ハァ、と鳳は自宅の防音室でグランドピアノの前に座って溜め息を吐いていた。 しばし楽譜と睨み合っていると、ふいに愛猫がぴょんと膝に飛び乗ってきて、「こらこら」と肩を竦める。 「ダメだよ、フォルトゥナータ。いまは練習中なんだから」 しかし、こちらの都合などお構いなしにゴロゴロとすり寄ってくる様子に鳳は次第に表情を緩めると、ふ、と息を吐いて彼女のふわふわの毛を撫でた。 「俺、いま連戦連敗中なんだ。どうしたらいいと思う?」 そうして問いかけてみると、案の定「なーに?」と言いたげな鳴き声が返ってきて鳳は眉尻を下げた。 連戦連敗、とはテニスのことではない。音楽室でピアノを弾いていると、時おりが顔を出してくれる。そういう時は決まって彼女の好きそうな曲を弾いている時で、おおよそ鳳には「今日は来るかな」ということが分かっているのだ。 だというのに、最近はカンが鈍ったのか別の事情か、まったく当たらない。今まではかなりの精度を誇っていたというのに、だ。 「部活、忙しいのかな……」 自分を納得させるように呟く。は元々がハードワーカーだし、自身もほとんど部活に追われている身だ。部活も違う、学年も違うとあれば、こうも簡単に会えなくなってしまうものなのだな、と鳳は眉を曇らせた。 同じクラスの宍戸や芥川はおろか、いっそ三年の先輩全てが恨めしいほどだ――と自室に戻った鳳は棚の上に置いたままの小さな箱をちらりと見た。それは先日の夏休みにフランスに行った際、にと思って買ってきたプレゼントだ。いまだに渡すチャンスがなく、いや渡しに行けばいいだけだというのに、どうにもまごついている自分自身が情けない。 『男なら逃げずに立ち向かってこそだろーが!』 ふいに宍戸の声が過ぎって、つ、と息を詰め、そうして再び深い溜め息を吐いた。別に逃げているわけではない。けれど、立ち向かえ? 何に……? と考え込んでしまった自身に苦笑いを漏らす。宍戸は別に深い意味があって言ったわけでもないというのに――。けれども自分がこうしている間でも、宍戸とは毎日顔を合わせて普通に学園生活を送っているかと思うと、ひどく苦しい。自分はにとって少しは特別だと、宍戸以上なのだとどこかで思い違いをしていただけかもしれない。自分などがあの宍戸に勝てるわけないではないか。いや、勝ち負けの問題ではなく……なにを考えているのだろう。 「激ダサ、ですね……」 自嘲気味に鳳は呟いた。――疑心、不安。こんな感情で胸を満たしたくなどないというのに。といるときの自分は、とても幸せで、穏やかで満たされていて……けれども、すぐにこんな相反する感情が芽生えてしまう。 拭い方すら、分からない。 こんな自分だから、強いリーダーシップを取れる跡部や宍戸のような人物に憧憬を覚えてしまうのだろう。そう、宍戸のように――欲しいもののために何もかもをかなぐり捨てて挑んでいく真似は、自分にはきっとできない。だって、この感情の正体すら分からないのだから。 そっと、鳳は棚に置いていた包みを手に取った。――旅行中、母と姉のたっての希望でウインドウショッピングをしていた時のこと。ふらりと立ち寄ったアクセサリーショップでとあるネックレスが目に付いた。 『なになに、長太郎ー、彼女にお土産?』 食い入るように見ていると、ひょいと姉がそんな横やりを入れてきて慌てて「ち、違うよ!」と否定すると彼女はそれ以上追及しなかったものの自分の見ていたネックレスを「ふーん」と吟味するように見やった。 『桜がモチーフのネックレスかー。すてきね。……だけど、わざわざフランスのお土産なのに?』 そうなのだ、目に付いたネックレスは作り手がよほど日本贔屓だったのかトップは桜の花びらをモチーフにしており――、でも、だからこそ「フランスで日本のものなんて!」と感動した自分に対して、姉は「フランスで日本のものなんて」と逆の感想を抱いたらしい。けれど、おかしいかと尋ねると、彼女は否定して「例え趣味に合わなくても、飾ってても綺麗だし、私なら嬉しいかな」と笑って後押ししてくれた。 『それなら、一緒に桜を見にいきません?』 『先輩、桜が髪についてます。……ね?』 異国の地で見かけた桜の形に、真っ先に頭の中にあの春先の出来事が過ぎった。だからというわけではないが、への贈り物はそれに決めた。――あの春から季節は移ろい、もう秋か、と鳳はいまだ渡せていないプレゼントを手にしたまま眉を寄せた。 『今日はありがとうございます! また学校で!』 『――うん』 夏のあの日、全国大会のあとに確かにそう言って笑い合ったのに――どうして。 いや、彼女を見つけてもただ黙っているだけの自分も悪いのだ。見ているだけでは、きっと何も変わらない。 ――と10月も中旬に差し掛かった日の放課後、水曜日であったために部活はオフだったものの鳳は軽く自主練で汗を流してから、早めに切り上げて部室を出た。 途端、ひゅ、と肌寒い風が吹き抜けて「やはりマフラーを持ってきて正解だった」と息を吐く。 ここ数日で急激に秋も深まり、冬服だけでは震えてしまう程だ。しかし、そのおかげで校庭の木々の色が変化していく様子が見てとれて楽しいのだが、と鳳はゆるりと歩きながら学園の紅葉していく木々を探すようにして歩いた。そうして幼稚舎へと続く道行きを進んでいて「あ」と目を見張る。 ベンチに座る後ろ姿――ゆるいウェーブの髪にスケッチブックへと落とされた瞳。 先輩、と鳳は見つけてしまったの姿に小さく呟いた。 夕暮れが近い秋風の中、ただでさえ女生徒の制服は寒そうだというのにマフラーもしないで。 決して目が良いわけではないが、の鉛筆を握る右手がかすかに震えているように見えて鳳はグッと唇を結んだ。そうして自身のマフラーに手をやる。放っておいたら風邪を引いてしまうかもしれない、と案ずる心が少しだけ勇気をくれた。 「寒く、ないですか? 先輩」 意を決して、声をかけると同時に鳳はふわりとマフラーをの肩にそっとかけてやった。瞬間、ハッとしたらしき彼女が後ろを向いて驚いたように目を見張る。 「お、鳳……くん」 「すみません、びっくりさせちゃいました?」 状況がよく飲み込めていないらしき彼女をそのままに、鳳は肩を竦めてみせる。そうして前に回り込んで、そっと彼女の隣に腰を下ろした。 「あ、あの……」 「歩いてたら先輩が見えて、寒そうにしてたから黙ってみていられなかったんです。それ、しててください」 「で、でも――」 「俺は平気ですから」 の言いそうな反論など聞かずとも分かるというものだ。先回りして笑ってみせると、彼女もまた反論は無駄だと悟っているのだろう。渋々ながら頷き、ありがとう、と微笑んでくれた。 それだけで、一人で鬱々と考えていたものが氷解していくのが分かった。たったこれだけのことで、ともすれば涙が出そうだ。少しだけ彼女の頬が赤いのは寒さのせい? どことなく気まずそうに目線をそらしているのは迷惑だから? 考えるよりも、胸の昂揚のほうがずっと勝っていた。感情のままに、ゆるく笑って視線を投げる。 「校庭の葉、だいぶ色付いてきましたね」 うん、と小さく頷いた彼女をちらりと見やってから鳳はうっすら黄色に染まりつつあるイチョウを見上げる。そういえば、と五月の中間試験あけにこうしてここで彼女と昼食をとりながら草木鑑賞したことを浮かべた。は寝不足で目の下にクマを作っていて、自分にもたれかかって居眠りしてしまって――。つい最近のことのはずなのに、もう遠い昔の出来事のようだと懐かしく思いつつ、そうだ、と鳳はへと視線を戻した。 「俺、全国大会のあと家族でフランスに行って来たんですよ」 「あ……そう、なんだ」 の反応が、どこかドキッとしたような複雑なものだったが、鳳はさして気にせず話そうと思っていたことを伝えてみる。 「それで、ルーブル美術館に行ったんですけど……。ぜんぜん時間が足りなくて、一日中いても飽きないだろうなーって思っちゃいました」 えへへ、と笑みを零すとやはりも気になるのだろう。口元を緩めている。 「モナリザと目が合った?」 訊かれて、笑いながら肯定する。やはりルーブル美術館といえばモナリザが有名ではあるものの、広大で少しでも気を抜けば簡単に迷子になってしまうほどだ。 「実は、フランスもルーブル美術館も二度目なんですけど……けっこう前だし記憶も曖昧で、でも中に入ったらなんだか懐かしいのと凄いので俺ほんとに感動しちゃって」 「素敵だよね、ルーブル美術館。私も一日中いても飽きないだろうなぁ……、だいぶ前に一度行ったきりだから記憶が曖昧だけど」 追想するように遠くを見たに、やっぱり、と鳳も呟く。 「先輩もきっと行かれたことあるんだろうな、って思ってました。いつ頃ですか?」 「え……と、5年前の夏休み……かな。確か……お父さんの研究室の休暇の時だったから……8月ど真ん中だったような」 そこで鳳は、え、と目を見開いた。 「俺も5年前の夏休み、ちょうどその頃に行ったんですよ!」 「え、そうなの……?」 「ひょっとしたらパリですれ違ったかもしれませんね、俺たち」 偶然だな、と純粋に思って鳳は呟いたが、の頬が少しだけ震えたように見えた。しかし、もし本当に異国でニアミスしていたとしたらすごい確率だと思って鳳は嬉しさから微笑んでみせる。 「きっと広いようで狭いんだろうな、世界って」 とたん、がどこか切なそうに瞳を揺らした。縋るような訴えるような瞳で、ゴク、と無意識に鳳は喉を鳴らしていた。 「先輩……?」 「そう、だね。そうだったら……いいのに」 そうしては目を伏せて寂しげに笑い――、ぴく、と鳳の手がしなった。なぜそんな顔をするのだろう? 頬が一瞬、震えたように見えた。なぜだろう? 触れて確かめたい――と過ぎらせたのがに伝ったかどうかは分からない。しかし彼女はハッとしたように、まるで懸命に笑みを浮かべるようにして開いていたスケッチブックに目を落としてからぱらりとページを捲った。 「セーヌ川から見えるルーブルってこんな感じだっけ……曖昧だけど……」 そうしてサラサラ鉛筆を走らせる彼女に鳳は、ほわ、と感心して見入ってしまった。自分などが評価するのはおこがましい気がするが、本当に彼女の描写力はずば抜けていると思う。あっという間に記憶そのままの風景が描きだされていって鳳は感嘆の息を吐いた。 「凄いです、先輩!」 「あ……、ありがとう」 「ルーブル美術館って中も凄いですけど建物もいいですよね。俺、あっちに行くと街を歩いているだけでもぜんぜん飽きないんです」 「あ、そっか。鳳くんは建築物も好きなんだっけ」 彼女はいつか、跡部とよく建築や音楽の話をする、と自分が言ったのを覚えていたのだろう。ええ、と頷いて鳳はゆるく口元を緩めた。 「西洋の建築物が好きで、特に好みなのは英国式なんですけど……。なんていうか、古い建物を見ていると不思議な気分になるんですよ。大昔と繋がっているみたいというか……」 「ロマンチックだね、鳳くんらしい」 するとも薄く笑ってくれて鳳はじんわりと心底胸が温かくなるのを覚えた。彼女がお世辞でもバカにするでもなく、心からそう思って言ってくれていることが伝ったからだ。しかし、えへへ、とはにかんで視線を落とした鳳はハッとする。 「先輩……っ」 この冷気のなかで彼女はどれほどの時間をスケッチに費やしていたのか。両手が真っ赤で、特に鉛筆を持つ右手は小刻みに震え続けていて鳳は考えるより先に身体が動いてしまい自分の両手で彼女の手を包み込んでいた。 「わ、つめたッ! 先輩、まだ10月なのにこれじゃすぐシモヤケになっちゃいますよ」 「お、鳳く――」 「俺、体温高めなんで。あったかいでしょう?」 ニコッと笑って少し力を込めればがふりほどけるはずがないことを知って鳳はそうした。そうしながら思う。これだけ震える指で、よく絵など描けるものだ、と。するとふわりと秋風に乗って彼女の髪が揺れ、近づいたせいか緩い香りが鼻腔をくすぐって少しだけ胸が騒いだ。 「先輩、いいニオイ……」 「……ッ……」 身長差のせいか少しでも身を乗り出せば唇に彼女の前髪があたって――少しだけなら、と近づいてみるとが息を詰めた気配が伝い、ドク、と鳳の心臓も脈打った。 ――どうしよう、まずいかな、だけどもう少し触れたい。と、わずかに葛藤している間には身を捩るようにして顔を背けた。 「オイルくさい、から」 ああ、そういえば何を思ったか宍戸が「オイルくさい」などと彼女に向かって言っていたことがあったっけ。よほどショックだったのか普段から気にしていたのか、どちらにせよ鳳はこの時ばかりは心底宍戸を恨めしく思い、肩を竦めた。 「そんなことないですよ。それに……俺、油絵の具のニオイ、好きだし」 それは、事実だ。自分でもけっこう絵を描くためか、あの独特のニオイには慣れていてそれほど気にならない。それに――宍戸の言葉を借りるのはどことなく癪だが「年がら年中、油まみれ」になるほど精進していることにはむしろ敬意を払う、と鳳は自身の手にすっぽり収まっているの手に意識を向けた。自分の手に隠れていて見えないが、の腫れ上がった右手の指も立派な努力の証だ。本当に、こんなに小さくて可愛らしい人なのに――どこにそんな負けず嫌いで一本気な性質が隠れているのだろう? 今も、恥ずかしそうに頬を染めるさまが可愛くて。こんな小さな肩、抱き寄せればすっぽり自分の胸に納まってしまいそうだ――と浮かされたように考えてしまった鳳は自身にハッとした。 何を考えているのだろう。先輩相手に、こんな。でも――いつ頃からをこんな風に見るようになったのだろう。出会った頃から? 一つ先輩で、尊敬しているし、でもすぐに後輩の自分に主導権とられてあたふたして、大胆かと思うとすぐ真っ赤になるし、絵と向き合う揺るぎない視線はまるで別人のように凛としていて――。こうして触れているともう思考回路がぐちゃぐちゃだ。自分でもなにを考えているのか分からない。ただ、熱いような温かいようなむず痒いような、この感情をどう表現すればいいのか分からなくて――まだ、手を離したくなくて。次第に双方の体温が同化していくのが嬉しいような、寂しいような、複雑さを覚えた。 けれどもはこの状況に耐えられなくなったのだろう。もう大丈夫、と鳳の手をそっと退けた。そうして両手をキュッと結んで俯いてしまう。頬が赤いのは、きっと西日のせいではない。 「先輩……」 まだ離したくなくて、そっと手を伸ばそうとすると、先にの方が切り替えたようにベンチから立ち上がってしまった。 「そろそろ、美術室に戻ろうかな」 「あ……」 追うように立ち上がった鳳へとは首に巻いていたマフラーを外す。 「これ、ありがとう」 そしてそっと鳳の首に戻すようにして両手を伸ばすも――おそらく彼女の想像以上に身長差がありすぎたのだろう。背伸びせざるを得なかったは少しばかりふらついて鳳の肩に手をついたものだから、図らずも抱きつくような体勢になり、間近で見つめ合って大きく目を見開いた彼女はパッとすぐに鳳から身体を離した。 「ご、ごめんなさい」 そうしてそのままベンチに置いていたスケッチブックを掬い上げて背を向けようとしたを「あ……!」と鳳は呼び止める。 「俺のピアノ……! その、たまには聴きに来てください」 それはここずっと訴えたかった一言だ。勢い余って言ってしまった鳳に、は少し間を置いてから、少し辛そうな表情で振り返った。 「聴いてる……よ。いつも、聞こえてくるから」 「あ……」 「でも……ごめんね」 え、と鳳が疑問を投げる前には小さく頭をさげるとそのまま小走りで特別教室棟の方へ去っていった。その背を見送って、鳳は眉を寄せる。――どういう意味だ? ごめん、って。行けない、という否定なのか、忙しい、という理由付きなのか。 ふわ、との巻いてくれたマフラーの裾が風に踊った。そして、ふわり、と、これはの移り香だろうか? さきほどの彼女の髪と同じニオイが風に乗ってどうしようもなく彼女のあとを追ってでも捕まえたい衝動にかられる。 「……ッ……!」 これは不安なのか、疑心なのか。会ってしまえば、こんな感情すぐに忘れられるのに。けれども、漠然と感じるこれは――。 しばし特別教室棟の方を見やってから、鳳はふと幼稚舎の方へと視線を移した。まだランドセルを背負っていたあの頃。あの頃は、こんな感情……知らなかった。けれども、のいないあの場所へ戻りたいとは思わない。けれども――。 「先輩……」 この気持ちは、いったい何なのか。言葉が見つからない。――ふるふる、と首をふるう。考えすぎている、と。 「そうだよな。忙しいんだ……きっと」 文化祭が終われば、彼女の状況も変わるだろう。それに、同じ学園にいるのだから会おうとさえ思えばいつでも会えるではないか、と思い直して鳳はそのまま校舎に背を向けた。 |