「ハァ!?」と聞き返してみるとどうやら「帰国をした時に連絡をするという約束をしたが、鳳の連絡先を知らない」ということだった。さっそく「激ダサ」と呟いてみるも、半年前に鳳から「ブダペストでに会った」と聞かされていた宍戸はそれとなく事情を察して、それならば、とを高等部へ誘ったのだ。なぜなら、春休み中のいまはテニス部は部活を行っており――、春の選抜を終えた直後の今日は、午前で練習が終わることを知っていたからだ。
 12時に高等部の正門前でという約束だ。そろそろか、と宍戸は自身の腕時計に目を落とした。12時まであと数分。もう来る頃だろう。どことなくソワソワしていると、それから一分ほどのちに懐かしくも耳慣れた声が遠くから聞こえてきた。
「宍戸くーん!」
 振り返ると――実に三年ぶりに会うが持ち前のウェーブの髪を揺らして手を振っており、思わずつられて手を振り返しそうになった自分にハッとして宍戸は耳を少しばかり赤らめた。
「宍戸くん、お久しぶり! ごめんね、突然」
「おう。……元気、そうだな」
 相変わらずの柔らかい雰囲気だが、以前にも増して女っぽくなったの変わらない態度に宍戸の方が戸惑ってあたふたと視線をそらす。すると、ふふ、とは以前と変わらない柔らかい笑みを口元に浮かべた。
「宍戸くん、今も短髪なんだね」
「ま……、まぁな」
 中等部三年の頃に長髪から短髪に変えて以来、案外と短髪がしっくり来ていたのもあって宍戸はそれ以降ずっと短髪で通していた。
 は懐かしそうな目線を向けつつ、少しばかり視線を上向けた。
「背、伸びたね。なんだかカッコ良くなっちゃって、見違えちゃった」
「はッ……ハァ!?」
 確かに数センチと言えど、背は伸びた。だが――ここで狼狽えずに、ましてや「お前こそ……」などと口が裂けても言えない宍戸は「ア、アホ!」と一蹴して「行くぞ!」と正門をくぐる。
「私、入っちゃって大丈夫かな」
「平気だろ、お前も中等部は氷帝だったんだし、完全に部外者ってワケでもねぇしな」
「うーん……。あ、宍戸くんももう卒業したんだよね? 大学は……?」
「ウチの大学部に決まってんだろ、何のためのエスカレーター式だと思ってんだよ」
「そ……そうだね」
 どことなく既視感のあるやりとりののちには苦笑いを浮かべ「学部は?」と訊いてきたものだから宍戸は腕組みをする。
「経済学部だ」
「え、経済……?」
「あ、テメーいま無難って思っただろ!? チッ、しゃあねーだろウチの大学、教育学部ねぇんだからよ。経済なら学科によっちゃ社会科の教免とれるしな」
「え……!? し、宍戸くん……先生になるの……?」
 予想通りの反応に「ウルセー」と呟いて、眉間の皺を深くした。
「そんなワケでみんなけっこうバラバラだな。バラバラっつっても学部違いでたいがいが氷帝に進学したんだが……。ま、外に出たヤツも何人かいるな。忍足なんか、家系らしくて結局医学部だしよ」
「そうなんだ……凄いね、忍足くん。あ……じゃあ、跡部くんは?」
「跡部は――」
 言いかけたところでテニスコートが見えてきて、いったん会話は中断された。活気ある声が聞こえてきて、二人して頬を緩める。高等部でも変わらない全国区の強豪であるテニス部はやはり設備も整っており――中等部と似た作りのスタンドからひょいと二人して顔を出せば懐かしいテニス部の練習風景が目に飛び込んできた。
 そのうちに、部員の誰かが宍戸に気づいたのだろう。
「宍戸先輩! チーッス!!」
 そう声を発したものだから大多数のテニス部員がこちらに向き直ってしまう。宍戸は「よっ!」と声をかけたが宍戸の横に女性がいたことにテニス部員は驚愕したのか、辺りがザワついている。そのうちに誰かがハッとしたように言った。
「あれ、先輩じゃね……?」
「マジだ、さんだ……。えー、宍戸先輩とまだ続いてたんだ?」
 その囁きにと宍戸は揃って苦笑いを漏らした。やはりほぼ中等部のメンバーで構成されているがゆえに、自分たちが付き合っているという噂もまだ継続中なのだろう。
「ところで、長太郎は――」
 宍戸が言いかけた時、スタンド下のコートの出入り口フェンスが開いたかと思うと、カタ、とラケットを落としたような音が確かに響いた。見ると、いま宍戸が口にした鳳長太郎が目を見開いてこちらを凝視している。
「せ、先輩……!? 宍戸さん……」
「よう、長太郎!」
「ど、どうして……なにやってるんですか!? 二人とも!!」
 驚いたような声にキョトンとしたのはだ。
「し、宍戸くん……あの」
 が宍戸に視線を流し、宍戸は気まずげな顔を浮かべてガシガシと頭を掻いた。
 その様子にまた辺りがザワつきはじめる。――中等部の頃は危うく宍戸・・鳳を巡っての修羅場だなんだと噂が出回りかけた過去があるのだ。テニス部員もそれを思い出したのだろう。
 そうこうしているうちに、ひときわ不機嫌そうな舌打ちが一つ伝った。
「何しに来たんですか、宍戸さん。もう高等部は卒業したはずでしょ」
「若……」
 鳳の同級生でもある日吉若だ。日吉はこの騒ぎを良しとはしなかったのだろう。相変わらずの鋭い目線を後輩たちに向けると一蹴した。
「お前たちもすぐ球拾いに戻れよ」
「あ、ハイ! すみません、日吉副部長」
 日吉に睨まれて下級生らしき部員が萎縮する。その間に鳳の方もコートに入って、日吉の方へと近づくと「まぁあぁ」と宥めるようにして言った。
「いいよ、日吉。もう終わりの時間だし……。じゃあ一年生は球拾いを終えたら上がりにしよう」
「はい! 鳳部長!」
 そんなやりとりのあと、日吉は鳳を睨み付けたが、鳳の方はその眼光を笑って受け流している。
 はというと、そのやりとりを驚いたように見つめていた。
「え……鳳くんって……部長なの?」
 ああ、と宍戸が頷く。
「なんでも、中等部の時に若が部長やったんで、今度は逆にしようってことで長太郎になったらしいぜ」
 それはまた安易な、とはは口にしなかったが「へぇ」と感心しきりに目を瞬かせた。
「そっか……。氷帝の部長……。氷帝の部長っていうと私は跡部くんのイメージしかないからよく分かんないけど」
「跡部とは全然ちげーよ。けど、アイツ、未だにサーブの記録保持してっし、シングルスも強ぇし、今回は誰も文句ねぇだろ。中等部の頃から長太郎を慕ってたヤツは多いしな」
 強いて欠点をあげるなら鳳自身の優しい性格か。と続けていると鳳は本日の部活動の終了を宣言してからこちらに手を振ってきた。そうしてスタンドをあがってきてまず宍戸に強い視線を向ける。
「さっきの話ですけど……どういうことですか?」
「いや、まぁ、その、だな。から……帰国したって連絡があってよ」
 その宍戸の発言に今度はが「ええっ!?」と声をあげた。
「ちょ、ちょっと待って、宍戸くん。もしかして……鳳くんに何も言ってなかったの?」
 双方から責められて、宍戸は「あー、もう」と短い髪に手をやった。
「いや、だからな……」
 そして辿々しくだが順を追って説明する。から「鳳と連絡を取りたい」「会うのなら、できれば三人で会いたい」と言われた宍戸はそれならばとテニス部に行くことを提案した。が、鳳本人にそのことをどう伝えようか迷ったあげく、どうせなら驚かせようとが帰国した事は伝えずにいた、ということをどうにか伝えれば、なんだ、と二人は息を吐いた。
「それならそうと言ってくれればいいのに……。俺、本気で驚きましたから。――お久しぶりです、先輩」
 そうしていつも通りの穏やかさを取り戻して笑ってみせた鳳を前にして、宍戸は、ハァ、と溜め息を吐いた。しかも鳳の背後にはけっこうなギャラリーが出来てしまっており、宍戸は改めて自身の作戦ミスを悟った。
 鳳は着替えてくるから待っててくれと言い残してきびすを返し、ギャラリーに囲まれている。
「おい鳳、あれって先輩だろ……? 確かフランス行ったって話じゃなかったっけ」
「部長、あの人ですよね……。宍戸先輩の彼女って」
 達の位置へも声が届いていたものの、鳳は同級生や後輩からの質問を受けて、あはは、とごく自然に笑っていた。
「違うよ、宍戸さんの彼女じゃないって。あれ、ただの噂だし」
「マジか!? けどさ……」
「ホントホント」
 そうして去っていく一団を見つつ、宍戸は頬を引きつらせるしかない。
「鳳くんって本当に背が高いね。部員に囲まれても頭一つ飛び抜けてるもん」
 で呑気にそんな事を言っていて、宍戸は一つ深い溜め息を吐きつつ「行こうぜ」とを促して「校庭の噴水前にいる」と鳳にメールを打ってテニスコートをあとにした。

 そうして鳳が現れるのを待って三人で連れだって高等部を出て、取りあえずは昼食時であるしどこかランチができる店に入ろうということで、さっそく宍戸と鳳の意見が割れる。部活後という空腹状態に加えてどちらかというと良く食べる方の鳳と、鳳に比べれば食が細い宍戸だ。おまけに宍戸は「やだぜ、お前の選ぶ店って高ぇし!」などと言って揉めている。
 が日本を三年以上離れているうちに、絶対的な先輩後輩というよりはすっかり友人に近くなった二人なのだろう。「俺はマックは却下です!」などと続ける二人の様子にはしばしくすくすと笑った。

 結局は高等部から少し離れた場所にある喫茶店に落ち着き、鳳はその店のランチセットを、宍戸は相も変わらずサンドイッチの盛り合わせを、はオムライスを頼んで改めて向き合った。
「お前さ、やっぱあっちじゃフランスパンとか食ってんのか?」
「うん、やっぱり主食はバゲット中心かな。でも私はクロックムッシュにカフェオレ、って典型的なパリメニューが定番で好き。フランスもチーズとパンが沢山あるから、きっと宍戸くんも気に入ると思うよ」
「マジか!? いつか行ってみてぇな」
「来てくれたら、観光案内するよ」
 テーブルを挟んで宍戸、鳳と向き合ったが笑う。すると「あ」と鳳が声をあげた。
「俺たちはいま春休みですけど……。先輩もそうなんですか?」
「うん、イースター休暇」
「あ、そうか。イースター休暇……」
「ちょうど受験も終わったし……次の夏に帰国するのは無理かもしれないから、短いけど急遽戻ることにしたの」
 そうこうしているうちに鳳のランチセットと宍戸のサンドイッチが運ばれてきて、宍戸はサンドイッチを頬張りつつなお訊いてくる。
「お前の目指してた学校ってなんつったっけ? 受かったのか?」
「エコール・デ・ボザール・パリ。受かったかどうかは……分からない。たぶん、フランスに戻るころに結果が出ると思う」
「え……!? 先輩、ほんとにボザール受けたんですか!?」
 すると鳳が驚いたように声を強めた。うん、と頷くと鳳は「わあ」と感嘆の息を漏らした。
「さすが……」
「なんだ、そのエコールなんとかって」
「エコール・デ・ボザール・パリですよ。フランスどころか世界最難関の美術学校です」
「ま、まあ……まだ最終試験に通ったかは分からないし」
 は苦笑いをしつつ肩を竦め、次いで「それに」と肩を落とした。
「仮にボザール受かってても……魔の六月を突破しなきゃ話にならないしね……」
 遠い目をしたに鳳も苦笑いを浮かべる。「なんだ?」と訝しがる宍戸に鳳はフランスのバカロレア制度を簡単に説明すればさすがの宍戸も同情気味の表情を浮かべた。
「けど、三年経ってもお前マジで変わってねぇな。相変わらずの絵バカかよ」
「だって絵の勉強するためにフランス行ったんだもん」
「まぁ、そうだけどよ」
 宍戸とはやはり三年経っても相も変わらず親しげで、鳳は探るような目線をへと送る。
「宍戸さんと先輩って、本当に会うの三年ぶりなんですか?」
 すると二人はキョトンとした表情を晒したのちに、「ああ」と宍戸は呆れたような目をした。
「この三年、全く音沙汰ナシだったからな。ったく、相変わらず……」
「お互いさまじゃない」
「ま、そうだけどよ」
 元から特に用事がなければ連絡を取り合うなどしなかったと宍戸だ。会ったら会ったであっという間に当時の仲に戻れはするが、二人にとってはこれが通常のことだった。
 そっか、と鳳は息を吐くも、は握っていたスプーンを皿に置いて真っ直ぐに鳳を見た。
「今日は、もちろん宍戸くんにも会いたかったんだけど……。ほら、ブダペストで……、帰国したら連絡するって約束したから……。えっと……」
 正確には鳳が一方的に「連絡をくれ」と言ったためだったが、鳳にしてもあの場では単に勢いでとの繋がりを断ちたくなくて言ったに過ぎないということは、には知るよしもないことだ。
 鳳の方は、こう改めて言われると、宍戸の前ということもあって返事に窮したのだろう。「あはは」と誤魔化すような笑みを小さくこぼした。
「その……俺……。もう一度、ちゃんと先輩と話がしたくて」
「うん……」
「それに、その……」
 二の句を継げずに鳳は口ごもり、えーっと、と言い淀んでから何かを思いついたように頷いた。
「久々に……俺のピアノも聴いて欲しかったですし。あと……バイオリンも」
「バイオリン……?」
「はい。先輩、俺のピアノしか聴いたことないですよね? だから」
 聴きにきませんか――? と、鳳が続け。なぜこんな事になっているのだろう、と喫茶店を出た後に宍戸はと鳳と連れだって歩きながら天を仰いだ。
 鳳の趣味がピアノやバイオリンだということは宍戸も知っていることだ。しかしその手のことに全く興味のない宍戸としては鳳のバイオリンはおろかピアノさえ耳にしたことはほとんどない。にしても鳳のバイオリンは耳にしたことがないらしく、聴きたい、と答えた彼女を鳳が自宅に招待したのだ。しかしは「宍戸くんも一緒なら……」と暗に自分に目線を送り、鳳も「宍戸さんもぜひ」と笑って誘ってくれ、今に至っている。
 はおそらく鳳と二人きりという状況を避け、鳳にしても自分の家に一人で彼女がついてくるとは端から思っていなかったために自分も誘ったのだろうが。と宍戸はしかめっ面を浮かべた。こんな状況になっても未だ自分はと鳳の接点を知らない。知っているとすれば――鳳のに対する想いくらいだろうか、と宍戸はちらりと鳳を見上げた。その手の話題はタブーに近く、触れたこともないが、思い違いでもないだろう。
 そうこうしているうちに鳳の家の最寄り駅に付き、鳳に先導されつつも宍戸は見覚えのある道を歩いていった。どちらかというと宍戸の家に鳳を招く回数の方が多かったが、宍戸とて鳳の家に招待されたことは何度もあるのだ。
 跡部家と比べるのは間違っているが――、一般家庭と比べるとやはり裕福な家だということが見て取れる作りだよな。と宍戸は都内でも有数の高級住宅街に居を構えている鳳家を見上げて肩を竦めた。
「どうぞ、先輩。宍戸さん」
「ありがとう、お邪魔します」
「おう」
 門をくぐれば、はっとするほど春の訪れを実感させるような可愛らしく作られた花壇に色とりどりの花が咲き乱れていて、「わあ」とは感嘆の息を漏らしている。
「ステキなお庭……!」
「ありがとうございます。ここに毎朝やってくる小鳥に餌をあげるのが俺の日課なんですよ」
「鳳くんらしいね」
 と鳳のことは全く知らない宍戸であったが、こうして穏やかに微笑み合う二人を見ると確かに歩調は合っているのか、と感じつつ眉を寄せながら鳳が自宅のインターホンを押すのを遠目に見ていた。少し経つと返事と共に鳳の母親がドアをあけてくれ、「あら」と目を瞬かせた。
「ただいま、母さん」
「おかえりなさい。あら……宍戸君、に……。まあ、ブダペストでお会いしたお嬢さん?」
「あ……! はい、です。お久しぶりです」
 鳳に似たおっとりした口調の母親に向かって、は少々上擦った声で頭を下げた。宍戸も「こんにちは」と頭を下げる。鳳は鳳で「先輩たちに俺のバイオリン、聴いてもらおうと思って」などと呑気に説明したかと思うとくるりとこちらに向き直って「どうぞ」と改めて中へと招き入れてくれた。
 宍戸とは、宍戸にしてもはじめて足を踏み入れるいわゆる鳳家の「音楽室」に該当する部屋へと案内された。足を踏み入れた途端にも、わ、と呟き宍戸にしても絶句して息を呑んだ。完全防音と思しき広い部屋にグランドピアノが置かれ、本棚には沢山の楽譜が並べられて楽器棚にはバイオリンケースをはじめフルートケースも見て取れた。歓談用でもあるのかテーブルとソファも完備してあり、鳳に促されるままに二人はソファに腰を降ろす。
「少し待っててもらえますか? 俺、着替えてきますから」
 言って鳳は部屋を後にし、どちらともなく宍戸とは互いの顔を見合わせた。
「グ、グランドピアノだよ……凄いね……」
「ったく、これだからボンボンは……」
「バイオリンもいくつかあるけど……。バイオリンってピアノの比じゃないくらいお金かかるのに」
「ゲッ、マジか? ったく……頭痛くなってきたぜ、マジで」
 宍戸にしてもにしても私立に通えるくらいの家庭で、に至ってはそこそこ裕福な家庭である。その二人にしても息を呑むほどなのだ。跡部ほど突き抜けていれば気にもならないが、鳳は跡部には届かないまでもかなり恵まれた家庭で育ったのだろう。
「はじめて会った時から、育ちのいい子なんだろうなって思ってたけど……」
「あ、そうだ。お前って、いつ長太郎と――」
 の言葉にハッとして、宍戸は改めて今さらながらに二人の接点を訊こうとしたが「お待たせしました」と戻ってきた鳳の声によってその話題は中断された。見ると、シャツとパンツという軽装に身を包んだ鳳が何やら紅茶ポットとティーカップを乗せたプレートを手にして微笑みながらこちらに近づいてきて「とうぞ」とテーブルに紅茶を置いた。
「ありがとう」
「悪ぃな」
 いいえ、と微笑んで鳳は楽譜棚の方へ行き、思案顔をした。おそらく、何を弾くか迷っているのだろう。
「長太郎、俺、バイオリンとか全く分かんねぇぞ」
「大丈夫ですよ、宍戸さんもぜったい知ってる曲を弾きますから」
 言って鳳は棚から楽譜を引き出すと、パラパラと捲ってバイオリン用の楽譜置きに置いた。そうしてバイオリンケースからバイオリンを取りだし、何やら音を鳴らして音の感覚を確かめている。そして楽譜の前に立つとこちらに向かって一礼したものだから、は手を叩き、宍戸も倣って手を叩く。鳳は、ふ、と微笑むと慣れたようにバイオリンを自身の左肩に乗せて構え、弓を引いた。
 途端、部屋中に弦の擦れ合う音が奏でる独特の音色が流れ出して――宍戸はハッと目を見張った。確かにこの曲ならば聞き覚えがある。義務教育での音楽の授業の定番中の定番、ヴィヴァルディの「四季」より「春」の第一楽章だ。曲名までも分かる。そのせいか、協奏曲を独奏しているがゆえの物足りなさを感じるどころか、勝手に脳内がチェロやコントラバスの音を補ってくれ、宍戸は感心しきりに鳳を見やった。
 まるで今の季節を歌い上げるように高らかに音を鳴らし――、最後の音を響かせて弓をバイオリンから離した鳳に向けてはもとより宍戸も拍手を贈った。
「すっごーい! ホントに上手いんだね」
「すげぇな、長太郎! マジで俺でも分かったぜ!」
 えへへ、と常と変わらないはにかみを鳳が浮かべた。
「協奏曲ですから……ちょっと寂しい気もしましたけど」
「ううん、凄くステキだった」
 ありがとうございます、と鳳ははにかんだままペラペラと楽譜を捲る。「四季」の「春」のそれも第一楽章は確かに有名だが、続く第二楽章以降はおそらく宍戸にとっては未知のものだろう。まして「夏」以降に至ってはさっぱり分からない。
 まあ、おそらくそんなのは自分だけだろうが――と宍戸が自身に苦笑いしていると鳳は楽譜を目一杯広げて改めてこちらに向き直った。
「では、次は……”夏”を通しで弾きますね。あまり自信ないですけど……聴いてください」
 うん、と頷くはやはり曲そのものを知っているのだろう。が、宍戸は分からず口をへの字に曲げる。だが、鳳の奏でだした旋律を聴いて宍戸は息を呑んだ。朗々と歌い上げるようだった「春」の旋律に比べて随分と不穏な出だしだ。「夏」というともっと明るく華やいでいると思っていたというのに――。ちらりと鳳を見やると、曲調のせいか「春」の時よりも若干険しい表情を浮かべている。
 彼は、鳳はいつもいつも自分のあとを付いてきて、ともすれば「弟」のような存在ではあるが――、こうして見ると長身を湛えた随分な男前だと改めて思う。ちっこいばかりだと思っていた中一の頃と比べれば随分と成長したものだ、と宍戸は今さらながらそんな思いを過ぎらせた。
 音は次第に激しさを増し――、第二楽章に移れば、切なげに響く音が部屋を包んだ。聴きながら、宍戸はどことなく居心地の悪さを覚える。先ほどの「春」は自分に聴かせるためにも弾いていたのだろうが、これは、おそらく明らかにに向けて弾いているのだろう。弦の鳴らすビブラートがいっそ哀しいほどだ。どことなく疎外感から顔を赤らめていると、第三楽章に移ったバイオリンの音はいっそう激しさを増した。畳みかけるように弦を掻き鳴らす、激情さえ湛えた音だ。鳳は汗を飛ばして懸命に弦を押さえ、楽譜を追っている。
 曲を知らない宍戸ですら鳳の気迫に押され――、ちらりとを見やると、彼女は両手で口元を覆って潤んだ瞳を揺らし、頬を紅潮させて真っ直ぐ鳳を見据えていた。その横顔を捉えて、宍戸は大きく目を見開いた。――もこの数年間、鳳を忘れたことなどないのだ。今なお鳳と同じ気持ちなのだと、痛いほどに察せる表情だった。
 激ダサ、と宍戸は心内でぼそりと呟いた。鳳もも、どちらも自分にとっては大事な人間だ。できることなら――と思案していると曲が終わって鳳が弓を上げ、は感極まったように手を叩いた。
 約10分ほどの演奏を終えた鳳は、礼を言いつつも肩で息をして汗を拭っている。
「本当にステキだった」
「ありがとうございます」
「ピアノもバイオリンもできるなんて……いいなぁ。あんなに弾けたら、楽しいよね」
 そうして皆で冷めてしまった紅茶に口をつけ、談笑しつつ鳳は謙遜した。
「趣味、ですけどね……どっちも」
 鳳がプロを目指しているわけではないことは、いくら音楽に疎いとはいえ中高の6年間という貴重な時間をテニスに費やしている彼を間近で見てきた宍戸にもよく分かっていることだ。
 は合わせるように笑い、そしてふと会話が途切れる。――二人の間に微妙な空気が流れていることを否が応でも感じ取った宍戸は、板挟みにあっている自分の立場の居心地の悪さを痛いほど感じた。何か話さねば。咳払いでもしてみるか、などと思ったところで「あ」とが何かに気付いたようにティーカップに手を添えた。
「これ……、もしかしてヘレンド……?」
「あ……! はい、そうです。先輩、お好きなんですか?」
「う、うん。でも全然詳しくなくて……、なんとなく見覚えがあったの」
 何のことだかサッパリ分からない宍戸は首を捻り、何の話か聞いてみると、いま飲んでいる紅茶の入ったティーカップのことらしい。曰く、ハンガリーを代表する陶器メーカーらしく、陶器収集を趣味としている鳳の母のコレクションの一つだということだった。去年ブダペストに行ったときも母親が張り切ってショッピングしていた、という話を鳳が続け、へえ、と宍戸はひょいとカップを持ち上げてマジマジと見やった。
 するとが控えめに、世界有数の高級陶器ブランドだと付け足し、ゲッ、と頬を引きつらせる。どれほど値が張るのだろうか、このターコイズブルーに色とりどりの花が描かれたティーカップが、と眉を寄せるも皆目検討さえつかない。
「なんていうシリーズだったかな……」
「フォーシーズンです。母のお気に入りの一つなんですよ。紅茶を入れたりデザートを盛りつけたりするととても映えるからって」
「うん、近くで見るとほんとに綺麗だね……! 私は使ったことはもちろん初めてだけど、使うと映えるってよく分かるな」
 図らずも微妙な空気を食器の話題が緩和してくれたのはありがたいことだったが、今度は宍戸が話についていけず口をへの字に曲げる。そうして見ていると、の方は時おり無理に笑っているような、ふとした瞬間に寂しげな色を瞳に浮かべることに宍戸は気付いた。
 本当にこの二人は一体なんなんだ。――と思うも自身には関係のないことで、チッ、と内心舌を打ちつつグイッと紅茶を飲み干す。そしてカップをソーサーに戻すと、わずかに響いた音にハッとしたのかが腕時計に瞳を落として言った。
「ごめんなさい、そろそろ帰らないと……」
 時刻はまだ3時を回ったあたりだったが、それが本当なのかただの理由付けなのかまでは宍戸には分からない。が、席を立とうとするに倣って宍戸も腰をあげる。
「そうだな。そろそろ行くか」
「鳳くん、今日は素敵な演奏をありがとう」
「え……ッ、あ、いえ……そんな」
 鳳の方はまだを帰したくなかったのか、少し顔に焦りの色を浮かべている。宍戸にしても僅かばかり疑問を抱いた。今日は、自身が鳳に会う約束をしていたからこそこういう場を設けたはずだ。しかし見ているに、特に用事があったようには思えない。
「その……、先輩!」
「え……?」
 すると鳳がややせっぱ詰まったようにを呼び止め、珍しく持ち歩いていたのかポケットから携帯電話を取り出した。
「連絡先を教えてもらえませんか? その……今日はこうして宍戸さんにご迷惑をおかけしてしまいましたし……」
 宍戸にしてみれば、二人が互いの連絡先を知らなかったことが驚きだったが、は僅かばかり目を見開いてまごついている。そして、おずおずとバッグから携帯電話を取り出した。
「でも……この携帯、日本でしか使ってないの……だから」
「構いません! その……先輩がいやでなければ、ぜひ」
 の言葉を遮るようにして鳳は言葉を強めた、が、続く声はハッとしたのか少し弱り、は少しばかり驚いた様子ながらも頷いて鳳に携帯を差し出した。
 そして宍戸とは部屋を出ると、鳳の母に挨拶をしてから玄関をくぐり、門の前まで送ってきた鳳の方を振り返った。
「じゃあな、長太郎」
「じゃあね……、鳳くん」
「はい、宍戸さん、先輩。……また」
 ぺこっと頭をさげた鳳の表情が複雑さを表していたのを宍戸は目の端で見やってから鳳に背を向けた。
 そうして駅までの道をと歩き――、話題は中等部時代のことやが聞いてきた高等部の話題に終始して、いっさい鳳の話をしないの横顔を見つつ、ふ、と小さく息を吐いた。



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