Human Touch  - my answer -



 春が来て、夏が過ぎ、秋を迎えて――。
 そしてまた春となり、いくど季節が巡っただろう?
 同じような日々を繰り返して、そして、確実に「何かが足りない」と感じたまま、その「正体」を知りながら――。


***

あれから、3年――。
有明テニスの森公園では、高校総体・硬式テニス、男子・団体の部が行われていた。

「侑士さーん、けっぱって!!!」

 ぐるりとフェンスを囲む氷帝テニス部部員に混じって、ひときわ華やかな声援がコートに送られ、鳳長太郎はふと懐かしさを覚えてハッとした。
 声の主は、北園寿葉。いまは自分と同じ氷帝学園高等部の二年生であるが――3年前、彼女は自分たちとは違う制服を身に纏って、そして同じように彼に、忍足侑士に声援を送っていた。

 あれからもう、3年か、とストレッチをしながら鳳は浮かべる。

 ――3年前は、”彼女”がすぐそばにいたのに。と過ぎらせて自嘲しつつ、コートに目を移せば、ダブルスを務めていた忍足・芥川ペアが8−4で快勝して、まずは緒戦の一勝を掴み取った。
 鳳が眼前の光景を流し見ていると、忍足たちが監督から指導を受けたのちにコートから出てくる。すれば寿葉がいそいそと忍足にタオルを手渡し、忍足も少しだけ笑って受け取ってそのままクールダウンへと向かい、寿葉はその背を見送ってから鳳の方へ視線を向けた。
「良い試合だっただなー!」
 そのまま寿葉がこちらにやってきて、鳳も口元を緩めた。
「うん、いい緒戦の入り方をしたよね」
「鳳君もけっぱってけろ! オイラ、全力で応援するぞ!」
「ありがとう。でも、次は――」
 鳳が笑って言いかけたところで、地響きのような氷帝コールが鳴り響いて、眼前の寿葉は浮かべていた笑顔を一転させてややうんざりしたような表情へと変えた。
 次はシングルス1。ゆえに高等部でも中等部と変わらず部長を務めている跡部をコートへ迎え入れるためのお決まりの氷帝コールが始まったのだ。
 寿葉はどうやら跡部を苦手としているらしく、これは常のことだ。とはいえ、シングルス2を務める鳳としては仮に跡部が敗戦すれば緒戦の勝敗が自分にかかってきてしまうため、跡部にはいつも通りに勝利を掴んで欲しい。
 むろん、そんなことなど関係なしに跡部の勝利を信じているのだが――と試合を見やりつつも、鳳は次に試合を控えているためにギャラリーから少し離れた位置でストレッチを繰り返す。
「ウォーミングアップの相手が必要なら、オイラ手伝うぞ」
 黄色い声援を避けるようにして寿葉が声をかけてくれ、ありがとう、と鳳は笑みを返した。
 彼女は氷帝のマネージャーではないが、中学時代は優秀なマネージャーとして名を馳せていた事もあり、そういう部分も忍足と話が合うらしい。鳳としてもテニスに関してはっとするような助言をもらうこともあり、仲のいい同級生の一人となっていた。
 寿葉は、氷帝内でも女性人気の高い忍足を追ってきて熱烈アプローチをかけた女として、入学当初は嫌がらせも受けていたようであるが、二年目に入ったいまはすっかり落ち着いたものだ。
 鳳としては、好きな人を追ってきた、という彼女の純粋な熱意が羨ましくあり、微笑ましくもあり、彼らが一緒にいるところを見かけるたびに自然と笑みが漏れ、同時に僅かばかりの寂しさも覚えていた。

「ゲーム・ウォンバイ跡部!!」

 ワッ、とギャラリーが沸き、鳳はハッとする。次は自分の番だ。
 笑顔で送り出してくれた寿葉に笑みを返し、テニスバッグを掴んでフェンスをくぐる。そうしてバッグからラケットと共にタオルを取り出して、鳳は神妙な表情を浮かべてグッと愛用のタオルを握りしめた。
 それは3年前の全国大会のときに、彼女から――からもらったものだ。
 ――先輩、見ていてください。
 心内でそう呟いて、タオルをベンチに置き、鳳はコートへと入っていく。

「氷帝! 氷帝! 鳳! 鳳!」
「氷帝! 氷帝! 鳳! 鳳!」

 サーブ権を得た鳳はゆっくりとデュースコートへ歩いていき、白線の外に出ると、いつも通り数回ボールを突き、構えた。

 ――そして。自分自身の持つ大会最速記録を更に塗り替える速度を叩きだし、鳳は緒戦を快勝で締めて氷帝はトーナメントのコマを一つ先へ進めた。

 そのまま昼食時間となり、鳳は同級生の部員達に囲まれつつぼんやりと周囲を見渡す。すると嬉しそうに手作りと思しき弁当箱を忍足に差し出す寿葉と、まんざらでもなさそうな忍足が見え、ふ、と笑みを漏らした。
 3年前は、自分もああやって、と共にこの場所で昼食をとっていたのに。
 なんて、考えても詮無いことだ。
「今年は何回戦まで行けるかねえ」
「全国制覇、って言いたいところだけど、立海がつええからなぁ」
 聞こえてくる同級生達の声を流して聞きつつ、弁当箱の中に綺麗に収められているサンドイッチに口を付ける。
「あーあ、大会が終わりゃ跡部部長はエーゲ海クルーズだろ? しかもマイ・クルーザーで、つってたぜ。スゲーよなあ」
「まあ跡部部長だからな。お前、夏の予定はどうなんだよ?」
「俺はじーちゃん家に里帰りだな」
 鳳がぼんやりとそんな話を聞いていると、彼らは鳳にもその話題を振ってきた。
「お前は? インハイ終わったら、夏休みどうすんだ?」
「え……?」
 俺? と瞬きをしていると、隣にいた同級生が肩を竦めた。
「お前んちは毎年家族旅行だろ? 今年もヨーロッパか?」
「あ……ああ。うん、今のところ、その予定だけど……」
 話しつつ、鳳はそっと真っ青な空を仰いだ。
 ――彼女は、いま、何をしているのだろう?
 いまも、彼女のことを考えるだけで簡単に胸が騒いでしまう。我ながら諦めの悪さにいっそ感心してしまうほどだ。
 でも、今の自分は3年前とは違う。あの頃は、漠然といまの生活が永遠に続くなんて幻想じみたことを疑いもなく信じていたが。いまは。はっきりとではないが、確実に未来のことも見えてきている。
 ただ、その先には……、と鳳は思わず握っていたサンドイッチがつぶれるほど手に力を込めてしまい、ハッとした。
 いけね、と呟きつつ肩を竦める。

『好きなら、追いかけていけばいいべ』

 いつか、寿葉に言われた言葉を鳳はふと思い出した。
 それを実行できている彼女が、少し羨ましい。
 でも、もしも……また自分たちの歩む道が交わってくれたなら。
 そうだったらいいのに。と、鳳は遠ざかる飛行機を見つけてもう一度グッと手に力を込めた。


 そして、インターハイが終われば再び世代交代だ。
 氷帝テニス部も跡部達が引退して、鳳達の代へと移行することになる。
 とはいえ、大きな区切りを越えたということもあり、テニス部員にとっては待ちに待った夏休みのようやくの訪れでもある。
 日本では国際空港が出国・帰国ラッシュで混み合う8月中旬。日本を含めて世界中の学生たちが、終わりの見えてきた夏の休暇を惜しむように楽しんでいる頃――。
 鳳は中央ヨーロッパのとある小さな国にいた。
 音楽の都・ウィーンの隣に位置するこの国の名は、ハンガリー。その首都は「ドナウの真珠」と讃えられ、景観そのものが世界遺産に登録されているブダペストである。

 鳳家にとって毎年恒例の家族旅行先が、今年はハンガリーだったのだ。
 鳳としてはまず第一に「フランス! フランスがいい!」と主張してみたが、その主張はあえなく3年連続で却下されている。なぜならば、フランスへはちょうど3年前に赴いたばかりだからだ。
 しかしながら西ヨーロッパはほぼ行き尽くし、北欧も去年訪れたばかりで、行き先の希望が家族内で割れた。揉めに揉め、最終的に中央ヨーロッパに絞り込んでクロアチア・ハンガリー・スロベニアあたりで更に揉めて、結局ハンガリーに落ち着いたのだ。
 鳳の姉がウィーンに行ったことがないということもあり、ウィーンから入国して陸路でハンガリーに入るというコースを取り――、ウィーンでは当然ながら勝手知ったる鳳本人が古巣の案内を家族にしたわけであるが、彼にとってもハンガリーはさっぱりである。
 とはいえ、鳳にとってもハンガリーは訪れてみたい場所でもあった。理由はむろん、音楽だ。
 首都のブダペストに向かう前に列車にて国境沿いの街「ショプロン」に寄り、”交響曲の父”ハイドンが長く仕えていたエステルハージ家の宮殿に立ち寄ったが――鳳はそこで僅かばかりの違和感を覚えた。「あのハイドンが仕えていた場所」という感動はむろんあったものの、ひとたび国境を越えた途端にウィーンと何もかもが様変わりしたからだ。
 まず、言語が違う。ここハンガリーはドイツ語とは全く種類の違う独特の「ハンガリー語」を用いており、しかも英語さえあまり通じない。民族的にも見るからにゲルマン人とは異なっており――ヨーロッパには割と慣れていたはずの鳳ですら少しばかり戸惑ってしまった。
 そしてその「違い」「戸惑い」は首都のブダペストへ着いてなおさら大きくなった。ショプロンはまだ西洋っぽさの残る街であったが、ブダペストは明らかに違う。
 ――なんか、暗くないか?
 それが第一印象だった。ハンガリーを祖国とする偉大なる作曲家、リスト・フェレンツには大変失礼であると思ったものの、鳳は初めての国に少しばかり不安を覚えた。――なにせ、英語が通じない。ドイツ語も微妙だ。他の先進国ならばまずあり得ない。
 けれど――、不思議と「嫌な感じ」のしない国であった。
 なぜなんだろう、と掴めないままブダペストに着いて二日目。本格的に観光に繰り出して街を歩き――王宮、教会、漁夫の砦から見渡すドナウ川のパノラマに感動しつつ、そのまま石畳を下って川岸まで家族みなで歩いてみた。
 やがて見えてきたドナウ川からの光景に、鳳はむろん、彼の家族も食い入るように対岸を注視した。目線の先に佇む建物の荘厳さに息を呑んだのだ。
「あれが……、世界一美しいと言われる国会議事堂……。近くで見ると益々凄いなぁ」
 見えていたのは、ハンガリーの国会議事堂である。
 バロックとネオゴシックが見事にミックスされた、気品のにじみ出るような雅やかな建築物だ。誰とは言わず、感嘆の溜め息が漏れた。
 欧州特有の乾いた風が頬をなで、ドナウ川の川面がゆらゆらと揺れて、鳳は不思議な感覚を覚えた。このまま対岸まで泳いでいけば、中世の世界にたどり着けるのではないか。そんなおとぎ話のような想像さえしてしまい、少しばかり肩を竦める。
 そして、鳳は自分たちよりもやや前方にいる女性に気づいてハッとした。塀にスケッチブックを置いて、なにやら絵を描いているらしく、自然と鳳は笑みを深くする。これほどの景観なのだ。自分も描いていきたいな、と何とはなしに彼女の後ろ姿を追ってとある事に気づく。
 後ろ姿しか見えない女性の背格好。随分と小柄だ。ハンガリー人はゲルマン系に比べてどうも小柄なようだが、それにしても小さい。日本人であれば平均的なのかもしれないが――と感じてなお眉を寄せる。肌の色が、明らかに東洋人ぽくあった。
 ウィーンであれば、日本人とすれ違うことはもはや日常茶飯事であるものの、ハンガリーに入ってからは日本人など見かけなかったというのに――。珍しいな、と首を捻る。
「喉、乾いちゃったねー」
 ふと、姉がそんなことを言って鳳はハッと意識を戻した。
「あ、うん――」
 しかし――その「日本語」が届いたためだろうか。ゆらゆらと栗色の髪を揺らしていた後ろ姿の女性が振り返り――鳳は時が止まったような錯覚を確かに覚えた。
 色素の薄い、ウェーブがかった髪。大きなスケッチブックを抱えたその姿。淡いリップが引いてある唇が小さく開いて、彼女の焦げ茶色の瞳が大きく見開かれた。
 そして、互いに時が止まったように動き出せず――鳳の方がどうにか絞り出すような震えた声をなんとか唇に乗せた。
「せん……ぱい……」
 彼女は――その声を受けて、ぴく、と少し頬を撓らせた。
「おお……とり、くん……?」
 忘れもしない、懐かしい声だ。鳳は驚愕の色を瞳に浮かべる彼女の方へ、いてもたってもいられず駆け寄っていた。
「先輩……ッ、先輩……! 先輩……!!」
 そう――。その女性こそ、3年前の春を最後に別れた、紛れもなくその人だった。
 の方も「信じられない」とでも言いたげに両手で口元を覆っている。
「鳳くん……、本当に……? どうして……」
「俺、家族旅行でたまたま……! 先輩こそ、どうして」
「あ、私は――」
 そこで二人してハッとする。おそらく何が起こっているかサッパリ分からないだろう鳳の家族の存在を思い出したのだ。
 鳳は慌てて皆の方を向くと、少し上擦った声でを紹介した。
「あ、その、中等部の時の一つ先輩なんだ。さん。高校からはフランスに留学してて……」
 の方もそう言われたからか、慌てて姿勢を正して鳳の両親に向かって頭を下げている。
「は、はじめまして、と申します。……え、っと……」
 としては何をどう自己紹介すればいいか迷ったのだろう。鳳の家族はあっけに取られていたが、その紹介で幾分空気が緩んで、母親の方が「まあ」と鳳に似たおっとりした口調で微笑んだ。
「フランスに留学なんて、お若いのに偉いわね」
「長太郎の先輩ですか。こんなところで奇遇な……。いつも息子がお世話になっています」
 父親に至っては丁寧に挨拶をし、は恐縮しきりの様子で「いえ、とんでもないです」と返すのがやっとといった具合だ。そうしてしばし間を置き、どうにか二人は微笑み合い、ホッと息を吐いてからは鳳の方を見上げた。
「家族旅行なんて素敵ね。ここはとっても素敵な国だから、楽しんでね」
 ふふ、と笑うの表情にぎこちなさと寂しさのようなものが混じって見えたのは、おそらく鳳の気のせいではないだろう。が、はそのまま鳳の家族に一度頭をさげると、また背を向けてスケッチブックを塀の上へと置いた。
「長太郎、行くぞ」
「あ……うん」
 後ろを向いてしまったがどんな表情をしているのか――、いや、そんなことよりなによりも。本物、なんだよな? 幻でも妄想でもないんだよな? と、心ここにあらずのまま家族のあとをついて歩いていた鳳は、ぐちゃぐちゃに支配される思考と自分の欲求に逆らうことなど出来ずに、数分ほど歩いたところでピタリと歩みを止めた。
「長太郎?」
 訝しげに振り返った家族全員に対して、深々と頭をさげる。

「父さん、母さん。――ごめん!」



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