しばしドナウ沿いを歩いてから左折し、街中に入ってしばらくすると随分と賑やかな広場が見えてきた。
 夏のヨーロッパらしく、広場の至る所に設置されたオープンテラスで人々が語らっており、その一角に白亜の城が現れて鳳は目を見張る。――これが俗に言う「ジェルボー・キャッスル」だったかとガイドブックを思い出しつつ、わぁ、と感嘆の息を吐いた。
 対するは、広場のあまりの賑わい様に目を瞬かせている。
「すごい人……」
「そうですね……。でも東京に比べればカワイイものですよ」
 オープンテラスでは人々がお茶を楽しんでおり、周りには世界的チェーン店のファッションビルが建ち並び、老若男女あらゆる人々が行き交っているものの――東京の都心に比べればどうということのないレベルだ。
 それにしても――、白人は本当にオープンテラスを好むものだと改めて思う。寒い冬もオープンテラスで、夏は夏でオープンテラスだ。暑くないのだろうか? と思うものの、湿気がほぼないのだから日陰に入ってしまえばそれなりに暑さは凌げるのだが。
 などと考えていると、の声が耳に届いてハッと鳳は意識を戻した。
「せっかくだし、中に入るよね? それとも、テラスがいい?」
 それは男の自分が言うべき台詞ではないのか、と思しき台詞をが言ってきて鳳は少し苦笑いを浮かべつつも「中へ入りましょう」と相づちを打った。ヨーロッパを歩くときはそれなりにどこへ出入りしても大丈夫なよう服装に気を遣っているため、この立派な建物に入っても見咎められはしないだろう。
 けれど、ちょっと緊張するな。と思いつつ鳳はハッとしてを先導すると入り口のドアに手をかけてそっと開いた。――さすがに数度のウィーン留学で、レディファーストの何たるかくらいは身に付いていた。
 も若干目を見開いたものの、数年のフランス生活で慣れているのだろう。おそらく、とっさに「メルシー」と言いそうになったのか、開けた口をいったん噤んでから「ありがとう」と微笑んだ。
 鳳も、ふ、と口元を緩めてからドアをくぐる。
 は、おそらくハンガリー語だろうか? 門をくぐったと同時に聞き慣れない挨拶を口にした。鳳は無難に「ハロー」と挨拶をすると、綺麗な制服を着たウエイターやウエイトレスが揃って口々に笑みと返事をくれた。それだけで感じのいい場所なのだと分かる。それに、ウィーンの高級ホテル付属のカフェ「ザッハー」には及ばないものの凝った豪奢な作りで鳳は益々感嘆の息を吐いた。
 店の作りはどうやら入り口から右手がカウンターと販売、左手側の奥が喫茶スペースとなっているようで、鳳は左手の方へを誘導した。そうして適当な席を見繕うと椅子を引いてを座らせてやる。
 おそらくこの程度は意識せずとも日本でもやってしまうのだろうが――なにせ、姉を除けば女性と二人で出かける機会がないゆえに、無駄に意識してしまって鳳はからの礼を聞いたあとで少しばかり頬を染めて「いえ」と呟きつつ自身も席に着いた。
 そうしてウェイターが持ってきてくれたメニューを開いて、真っ先に飛び込んできたのは見知らぬ言語で、う、と喉を引きつらせるも下に英語表記とドイツ語表記があり、鳳はホッと胸を撫で下ろす。さすがに元ハプスブルク帝国圏らしく、フランス語よりはドイツ語が幅を利かせているのだろう。しかも、値段のところにユーロも表記してあって鳳はなおホッと胸を撫で下ろした。
「英語とドイツ語があるから、読めるよね?」
「あ、はい。――通じるんですよね? 英語」
「うん、でも、もしかしたらドイツ語の方が通じるかも」
「先輩は、ハンガリーでは何語で話してるんですか?」
「え……? うーん、フランス語が通じる時はフランス語で、あとはハンガリー語」
「ハンガリー語!? え、喋れるんですか?」
「ほんのちょっとだけ」
 曰く、本当にこの国は英語が通じないらしく、友人の両親と意志疎通を図るにはハンガリー語が必須らしくていつの間にか少しだけは覚えたという。持つべきものはやはり外国の友人か、と感心しつつ鳳は再びメニューへと目を落とした。
 そういえば、これもガイドブック仕込みではあるが、ハイドンの仕えたエステルハージ家由来のケーキや、かの皇帝フランツ・ヨーゼフお気に入りのケーキがここハンガリーにはあったはずだ。とメニューの単語に目を滑らせつつ考え込んでいると、くすくす、との笑う声が聞こえた。
「鳳くん、甘いもの平気?」
「あ、はい。好きです」
「じゃあ……コレなんかどう?」
 そうしてはパラパラとメニューを捲ってとあるページを表示させた。すると、そこにはまさにジェルボーの三つの代表ケーキがプチケーキとしてセットになった観光客用の代名詞のような「ジェルボー・クラシック」なるメニューがあって鳳は「成る程」と感心してしまった。
 なおよくよくメニューを見ていくと、スイーツだけではなくしっかりと食事も出来るようになっていて単純な「カフェ」には留まらないのだなと知った。曰く、喫茶スペースの奥は更に広く豪奢な作りで、地下にはビアホールがあり、上階にはレセプションルームもあるまさに「城」なのだという。
「あ、でも……18時にホテルに戻るってことは、それからディナーかな? レストランとか予約しちゃってるよね」
「あ、違うんです。19時からオペラ座でコンサートで……夕食はその後なので、少し何か食べておきたかったんで、俺、ケーキ頂きます」
 へぇ、とは少し目を丸めて羨ましそうな表情を浮かべた。
「良いなぁ、素敵だよね、ハンガリーのオペラ座」
「俺も楽しみなんです! ウィーンのオペラ座より小さいけど中はすごく豪華って聞いてたんで……。でも、8月はオフシーズンだからオペラもバレエもやってないのは少し残念ですけど」
「本当に、音楽とか美術もそうなんだけど……すごく身近に触れられるのがこっちの良いところだよね」
 言って笑い合い、はメニューに瞳を落とした。どうやら見ているのはワインリストらしい、と悟って目を見張った鳳だが――そうだフランスは16歳から飲酒可能なのだ。ハンガリーにしても18歳から可能で。と浮かべて、あ、と鳳は思ったままを口にしてみる。
「先輩って……。あの、お誕生日はいつ……」
「え? 6月だけど……」
「あ、そうか。それで……」
 そうか、ももう18歳か。――と鳳は少しばかり寂しげな笑みを浮かべた。出会った頃の彼女は、そうだ。まだ14歳になる前だったか。と思うと随分と長い時が経ったものだ。大人びて綺麗になるはずだ、と胸が騒ぐも5年近くも彼女を追っているのかと思うと我ながら諦めの悪さに改めて感心してしまう。
 の方は今の鳳の言動で何かを察したか否かはともかくも、「カプチーノにしようかな」とそっとメニューを閉じた。そうしてちょうどそばを通りかかったウエイターを呼び止め、なにやらハンガリー語でやりとりをしている様をぼんやり見つめつつ、ハッとして鳳も自分の分を注文する。――数日前までウィーンにいたせいかとっさに出てくるのがすっかりドイツ語になっていたせいか、簡単な英語での注文がひどくしどろもどろになってしまい、鳳は情けなさに顔を赤らめる。相も変わらず自分は「後輩くん」のままだ。
 対するは、どういうわけか少しばかり恐縮していた。
「ごめんなさい、私……つい勝手なことを……」
 意味が分からず、どうしたのか、と訊いてみるとは少しの逡巡のあとに小さく首を振るって「なんでもない」と自嘲すると更に申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「日本語、話すの久しぶりで……。鳳くん、立派になってるし、その、ごめんね、うまく言えない……でも、ごめんなさい」
 もどかしい、と言いたげなが何を伝えたかったか鳳には分かるはずもなかったが、「立派になった」という言葉に鳳の心音は分かりやすく反応した。それはどういう意味なのだろうか? 少しは男として成長したということか? とぐるぐる考えていると注文したプレートが運ばれてきて、ハッと鳳はそちらに意識を移した。
 これは、姉が見たら「ズルイ!」と拗ねそうだ――と真っ先に浮かぶような可憐なケーキプレートに鳳は優越感半分、申し訳なさ半分といった笑みを浮かべた。
 するとウエイターが明るい声をこぼす。
「ヨー・エートバージャート!」
「ケセネム・セーペン」
「――ボナペティ、ムッシュ」
「あ……! サ、サンキュー!」
 ケーキプレートとコーヒーをテーブルに置いて、ウインクしながら至極楽しそうに言ってくれたウエイターに鳳は少しばかり上擦って礼を言った。おそらく、男の自分がケーキでがコーヒーのみという状況が彼には面白かったのかもしれない。しかも、いくら童顔と言われる日本人にしてもこれだけ大柄な自分だ。滑稽ぶりは相当なものだろう。――というのは被害妄想だよな。なにせ欧州では大の男がケーキにかぶりつくのが当たり前なのだから。
 じゃあ、もしかしてデートを冷やかされたのだろうか、と考えあぐねて鳳は少し眉を寄せた。
「あの……ウエイターはなんて言ったんですか?」
 ボナペティもムッシュも分かるけれど。と言うとは、ああ、と口元を緩めた。
「ボナペティ、のハンガリー語。召し上がれ、って」
「先輩が答えたのは、”ありがとう”?」
 うん、とがコーヒーカップを手にして笑う。にしても――、欧州のどこへ行っても感じることだが、呼びかけに関してはフランス語は他の追随を許さないものがある。外国人に対してミスター・ミス及びミセスではなく、大抵「ムッシュ」「マダム」と呼びかけるのだから。
 しかし――自分は少年ではなく「ムッシュ」に見えるのか、と鳳は社交辞令だというのにまるでフランスの少年のような高揚感を覚えて自然と笑みを浮かべてしまったから我ながら単純の極みだと思う。
 昼下がりの時間をゆっくりとカフェで過ごす。これこそがヨーロッパの正しい過ごし方で、鳳にしてもウィーンでの生活を思い出して「懐かしいな」と思いつつケーキに舌鼓を打ちながら他愛のない会話に花を咲かせた。自分の氷帝でのこと、のフランスでのこと。時計の針が進まなければいいのに――、と鳳は目の前のの笑顔を目に留めながら切望した。けれども、シンデレラの舞踏会が12時で終わりを告げるように、いつしか終幕の時は訪れるものだ。
 ふと、が自身の腕時計に視線を落とした。鳳も同じく自分の時計を見やると17時半を指していて――そろそろ戻らねばならないことを悟る。18時を少しでも回れば両親たちは心配してしまうだろうし、そこは守らねばならない部分だ。
「そろそろ、行こっか」
「あ、はい」
 小さく頷くと、はどこか自戒したように逡巡の様子を見せ、あ、と小さく呟いた。
「え、っと……、このカフェはドイツ語、通じるから。もちろん英語でも大丈夫だけど……」
 そこで鳳はハッとする。――が先ほど「ごめんなさい」と言った理由を悟ったのだ。「立派」に見える「男性」と二人でいて自分が率先してウエイターを呼び止めて注文してしまったことを、彼女は詫びていたのだ。
 昔のままの、日本での感覚なら「後輩の少年」相手に少しばかり先輩ぶるのは当然だし、マナーにもうるさくなければ人の目も厳しくないわけで。――要するに、やはり彼女も「男性と二人」というシチュエーションに慣れないのだな、と理解して鳳はまたも単純と感じつつも嬉しさで、ふ、と笑みを零した。
 そうして先ほどのウエイターが近くを通ったのを見計らってサッと声をかける。
「エントシュルディグング」
「――ヤッ」
「ツァーレン・ビッテ!」
 お勘定お願いします。と伝えると、ウエイターは、二、と笑って返事をした。そうして彼の持ってきた伝票を見て、生憎とユーロ札しか持っていなかった鳳はチップを上乗せして値段を指定してから紙幣を伝票に挟み、ウエイターに渡した。ドイツ語だから、には聞き取れなかっただろう。
 ウエイターが去ったあと、の方が焦り気味に眉を寄せている。
「私がフォリントで払うつもりだったのに。ちょっと待って……ユーロも持ってるから……」
 言ってバッグに手をかけたを今度は鳳の方が慌てて止める。
「え、い、いいですよ先輩! ここは俺が持ちますから」
「え……!? い、いいよそんな」
「どうせなら最後までカッコ付けさせてください」
 ね? と笑いかけると、はあっけに取られていたが反論無駄だと諦めたのだろう。ふ、と息を吐いて「ありがとう」と笑った。そうこうしているうちにウエイターがお釣りを持って戻ってきて、受け取って鳳は「ダンケ!」と言いつつハッとした。
「あ……っと、ケセネム・セーペン……?」
 とっさに先ほどがウエイターに言っていた「ありがとう」を思い返したのだ。ウエイターは目を瞬かせ、も目を瞬かせつつこう言った。
「ケセニュク・セーペン」
 鳳にはサッパリ意味が分からない。しかしウエイターには二人の違いと関係さえも分かったようでニコニコ笑いながら「OK,OK,サンキュー」とあくまでスマートに対応している。そうしてと2,3,ハンガリー語で話してから彼は見送ってくれ、二人して外へと出た。
「先輩……俺、間違えました? ハンガリー語の”ありがとう”って変化でもするんですか?」
「え、と……。間違ってないんだけど……、私たちは二人だったから、ありがとう、が複数形になって”ケセネム”から”ケセニュク”になるの」
「ええッ!? ありがとうが複数形? へぇ……そうなんですね」
 これは未知の言語だ、と思いつつまだ日差しの眩しい外の陽気にスッと目を細めた。日本ならばもう夕暮れ時のこの時分、こちらはまだまだ昼まっただ中だ。
「先輩は……、しばらくハンガリーにいるんですか?」
「ううん。数日後にはパリに戻るよ」
「そ、か。そうですよね」
 ざわざわ、と広場のざわめきが辺りを包み、忙しなく先ゆく人々とすれ違う。別れを先延ばししても、あまり意味のないことだろう。自分も帰国は数日後だが、明日、明後日の家族との予定もキャンセルしてに会いたいなどと言えるはずもなく。しばらくは同じ国にいて、も見ただろう風景を見られることを慰めとするしかないのか。本当に諦めが悪いと思う。いっそこんな場所で会わない方が良かったのだろうか――と偶然か運命の悪戯か、鳳はギュッと拳を握りしめた。
「インターコンチネンタルはこの道を真っ直ぐ行って、大通りに出たら左折……だったかな」
「あ……。はい」
 は別方向に行くのだろう。暗にお別れだと匂わされて、鳳は改めてと向き合った。の瞳が僅かに揺れているように思えるのは気のせいだろうか? しばし、互いに無言で見つめ合ってしまう。
 始まらないままに終わった、中等部のころの自分たち。こうして何度も何度も向き合って、そうしていつも気持ちを伝える前に拒否されてきたのだ。踏み込むことを恐れたのは、別に傷つくのが怖かったわけでも、更なる拒否を恐れたわけでもない。自分なりに、自身が子供であるという現実と、踏み込んでしまえば互いに辛くなるという現実を弁えていたからだ。今も――それは十分に弁えているつもりだ。でも、今でも彼女を想うだけで、こうして近くにいるだけで身体の芯が震えるような感覚はどう足掻いても消えてはくれない。
 旅先で偶然出会った「先輩後輩」でこのまま別れるのは――もはや自分には無理だ。だけど、となお強く拳を握る。は美術学校の受験を控えていて、来年以降もずっとフランス。だけど――と噛みしめて鳳はを見やった。
「先輩……、その。次は、いつ帰国するとか……決まってますか?」
「え……!? あ、その……分からない。受験が済めば帰るかもしれないし、たぶん引っ越しとか色々あるからしばらく帰れないかもしれないし」
 そっか、と息を吐いて困惑気味のを真っ直ぐ見やる。
「じゃあ、帰国したら絶対に連絡くださいね!」
「え――!?」
「俺、待ってますから」
 そうしてギュッとの両手を握ると、はあっけに取られていたが――拒否の言葉を待ってはいられない。
「お、鳳く――」
「今日はお会いできて嬉しかったです。俺……宍戸さんに自慢しますから! 先輩に会ったって」
「え……!? ちょ、と」
 はあっけに取られていたが、鳳の茶化すような言葉とは裏腹に、おそらくは縋るような目線になってしまった鳳自身と目が合うと息を呑んだように押し黙った。
 鳳は名残惜しげに手を離すと、姿勢を正して頭を下げてから「失礼します」とに背を向ける。
 ――映画のような、綺麗な別れなんて絶対に無理なのだ。だってこれは現実なのだから。の性格上――ああ言えば、どれほど拒否したくても連絡はくれるだろう。少しでも彼女と繋がっていられるのなら、強引であろうとも構わない。
 けれどやはり、少々強引だったかもしれない。と自省しつつ早歩きで歩いていると、ガードマンに守られたインターコンチネンタルホテルのエントランスが見えてきた。挨拶をしつつ時計を見やり、中へと進む。17時50分だ。おそらく皆、既にホテルに戻っているだろう。なぜならば、19時にはオペラ座に着いておらねばならず、特に姉に至ってはドレスアップに時間がかかるだろうからだ。
 鳳は自身の部屋の前まで行くと、コンコン、とノックをした。両親は隣の部屋だが、自分は姉と同室なのだ。するとパタパタと足音の近づく音が聞こえ、おそらくドアスコープからこちらの姿を確認したのだろう。カチャ、とドアが開けばメイク直し真っ最中と思しき姉が目の前に現れた。
「おかえりー、長太郎」
「ただいま。ゴメンね、今日は無理言っちゃって」
 取りあえず中に入りながら詫びてみると、姉は「うふふ」と意味深な笑みを漏らした。
「良いのよー。でもびっくりしちゃった。あの子、長太郎の”憧れのセンパイ”かなにか?」
「え……!?」
 しかしながら、姉にからかわれるのはもはや覚悟済みとはいえ実際にされると多少狼狽えてしまい――姉はそんな鳳を気にすることなく、「だって」と続けた。
「あの子が付けてたペンダントって、3年前に長太郎がパリで買ったモノでしょ?」
「え――!?」
 さすが、姉とはいえ女性はめざといものだ。あの短い間に、そんな所まで見ていたとは。狼狽える鳳とは裏腹に、姉は髪を夜会巻きに結い上げる方に意識を集中させている。それ以上踏み込んでくる気はないのかとホッとしつつ、鳳は自身も着替えようとひとまずシャワーを浴びるためにバスルームに向かった。
 ぬるめのお湯を浴びながら、憧れか、とぼそりと呟く。憧れで済めば――これほど苦しい思いはせずに済んだだろうに。
 バスローブを羽織って外に出ると、どうやら姉はドレスに着替えている最中だったらしく「あ」とこちらに目配せしてきた。
「長太郎ー、手伝って」
 甘えたような声に目線を送ると、背中のチャックが開いていてやれやれと鳳は肩を落とす。
「はいはい」
 手早くチャックを上げてやり、鳳はミニバーの中からミネラルウォーターを取りだして口を付けた。そうして喉を潤してから、スーツケースの中からシャツを取りだして腕を通す。そして夏用のジャケットを羽織ったところで、鏡に向かって口紅を引いていた姉がこちらを振り返って口の端をあげた。
「んー、バッチリね。それでこそ、エスコートさせ甲斐があるわ」
 至極満悦気味な姉に、あはは、と鳳は苦笑いを浮かべた。別に姉をエスコートするくらいいくらでもやってやるが、と考えつつ小さく溜め息を零す。どうせならば、をエスコートしたかったな、などと思ってしまった自身に自嘲して首を振るっていると姉に思考が読まれてしまったのかふくれっ面をされて小突かれてしまった。
 時刻は18時15分。20分にホテルを出る予定であるためそろそろ部屋を出なければならない。ふとドナウビューの大きな窓へと目線をやると、遠目に王宮の丘が映って――やはり「綺麗だな」と鳳は目を細めた。姉もそう思ったのか、同じように外を見つめて頬を緩めている。
「ねえ、長太郎」
「ん……?」
「長太郎の希望通り、パリにしなくて良かったわね」
「――ッ!?」
 ぶっ、とそこで鳳は噎せそうになる自身を必死で堪えた。
「ウィーン・ハンガリーがいいって推したお姉さんに感謝してねー?」
 だってさっきの子に会いたかったんでしょ。パリで。と更に小突かれて――鳳は言葉に詰まった。弁明と説明を加えれば泥沼になりそうな気がして、黙っている方が懸命だと悟ったのだ。
 だけど、と姉が続ける。
「こんな、日本から遠く離れた土地で、お互いに接点もなさそうな場所で再会しちゃうなんて……運命かもね」
 姉は特に深い意味もなく言ったのかもしれない。けれど、ドクッ、と鳳の鼓動は確かに強く脈打った。
 運命、なんて――。ただの偶然をそう断言してしまえるほど、夢見がちなわけでもない。ただ、偶然にしてはあまりに出来すぎていて、見えない縁を感じてしまったのも事実だ。いやもしかしたら――あまりに「会いたい」と切望する自分を哀れんで神様が仕掛けてくれた、たった一度のプレゼントに過ぎないのかもしれない。
 けれど――と鳳は眉を歪めた。
 運命だ、と結論付けてくれるならば。全てを受け入れて飛び込んでしまえるのに――と鳳は遠く王宮の丘を見つめながら、一人自嘲しつつ肩を落とした。



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