もしも――の話をしたのはいつだったか。
『ルートヴィヒ二世が賢王だったら、このお城ってなかったんだよね。だけどその方が……良かったのかな』
『アン、なに言ってやがる。あのルートヴィヒ二世あってこそ、だろうが。じゃねぇとワーグナーの名作は生まれず、俺様が困るじゃねぇか』
 あれは確か修学旅行でのことだ。現実と空想の合間で、歴史のままならなさを感じていたときの、と懐かしい思い出を夢の中で体験したはうっすらと目を開いて額に手をやった。
「朝……?」
 もしも。もしも。最近、よく考えてしまうことだ。
 もしも、二年前の春に鳳が音楽室でハチャメチャなエチュードを弾いていなかったら? おそらく自分は音楽室へ顔を出してはいない。おそらく鳳のことも、「よく音楽室にいる子」もしくは「テニス部の宍戸の後輩」という認識だったことだろう。
『気づいたんです。雨の音は、無数の音楽だって。この雨音は、俺の耳には優しいカノンに聞こえる。だから……いまは好き、かな』
 もしも、鳳があんなことを言い出さなかったら? そうしたら自分は"Like a canon"を描けずに終わっていたに違いない。そうしたら、優秀賞を取れずに、フランス行きの話も出なかった――?
 鳳と出会っていなければ――そうしたら――。
 いや、鳳がいてもいなくても結果はきっと変わらない。変わらないはずだ。とぐるぐると考えつつ家を出たは、いつものようにテニスの森公園を横切りつつふと足を止めた。
 鳳と出会っていなければ――と過ぎる胸にフタをして、ふるふると首をふるう。
『先輩! 見つけた』
『先輩こそ、俺のこと誤解してません?』
『俺が……死んでも止めます! 来い、青学!』
『また明日! その、学校で……』
 やめて――、とは脳裏に響く声を振り払うように駆け足で駅へと向かった。
 そして過ぎる影をどうにか押さえ込んだまま、フランスの氷帝姉妹校高等部への進学話をもらってから二週間ほどが過ぎた。
 既に両親を交えての面談も済み、は「行く」という答えを顧問に告げていた。もともと、最低でも高等部を出れば大学からはあちらでとも両親も考えていたために少しでも予定が早まったのは渡りに船である。そもそも、語学教育や外国校とのパイプも睨んでの氷帝進学だったためにまさにこのために氷帝を受験したと言っても過言ではないのだ。拒否するなど、あり得ない。
 だというのに、予定外のことだったのだ。今まで全て絵のためだけに生きてきたというのに。今も全て未来へのステップアップの一つで、ここに、氷帝に長く留まる理由は何一つなかったはずだ。ここでの生活も、友人たちも、いずれは別れるべきもので、そう思って暮らしてきたはずだ。
『それなら、一緒に桜を見にいきません?』
『俺は、もう少し先輩と話したくて……』
『先輩……』
 だから、拒否すべきだったのだ。これほど深く関わるべきではなかった。――深く? いや、自分と鳳は依然ただの「先輩後輩」だ。何一つ深い関わりなどないではないか。なのにどうして――と教室の机で突っ伏していると「オイ」とこちらを呼ぶ声が三度ほど聞こえた。
「昼メシ、食わねーのかよ?」
 そうだ。今は昼休みである。どうにも億劫で机から立ち上がれずぼんやりしていたため宍戸は怪訝に思ったのだろう。
「んー……、あんまりお腹すいてないし」
「顔色良くねぇし、お前ちょっと痩せたんじゃねぇか? 少しでも食っとけよ。特別に俺のチーズサンド一つくれてやるからよ」
 宍戸がチーズサンドを差し出すとはよほどのことである。それほど気落ちしているように見えたのだろうか、とは苦笑いを浮かべて「ありがとう」と受け取った。
「文化祭って11月だろ? まだ二ヶ月近くあるってのに、そんなに準備ハードなのかよ?」
 宍戸はのやつれの要因が文化祭にあると思ったのだろう。言われたは肩を竦めた。確かにこれから準備で忙しくなるし秋のコンクールも迫っているし、余計なことを考えている暇はどこにもないはずだ、と過ぎらせていると宍戸はすっかり板に付いた短髪に手をやって、ふ、と息を吐いた。
「運動部は運動部で新人戦だしよー。しゃーねぇから鍛えに行ってやっかな」
「宍戸くんたら……、目の上のたんこぶが来た、って思われちゃうよ」
「バッ、んなこと――」
「去年、そうだったんじゃない?」
 う、と宍戸は言葉を詰まらせては少しだけ笑った。宍戸は頬を掻きながら「ま、そうだな」と複雑そうな顔色を浮かべる。
「あんま引退した俺らが顔出しても二年の自立を阻んじまうかもしれねぇしな。来年はぜってー、若や長太郎に全国制覇狙ってもらわなきゃなんねーんだからよ」
「そうだね……、鳳くんなら……きっと大丈夫だよ」
 今のテニス部は跡部という絶対的指導者が抜けたこともあって、日吉・鳳のツートップ体勢を取っているという。
 唯我独尊の日吉と協調性の鳳、と上手い具合にバランスも取れており、特に鳳は公式戦全白星、全国最速サーバーの称号を誇っており後輩達からは憧れの的で慕われていると宍戸が何度も自慢げに語っていて、も聞く度に微笑みつつも眉尻を下げていた。
……?」
 鳳の名を出されることが少し辛い。――ということをあまり表に出さないよう気を付けていたが、気づかれたかもしれない。いずれにせよ、宍戸には話しておかなくてはならないことだ。そろそろ進路の話も活発になってくるし、進級に向けて試験も多くなるし、その度に誤魔化すのも無理という話だ。
「宍戸くんは……このまま氷帝の高等部に行くんだよね?」
「は……? 当たり前だろ、なんのためのエスカレーター式だと思ってんだよ」
「そう、だよね。……だけど」
 苦く笑ってから、スッとは息を吸い込んだ。そうしてチーズサンドを頬張る宍戸を見やって少し首を横に振ってみせる。
「私は……高等部には行けない」
「――は!?」
「春から……フランスに行くことにしたの。あっちでフランス語の勉強して、秋から高校に通って……そして美術学校を受験するから、たぶん、もうずっと行きっぱなし……」
 宍戸が目を剥いて、チーズサンドを頬張る手を止めた。ぽかんと口を開いて数秒ほど固まり、ようやく言葉を飲み込めたのだろう。少しばかり愕然として、僅かにチーズサンドを持つ手が震えていた。
「お前……それ……、長太郎は……」
 宍戸がなぜ鳳の名を出したか、宍戸の心理は分からなかったがは宍戸の言葉を受けてなおふるふると首を横に振るった。
「言ってない。まだ、この話は……うちの部長と宍戸くんしか知らないの。だから、誰にも言わないで」
「けど……!」
「鳳くんには、私が話すよ。いつ話せるか……分からないけど、ちゃんと話すから……」
 次第に目線が降りていったの瞳に、宍戸がグッとチーズサンドを持つ手を握りしめたのが映った。――そう、この人ともあと数ヶ月でお別れ。口に出して改めて、そんな現実がしみじみと沸きあがってきてはこみ上げる苦みから逃れるように視線を窓の外へと逃がした。

 学園生活というのは、ある意味ルーチンワークと同じだ。
 朝起きて、学校へ行き、家に帰る。そしてまた朝起きて、という繰り返しに友人の顔や部活動が加わり、一定のリズムを刻み続ける。そしてまるでそれが永遠に続くかのような錯覚を覚えて――ある日突然気づくのだ。永遠と思われた時間は、人生においてごくごく一部の出来事でしかなかったのだ、と。
 家・学校という距離の往復が世界の全てかと錯覚していた殻をいつしか破り、自ら外の舞台へと歩いていかなければならない。例え、今まで築いてきたルーチンが乱れても――当たり前のように傍にいた人と離れることとなっても。その人がいない生活を「日常」として再び続けていかねばならない。
 そして、いつしか慣れていくのだろう――新しい、その日々に。
『春から……フランスに行くことにしたの』
 の言葉が頭から離れない――と、昼間の彼女の表情を思い返しながら宍戸は自宅のベッドの上で天を仰いでいてた。
 と初めて会ったのは、入学式の日。初めて話をしたのは、最初の美術の時間。それからの三年間、は自分の「当たり前の日常」の中に確かにいた。「おはよう、宍戸くん」と毎朝律儀に挨拶をしてくれる、そんな日々がずっとずっと続くのだと、そう思っていた。これほどの腐れ縁なのだ、高等部に進んでもまたどうせ同じクラスだろうと漠然と考えていた。
 けれど――そうではなかったのだ。思い返せば、自分の知る「」は全て学校にいる時のの姿だ。気づけばスケッチブックをいつも抱えていて、休み時間はお決まりのように美術室、何かにつけては食事も返上して油まみれでキャンバスに向かっている。そんな彼女しか知らない。
 そうだ、後輩との――鳳とのことでさえまだ自分は何も知らないのだ。
『先輩、見ててくれたんですか……?』
『え……?』
『俺のこと、見ててくれたんですね!』
 何も知らない、が、鳳は明らかに彼女に好意を寄せており――の方もおそらくそうなのだろうということは何となく察していた。むしろあの絵以外のことに執着心の薄いが夢の渡仏で窶れるほどネックになっているのが彼なのだ。自身の予想は外れではないだろう。
 は自分にとっても、かけがえのない、一番近しい存在だ。今も瞳を閉じるだけで彼女との様々な思い出が溢れてくるというのに――と唇を噛みしめるも、とても鳳に敵いそうにはない。むしろ鳳になら潔く彼女を任せられると密かに思っていたというのに。
……」
 自分たちの前から彼女がいなくなってしまうなど想像したことすらなくて。けれども、今は永遠には続かない。いずれ変わっていってしまうのは時間の問題であり、目を背けていただけにすぎない。
「チッ、しゃらくせぇ! 激ダサだぜ!」
 ベッドに寝そべって考え込む自分に耐えられなくなった宍戸は、勢いよく起きあがるとそのまま家を飛び出して夜の街をひたすら走り回った。そうしながら思う。この日常の一部にがいて、おそらくにとっても自分は一番近い存在で。互いがそこからコースアウトしたとしても、自分たちは何も変わらない。――寂しさも、違和感も、いずれは消えるだろう。互いに一番の友人であったという事実は、記憶と共に薄れていっても決して変わりはしない。
 だけど――と宍戸の脳裏に、大事な恩人で、大切な友人で、可愛がっている後輩の姿が浮かんだ。彼はそんな風に割り切れるのだろうか。を想っていた熱っぽい視線も、を見つめる包み込むような瞳も、何もかもがあまりに自分の知る鳳の姿とは違うというのに。そんな感情を向けている相手を――と宍戸の表情が歪む。も鳳も、どちらも自分にとっては大事な存在だ。どちらも、悲しむような顔は見たくない。
「くそ……ッ!」
 しかし自分にはどうすることもできない問題だ。――本来なら、の夢を全力で応援してやるべきだというのに。走るペースを上げて宍戸は一心不乱でひたすら駆けていった。考えても解決しないことは、考えない方がいい。考えるな、とひたすら走り続けて倒れ込むように家に戻ったのはいったい何時のことだったか。体力の限界まで走り抜いた宍戸はなんとか自力でシャワーを浴びると、そのままベッドに倒れ込んで泥のように眠った。
 翌日の放課後、宍戸はどうしてもテニス部の様子が気になりテニスコートのそばまで歩いていくとフェンスの外からひょいと練習風景をうかがった。見ると、相変わらず下級生は球拾いや素振りに勤しみ、コートは一・二年の実力上位の面々がサーブ&レシーブ練習に精を出している。
「ダメダメ、もっと下半身を使って蹴り上げて、腕全体で滑らかなフォロースルーをイメージするんだ!」
「はいッ! 鳳副部長!!」
 どうやら鳳が一年生の指導をしており、対する日吉はもくもくと樺地相手にリターンを繰り返していて宍戸は頬を引きつらせた。
「ったく、若の野郎……部長のくせによぅ。まあ、あいつのフォームは独特すぎて参考にならねぇか」
 次期部長問題はどこでも起こりうることで、日吉が部長となったことに鳳は意義を唱えなかったものの内心不満げであったことは宍戸もよく分かっており――、しかも内外から「なぜ鳳ではダメなのか」との声があがったことも重々承知であるため、氷帝には必要ないと跡部が勝手に消した副部長職を復活させて日吉を部長、鳳を副部長とすることでなんとか事態を収束させた経緯がある。しかし、あれではどちらが部長か分からない、と宍戸は苦笑いを浮かべた。そうして公式戦が近づけば今度はどちらがシングルス1に入るかで揉めるのだろうか、と考えてしまってついには深い溜め息が漏れてきてしまう。
 まあ、鳳はあれで大ざっぱな面もあるゆえに几帳面な日吉が部長というのは理に適って――、いや、もしかして逆が良かったのか? と考えているうちに日吉から休憩のコールがされ、ベンチに置いていたドリンクを手に取った鳳はこちらに気づいたのだろう。大きく手を振ってきたため、一度手を掲げて合図を送るとあろうことか彼はこちらに駆けてきてしまった。
「宍戸さーん!」
「お、おう。……なんだよ、わざわざ来るこたねーだろ」
「宍戸さんこそ、来られたんだったらコートに顔を出してくれればいいのに」
 へらっと笑う鳳を見上げながら、いい気なものだ、と思う。こっちがこれほど考えているというのに――と宍戸が持ち前の三白眼をさらに吊り上げていると、鳳は首にかけたタオルで汗を拭いながら緩いくせ毛を風に遊ばせた。
「宍戸さん……」
「あ……?」
「宍戸さんに訊くのも、あれなんですけど……」
 どこか言いにくそうな、しかしながらせっぱ詰まったような口調で鳳は宙を向いたまま言い、そこで言葉を止めたかと思うとしばし逡巡の様子を見せたのちに、あはは、と苦笑いをして首をふるった。
「すみません、やっぱいいです」
「あぁ? んだよ、それ」
 宍戸は悪態を吐いたものの、直感でのことを訊きたかったのだと悟る。はまだ渡仏のことを鳳に伝えてはいない。しかし鳳もなにかを漠然と感じているのかもしれない。その答えを――他の男の口から聞くのはどれほど気になっても良しとはしなかったのだろう。宍戸もそれ以上突っ込むことはしなかった。

 次第に、学園の木々が色付いてくる。
 なぜ、見つけてしまうのだろう――、と鳳は昼休みの職員室からの帰りにふらっと歩いた校庭の先で足を止めた。フワッと落ちる木の葉を目で追った先には彼女が、がいて――鳳はいつものようにそっと彼女を目で追った。相も変わらずスケッチブックを広げて真剣に鉛筆を走らせて……、でも、彼女の瞳がいつもより寂しげな気がするのは秋の気配のせいだろうか?
 先輩、と鳳は囁きに近いほどの消え入るような声で呟いた。
 彼女と出会ったのは偶然。――いや、彼女が、自分に出会ったのが偶然なのだ。だって、自分はこれほど簡単にいつもいつも彼女を見つけてしまう。学園の中、という限定された空間ではあったとしても――例え、この世界のどこにいてもきっと探し出して見つけてしまうのではないかと感じてしまうほどに、瞳が彼女を捉えてしまう。
 ここで見ていても、彼女は自分には気づかないのに。
 だったら、声をかければいいだけの話だ。きっといつものように笑ってこたえてくれる。――そう思うのに、ただ見ているだけなのは、彼女の邪魔をしたくないからなのか、気づいて欲しいからなのか、それとも……怖いのか。
 新学期になってからまだ一度もとはまともに顔を合わせていない。それは、文化部は秋こそ忙しいのだから彼女もそうなのだと何度も自分に言い聞かせ、事実そうなのかもしれないが――ほんの少しだけ胸が騒いでいるのは、やはり、秋のせいで感傷的になっているからなのか。
『み、見てるよ! 鳳くんのこと、いつも』
 全国大会で、ああ言ってくれたことがもう遠い昔の幻のようだ。――あの日、あの試合でウィニングショットを打つ直前に確かにの声援が聞こえた気がした。あまりに無我夢中で、本物なのか幻聴なのか定かですらなかったが、試合後にああ言ってくれた彼女を見てやはりあの声はだったのだと、宍戸ではなくちゃんと自分を見ていてくれたのだと知って嬉しく思ったというのに。
 こうしてすぐ意気消沈してしまう自分が心底情けなく思う。少しでも離れていると、やはり自分はただの宍戸の後輩でしかないのではないか、とどうしても考えてしまって。話しかけさえすれば、きっといつものように笑いあえると信じられるのに。
 いつもこうだ。少しでも自惚れていると、次にひどく不安になる。
「先輩……」
 この距離が、本来の距離なのかもしれない。二年前のあの音楽室での偶然がなければ、こうしてただ自分が彼女を見ているだけの――。

 学年が違う、部活も違う。そんな相手とは、会おうと意識しなければこのマンモス校で顔を合わせることはほとんどない。ましてなるべく会わないように意識すれば、いとも簡単に会えない相手となってしまうのだ。
「今日の授業はお前とペアだったな、アーン?」
 こうして同じ授業を受ける機会でもあれば強制的に会わざるをえないのだが、とは選択フランス語を受けるためにサブ視聴覚室に移動して跡部と顔を付き合わせていた。今日の授業は会話形式で行うため、予めペアになる相手が決められていたのだ。
「よろしく、跡部くん。ていうか……前から思ってたんだけど、それってカツラ、だよね?」
 全国大会で彼が越前リョーマと対戦した時、「髪の毛」を賭けていたことも、試合後に自らバリカンで髪の毛を剃り落としたことも見知っているだ。あれから一ヶ月以上経ったとは言え、眼前の跡部の髪は刈る前と変わらぬ長さで、見かける度に感じていたことを口にしてみると跡部は「アン?」と不機嫌そうに眉を寄せた。
「細かいこと気にしてんじゃねぇよ。俺様が坊主だといろいろと不都合だろうが」
「そうかなぁ……。似合ってたのに、短髪」
 試合に負けたとはいえ潔く有言実行した跡部は、跡部なりにすがすがしく、今の気取った髪型よりはよほどスポーツマンとして好感の持てるものだったというのに、と思ったままを呟くと意外そうに跡部は瞬きをして「ほう」と呟いた。
「ようやくお前も俺様の魅力が分かってきたか。良い傾向じゃねぇの。……そうだな、次のテストで俺様に勝てたらデートくらいしてやってもいいぜ?」
 ズイ、とこちら側に身を乗り出してきた跡部を前には頬を引きつらせるしかない。いっそこの人の性格が羨ましいかもしれない。跡部から見れば、きっと自分の抱えた問題など些末なものにみえるのだろうな、と授業を終えたはとぼとぼと校舎への戻りつつふと渡り廊下の方を見やった。そして「あ」と目を見開く。
「ごめんねー、鳳君。手伝わせちゃって」
「いいよ。こんな沢山の資料、一人で運ぶなんて大変だし」
「鳳君って力持ちだよねー。あ、そう言えばさっきの授業でさー」
 鳳と――彼のクラスメイトだろうか。大量の資料を抱える鳳の横で小柄な少女が楽しげに笑いかけ、鳳も笑顔で頷きながら歩いていく様子が見えては思わずグッと唇を結んでいた。
 鳳は、優しい。だから……誰にでも優しいのだ。こんなこと、日常茶飯事に違いない。
 自分はもしかしたらとてつもない思い違いをしていたのではないか? ――いや、思い違いもなにもない。鳳と自分はただの「先輩後輩」ではないか。自分はいずれここを去る三年生で、彼はここに残る二年生。それだけのことだ。でも。
『それを言うなら、俺たちだって――』
『先輩と話してると、気持ちが落ち着きますから』
『俺、先輩が見ててくれた方がぜったい頑張れますから!』
 でも――。だったら、なぜ……。
 無意識のうちに教室へ戻ると、選択授業を取っていない生徒はもう既に帰ったのか、教室は人影もなくがらんとしていた。そのせいもあって、はふらふらと自身の席に歩いていくとそのまま額を机に付けて突っ伏してしまった。
 突っ伏した先で、は憚ることなく眉を寄せた。――鳳は、きっと誰にでも優しい。けれども――だけど。
『ていうか、今日、先輩来るだろうなって思ってました、俺』
『先輩、桜が髪についてます。……ね?』
『また明日! その、学校で……俺、待ってますから』
 もしもあの笑顔が、自分ではなく他の誰かに向けられたものだったら? そう考えてしまうだけでひどく苦いものが込み上げてきてどうしようもない。こんなこと、今まで考えたこともなかったというのに。考えてもどうにもならないではないか。そもそも、なぜそんなことを考えてしまうのだ?
 はやく、はやく、ちゃんとはやく元の「先輩後輩」に戻らなくては。彼は、鳳はピアノの得意なテニス部の鳳長太郎なのだ。自分ではなく、宍戸の「テニス部の後輩」。――それが正しい距離ではないか。そう思えば、きっと何も苦しくなどないはずだ。
 鳳くん、と名を呟きそうになった自分をどうにか叱咤しては喉で言葉をかみ殺した。
 もしも――もしもこうだったら。と、今ある現実から逃げそうになる自分に強く首を振るって、無意識に遠くから響いてくるテニス部の打球音を遮るように耳を塞いだ。



BACK TOP NEXT