タイブレークに突入し、ポイント1−2で青学リード。 そうして回ってきた大石のサーブで、黄金ペアは本日初めてとなる陣形を披露した。 「Iフォーメーション!?」 城成湘南戦で彼らが見せたオーストラリアンフォーメーションの発展系だ。うおおおお、と一気に青学ギャラリーが沸き、氷帝陣がどよめく。 鳳と宍戸も揃って目を見開き、揃ってゴクリと喉を鳴らした。――ようやく出してきたか。と二人は心内で頷く。この陣形だけは絶対に攻略してやろう、と研究に研究を重ねてきたのだ。 第1に、この陣形は攪乱目的。動じずに応じること。そうして第2に、サーブがセンターに入ればレシーバーは物理的にストレート気味のリターンで返すことになる。となれば、あとは相手の前衛次第ということとなり、注意すべきは前衛・菊丸のボレーのみだ。 ――菊丸の得意技は、バックハンドによるジャンピングボレーである。黄金ペアの試合を舐めるように見た結果、ほぼ70%に近い確率でこの場合はバックハンドボレーに出るという数字を鳳は計算の末に出していた。 「宍戸さん、ここは俺が!」 ゆえに菊丸はクロスに打つ。――と鳳は菊丸が打つより先に想定の場所に動き、案の定、ジャンピングボレーをクロスに打ってきた菊丸のボールを彼が体勢を立て直す前にこちらもクロスにて打ち返し、見事に1ポイントを奪い返した。 途端、先ほどとは打って変わって氷帝ギャラリーが沸き、青学ギャラリーがどよめく。 「ウソだろ!? 黄金ペアのIフォーメーションが……!」 青学ペアも「まさか」という表情で互いに顔を見合わせている。 しかし、「まさか」もなにもない。単なる確率の問題だ――と鳳と宍戸は無言で互いの顔を見やった。「Iフォーメーション対策をしている」と相手に思わせないために、例え試合でこれが成功しても互いにリアクションを取らないことは事前に話し合っていたのだ。 そう、こんなテニスを教えてくれたのもまたあなた方、青学だ。と鳳は次をレシーブすべくラケットを構えた。 ――数字はウソをつかない、とやたらに乾のデータテニスを絶賛していたのはであるが、確かにデータはウソをつかないものである。自分には乾の真似はとてもできないが、ターゲットを菊丸に絞ればそれなりに見えてきたこともあった。オーストラリアンフォーメーション時の動き、Iフォーメーション時の動き、通常の前衛での動き。それらを分析した結果、7割近くの確率で得意のバックハンドボレーで処理しようとすることが分かり、「それなら」と鳳は宍戸に提案した。 Iフォーメーション時に菊丸が左右どちらに動くかなど考えても分からないものは考えるだけ無駄である。だから最初から「バックハンドボレーでくる」と想定してそれ以外は捨てていこう。それさえ完璧に対応できれば50%以上の確率でポイントを奪えるのだから、と。 宍戸も渋々納得し、忍足・向日にも協力してもらって「仮想大石・菊丸」の対策は存分に立ててきたつもりだ。 「まぐれだよ、こんなの!」 菊丸がそんなことを叫んでいたが、確かに「まぐれ」と言われても致し方ない。結局は確率の問題なのだから――と、次はまったく逆に動いた菊丸によってあっさりポイントを取られてしまい鳳は肩を竦めた。そうして右肩を押さえる。――やはり痛い。通常のショットすら、返すのにかなりの負担がかかっている。 「よっしゃあ、さすが黄金ペア!!」 「やっぱりIフォーメーションは無敵だああ!!」 カウントは2−3。再び青学リードとなり、氷帝レギュラー陣は無言でコートの試合を見つめていた。もしもダブルス1を落とせば青学の勝ち。またも彼ら相手に敗戦を許すこととなってしまう。 「うらぁ宍戸!! ぜってー負けんじゃねぇぞ!!」 「ウルセー岳人! テメーが言うな!」 二度と負けたくない。しかし、二度負けた向日は幼なじみにその願いを託したのだろう。宍戸も理解しつつも悪態で返して自身のサービスに臨む。――鳳のネオスカッド頼りにはできないのだ。ここはいつも以上に自分が引っ張っていかなければならない。しかし気合いを入れれば入れるほどに照りつける太陽が目を開けていられないほどに辛い。もはや体力の限界が近いのだろう。だと言うのに、青学はどうだ? 体力では向こうが劣るはずであるのに、菊丸のアクロバティックはいまだ衰えを見せていない。 「チッ……、根性見せるじゃねぇか、菊丸」 おそらく負傷している大石を庇って、自分がゲームを引っ張っていかねばならないと感じているのだろう。関東大会での後輩とのイレギュラーダブルスが、図らずも彼を強くしたのだ。それに――やはり、「タイブレークの戦い方」ではあちらに一日の長があるのは覆せない。 「6−3! 青学マッチポイント!」 その証拠に宍戸のサービスは1ブレイクされ、続く菊丸のサービスは2ポイントとも連取されてしまっていよいよ青学に団体戦の勝利が目前に迫った。 青学コールが沸き起こり、青学サイドは数で勝る氷帝を食う勢いで盛り上がっている。 「鳳くん……」 試合を見つめるは、キュ、といつしかフェンスを握りしめていた。次は鳳のサービス。本来なら、絶対のキープ力を誇る彼だが――いまは。 の見据える視線の先で、鳳は静かにアドバンテージサイドへと歩いていった。肝心なときに、なにをやっているのだろうと心底自身を責める。大石は人命救助の結果、痛めた手首を抱えて今なお戦っているというのに――。それだけ彼らはこの大会に賭けているのだ。自分たちだって、例え地元枠だとレッテルを貼られても構わないとプライドも何もかも捨ててここへ来たのではないか。この場に立っているのは、なんのためだと思っているのだ。自分は、なぜここにいる? なぜ、この氷帝にあって正レギュラーを勝ち取れたのだ? ――それは――と一度深呼吸をしてから鳳は真っ直ぐと前を見据えた。 「一、球……入、魂――ッ!」 瞬間、今日で一番冴え渡るネオスカッドサーブが相手コートを貫き――その場にいた誰しもが瞠目しておののいた。 「鳳く――ッ!?」 「長太郎ッ!?」 は瞳を揺らし、宍戸はギョッとして鳳の方を振り返るも鳳の視線に迷いは一分たりともない。 「腕が折れても……打ちます!!」 2本目のネオスカッドが相手コートに叩き付けられ、は両手で唇を覆った。――鳳の使うラケットは、通常よりパワーを要すると聞いた。つまり、負傷した状態でネオスカッドを打つということは通常よりもより多くの負担が彼の肩にかかっているということだ。――なぜ、そうまでして打つのか。なぜウィーンに留学するほどピアノに熱をあげている彼が、ここまで……? その疑問が、いまようやく解けた気がした。例えテニスで腕を痛め、今のようにピアノが弾けなくなっても彼は後悔などしないのだろう。 『俺はたぶん、ピアノで他人と競うことには向いてないんだと思います』 『テニスなら、スポーツですから別ですけど』 『先輩こそ、俺のこと誤解してません?』 ようやく分かった。いつもの優しい鳳も、厳しく勝負に立ち向かう鳳も、どちらも変わらない鳳の姿だ。いや――少し違う。知らないうちに、気づかないうちに、彼は強くなったのだ。仲間と共にテニスに励み、強さを身につけ、ああして覚悟を持ってコートに立っている。いま視線の先にいるのは、テニスに今を賭けている――ひとりの男の姿だ。 「鳳くん……」 審判が5−6をコールする。にできることは、コートから目をそらさずに、逃げずに見守り続けることのみだ。 「次は大石のサーブだ、長太郎」 「はい。絶対、取らせません」 コート上ではサーブ権が大石に移り、大石はアドバンテージサイド右端へと移動している。 宍戸・鳳はようやく2ポイントごとにサーブ権が移動するというタイブレークのリズムにも馴れ、再び来るIフォーメーションを迎え撃つべく気を引き締めた。 昨日、手塚の死闘を見て自身を奮い立たせたであろう大石。その大石を支えるマイペースな菊丸。二人のこの試合にかける気合いがどれほどのものかは察するに余りある。でも、だからこそ負けられない思いがこちらにもあるのだ。 ――菊丸は必ずバックボレーでくる。迷ってはだめだ。死にものぐるいでポイントを奪わない限り負けとなってしまうのだから。何度も何度もイメージした。忍足・向日にIフォーメーションを取ってもらい、ストレートでリターンして向日に菊丸のジャンピングボレーを真似てもらい、何度も何度も二人で打ち返す練習を続けたのだ。 「どらぁ!!」 案の定、再びIフォーメーションで攻めてきた相手に対して宍戸は正面へのストレートで返した。そうしてすぐさま右のデュースコートへと走る。なぜなら、鳳が菊丸のボレーを返球すべく逆のアドバンテージサイドへ走り込んだからだ。予測通り、菊丸は飛び上がって上体を捻りバックハンドボレーの姿勢を見せる。しかし、ゼロ角度からの返球ではどれだけ身体を捻ろうが鈍角のクロスになるのは必至だ。想定通りだ――、と鳳はラケットを両手で構え、高くバウンドした球に狙いを定めて左足を上げると身体を捻ってから右足で地を蹴り、捻った勢いを付けてそのまま力の限りめいっぱいボールを打ち出した。 「せいッ!」 この鳳渾身のジャックナイフは前衛が拾えるものではない。後衛の大石にしても返球に負担がかかるのは必至で、返ってくる球が甘いことは宍戸も予測済みだ。そうして中ロブ気味で返ってきたボールを宍戸は有無を言わさずコート際にストレートで叩き込んで1ポイントを奪った。 「6−6! デュース!」 荒い息の中、確かに宍戸はガッツポーズをした。やはり事前対策していて正解だった。菊丸がどう打とうが、Iフォーメーションに対して「動じないこと」。これが一番の武器なのだ。そしてこれこそが、彼らにプレッシャーを与える一番の脅威になっているに違いない。 さて、次はどう来る――? 次にレシーバーを務める鳳は少しばかり考え込んだ。今のところ、三度のIフォーメーションで菊丸がバックボレーを選択したのは二回。しかもその二回とも阻まれているのだから通常であれば作戦変更するところだろう。しかし。幸いなことに、今度は13ポイント目であるためチェンジコートだ、と鳳はコートを移動しながらちらりと菊丸を見やった。思うようにポイントを取れなかったためか疲労がピークに来ているのか息がやたらに荒い。――やはり、練習通り菊丸のバックでのジャンピングボレーを想定しよう、と鳳は唇を結んだ。コートが替わったことで意識も切り替わり、どうしても欲しいポイントとなればやはり自分の一番の得意技でいきたいのが人の心理だろうからだ。疲れて、追いつめられていれば尚さら。 ――数字はウソをつかない。鳳は再度、自身に言い聞かせてラケットを構える。狙いは少し浮き気味の、アドバンテージ側へのリターンだ。菊丸の得意ショットを誘発するための――。 「菊丸……ビーム!」 「英二!」 ほら来た、と鳳はそのままデュースサイドでラケットを構え、宍戸は鋭角ボレーに対応するためにアドバンテージコート最左端へと走った。どれほど疲れていようが、ボールへの反応速度だけは鳳との特訓で培った記憶が身体に染みこんでいる。疲労で完全なイメージ通りには動けなかったが、それでも菊丸のボレーを低い打点のライジングで拾い上げ、こちらもクロスでボレーヤーの嫌うボディショットをお見舞いする。 「おら、もいっちょ来いや!」 しかし――ここで予想外の事態が起きた。菊丸は一瞬目を見開いたかと思うといきなり腰を反らして後方宙返りにてボールを避け、替わりに後衛の大石が姿を現してドライブボレーを放ってきて今度は宍戸の方が目を剥いた。 「なに――ッ!?」 「く……ッ!」 予想外。とはいえ想定外ではない。ネットにつかずに留まっていた鳳は方向転換してアドバンテージサイドに走り、大石のドライブボレーを打ち返すべく大きくラケットを振った。手首に、より負担のかかるドライブボレー。本来ならもっと強烈にバウンドして逃げていく球となったはずだろうが、大石のコンディションが万全ではなかったためかどうにか弾き返すことができ、鳳はすぐさま体勢を立て直してラケットを構えた。 ――取らせない。という思いは両者とも引けを取らない。息を呑むようなラリーが続き、大きくフェンス側へ逃げていく球を宍戸は死にものぐるいで追いかけた。見逃せば、青学に再びマッチポイントを取らせてしまう。 「このおおおお!!」 地面へ倒れ込むようにして無我夢中で相手コートへラケットを振ると、そのボールはフェンス際から打ったのが功を奏したのだろう。ネット越しではなく鉄柱の外からギリギリでダブルスコートに入って氷帝ギャラリーがワッと沸いた。 「7−6! 氷帝、マッチポイント!」 「ウソだ、黄金ペアのIフォーメーションが破られるなんて……!!」 「宍戸さん……!!」 芝生に倒れ込んだ宍戸は荒い息をどうにか繋ぐようにして懸命に立ち上がった。ユニフォームはべとべと、手はズルズル、もはや感覚もほとんど無くなってきている。これ以上長引けば、本当にコートで力尽き倒れてしまうかもしれない。それは大石・菊丸も同じだろうが――イメージ通りに身体が動かない。でも、それでも。打たなければ、と宍戸がポケットから取りだしたテニスボールをグッと握りしめてサーブを打つべくアドバンテージコートへ向かっていると、ベンチから不敵な声がかかった。 「決めろ!」 跡部の声だ。チッと宍戸は舌打ちをする。 「ウルセー跡部! 言われなくても――決めてやんよッ!」 そして渾身の力を込めてサーブを打ち、構える。あと一球、あと一球なのだ。 『ここにいる奴らは、まだ負けちゃいない。――自分からもお願いします』 『言っとくけど、二度目はねぇぞ。お前はシングルスとしちゃ終わってんだ』 宍戸の脳裏に、正レギュラーを奪い返した日の跡部の言葉がリフレインした。ここで負けたら、氷帝に先はない。だからなんとしても勝って、次の跡部に繋げなくてはならない。不本意だが、自分に手を差し伸べてくれた跡部への借りを返すためにも。このメンバーで、もう少しテニスを続けるためにも。 数度のラリーの末、逆サイドにロブがあがった。ク、と宍戸は唸る。自分の身長では追いつけない。――しかし、鳳ならきっと届く、と鳳を見やると鳳は宍戸の前を駆けて大きく前方へ飛び上がり、スマッシュのモーションを見せた。 「これで、終わりです!」 鳳自身、ウィニングショットを狙っての渾身のスマッシュだったはずだ。しかし相手も根性で返してきて、二人して唇をグッと引いた。――さすがは黄金ペア。相手にとって、まさに不足なしだ。 「氷帝! 氷帝! あと一球! 氷帝! 氷帝! あと一球!」 大勢のテニス部員が後押しをし、二人は必死の形相でボールを追った。ここでポイントを取られて再びデュースになれば圧倒的に不利になる。この後の菊丸のサービスをブレイクする余力はもう残ってはいない。 「うおおおお!!」 これを最後の一球と決めたように全力で打ち返した宍戸はコートに膝をつき、もう彼が起きあがれないことを悟った鳳は自身を鼓舞するように相手コートを睨み付けた。 「俺が……死んでも止めます! 来い、青学!」 腕が折れても、もげてもいい。例え二度とピアノが弾けなくなっても――必ず勝ってやる。なんの迷いもなかった。あるのはただ、氷帝に勝利を捧げることのみ。 「鳳くん――!!」 の必死の声援が耳に届いたかは分からない。ただ無我夢中でラケットを引き、めいっぱいラケット面でボールを捉えてから渾身の力で打ち出して内側へと回転をかけるようにして鳳はラケットを素早く振り抜いた。 その球は大きく大石・菊丸の頭上を抜け――アウトか、と誰もが愕然と目を見張った。 しかし、皆の瞳はすぐに驚愕に変わった。コースアウトかと思われたボールはベースライン際ギリギリで急速に降下し、落ちたかと思うと勢いよくバウンドしてフェンスへと伸びていったのだ。 全員が息を呑む。打った鳳でさえこれほどの鋭い回転がかかるとは思っておらず、思わず自身のラケットを凝視した。何が起こったか、みな瞬時には分からなかったに違いない。 「ゲ……ゲームアンドマッチ・氷帝! 7−6!!」 一瞬の静寂のあとに審判の声がコートに響き渡り――、200余名のテニス部員たちがうねりのように沸きあがった。 「すっげえええ! すげえぜ長太郎ーー!!!」 「鳳君、かっけええ!!!」 「宍戸せんぱーい、ナイスファイ!!」 歓声にハッとして鳳は意識を戻す。そしてコートに片膝をついていた宍戸に駆け寄ると、スッと手を差し伸べた。 「サンキュ。……やったな、長太郎」 「はい! これで……跡部さんに繋ぐことができました」 疲労を顔に滲ませながらも宍戸は笑い、鳳もホッと息を吐いて笑みを見せた。そして青学コートを見やると二人ともコートにへたり込んで肩で息をしていたものの、起きあがった時には悔しげながらも晴れやかな表情で手を差し出してくれた。 そうして互いの健闘を讃え合う両校のペアにギャラリーからは惜しみない拍手が贈られた。もまた、鳳が決勝ショットを決めたときはあまりの迫力に驚いて口元を押さえていたものの――やり遂げた彼らの姿を見て、いまは目頭を押さえるので必死だった。なんとか拍手を贈ろうとするも視界が滲んできてどうしようもない。 汗だくの笑顔で皆の声援に応える鳳は――たしかに"テニス部"の鳳で、でも自分の良く知っているいつもの鳳で。鳳くん、と小さく呟くと尚さら視界が滲んできて慌てて涙を拭って誤魔化すように手を叩いた。――眩しいな、と思う。とても近くにいるのに、とても遠いような、そんな感覚。綺麗だな、と感じた。ごく自然にすっと手でフレームを作って見やった先の、鳳の、宍戸の、みなの表情。すぐにぼやけて見えなくなってしまったが――胸が締め付けられるような、昂揚を覚えるような。 そうして感情の出所を探っていると、ふいに目線の先の鳳がユニフォームの上を脱いで上半身を晒したものだからは驚いて目を見張りつつ口元を押さえた。しかしすぐに「あ」と呟く。負傷した右肩にアイシングを施すためだ。 救急箱を持ったテニス部員が鳳のそばにつき、なにやら話しつつコールドスプレーを右肩にあてている。どことなく親しげで、相手も二年生なのかもしれない。 鳳は終始笑顔だったが、時おり「いてて」と声が漏れてきては不安げに鳳の背中を見つめた。改めて見ると、やはり鍛えられているのがよく分かる。その鳳のアンバランスな左右の腕――特に腫れ上がっているようにも見えないため、大事には至っていないのかもしれないが、でも、と瞳を揺らしていると視線に感づかれたのだろうか? 瞬きをした鳳がこちらを振り返っての身体が強く撓った。 しかし、次の瞬間に鳳は目を丸めたかと思うと本当に嬉しそうに頬を緩ませ、ニコッと笑って手を振ってきたものだからの胸はどうしようもなく激しい音を立てて痛いほどに収縮した。が――、それも自覚できたかどうかは分からない。なぜなら地響きを引き起こすほどの氷帝コールが突如として鳴り響き始めたからだ。 「勝つのは氷帝! 負けるの青学! 勝者は跡部! 勝者は跡部! 勝者は跡部! 勝者は――」 シングルス1の跡部をコートに迎え入れるための氷帝コールだ。鳳もコートの方へ視線を戻し、もハッとしてそちらを見やると相変わらず尊大なポーズを決め込んだ跡部が天に向かって指を突き上げていた。そうしてパチン、と指を鳴らしてコールを止めた――かに見えた。 「俺だけどね!!」 しかし先に指を鳴らして氷帝コールを止めたのはなんと青学の一年生エースであり、みなが唖然として周囲には静寂が広がる。 どうやら青学側のシングルス1は彼らしく、両校の勝敗の行方はシングルス1に委ねられることとなったが――さっそくの試合開始前にコート上で言い合いが始まり、ついには互いの髪の毛を賭けて「負けた方は坊主にする」などと言い合っての試合開始と相成ってとしてはさきほどの感動は一転、頭を抱えるしかない。 一年生相手に大人げない、と思うも跡部はそういう人だ。跡部のことは、不本意ながらけっこうな頻度で顔を合わせる間柄でありある程度は彼の人となりは知っている。加えて何度か試合観戦もしており――無意味に持久戦を仕掛けるプレイスタイルだったのが関東での手塚との一戦で少し変わった。ように感じられた。 果たして、この試合――ここまで繋いできたみなの思いに跡部はどう応えるのか。 すると、跡部は意外にも試合開始からアグレッシブな動きを見せ、とても持久戦を睨んでいるとは思えない超攻撃的なテニスを展開していた。これこそが跡部本来の持ち味であるとは顧問の榊の談であったが、ここであえて攻めるテニスを展開した理由。それは個人の趣向よりもチームとしての勝利を優先した、部長らしい選択だったのだろう。 ――チーム戦とはこういうものだったのか。とても信じられない思いだ。 一年の時から彼らのいざこざばかりを見聞きしていたが初めて見る、いや氷帝の全ての人間が初めて見るだろう「氷帝学園テニス部」としての一丸となって上を目指す強い絆の現れ。それが確かに感じられる、跡部のプレイだった。 けれども、あの跡部が本気になってさえ突き放せない実力を相手は秘めており、結果として試合は図らずも長丁場となってタイブレークに突入してからもひたすら数字が積み上がっていくだけで一向に勝敗が決まらない。 が――、「テニスの神様」というものが存在するならば相手の一年生はその神に愛され選ばれた人間なのだろう。デュースに次ぐデュースを繰り返してやがてオレンジに染まり始めたコートで先に跡部が力尽き、それでもなおこの場に君臨しようと立ったまま意識を失って、ついに勝敗は決した。 「ゲームアンドマッチ、越前リョーマ! 7−6! 青春学園、準決勝進出!」 永遠のような試合の果てに跡部はコートに意識のないまま立ち尽くし――選手達も、ギャラリーも、審判のコールより先に敗北を受け止めてそれぞれが悔しさに表情を歪ませた。今度こそ、ここが本当の終わりの場所なのだ。特に三年生にとっては「終わった」としみじみと感じられたことだろう。けれども互いに死力を尽くしての悔いのない戦いであり、関東大会の時のようにぐちゃぐちゃの悔し涙を見せるものはいなかった。 意識を戻した跡部は約束通りバリカンで頭を丸めてから真っ先にコートを去り、そのうちに周りのギャラリーたちも散り散りとなって、はちらりと夕焼けに染まるコートを見やった。 今日ばかりは逃げてはいられない。ちゃんと声をかけないと、と手に持っていた紙バッグの持ち手をグッと握りしめてフェンスドアの方へ向かうと、ちょうど出てきた鳳に向かって声をかけた。 「鳳くん」 すると鳳と、鳳のうしろにいた宍戸がこちらを見やって「あ」と鳳が声を弾ませる。 「先輩……!」 「お疲れさま、鳳くん。宍戸くん」 鳳と目線を合わせてから、ひょいと宍戸の方を見やると宍戸は帽子の鍔に手をやって「おう」と返事をした。 氷帝が負けちゃったのは残念だけど、と前置きしては真っ直ぐと鳳を見上げた。 「鳳くん、すっごく格好良かった。関東大会の時もすごかったけど……今日はそれ以上で、本当に、失礼かもしれないけど……びっくりしちゃった」 すると鳳はキョトンとして、そうしてまるで珍しいものを見たときの感動を現すかのような表情を浮かべて少しばかり声を震わせる。 「先輩、見ててくれたんですか……?」 「え……?」 「俺のこと、見ててくれたんですね!」 なにを言いだすかと思えば――鳳がそんな風に声を弾ませ、はにかんだものだからとしてはあっけに取られ、数秒まごついたのちにキュッと拳を握りしめた。 「み、見てるよ! 鳳くんのこと、いつも」 しかし言ってしまった言葉にハッとして、「あ……、えっと」と言葉を詰まらせると、鳳はしばし目を見開いたのちに、へへ、と表情を崩して常と変わらぬ様子で照れたような笑いを浮かべた。 後ろで宍戸が何やら唸っていたがにも鳳にも届かず、しばし沈黙が続いて「あ」とは鳳の右肩を見やる。 「肩、大丈夫?」 「あ……はい。すぐに冷やしましたし、取りあえずテーピングしてるんで平気だと思います」 「そう……? だといいけど、右肩、痛めたのにあんなサーブ打っちゃうんだもん……」 「夢中でしたから……。明日、ちゃんと病院行きますから心配しないでください。大丈夫ですよ」 これがもし他人のことなら「今すぐ救急車を呼びます」などと言いかねない鳳だというのに、全く、とは苦笑い気味の笑みを漏らす鳳を見て肩を竦めた。本当に、とても先ほどまで激戦に身を置いていた人間とは思えないほどだ。 でも、これが彼なんだな、としみじみ思いつつ「そうだ」とは持っていた紙バッグを鳳に差し出した。 「昨日はジャージとタオル、本当にありがとう。鳳くんも濡れて大変だったのに……ごめんね」 「いえ、そんな……! こちらこそ、わざわざありがとうございます」 恐縮して鳳が受け取り、すると中身が見えてしまったのだろう。身に覚えのないものも入っていたためか首を捻り、は疑問を寄せられる前にしどろもどろながら説明した。 「え、っと……お礼、なんだけど……。気の利いたものが思いつかなくて。スポーツタオルなの……よかったら使って」 「ええッ!? そ、そんな……悪いですよ、俺、何もしてないのに」 「ううん! だって鳳くん、ずぶ濡れのまま帰っちゃったんだし……私の気がすまないから」 「ダメです、俺も困ります」 そしてそんな問答が始まり、二人とも一歩も引かないでいると鳳は何かを閃いたように「あ」とに笑いかけた。 「だったら、俺のタオル、先輩がもらってくれませんか?」 「え……!?」 「そしたら俺も頂いたタオル、ありがたく受け取ります。ね? 良い考えで――」 そこまで言って鳳は自分が何を口走ったかはっきりと自覚したのだろう。夕焼けでごまかせない程に赤面してあたふたしたのちに焦ったように声を上擦らせた。 「あ、その……俺の使い古しなんてイヤっすよね! すみません、俺……なに言って……でも、その……」 これと決めたら強引なくせにこういう所は相も変わらずで、も鳳の熱が移ったようにうっすら頬を染めるとおずおずと鳳を見上げる。 「いいの……?」 「え……?」 「本当に、鳳くんのタオル……もらってもいい?」 「え……、あ、はい! もちろん!」 途端、鳳の顔がパッと華やぎ――互いに顔を見合わせながらしばし笑い合っていると、ついに痺れを切らせた人物が盛大に舌打ちする声がきこえた。 「おら、いい加減、先行くぞ」 「え、あ……はい! えっと……先輩、じゃあこれを」 ハッとしたらしき鳳は受け取った紙バッグから自身のタオルをに手渡し、歩き出した宍戸を気にしつついつものようにニコッと笑った。 「今日はありがとうございます! また学校で!」 「――うん」 その背を見送って、もゆるく笑う。 茜色に染まっていく空間がいやに眩しい。受け取ったタオルをキュッと握りしめてはそっと天を仰いだ。 一ヶ月前のあの日、コートに忘れてきたもの――その答えは――きっと。と考える頬を、夏のぬるい風がそっと撫でて過ぎ去っていった。 |