「父さん、母さん。――ごめん!」

 両親に深々と頭をさげ、どうにか了承を取り付けると、鳳はくるりときびすを返した。
 まだが先ほどの場所で絵を描いていることを祈って、全速力で元来た道を駆けていく。まるで夢の中のように足が縺れる感覚に襲われた。浮き足立っているのがいやでも分かる。だって、そうだろう。こんな異国の地で――再び彼女に会えるなんて。いっそ、これは運命だと誰か結論付けてくれればいつでも受け入れるのに。と、鳳は視界に彼女の姿が見えて勢い任せに手を振っていた。
「先輩! せんぱーい!!」
 刹那、ギョッとしたようにが振り返る。信じられない、とでも言いたげに口元を覆った彼女の前まで行くと鳳は肩で息をした。
「良かった……、見失わなくて」
「お、鳳くん……、どうして……」
「時間をもらったんです。俺、先輩と話したくて……!」
 腕が震えたのが自分でも分かった。どうしても昂揚を抑えきれずに腕を伸ばすと、が半歩後ずさったのが分かった。けれども鳳は自分で自分を止められずに――すっと両手を伸ばして、の身体を自分の胸へと強く閉じこめて瞳を閉じた。
「夢、みたいだ。でも……本物、ですよね。先輩……」
 こうしてをこの手に抱いたのは、あの「さよなら」を告げられた三年前の後夜祭以来だ。伝わる温もりが確かに現実だと伝えて、鳳は少しばかり涙腺が緩みそうになる感覚を覚えた。
 しかし――その昂揚にすぐ理性が追いつき、ハッとした鳳はパッとから身体を離すと少しばかり焦って慌てた。
「あ、す、すみません、俺……ッ、その……!」
 理性が戻れば、途端に鳳は言葉に詰まった。だって、何をどう言えばいいのだろう。会いたかったと告げるのが正解なのか。それとも、この数年の想いにフタをして元の「先輩後輩」に戻ればいいのか。そもそもの方はどう感じているのか――と彼女の反応をうかがっていると、彼女はしばし複雑そうな表情を浮かべたのちに、ふ、と肩の力を抜いたように鳳のよく知るいつものらしい表情を浮かべた。
「相変わらず……、背が高いんだね、鳳くん。また伸びた?」
「あ……! そ、そうですね。でも中学のころがピークでそこまで伸びてないですよ。たぶん、190センチには届かないですし」
 そっか、と頬を緩めるに鳳も小さく笑う。こそ、やはり2,3年会わないと随分と大人びたように思う。元の柔らかく可愛らしい雰囲気そのままに、ずいぶんと綺麗になった――と目を細めた鳳はとあることに気づいた。
 ノースリーブのワンピースに、日除けのショールを羽織ったの胸元に光るペンダント。ピンクゴールドの細いチェーンに桜の花びらのトップのそれは、紛れもなく別れ際に自分が贈ったペンダントで、ドクッ、と鳳の胸は強く脈打った。
 いけない、と慌てて鳳は動揺を隠す。ここでそのペンダントに触れることはタブーのような気がして、必死で鳳は気づかないふりをした。
「その、先輩……!」
 しかし零れた嬉しさが顔に出てしまったかもしれない。どうにか笑みを押し殺すようにして鳳はを見つめた。
「俺、両親には18時までにホテルに戻るって言ってあるんです。それまでご一緒させてもらってもいいですか?」
 はおそらくダメとは言えないだろう。こんな異国の地で、イヤだから帰ってくれと放り出すような真似をが出来るはずがない。――とは言え、そんなことを計算して戻ってきたわけではないのだが。
 は逡巡するようにして視線を揺り動かし、数度瞬きを繰り返したのちに「うん」と頷いた。よかった、と鳳も笑う。
「にしても、先輩、どうしてブダペストに? てっきりパリにいるのかと思ってました」
「たまたま、なの。寮のルームメイトがハンガリー人で、いまみたいな休暇中は彼女に誘われて、ハンガリーには何度か来てるの。それで……」
「そうだったんですか……。良かった」
「え……?」
「俺、ちょっとゴネたんです。家族旅行の行き先はパリがいいって」
「え……」
「でも良かった。パリに行っていたら、すれ違ってたんですから」
 ニコッと鳳がに笑いかけると、の瞳が揺れた。そして風に揺れる髪を押さえて、少しばかり目をそらしてしまった。反応に困っているのだろう、と理解して鳳は微かに肩を竦める。
「先輩、パリではどうですか? やっぱり、毎日絵を描いて過ごしてたり?」
 話題を変えると、は少しホッとしたように息を吐いて、ううん、と小さく首を振るった。
「とにかくフランス語フランス語フランス語漬けの生活で……日本にいたときのほうがよっぽど描いてたと思う。フランス語を話せなきゃ絵も描けないんだって思って必死に頑張って……なんとか最近は絵の方にも集中できるようになったかな。魔の六月も無事に終わったしね」
 よほど辛い日々だったのか、疲れたような表情を浮かべたに「あ」と鳳も声を零す。
「そうか、バカロレア……」
 バカロレア、とはフランスの高校卒業認定及び大学進学資格を兼ねた全国共通試験だ。高校三年で受けなければならない専門分野試験に先駆けて、高校二年では国語――つまりフランス語の試験を受けることとなっている。フランス語を母国語とするフランス人でも難しいというのだから、外国人のにとっての難しさたるや相当のものだっただろう。
「受かったんですか?」
「うん、なんとか」
 苦笑いを浮かべるに、わぁ、と鳳は感嘆の息を漏らした。つまりはもうフランス語に関してあまり困ることのないレベルになっているということだ。
「凄いですね……!」
「でも……年明けには美術学校の受験が控えてるし、また六月になったらバカロレア受けなきゃいけないし……。気が重い」
 よほど辛かったのかは青い顔を浮かべたのちに、ふるふると小さく首を振って小さく微笑んだ。
「鳳くんは、氷帝の高等部にあがったんだよね?」
「はい!」
「そっか。みんな……元気? 鳳くんも、やっぱりテニス部……なんだよね?」
「はい。皆さん、変わりないです。俺も高等部で宍戸さんとまたダブルス組ませてもらったり、シングルスやったりしてます」
 そっか、とは懐かしそうに笑った。事実、氷帝学園中等部の人間はほぼそのまま高等部にあがり、テニス部の人間にしてもほぼそのままテニス部に入るためにメンバーの激しい入れ替えもなく、あまり変わり映えのない日常だ。足りないのは、彼女だけ、との思いを今ばかりは鳳は忘れた。
「私は9月から三年だけど、みんなはもう9月になったら本格的に受験だよね。でも……氷帝って大学部もあるから、やっぱりそのままあがるのかな」
「そうですね……。でも中等部の時と違って外部受験率もあがると思います。国公立を目指す人もいますし、それこそ先輩みたいに海外に行かれる方もいますから」
「鳳くんは……? そのまま大学部にあがるの?」
「俺、は……」
 ふられて、鳳はドナウ川の方へ視線を移した。あまりに美しい、世界一の国会議事堂を瞳に映しながら少しだけ寂しげに笑う。
「実は俺、未練がましくもう一度ウィーンへ短期留学してみたんです」
「え……!? じゃあ、やっぱりピアニスト目指すの……?」
 見上げてくるに、いいえ、と首を振るう。
「ピアノは、好きです。音楽への理解を自分なりに深めていくことへの欲求も……やっぱりあるんですけど……。俺、テニスも好きだし、以前も言いましたけどピアノで他人と競い合うことにどうしても抵抗があって……。ピアノを職業にするには向いてないって改めて思い知らされました」
 そもそもが、中学・高校とテニスに捧げてしまった時点で手遅れなのであるが。と鳳は肩を竦めた。
「ピアノもテニスも、趣味で続けていければいいかなって思ってます。ピアノは……弾こうと思えばいつでも弾けますから」
「そ、っか……」
「だから、俺……」
 言いかけて鳳は口を噤んだ。だから? と聞き返してきたに「いいえ」と首を振るって改めてドナウへと視線を流す。
「ブダペストの国会議事堂は世界一美しいと聞いてはいましたが……。目の当たりにすると圧巻ですね。豪奢なのにあまりうるさくなくて、品もありますし……こんな建物で国会が行われてるなんて、贅沢だな」
「ホントだよね。私、はじめて見たとき呆然としちゃったもん。……夜景はもう見た?」
「はい、夕べホテルから。明日の夜はドナウ川クルージングに参加する予定なんで、今から楽しみです」
 夜のドナウ川はライトアップで彩られており、その景観たるや「ドナウ川の真珠」と称されるほど世界的に有名なのは鳳も知るところであり、今回の旅の目的の一つでもある。
 ふふ、とはなお笑う。
「夜景も素敵なんだけど、ドナウ川が一番綺麗なのは夕暮れ時だと思う。夏は日が長いから……今だと夜の8時くらいまで日が沈まないし、なかなかタイミング良く見られないけど」
 そうしては空が薄紫に染まるこの辺りの風景がどれほど素晴らしいかを語って聞かせ、鳳もその風景を想像しつつ頷いて「でも」と視線を流す。
「夏のヨーロッパは日が長いから思いっきり観光できますよね。冬だと日が短くて……寒いですし」
「そうだね」
 そして笑い合って、二人して「スケッチしようか」とは中断していたスケッチ作業に戻り、鳳も並んで肩にかけていたバッグからスケッチブックと水彩色鉛筆を取りだして眼前の風景を描き留めた。
 こうしていると、中学の頃に戻ったような錯覚さえ覚える。あの頃――学園の至る所でスケッチブックを広げているを見つけては、そっと見守っていた。と様々な思い出が頭に過ぎる。
 達が卒業してしまって、のいない日々にどうにか慣れようとひたすらテニスに没頭した毎日。辛かった記憶もはっきりと鳳の脳裏を駆けていく。どこにいても、どんな時でも、気を抜けばの姿を探してしまう自身に叱咤してひたすら気持ちが風化してくれるのを待ったこと。――いや、本当は風化など待ってはいなかったのかもしれない。忘れなければ、と思いながらも、偶然の再会という僅かな可能性に縋る気持ちが捨てられずに葛藤していた。だけど――、と鳳はの方へ視線を流した。
 は既に、パリでの日常に身を置いているのだ。3年前は確かに互いの気持ちは一緒だったと勝手に思っているが、彼女からすれば自分のことは既に過去のことなのかもしれない。
 と、危惧していたが――、少なくとも今の彼女に「恋人」や「想い人」はいないことは分かった。もしもいたら、自分が贈ったアクセサリーなど身につけてはいないだろう。むしろこうして肌身離さず身につけてくれているということは、もまだ自分のことを? と期待してしまうのはさすがに自意識過剰だろうか。
 時計の針も15時近くを指し――互いにスケッチブックを閉じて、鳳とはドナウ川沿いにどちらともなく歩き始めた。
「そういえば……。鳳くんはどうしてハンガリーに? あまり渡航先にハンガリーを選ぶ日本人っていないみたいだから……ちょっと意外」
「意外、ですか? ハンガリーはリストの出身国だし、ハイドンも長く住んでいましたし、ベートーベンだって訪れてるし、バルトークやコダーイもハンガリーの出身で……音楽面ではかなり充実してますよ」
「あ……! そっか」
「実は俺たち、ウィーンから陸路でハンガリーに来たんです。ハイドンが勤めてたエステルハージ宮殿にも行きました」
「そっか……西の方だね。私は……、ベートーベン博物館にはずっと前だけど行ってみたよ。ブダペストから列車で30分くらいだったかな」
「ホントですか!? いいなぁ……確か、ベートーベンが招かれていた伯爵邸で、彼が使ってたピアノとか展示してあるんですよね」
 うん、とが笑う。ブダペスト近郊には「マルトンヴァーシャール」という小さな町があり、ベートーベンはそこの伯爵邸に招かれて幾度もハンガリーに訪れ、滞在していたのだ。そしてその伯爵――ブルンズヴィック伯爵にソナタの最高傑作と名高い「熱情」を献呈したというのはあまりに有名な話だ。
 なおは緩く微笑みながら、ドナウからの風にウェーブの髪を靡かせる。
「ブダペストに来ると、よくリスト音楽院の辺りに行くんだけど……そばを通るたびにピアノとかフルートの音色が聞こえてきて、学生さんたちが切磋琢磨してる様子が伝わってきて、私も頑張らなきゃ、って思うの」
 リスト音楽院とは、その名の通りハンガリーの誇る偉大なる作曲家、リスト・フェレンツが母国の後進のために建てた音楽大学である。
 の話からその様子がまざまざと想像されて、鳳はなおさら感嘆の息を吐いた。やはり音楽に没頭する生活に、未練とまではいかないが憧れは残るものだ。
「羨ましいですね。俺……昔はリストってそんなに好きじゃなかったんですけど、後進の育成にすごく力を入れてて、立派な方だったんだなって思います。それに……」
「それに?」
「リスト音楽院って外観も有名ですよね。アール・ヌーヴォ様式の建築物で……中もとても豪奢とか。音楽ホールの音響具合は一級品って聞いてますけど」
「そうなの……? ごめんなさい、私は建築は疎くて……」
 音響が良いという話は知っている。と付け加えては陸の方へと視線を流す。
「でも、ハンガリーってすごく独特な建物がいっぱいあって……私はそんなところも気に入ってるの。ほら、街中とかパリやイギリスとだいぶ違うでしょ?」
「あ、俺も思いました。一歩ハンガリーに入った途端にガラッと雰囲気が変わってしまって……」
「私ね、最初にここに来たとき、なんだか懐かしいって思っちゃった」
「懐かしい?」
 うん、とが頷く。
「言葉は全然通じないけど、なんだか凄くみんな温かくて……。街中もなんだかどことなく東洋っぽくて。ここはヨーロッパとアジアの交差点だから当然なのかもしれないけど……でも、そんな感想を私のルームメイトに伝えたら、”当たり前よ、私たちは気の遠くなるくらい昔にアジアからやってきたんだから”って言って、日本人とは親戚みたいなものだって言ってくれたの」
 それはリップサービスかもしれないけど。とは肩を竦めたが、言われてみれば、ハンガリー人のルーツは他のゲルマン・ラテン・スラブ系のヨーロッパの人種とは一線を画している。
 はそんなハンガリーの雰囲気が気に入ってしまって、時間があればこの地を訪れているという。確かに鳳にしてもあまりに今までのヨーロッパ諸国との雰囲気の違いに戸惑いこそしたものの「嫌な感じ」は全くしなかった。それどころか居心地が良く、ついつい気が緩みそうになる程ののどかさだ。
 しかし「懐かしさ」を求めるとは、やはり単身フランスに飛んで寂しさもあるのだろうか? 午後の日差しを反射する川面がキラキラと輝いて、まぶしさに鳳は目を窄めた。ゆったりと流れているように感じる時間とは裏腹に、時計の針は着実に進んでいく。あと数時間すれば、またとはお別れ。――そう考えてしまいそうになる自身を必死に叱咤する。
「鳳くん、どのホテルに泊まってるの?」
「あ……! えっと、インターコンチネンタルです」
「あ、じゃあペスト側だね」
 そんなやりとりのあと、鳳は地図すら持ってこなかった自分にハッとした。しかしは場所に覚えがあるのだろう。ちらりと視線を対岸の方に流している。もしかしても同じホテルだったりするのだろうか? などと淡い期待をしつつ鳳も訊いてみる。
「先輩は……? ご友人のところですか?」
「ううん、彼女の実家は地方だから。私はもっと安いホテルだよ」
 これは上手くかわされたのだろうか。鳳が思案していると、眼前に立派な橋が見えてきた。世界遺産にも登録されている「くさり橋」だ。ここブダペストはドナウ川を挟んで鳳たちが今いる「ブダ」と対岸の「ペスト」に分かれており、ブダ側とペスト側を最初に結んだのがこの「くさり橋」でもある。
 鳳の宿泊しているホテルがペスト側にあると知って、はそちらに向かおうと思ったのだろう。鳳にしてもいずれは戻らねばならないため、二人は揃ってくさり橋を歩いた。さすがに観光スポットらしく沢山の観光客で歩道は賑わっており、至る所で記念撮影が行われている。
「15時半、か……。鳳くん、どこか行きたいところとかある?」
「え……!? 俺、は……」
 いつもなら相手の行きたい場所に合わせるのが常の鳳ではあるが、今回ばかりはがブダペストに慣れていて鳳は初なのだ。ここは主張しなければならない場面だろう。だが――本音を言えば、といられるのなら鳳としてはどこでも良かった。
「あ、でも観光はご家族とするのかな……。じゃあ、どこかカフェでも入って休憩する?」
「あ、そうですね。俺も暑いし喉乾いちゃいました。……あ……!」
「な、なに……?」
「俺、ユーロしか持ってません。ユーロ、使えるのかなぁ」
 ハッとした鳳は自分でも情けなくなる声を出した。ここハンガリーはEU圏ではあるものの、EUの共通通貨であるユーロではなく独自のフォリントという通貨を使っているのだ。
 ふふ、とが微笑えむ。
「たぶん、お店によってはユーロも使えると思うけど……。大丈夫だよ、私、フォリント持ってるから」
「そういうわけには……」
そうこうしているうちに橋を渡り終えてペスト側へと着いてしまう。に促されて右手を見れば、どことなく見覚えのある現代風の建物が目に入った。
「インターコンチネンタルはあそこね」
「あ、そうか……! はい、分かりました」
 午前中はホテルからタクシーで別方向へと行ってしまったためにすぐには気づかなかったが、ここからなら1ブロックほど直進すればすぐにエントランスだ。それにしても――確かにインターコンチネンタルは世界的チェーンの五つ星で名が通っているとは言え、場所を把握しているということはの頭にはブダペストのおおよその地理は入っているということだろう。
 どのカフェに入ろうか、と今なお思案しているに鳳はこんな風に言ってみる。
「先輩のオススメのお店とかってないんですか?」
「え……!? えー……」
 すると途端には思案顔をした。どうやら「ない」わけではないが、自分でも考えあぐねているような顔だ。
「俺、どこでもいいですよ」
「で、でも……。うーん。じゃあ、もしも鳳くんだったら、もしここがウィーンで、観光に来た誰かを連れて行くんだったら……どこに行く?」
 よほど考えあぐねたのか、逆に訊かれて「え?」と鳳は瞬きをした。
 確かにウィーンのおおよその地理は頭に入っているし、お気に入りのカフェもあるし。かといって、ウィーンといえば世界的に有名な観光地でもある。もしもウィーンで誰かを観光案内するとしたら――と考えるまでもなく数日前の姉の様子が脳裏にフラッシュバックした。「俺のお薦めのカフェは〜」とニコニコ笑って薦めてみれば「そんなことよりザッハに連れていけ!」とばかりに凄い剣幕で自身のお奨めは却下され、あっさり終わったのだ。
「うーん……、俺、は……デーメル、かな」
 考え詰めて、鳳は「自身のお気に入り」と「観光要所の有名店」のすりあわせの末にそんな答えを出した。デーメルはハプスブルク家御用達の由緒あるカフェであるうえに、厨房も見え種類も豊富で味も良く、なのに気取ったところがなく入りやすいというポイントを押さえていて鳳としても気に入っていた。――と考えて鳳はハッとした。
 やはり、観光客を案内するのにある程度の知名度は外せないだろう。それに、あまりにローカルなカフェに行けばユーロが使えないという懸念があるため、ここはガイドブックに載っているような店の方が無難だろう。
「デーメル、か……」
 が鳳の言葉に相づちを打って、なおさら鳳はハッとした。
「いや、すみません。その……!」
 真面目に答える場面じゃなかったのに、と慌てていると「そうだ」とが思い出したように微笑んだ。
「ジェルボーに行かない? デーメルと同じようにハプスブルク家が贔屓にしてて、あのリストも常連だったカフェなの」
 ハンガリーは、かつてハプスブルク家に支配されていたという過去を持つ。ゆえに、ドイツ語が比較的通じやすく――オーストリア由来のものも街中の至る所に見受けられる。国民のオーストリアに対する感情はともかくも、のその言葉に、あ、と鳳は手を叩いた。
「そのカフェ、確かガイドブックで見ました。姉さんがすごく行きたがってたな……」
「あ、ホント? じゃあ、ご家族で行くのかな……」
 途端、が口元に手をやる。家族で行くのならば今は行かない方が良いのか、と気遣ってのことだろう。鳳は小さく首を振るうとニコッと笑った。
「俺もリストが通ったカフェ、行きたいと思ってましたし。姉には先に行ったって自慢します」
「で、でも……」
「決まり! 行きましょう、先輩」
 そうして先へと促すと、も、ふ、と笑ってあとに続く。場所を訊くとここから歩いて5分とかからないらしく、そのまま並んでドナウ沿いを歩きつつ、鳳は対岸のブダ側を見やった。先ほどまで見えていた風景とガラリと変わり、ここからは王宮の丘が見える。ホテルの窓から見えていた風景と同じで――鳳は夕べみた光景を思い浮かべた。夜のライトアップされた光景はそれはそれは素晴らしかったものだ。明日のナイトクルーズが楽しみだな、と思いつつ鳳はちらりとに視線を流す。
 手を繋ぎたいな。――などと思うも、さすがに不味いだろうか。せっかくこうして普通に話ができているのだ。手を取ってしまえば、は困惑してしまうだろう。
 ならばやはり、旅先で偶然出会った「先輩と後輩」を続けていた方がいいのか。
 でも、離れないよう並んで歩いているせいか、時おり自身の腕との肩が触れ合って、その度に心臓が跳ねて胸の鼓動が落ち着かない。気持ちが今にも走り出しそうで、でも、一歩踏み出した先のことを思うとやはり怖い。
 今は、この空間を壊したくない。今の願いは、彼女が笑って隣にいる……この時間が永遠に続けばいいのに。――と叶わない訴えを心の中で叫び続けるしか出来ることはなかった。



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