鳳を、避けているわけではないのだ。
 ただ、学年が違う、部活が違う、だから会えないだけ。会えないのが普通なのだ。
 だから――、あまりにも不意打ちすぎた。――と、は数日前の校庭での出来事を過ぎらすたびに身体が熱を持つのを自覚した。
『寒く、ないですか? 先輩』
 ハッとするほど耳に馴染んだ、鳳の声。柔らかくて優しくて、甘い。見上げた鳳は、やはりとても大きくて。出会った頃のことがまるで遠い過去のことのようだ。
『ひょっとしたらパリですれ違ったかもしれませんね、俺たち』
 もしかしたら本当に、自分たちはもっと昔に出会っていたのかもしれない。フランス行きが決まっていなければ、素直にその偶然を喜べただろう。
『きっと広いようで狭いんだろうな、世界って』
 もし本当にそうだったら、どんなにか――とは秋風の吹く校庭をそっと美術室の窓から見上げた。スッと視界に空を渡る鳥が映って、ふ、と目を細める。
 大きくて優しく、そして強い。――まるで彼は、その名の通り大きな鳥のようだ。鳳なら、もしかしたら彼の言葉通り海など簡単に渡って距離さえ感じさせないのかもしれない。
 だけど――でも。
 ちゃんと区切りをつけなければ。自分たちはただの先輩後輩。――そう考えて苦み走った胸を押さえ、はふるふると首を振ってキャンバスに向き直った。
 鳳のことだけではない。この学園も、この国さえも、あと少しでお別れなのだ。だから今は、せめて自分にできる精一杯のことを全力で尽くしてここを去ろう、とはきゅっと唇を噛みしめた。そうすれば、もしかしたら少しは感じられるかもしれない。答えに近づけるかもしれない。あの夏――、鳳たちの見ていたもの。感じていたこと。そして――二年前の春に、鳳から投げられた疑問の答えを。きっと、とスッとキャンバスに色をのせた。

「鳳、もっと下半身による運動連鎖を意識しろ!」
「はいッ!」
 そろそろ部活も終わりだろうという時間。中央のコートでトップスピンストロークの練習を続ける鳳に、ちくいち顧問の榊から注意が飛んでいた。周囲からはボールの軌道を見る度に「うおー、すげー」などと声が飛んでいたが、鳳の耳には全く入ってこない。
「もっとフットワークを軽快に! スタッカートを刻むようにだ!」
「はいッ!」
 音楽教師らしいダメだしにも違和感なくついていけるのも鳳ならではだろう。相手をしてくれている樺地としばし打ち合ってから、鳳はベンチに座る榊の前に立った。
「だいぶ、イメージ通りに打てるようになってきたか?」
「いえ、まだまだ甘いです」
「うむ。鳳……お前は身長、筋力、運動能力ともに恵まれているといっていい。人並みに努力を重ねれば身に付くことも多いだろう。ただ……生まれ持った能力に頼り切りにならぬよう常に注意しろ。身体のケアも怠るな。なにごとも基本が大切だ」
「――はいッ!」
「以上、行ってよし」
「ありがとうございました!」
 榊に頭をさげ、コート脇に移動すると鳳はさっそく榊からの忠告も相まって自身の肘にアイシングを施した。
「なんだ、肘でも痛めたのか?」
 すると、見知った人物が近づいてきて腰に手を当てながら見下すようにして言ってきた。わざとではなく、上から目線に聞こえるのはもはやそういう性格だからと言っていい。
「日吉……。別に、そういうわけじゃないよ」
「フン、お前は大ざっぱすぎるからな。サーブ練習したあともそのままにしてることもけっこうあるだろ。まさに典型的O型だな」
「だから、いまケアしてるだろ。それに血液型って関係あるのか? 聞き飽きたよ、それ」
 クセのある先輩に囲まれていたおかげで大抵は受け流せるようになっていた鳳であるが、同級生だと多少反発を覚えるのも無理からぬことだろう。そのまま二人はどちらともなく夕暮れのコート脇でストレッチに入った。
「あ、そうだ日吉。今月の部費の領収書とかいろいろ会計がまとめといたって言ってたからあとでチェックしてよ」
「なんで部長の俺がそういう細かい作業までしなきゃならないんだ? 毎回毎回毎回」
「部長だからだろ? 俺がやってもいいけど、ホラ、大ざっぱなO型だからチェックミスするかもしれないし」
 愚痴り始めた日吉にそう切り返せば、日吉は苦虫をかみつぶしたような顔を浮かべた。そうして小さく舌打ちして黙り込んだ日吉を見て鳳は肩を竦める。氷帝テニス部の部長、といえば聞こえはいいが跡部が特殊だっただけで、次の世代に移ったら部長は「部をまとめ、把握し、管理する」という本来の役割に戻った。副部長とてそうであるが、日吉はどちらかというと細々した作業が得意であり、鳳は人間関係を円滑にする術に長けていたため上手い具合に役割分担は出来ていた。日吉としては自身が絶対的に君臨できないことがいささか不満のようではあるが――それは仕方のないことだ。共に全国制覇を目指す同志として、このくらいの距離感がちょうどいいのだろう。
「部長、副部長、お疲れーっす!」
「日吉さん、鳳さん、失礼します!」
「お疲れ! 気を付けて帰りなよ!」
 しかし、いくら役割分担とはいえ少しは愛想よく出来ないものか、と鳳は後輩からの挨拶に三白眼で返す日吉の替わりに二人分の笑みで手を振り――しかしそれさえも日常のことで、ふ、と息を吐いた。これが今の氷帝テニス部のスタンダードなのだから仕方ないか、と思う反面、次に入部してくる一年生は跡部時代を知らないのか、と考えるとどこか責任重大のような寂しいような感情が沸いてくる。
「卒業、か……」
「なんだ……?」
「いや、もうじき三年生も卒業しちゃうんだなと思ってさ。そしたらもうテニス部に顔を出してくれることもなくなるだろうし」
「なんだ、寂しいのか鳳? 清々するだろ、あの人たちがいなくなれば」
「べ、別に……そうじゃないよ。ただ――」
「ただ……?」
 正レギュラー用の部室で帰り支度を整えつつ鳳は瞳を曇らせる。卒業、というと一大イベントな気がするが幸いにも氷帝学園はエスカレーター式だ。特に中等部から高等部への進学率はほぼ100%であり、卒業というよりは移動という表現の方が適切な気がする。多少離れはするが、大したこともないか、と思い直すと鳳は日吉に「なんでもない」と返した。
 しかし、鳳にしてもまた感傷に浸っている間はなかった。10月は新人戦、体育祭と行事に追われて忙しく、そして来る11月――いよいよ文化祭が迫ってきて鳳の忙しさは加速した。なぜなら、鳳自身が文化活動委員であるため実行委員会の仕事もこなし、自分のクラスの模擬店にも参加し、さらにはテニス部の出し物等々もまとめなければならないためだ。
「鳳副部長、模擬店の事なんですが――」
「うん、俺はOKだよ。あとで日吉に確認して」
「鳳君、C組の出し物なんだけど、鳳君は――」
「うん、手が空いたら用意するよ」
「鳳! ちょっと用事を頼まれてくれないか、この予算案を生徒会に――」
「はい、委員長!」
 もしかして、いま氷帝の中でもっとも多忙なのは自分なのでは? と勘違いしたくなるほどの忙しさだ。
 今年の氷帝学園文化祭は三日かけて行われ、1、2日目に模擬店や文化部の発表などが集中し3日目の前半は催し物の評価順位決定と片づけ、その後は後夜祭となっている。
 11月の第3金曜日と土日を使って行われるため、11月に入るとそれぞれのクラス・部活の模擬店内容の決定稿も委員会にあがってきて、ミーティングもひときわ熱が入るようになった。
 テニス部は無難に喫茶店に落ち着き、鳳自身のクラスは投票で女子から圧倒的支持のあったプラネタリウムとなった。
 美術部は――と鳳は放課後のミーティング開始前に渡された資料に目を落とした。美術部はとにかく仕事が多い。文化祭用の巨大パネルの作成やら何やらと細々仕事内容が書かれていて「あ」と鳳は呟いた。
「ミニ個展……?」
 すると「あれ」と後ろを通った女生徒らしき声がして、振り返るとショートカットの女生徒が目に飛び込んできて鳳は瞬きをした。
「興味ある? 美術部に」
 快活そうな女性だ。見覚えがある――そうだ、美術部の部長だ。彼女もミーティングに参加するためにやってきたのだろうが、足を止めたついでだったのかそのまま鳳の隣に腰を下ろして自身も資料を手に取っていた。
「あ、あの……美術部って皆さんでなにか出し物とかされないんですか?」
「ウチは毎年パネル作成でほとんど文化祭用の制作が終わっちゃうからね。今年は、うちの中心に作品展示と、あとは来場者の即席似顔絵会かな」
……先輩の……」
「そう。キミもぜひ来てね、鳳長太郎君」
「え……!?」
 パチ、とウインクをされて「どういう意味だ」と狼狽えていると彼女は「あはは」と笑った。
「有名人だから知ってるよー。テニス部の副部長さんで長身でカッコイイーって後輩たちが騒いでるの何度も聞かされたから」
 ――そっちか、と鳳は少しばかり落胆した。普段はべつに意識などしていないが、自意識過剰といわれてもテニス部の正レギュラーである以上、ある程度生徒に認知されているのは分かっている。が、改めてこう言われてみるとどうにも反応に困るものだ、と鳳は肩を竦めた。
 しかも、彼女の言動を聞く限り――は彼女に自分の話をしたことなどないのだろうと悟れてちょっとだけ落ち込んでしまった。
「テニス部はなにやるの? ……喫茶店か。きっと女の子ばっかり来るね。売り上げはテニス部の一人勝ちかな」
 だが彼女はさして気にする様子もなく資料に目を落として、ズバッとそんなことを言っている。おそらくこの調子で美術部を仕切っているのだろうな、と様子が目に浮かぶようで鳳は苦笑いを漏らした。
 生徒会長である跡部の到着を待って開始されたミーティングは滞りなく終わり、それぞれ部活のあるものはそのまま部活に向かった。
 部長の方もまた、ミーティングから部活に直行するために美術室に向かった。そして美術室に足を踏み入れた途端にパネル作成に精を出している部員達の姿が目に飛び込んでくる。
「お疲れさま、部長」
「部長、お疲れさまです!」
 みな制服にジャージを羽織って、中には顔までペンキで汚している様を逞しく思いつつ、彼女は資料を机に置いて「うふ」と笑った。
「さっきまで文化委員会と生徒会との合同ミーティングだったんだけどー、鳳長太郎君とお話ししちゃったよ!」
「えー、ウソー、いいなー!」
 一年生の反応を分かっていて、部長はわざと自慢げに言う。すると二年生からも溜め息らしきものが漏れてきた。
「生徒会合同ってことは、跡部会長もいたんですよね? 部長ばっかりズルイですー」
「お、言ったな! じゃあ私が引退したら部長やっていいよー」
 相変わらずテニス部の人気は絶大だ、と人ごとのようにネタにしてふとを見やると、彼女も手を止めてこちらを注視しており部長は首を捻る。
? どうかした?」
「え……!? あ、ううん」
 途端、ハッとしたのかは慌てたようにパネルに向き直った。部長は自身もカバンからジャージを取りだして羽織りつつの隣にしゃがみ込んだ。
はこっちはそこそこにして、文化祭用の絵に集中してよ」
「うーん、そういうわけにも……。ちゃんとそっちも描くから大丈夫」
「いいけどオーバーワークだよ。クラスの出し物だってあるんだし。……ってのクラス、なにやるの?」
「――ヒミツ」
 これは、そうとう文化祭に賭けてきているな。と部長は苦笑いを浮かべた。それもそうだ、にしてみれば日本でやる最後の大きな学校行事なのだから。どちらかというと個人行動を好む彼女がクラスの出し物にまで張り切っている様子なのは素直に良いことだと思う。
 それは夏にテニス部のチーム戦に触れて感化されたものなのか、はたまたこれを最後にという思いなのか。単に忙しさにかまけて雑念を振り払いたいからなのか。
 おそらく、その全てを孕んでいたに違いない。にしてもその理由を追う暇さえないほどに文化祭に全ての意識を向けていた。
ちゃーん、こっちこれでいいー?」
ー、こっちにも指示くれ」
「待って待って、いま行くから」
 よく働くものだ、といっそ感心して宍戸はの様子を見やった。文化祭の3年C組の出し物は一言で言うと「なんでも写真館」となった。
 最後の学園行事だし、なにか皆の思い出として形に残るものを、と話し合っていたときにが提案したものだ。彼女曰く、シチュエーション・背景・人物を用意してそこで写真を撮ってもらう、撮ってあげるというのだ。例えば、ある一角には去年行ったドイツの風景を描きだしてあたかもドイツに居るようなシチュエーションで撮れる。また、ある一角にはポップ調の背景やキャラクターなどを用意してプリクラのようにして撮れる。C組の生徒達が仮装すれば更に幅も広がる――という意見に大多数が乗ったのだ。なにせ自身が絵を描けるうえに写真の腕前も学校行事毎に皆に披露しており、背景・写真双方のクオリティを高水準で保てると皆が感じたのも大きかった。
 とはいえは美術部がメインであるし、仕上げの一切を引き受けた他は下絵の構図・カットの大まかな指示、うまい写真の撮り方をアドバイスしている程度ではあるが――と宍戸は自分も背景パネルの制作をしながら思う。三年間ずっとと一緒にいて、彼女がこれほど団体でやることに積極的なのは初めてではないか、と。むろん今までも請われれば応じてはいたが――、やはりこれが日本での最後の行事だからなのか、と考えると胸に苦みが走ってハッとした宍戸はブンブンと首を振るった。
 次第に秋が深まってくる。そして冬が来て、春が来ればもう彼女とは――と視界に懸命に働くを宿しながら、宍戸は人知れず唇を噛んでいた。



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