――新学期。気持ちを新たにスタートとなるはずだった。が、そうは問屋が卸さず夏休み最終週の8月29日。
「やべぇんだって! 美術の宿題やってねぇ!」
「……。美術だけ?」
「いや、その……まあ、アレだ」
 突如として宍戸から呼び出しをくらったは、いつものように制服を着て学校へと向かっていた。
 そんなことだろうと思ってはいたが、と携帯越しの宍戸の焦ったような声を思い出しつつ、待ち合わせの美術室に先に着いたは一計を巡らせる。宍戸の夏休み最後のあがきは毎年恒例で、もはや馴れたものだが、少しばかりからかってみても許されるだろう、とドアが開いて姿を表した宍戸にはこんな風に言ってみた。
「いらっしゃい。ようこそ、オイルくさい美術室へ」
 途端、ウゲッ、と宍戸は顔をしかめた。
「チッ、まだ根に持ってんのかよ。……悪かったっつっただろ」
「別に、ホントのことだもん」
「だからー、アレはお前がだな……!」
 なお拗ねたそぶりを見せてみると宍戸はオーバーリアクションを取り、そこでがくすくす笑えばからかわれたことに気づいたのだろう。カッと赤面して、チッと舌打ちしてから、ドカッと机の椅子に腰を下ろして腕を組んだ。
 ごめんごめん、と謝りつつも椅子に腰を下ろす。
「なにが終わってないの?」
「取りあえず英単語系の量こなすヤツは終わった。だからあとは美術の……なんだっけ、名画の模写? と、自由研究と……めんどくさそうな計算系の応用問題」
「んー……模写なら私、いくつか描いてるけど……」
「さすがにお前が描いたのを俺が提出したらバレバレだろ。適当にすぐ終わりそうな絵でも見繕ってくれりゃいい」
「そう言われても……」
 だとすると植物系のしかも一輪とかだろうか、と棚から画集を取り出しつつパラパラ捲っていると宍戸はさっそく計算問題の写しに取りかかりつつ口を開いた。
「お前、自由研究はなにやったんだ?」
「えーっと……、生け花にした向日葵の水分吸収率・日照条件の関係と水質の違いによる経過観察。スケッチもできて一石二鳥だったよ」
「うわ、全然わかんねぇ。……つか研究だからっつって内容は文系でも構わねぇんだし、俺はテキトーにやるぞ」
「でも、私は今回の課題のためにちょっとテニスのデータ取ってみたいな、って思ったりしたんだけど……」
「は?」
「関東大会で乾くんのデータテニスに興味が沸いちゃって、それで、向日くん辺りのデータ分析でもしたいな、って少し思ってたんだけど、無理だった。きっと役に立つよね、ちゃんとやったら」
「いや、まあ、そうかもしれねぇけどよ。つーか、もしかしてお前か? 長太郎にデータテニスの有効性とか説いて聞かせたのは」
「え……?」
「アイツ、めちゃくちゃ青学の大石・菊丸のデータ分析に勤しんでてよ。ま、結果として役に立ったからいいんだが……」
「んー……、乾くんのテニスって実用的だね、とかは話したかもしれないけど……。それは鳳くんが自分で考えたんじゃないかなぁ、私はなにも言ってないよ」
 画集から視線をあげ、思い返しつつ「あ」と呟いては案ずるような視線を宍戸におくった。
「鳳くん、右肩はどうだったのかな……大丈夫そう?」
「ああ、なんか軽い捻挫っつってたぞ。しばらく安静にしてりゃ問題ないとよ」
 すると宍戸がペンを回しながら軽く笑い、ホッとも胸を撫で下ろす。もしも後遺症が残ればどうしよう、と気が気ではなかったが一安心である。
「つーか、あいついま日本にいねぇしよ」
「え……!?」
「家族でフランス旅行だとさ。帰国は明日だっけか……ったく良い気なモンだよなぁ、これだからボンボンってのはうんざりだ」
 苦み走った顔をした宍戸はおそらく鳳ではなく跡部の姿でも浮かべているのだろうが――、そっか、とは息を吐いた。
「いいなぁ、フランス。私も……行きたいな」
「ん? お前、行ったことねぇのか?」
「ううん。あるけど……あるんだけど……ね」
 少しだけ眉尻を下げて、しかし口元は薄く笑っては視線を遠くへ流した。――いつまでもここに留まっていてはいけない。
 そう、フランスのどこそこの学校に入って勉強するのが夢。と幾度となくに聞かされた記憶のある宍戸もハッとして押し黙った。――それは、いつのことなのか。果たして、実現するのか? 普段はあまり、考えもしないことだ。いや実際、日々勉強やテニスに追われていて考える時間もなくて。でも――。
 遠くで、ツクツクボウシの鳴き声が響いていた。いまはまだ夏。けれど、確実に迫る秋の気配を感じつつ宍戸は宿題を、はそれを見守りつつ静かに時間は過ぎていった。

「――初の全国ベスト8を飾ったテニス部諸君を讃えて、一同拍手!」
 そして始業式――、それぞれ夏の大会で好成績を修めた生徒達が紹介され、それぞれの健闘が讃えられた。特に氷帝学園史上初の全国ベスト8へと勝ち進んだテニス部はステージ上にレギュラー陣それぞれが昇って一人一人紹介されており、めんどくさそうな者、誇らしげな者、気恥ずかしそうな者、様々な反応を全校生徒に見せていた。
 こうして更に彼らは人気者となっていくのだろう、と思うもも今ばかりは気が気ではない。なにせどんな小さなコンクールの成績でも拾ってくる学園及び教師陣であり、始業式等々の学校イベントはにとっても常に「表彰される場所」でもあるからだ。
 しかし、自身は「誰にも負けたくない」「上手くなりたい」と常に思ってはいるものの「栄光を掴みたい」と思っているわけでは決してないため――どうもこの手のことは苦手だ、となんとか始業式をやり過ごして教室へと戻った。
 ガヤガヤと騒がしい空気。一学期の頃と少しも変わっていない。変わったことと言えば――宍戸がテニス部を引退してしまったことだろうか。これからはいよいよ、あの場所は鳳たちの世代が率いていくこととなるのだ。
 そして美術部は、もとい文化部はこれからが本番である。彼らを見習ってこちらも気合いを入れて臨まなくては――とはホームルームが終わるとすぐに特別教室棟を目指した。部活があるわけではないが、放課後は帰らず美術室に来いと部長に言われていたからだ。
「あ……!」
 特別教室棟に足を踏み入れて階段のそばまで行くと、上階から軽快な音が降ってきては思わず頬を緩ませた。久々に聴く、鳳のピアノの音色だ。この様子では右肩捻挫の影響はないのだろう。音が弾んでいる。本人もピアノが弾けることが嬉しいに違いない。
 良かった、と呟いては階段の先を見上げた。会いたいな、顔を見て話がしたい、と鳳の微笑みを浮かべながら思うも部長からの呼び出しを思い出してハッとする。
 いけない、と叱咤して美術室に急ぐと既に部長は来ており、そして顧問までいては首を捻った。
「あ、! 見て見て、もらっちゃった」
 うふふ、と頬を染めて笑う部長の周りの机にはなにやら外国産と思しき菓子がいくつか置かれており、ふふ、と顧問も笑う。
「フランスのお土産よ。みんなで食べてちょうだい」
「え……先生もフランスに行かれてたんですか?」
「あら、先生も……ってあなたも行ってたの?」
「あ……いえ、その」
 とっさに鳳のことを思い出してそう言ったは顔をそらせて言葉を濁し、顧問は首を捻ってから話を続けた。
「あちらにある氷帝の姉妹校へ私も含めて数人が意見交換に行っていたの。それでね、さん……あなたも知っている通りあちらの学校は芸術分野にとても力を入れているわ」
「はい……」
「だから、あなたの絵を数点、絵画・スケッチ含めて持っていったんだけど……」
 言って顧問は一枚の封筒を差し出してきた。私に? と目配せすると頷かれ、受け取って開いてみると全文フランス語で綴られておりは少しだけ目を見開く。
「若いのにこれだけの技術を持っているのは素晴らしいって絶賛されてたわよ。それに……春にあなたが描いた"Like a kanon"を特に気に入った先生がいて、ぜひあなたを見たいっておっしゃってね。その先生がおっしゃるには……これだけの絵を描いても、あなたはこの絵の素晴らしさを自分の言葉で、フランス語で表現できる? できなければ、エコール・デ・ボザールには入れないわ。あなたに必要なのは技術はもちろん、その感性を伸ばすことと、フランス語を身につけること。とお話されていたわ」
 顧問の声を耳入れながら、は文面を追った。全文を理解することは叶わなかったが――確かに、あなたの才能は素晴らしい。少しでもはやくこちらに来て、フランス語を身につけなさい。あなたが望めば私たちは喜んで手を差し伸べるでしょう。等々と書いてあるのが見て取れた。
「せ、先生……これは……」
「我が氷帝学園が各国の姉妹校と提携しているのはあなたも知っている通りよ。あなたの希望進路はパリのエコール・デ・ボザールでしょう? 春からあちらに行ってフランス語の集中講義を受けて、秋から高等部に通いつつ言語と絵の勉強を続ければ、現役でボザールに入れる可能性はグッとあがるわ」
 つまり、これはインビテーション……それもかなり熱烈な、と状況をよく理解できないでいるとワッと部長が後ろからを抱きしめるようにして両肩に手を回した。
「すごーい!! 、おめでとう!!」
「え……」
「フランスよフランス! ずっと行きたいって言ってたじゃない!!」
 そうだ。その通り――自分は、と考える先で頭上から降ってくる軽快なショパンのワルツにはハッと天井を見上げて思わず眉を寄せていた。
「あ……、……っ」
 フランスに行くことは夢であった。でも、フランスに行けば――と震える唇で音を追うように天井を見つめていると部長が怪訝そうに眉を寄せる。
「どうしたの……? 嬉しくない?」
「え……!? あ、ううん……その、びっくりしちゃって……」
 事実、驚いて自身いま何を言われたのか完全に理解し切れていない状態にあった。
 それもそうだ、と部長、顧問とも納得しつつ肩を竦める。
「正式なお話はまた後日ということで……、あなたもよくご両親と話し合ってみてちょうだい」
「はい。ありがとうございます」
 とても切り替えてすぐに自主練習などという気にはなれず、は顧問に挨拶をしてから部長と共に美術室を出た。
「私も先生に放課後来いって言われた時は、てっきり文化祭のことか秋のコンクールのことかと思ったんだけど……まさかまさか、だよね」
 とは裏腹に部長の声は随分と弾んでおり、こうして喜んでくれる友人がいることはとても幸せなことだと感じつつの足取りはどこか重く、階段付近までくるとついに歩みは完全に止まってしまった。
……?」
 自然、部長も足を止める。その二人の間に降ってくる、今にも踊り出しそうなワルツ。わあ、と部長は上階を見上げて瞬きをした。
「誰だろ? 榊先生かな? 上手だねー、って先生だったら上手くて当然か」
 この階段を上がれば、鳳に会えるのに。――会いたい、とたった先ほどまで思っていたではないか。いや今だって、会いたい。とはグッと拳を握りしめた。
……ほんと、どうしたの?」
 きっと鳳は、笑って迎え入れてくれる。初めて会った時のように――いや、きっとあの時以上の笑顔で。けれど、その先にあるのはなんだというのだ? 初めから分かっていたことではないか。自分という人間は、いずれ絵を選んでここを去るのだと。何も迷うことはない。答えはもう、顧問から話を聞いた瞬間から、あの手紙に目を通した瞬間から出ていたはずだ。
「ううん、なんでもない」
 もう自分は、この先には行けない。取り繕って笑うとは階段に背を向けて特別教室棟を出た。嬉しいはずだというのに、夢が叶うかもしれないのに。
「部長……」
「ん……?」
「お願い、このこと……。しばらく誰にも言わないで」
 あまりに不意打ちで、あまりに急なことで反応が追いつけないだけなのだろうか? 部長と別れて教室に戻ると、やはり引退した気安さがあるのだろう。宍戸が居残ってクラスメイトとトランプに興じており、彼らの笑い声を耳に入れて「ふ」と肩の力を抜く。いつもなら真っ先に教室を飛び出して部活に行く彼だというのに――少しずつ、少しずつこうして変わっていくのだ。
「おい、どうした?」
 椅子に座ってしばしジッとしていると随分と時間が経っていたらしい。トランプを終えたらしき宍戸が自身の席に腰を下ろしながらこちらを覗き込んできた。
「え……?」
「浮かねぇ顔してっからよ。なんかあったのか?」
 つ、とは息を詰まらせた。本当にどうかしている、と思う。部長のように笑って「嬉しい」と叫ぶ場面だというのに。
「なんでもないよ、ありがとう」
 薄く笑って帰り支度を整え、「じゃあまた明日」と告げた先の宍戸は釈然としない表情を浮かべていたが――はそのまま彼に背を向けた。
「……鳳くん……」
 一人になって無意識に鳳の名を呟くと、自分でも驚くほどに簡単に涙腺が緩んでは慌てて目尻を拭った。――動揺している。それだけだろうか。いや、例えこの感情の正体が動揺であったとしても、答えは変わらない。
 自分は、皆と共に高等部へは行けない。もうここには居られないのだから――と見やった先の空は少しだけ高く、秋の訪れを無意識に告げていた。



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