文化祭二日目。 今日の日程は昨日に引き続き模擬店と展示、そして文化部による発表会が予定されている。土曜ということもあり一般公開されるため、吹奏楽部や演劇部にとってはまさに普段の修練の成果を披露する場となるのだ。 しかしながら、美術部は昨日に引き続き美術室にて作品展示をするだけだが――とは朝一で自分のクラスに挨拶してからすぐに美術室へと向かった。 美術部は学園自体を飾る文化祭用のパネル制作で力を使い果たしており――最初から美術部内の作品展示は「の個展にするから!」という部長の鶴の一声でのミニ個展会場と相成っていた。まばらに部長の作った独創的なオブジェが飾ってあったが、あくまで装飾品に過ぎず、しかしながら美術部員一同は来場者の「似顔絵」を描く作業に追われてなかなかに忙しい。 「さて、今日のスケジュールはどう回すかな」 美術準備室にて部長は進行表と睨めっこをしながら、鉛筆をクルクル回しつつ口をへの字に曲げていた。 「みんな、見たいステージとかあるだろうしなー。でもウチもそう人数多いわけじゃないし」 「私、ずっといるから大丈夫だよ」 「そういうわけにもいかないって。ってば結局、昨日はぜんぜん休み取ってないし模擬店巡りしてないでしょ?」 「部長こそ……」 「私はいいよ、部長だもん」 「そんな……」 苦笑いを浮かべつつは時計を見やった。午前10時10分前。あと10分で開場だ。 今朝少し宍戸と話したところ、クラスの「なんでも写真館」はなかなか好評らしくはホッと胸を撫で下ろしていた。当日にあまり手伝えないのは心苦しいが、少しでも皆の心に残るものが出来たのならば頑張った甲斐があったというものだ。クラスメイトの意見を拾って形にするべく、一体どれほど描いて塗ったことだろう? 数だけは普段からこなしているため手が速いという取り柄を身につけておいて本当によかった、と薄く笑う。 にしても、自分の作品のみが展示してある空間に居るのはなかなか緊張を覚えるものだ。なにせダイレクトに見ている人の言葉が伝ってくるのだから――と開場してちらほらと一般の来場者が足を運んでくれる様子を見ながら思う。彼らの何気ない感想に、喜んだり、へこんだり。しかし、自分は一生これで生きていくつもりなのだから――へこんではいられないだろう。 やれ演劇部の鑑賞をしたい、やれどこどこの部活のブースにいきたい、既に誰々と回る約束をしている。等々の部員達の意見を聞き入れつつ達は来場者に美術部の活動の説明をしたり、請われれば展示物の説明をしたり、似顔絵を描いたりとひたすら作業に追われていた。 昼食を取る暇さえなく、誰かが買い出しに行って順番に美術準備室で食べるという有り様だ。 「跡部様のクラスの喫茶店がすごく評判良いみたいで、行きたいのになぁ」 「でも高いって聞いたよー、本格的らしいけど」 「けど跡部様がいるなら全然いいよ」 合間合間にそんなお喋りが後輩達から飛ぶのも慣れたもので、ふぅ、とも息を吐いた。そういえば去年も一昨年も跡部のおかげなのか跡部のせいなのかテニス部の模擬店は文化祭レベルを逸脱しており、宍戸が例によって頭に血を昇らせていたっけ、などと懐かしく思う。今年はどうなのだろう――と少し目を伏せていると、ザワッ、と辺りの空気がどよめいた。 「ねえ、あれって……」 「うそ……!!」 なんだ? と顔をあげたの瞳も大きく見開かれる。映ったのは、明らかに周りの学生や一般客から頭一つ飛び出た長身の体格。穏やかな眼差し。 「あ、鳳長太郎君だ。あらら、ホントに来てくれたんだー真面目な子」 そばで部長がそんなことを呟き、が動けないでいると鳳の方がこちらに気づいたらしく笑顔で手を振ってきてなおさら周りはどよめいた。 「先輩……!!」 当の鳳はそんなことなど気づいていないのか慣れているのか、小走りでの前まで来ていつものように唇に笑みを乗せている。 「ようやく少し時間が出来て……。どうですか? 美術部は」 「え……、う、うん。その……」 椅子に座ったまま手持ち無沙汰だったは取りあえず立ち上がり、スケッチブックと鉛筆を置いて少し皆から離れて他の来場者に混ざった。 「お忙しい時に来ちゃいました?」 「う、ううん! 大丈夫……」 どことなくの態度に違和感を覚えたのか申し訳なさそうにする鳳の声を否定してから、は一度深呼吸をした。――本当に、いつもこうして唐突に現れるのだから。そう、別に避けていたわけでもなく本当に多忙を極めていたのだが……こうして声を聞くのは随分と久々な気がする。 鳳の方もそう思っていたのか――しばしまるで当然のように見つめ合って、ハッとしたように「そ、そうだ」と鳳は懐から携帯電話を取りだした。 「俺、昨日、先輩のクラスに行ったんですよ。それで……宍戸さんが写真を撮ってくれて」 そうして昨日、3年C組で撮ったらしき写真を開いてに見せ、あ、とも目を見開いたのちに薄く笑った。 「これ……ローテンブルクの……。そっか、宍戸くんが撮ったんだね。すごく良く撮れてる」 すると鳳は自分が写っているものを見せる気恥ずかしさもあったのだろう。えへへ、とはにかんで頭に手をやり照れたような仕草を見せた。 「俺はともかく……、まるで本当に俺もこの空間にいるみたいで感動しました。宍戸さんから聞いたんですけど、先輩、パネルの仕上げとか下絵も全部やったって……大変でしたね」 「う、うん。でも……最後だし、ちょっと張り切っちゃった」 ふふ、と小さく笑ってからは「それに……」と付け加える。 「ちょっとだけ、私にも分かるかもしれないって思ったから。鳳くんたちが……夏の大会で見てたものが」 「え……?」 そう。夏の大会で鳳を、テニス部を見ていて感じた――あのチームで戦うという感覚に触発されて、文化祭ということもあって少しだけ前に出て皆と何かを作り出してみようと思ったが――あの時の感覚に近づけているかはともかく、時間を忘れて準備に追われていたのはなかなかに良い経験だったように思う。惜しむらくはその成果をこの目で見られないことであるが、と眉尻を下げつつ「なんでもない」と口元を緩める。 鳳の方も深くは追及せず、目線を展示品の方へ移した。 「俺、文化委員会のミーティングの時に部長さんから今年の美術部は先輩のミニ個展をやるって聞いて……楽しみにしてたんです」 「そ、そんな大げさなものじゃないけど……」 展示ブースにはこれまでのの作品から、の気に入っているもの、実際に賞を得たものの中から厳選してと部長と顧問で厳選したものと、文化祭用に描いたものの10作品ほどが展示されている。 相変わらずの色使いは空気感や光の僅かな感覚を表現するのに長けており、鳳は校庭のイチョウを描いたらしき絵を見て「あ」と声を弾ませた。 「これ……あの時に描いていたスケッチが元ですか?」 「え……?」 「ほら、先月に……俺と会った時の」 「あ……! う、うん。そう……かな」 「やっぱり。もうすっかり校庭のイチョウも色付いちゃいましたけど、あの頃の青と黄の混ざった感じって俺も好きなんです。なんていうか、秋を気づかされるみたいで」 その絵はまさに初秋を捉えた一枚だったが、にとっては今年の初秋は少しばかり特別なものであった。夏の終わりは――漠然とまだこれまでの生活が続くと感じていて、そして秋に入ってすぐに自身の人生が大きく変わる分岐点がきた。そう、まさに「過去」と「現在」の象徴でもあり――としては文化祭のために描いた一枚だったが、顧問と部長が「嬉しくも悲しくも、優しくも寂しくも見える」と絶賛してぜひどこかのコンクールに出品しろと言っており、渋っている最中の絵でもある。なにせ、ずっとあの日の、鳳の手の温もりが頭から離れずに――自分にとっては厳密な「風景画」とは言えずに失敗に近いのだ。 少しだけ目を伏せて鳳の感想を耳入れていると、鳳は一つ一つの絵をじっくり見つめながらひときわギャラリーの多い絵の前で同じように足を止めた。 それは去年、春先のコンクールで優秀賞を取った「Like a canon」であり、鳳も実際に上野で観たものだ。としても自身の代表作ともなる作品ではあったものの、この絵を描いたキッカケは鳳の何気ない一言であり、しかもそのことを鳳本人に告げているためどうにも居心地が悪く――少しばかりハラハラしていると鳳はずいぶんと長い間その絵を見つめてから、ふ、と肩の力を抜いたように見えた。 「来年は……どんな絵を描くか、もう決めたんですか?」 「え……」 「ほら、先輩、春に"来年はぜったい、最優秀を取る"って言ってたから」 「あ……!」 そうだ。その絵こそが正真正銘、最後に日本に残していくこととなる絵となるだろう。笑顔でこちらに視線を流した鳳を真っ直ぐ見つめているのが辛く、少し視線をそらしたは「考え中」とどうにか笑って誤魔化した。 「美術部は……文化祭での活動としては、その場で来場者の似顔絵を描くこと、でしたっけ」 一通り見終わって、一般客や氷帝の生徒を相手にしている美術部員の方へ視線を流した鳳にも「うん」と頷く。 「よかったら、鳳くんもどう?」 「え……、先輩が描いてくれるんですか?」 「え……!? ……え、と……」 としてはそういうつもりで言ったわけではなかったが、特に断る理由もないため頷くしかない。とはいえ、普段通りのスケッチのスピードとクオリティで描いてくこの作業は得意でも不得意でも苦痛でもないため、鳳を座らせると自身も座ってスケッチブックと鉛筆を手に取った。 「よ、よろしくお願いします」 「うん」 対する鳳は少し緊張しているのか表情が硬い。しかし、にとってはスケッチをするだけなら相手がどんな表情をしていようと問題もなく――パラパラとページを捲っていると、黙ったままは苦痛だったのか「そうだ」と鳳が話しかけてきた。 「俺のクラス、プラネタリウムを作ったんですよ」 「へぇ……、ステキだね」 「みんなで頑張って作って……なかなか良いものが作れたと自分でも思います。出し物を何にするか、けっこう揉めたりもしたんですけど――」 そしてどういういきさつでプラネタリウムに決まったのか、どんな風に作っていったかの詳細を鳳は身振り手振りも含めてに伝え、ふふ、とも笑って聞いた。そうしてしばしお喋りに興じ、「あ」と鳳は眉を寄せる。 「俺、喋らない方がいいですか? ジッとしてなきゃ描きにくいですよね」 その声には、ううん、と首を振るった。 「平気だよ。鳳くんのこと、いつも見てるし……いくら動いてもらっても大丈夫」 そして、そこまで言い下してしまってからはハッと顔をあげた。案の定、鳳も驚いたらしく目を見開いていてカッと頬が熱を持つ。 「あ、あの……その、変な意味じゃなくてね! 鳳くんのこと、よく知ってるから……」 もはや何を言っても泥沼でしかない。はそこで言葉を止めてスケッチブックに意識を戻した。こうなると顔をあげるのが怖いというものだ。確かに顔をあげずとも鳳の姿などいくらでも覚えているが――と頬が熱いまま逡巡していると、鳳がどこか納得したように「そっか」と呟いての手がぴくりと撓った。――なにが、「そっか」なのだろう? 彼は自分の言葉をどう受け止めてしまったのだ? そもそも、どうして、どうしてこう顔を合わせるといつもの距離に戻ってしまうのだろう? 離れなければならないというのに。ちゃんと自分の立場を伝えて、ちゃんと話をしなくては。――でも、話ってなんだというのだ。鳳と自分は、ただの先輩後輩で。と波のようにこれまでの鳳との様々な思い出が押し寄せてきての右手に力がこもった。イヤだ――、と強く思う。なにがイヤだったのか定かではないが――しかし。 「イヤ……? 俺が?」 つい口から言葉が漏れてしまっていたのだろう。驚いたような鳳の声が降ってきてバッとは顔をあげた。すると困惑気味の鳳の表情が目に飛び込んできて、慌てて首を振るう。 「ち、違うの、その、ちょっと考え事してて……! 鳳くんのことは好きだし、イヤなんて……ッ」 「――え!?」 もはや口を開くたびに墓穴しか掘っていない気がする、とは思わず口元を押さえつけて頬を震わせた。 「せ、先輩……」 「その……だから、変な意味じゃなくて、ね。人として……というか……」 鳳の頬に少し赤みが差していたが、おそらく自分はそれ以上だろうとは下を向いた。だが、こう取り繕うだけで精一杯だ。――後輩として好ましく思っている。宍戸と同じように友愛を覚えている。いくらでも言い様はあるものの、そんな言い回しをする気にはとてもなれずに。進まない筆先をひたすら見つめた。鳳が話題を移してくれれば流せるというのに彼は彼で黙ってしまい、周りから聞こえてくる雑音がいやにうるさい。 指先が震える。とてもまともに線など引けない。顔をあげることすら叶わずに――はしばし白い画面と見つめ合いを続けてから、カタ、と鉛筆を置いた。 「ごめんなさい……。描けない……」 「え……?」 そしてスッと椅子から立ち上がると、ギュッとスケッチブックを握りしめたまま鳳に背を向けた。 「先輩……」 そうしてしばしスケッチブックを握りしめてから、スッと深呼吸をして振り返り眉尻をさげて鳳を見上げた。 「ちょっと、調子悪いみたい。また今度でもいい?」 「それは、構いませんけど……」 「ごめんね」 情けない。スケッチですらこの醜態とは。だからイヤなのだ――、と少し眉を寄せていると鳳は彼なりの気遣いだったのだろう。その話題には触れずに「そうだ」といつもの明るいトーンを唇に乗せた。 「先輩、これから自由時間って取れます? 俺も少ししか取れないんですけど……よかったら一緒に回りませんか?」 「え……? え、と……」 言われてはハッと周りを見渡した。申し出の是非を考える以前に、物理的に無理に近い。 「ご、ごめんなさい……。せっかくだけど……」 すると鳳も状況は察せていたのだろう。そうですよね、と肩を落として少しだけ寂しげな色を瞳に浮かべてから、もう一度キュッと唇を結ぶ。 「だったら……エキシビションマッチだけでも見に来てもらえませんか?」 「え……?」 「今年のエキシビションマッチ、俺が出るんです。だから……」 エキシビションマッチ、というのは運動部の有志によって毎年行われているものだ。テニス部は去年は宍戸と確か忍足が出て、宍戸が負けていたような気がする――と過ぎらせるもは返事に窮してしまう。YESともNOとも答えがたい。だって、と口ごもっているとヌッと背後からよく見知った明るい声があがった。 「オッケー、大丈夫だよ鳳君! その時間、ちゃーんとに休憩取らせて送り出すから!」 「ぶ……部長!? なにを――」 「本当ですか!? ありがとうございます!」 後ろを見やると肩に手を乗せてきた部長が鳳に向かってVサインをしており、あっけに取られる間もなく鳳も明るい声でそんな返事をして口を挟む暇さえない。 「じゃあ、先輩。俺、待ってますから! いい試合にしますね!」 そうしていつも通りの明るい笑みで頭をさげて鳳は行ってしまい――、なおがあっけに取られていると部長は極めて感心したように「おお」と鳳の去ったあとを見つめて笑った。 「ずいぶんと真っ直ぐな子だねー」 「ぶ、部長……」 「行きなよ、エキシビションマッチ。えっとね……3時からメイングランドで開始、だからテニス部の出番はもっと遅いと思うけど、終わるまで見てていいから」 こういうところが、すごく彼女らしいと思う。おそらく、誰しもがいきなり現れた鳳との関係を疑問に思っているというのに――。でも、と眉を寄せると部長は意外そうに目を瞬かせた。 「行きたくないの?」 「え……!? そ、それは……」 「平気平気、ぜんぜん休み取ってないんだし、こっちの事は気にしないで!」 そうして、ポン、と肩を叩いてから彼女は行ってしまいはキュッとスケッチブックを握りしめた。行きたくない、わけではないが。でも――。タイムリミットが近い。あと4ヶ月。忙しさにかまけて彼と離れることで逃げていただけかもしれない。伝えなくては――。なにも深く考えることはない。鳳にしても「フランスでも頑張ってください」といつものように笑って言ってくれるかもしれないではないか。そうだ。それ以外になにがある? 『先輩と話してると、気持ちが落ち着きますから』 そうだ、自分たちはなにも始まっていない。だから、ここでお別れ。――はふと飾ってある自身の絵の方を振り返った。 『雨音が気になってしまって』 『笑いません?』 『この雨音は、俺の耳には優しいカノンに聞こえる。だから……いまは好き、かな』 雨音に音楽を見いだすまで、彼は耳に響く無数の音階を不快に思っていたという。気付かなければ、きっと永遠に不快なままだったのだろう。でも、気付いてしまった。雨は、彼にとっては優しいカノンを奏でる楽器なのだと。だからもう、永遠に雨音が彼を不快にすることはないのだ。人は――過去の自分へは二度と戻れないのだから。そして、立ち止まることも許されないなら――歩いていかねばならない。いずれ来る、分かれ道のために。――そう、もう二度と戻れないのだ。とは無意識に眉を寄せて強く手を握りしめていた。 そんなの思いとは裏腹に、午後3時が近づくにつれて生徒達や来場者の昂揚は高まっていった。と言うのも、エキシビションマッチは氷帝の文化祭名物の一つでもあり、毎年これを目当てにやってくる一般来場者も多くいるためだ。文化部に言わせれば、せっかくの文化祭の華を運動部に奪われているようなもので口惜しいらしいが、そこは仕方がない。中でも全国区である男子テニス部の試合観戦は毎年絶大な人気を誇り、出る方もエキシビションという気楽さとある種の責任を感じるものだ。 「すごい人だな。まるで全国大会の決勝みたいだ。ねえ、日吉?」 「フン。俺には関係ない。こんなくだらん見せ物に出るつもりはないんだがな」 「まぁまぁ。投票結果なんだし仕方ないよ」 鳳と日吉は控えテントからエキシビションマッチの会場となっている第一グラウンドの様子を見ていた。グラウンドを取り囲むようにして山のような群衆が試合の様子を見守っている。即席のスタンドも用意されていたが、それでも足りずに後方からも見えるよう巨大モニターとカメラまで設置されている力の入れようだ。 グラウンドにはサッカーゴール、移動式バスケットゴール、テニスコートが設置してあり、サッカー部だけは普段からこのグラウンドを使用しているがそれ以外はエキシビションマッチ用に作られた臨時のフィールドである。 「クレイコート、久々だな……」 華麗なスリー・オン・スリーを見せるバスケット部を見やりながら鳳が呟いた。すると「おい」と日吉が声を鋭くする。 「言っておくが、エキシビションだなんだは俺には関係ない。負けるつもりはないからな」 すると、鳳は少しばかり肩を竦めた。 「それは俺もだよ、って言いたいところだけど……。一応、ある程度はちゃんと運営側の要望に添ってエンターテイメントしてもらわないと困るよ」 一応、俺、文化委員だし。と鳳が続けると日吉は小さく舌打ちをする。 「だからイヤだと言ったんだ、こんなくだらんショーに出るのは」 「いいじゃないか。他校の偵察だって来てるんだし、俺たちの今の力を全部見せるのは損なんだし。せっかくなんだから楽しもうよ」 そうなのだ。このエキシビションマッチに求められているのは真剣勝負ではなくあくまでエンターテイメントだ。ある程度の打ち合わせも必要であり、鳳は渋る日吉とどのようなラリーをするかを大まかに話し合いつつ出番を待った。 エキシビションマッチのトリを飾るのがテニス部である。小休憩を兼ねたコート整備が終わると、放送席から選手紹介と共に入場のコールが華々しく告げられる。 「さて、最後は男子テニス部による公開試合です。まずはこの人――! 今年の氷帝軍団を率いる我が氷帝学園男子テニス部の部長、日吉若君でーす!」 露骨に嫌そうな顔をして日吉はコートへと進んでいく。 「対するは、今年の男子テニス部全国ベスト8の立て役者……、中学最速サーブ記録保持者の副部長、鳳長太郎君!」 瞬間、グラウンドを揺るがすほどの黄色い歓声があがった。 「鳳さーん!!」 「キャー、鳳せんぱーい! ステキー!!」 「副部長ー! ファイトですー!」 むろんテニス部からの野太い声も混ざっていたが、鳳は多少狼狽えつつも取りあえずは歓声に応え――益々日吉は仏頂面を晒した。 「ようやく跡部さんが引退して静かになったかと思えば、これか」 「いや、さすがに……跡部さんほどじゃないだろ……」 鳳自身は、跡部や忍足たちがいないためにこの歓声が自分に向いているにすぎないと解釈したが――どうにも調子が狂うものだ。そういえば宍戸が「正レギュラーになった途端、騒ぎやがって。これだから女は」などと正レギュラーになって、そしてレギュラー落ちしていかに周囲の態度が変わったかを愚痴っていたことがあったが、これもそういうことなのだろうか? しかしながら応援してくれるのであればありがたいと思わなければならない、と狼狽えつつも思い直してコートに入る。 「さァ、1セットマッチ。タイブレークはなしのルールでいきます。サーブは日吉部長から。それでは、試合開始ッ!」 クレイコート、ましてやグラウンドに作った即席のコートだ。イレギュラーバウンドや弾みの悪い球を想定して動かねばならない。ライジングの得意な宍戸のような選手には最悪の相性のコートである。対する日吉は宍戸とは逆の、攻撃的なプレイを得意とするストローカーであるためクレイコートとの相性は良い方だろう。鳳にとってはあまり好相性とは言えないが、それでも球の弾みが遅いために大抵のボールには追いつけてしまう。 「せいッ!」 しかし長身とパワーを活かした上から叩き込むようなショットはクレイコートではそう威力が発揮されず――また、全国でも必勝ショットとなった超トップスピンショットはあまり披露したくなくて出し惜しみしているうちに1ゲーム目は順当に日吉のキープとなった。 続く第2ゲームは鳳のサービス。観衆の誰もが期待しているであろうネオスカッドサーブを披露するかどうか――鳳は少しばかり考えた。クレイコートは他のコートに比べて格段にバウンドが遅い。ということはいくらスピードサーブで攻めてもエースが取りにくいということだ。慎重にコースを選んで確実に入れなければならず、しかも確実に敵校の偵察が入っているだろうこの状況。うーん、と唸るもこの試合はデモンストレーションも兼ねているため手を抜く箇所と力を入れる箇所はちゃんと作らねばならず、「よし」とデュースサイドのサービスラインに下がると前を見据えた。 「一球……入、魂!」 ワイドぎりぎりを狙ったサーブはそのまま外に逃げていき、ワッと歓声が起こる。放送席からは200キロを超えるサーブ速度を讃える実況が入り――鳳は、ふ、と息を吐いた。いくら普段から共に練習していると言っても、自分のサーブはまだ誰にも破られたことがないのだ。ネオスカッドを打つ限りは必ずノータッチエースだ、と意気込むもやはりクレイコート。2球、3球と日吉は反応を見せ、結局はすべてエースを取れたものの鳳は少しだけ肩を竦めた。 鳳は最初のサービスのみでネオスカッドを封印し、試合はほぼラリー戦に終始した。フィニッシュショットの多彩な鳳の方が一見すると派手ではあるものの、クレイコートでの試合の見所は何と言ってもラリー。とにかく拾って繋ぐ日吉、決めにいく鳳と白熱した打ち合いが続き、ギャラリーはゲームが進む度に熱狂して歓声を送った。 そうして第12ゲーム――結局はお互いのゲームをキープし続けて回ってきた鳳のサービス。ポイントは40−0。あと一球だ。 最後くらいは――、と鳳はギュッとボールを握りしめた。あの群衆のどこかできっとが見てくれているはずだと思い――その一球に全身全霊を込める。 「――ハッ!」 そうして日吉の足下へと叩き込んだサーブは確かに地を鳴らすような大きな着球音を発し――観客も放送席もシンと静まりかえった。刹那の静寂から息を吹き返した瞬間、どよめきと歓声が渦のように沸き起こる。 「こ、これは……ボールが土に埋まっています! なんという威力でしょう! さすが鳳君! 日吉部長も唖然!」 実際、日吉も唖然として自身の足下に埋まったボールを見やっていた。こればかりは、どうやっても返せないボールだ。むろん鳳はこのクレイコートならではの現象を狙っており――、ふ、と口の端をあげた。 「ゲーム、鳳! 6−6! これにより両者引き分け!」 タイブレークなしのルールなため、結局は勝敗がつかずに終わってしまったがギャラリーは大いに盛り上がり、日吉も取りあえず負けなかったことは良しとしたのだろう。互いに握手しあって、益々黄色い歓声は勢いを増した。 「なんとかならないのか、このバカ騒ぎは」 「いいじゃない、日吉。氷帝の部長ってこういうのに慣れないとやってらんないよ?」 「またお前は都合の良いときばかり部長部長と……! 俺は跡部さんとは違う方向で行くつもりだからな」 「はいはい」 照れ隠しなのか本当に嫌なのか目線を鋭くした日吉を鳳は慣れたようにいなしつつ苦笑いを漏らし、ふと山のようなギャラリーを見やった。 その視線はを探すものだったが――当のは、彼が自分を見つけようとしているとは思わずに、設置コートから少し離れたスタンドの上からグラウンドをそっと見下ろしていた。 歓声に包まれる鳳は――とても遠い。けれども本来はこれが正しい距離なのだと思う。もしも鳳と二年前の春に音楽室で出会っていなければ、おそらくこの距離が近づくことはなかった。この試合を見たとしても、きっとなにも感じなかったに違いない。彼はテニス部の副部長で、宍戸とダブルスを組んだパートナーで、記号的にその情報を認識するだけだったはずだ。けれど――人は過去には戻れない。立ち止まることも許されないなら――せめて今だけ。 「鳳くん……」 祝祭は――、祭りとは、時空の狭間に存在するのだと何かの本で読んだ気がする。だから今は、立ち止まっても許されるのなら――今だけ、と遠くに鳳の姿を見つめて眉尻を下げたままゆるく微笑むと、そっとはグラウンドに背を向けた。 |