明朝、なんとか8時過ぎには雨もあがったものの、湿度が異様に高く朝っぱらから空気は重い。
 天気予報によれば本日は晴れということで、残り雲はすぐに去ってしまうのだろう。だが、コートのコンディションはどうなのか。
 9時前にコートに着いただが、どうにもまだ試合が始まる様子はなく、ざわつく周りの声を耳に入れつつキョロキョロしていると周囲のスピーカーから放送が流れ始めた。
「本日、テニスコートの水はけ具合が悪く、試合再開時間を二時間押して午前11時に再開することとなりました。繰り返します、本日――」
 やはり、この空模様では水はけが追いついていないらしく至る所でスタッフと思しき人々が作業に追われている。晴れさえすればハードコートゆえに回復も早いだろうが、と空を見やっていると見慣れた氷帝レギュラー陣がこちらに歩いてくるのが見えた。ただし、本日は試合を行わないであろうメンバーのみだ。
「ふわぁ……眠ぃ〜」
「ったく、シャキッとしろよシャキっと!」
 宍戸がいなければ芥川の面倒は彼が見るしかないのだろう。相も変わらず眠そうな目を擦っている芥川の背をバシッと叩いて気合いを入れてやっているのは向日だ。そのそばには忍足もおり、はキュッと胸の前で手を握った。――芥川くらいしかまともに喋ったことはないが、どうしても気になることがあって彼らが陣を取ったすぐそばの東屋まで小走りで向かった。
「おはよう、芥川くん!」
 眠っている彼に届いたかどうか分からないが、案の定、芥川以外の二人もこちらを振り返ってしまっては思わず喉を鳴らしてしまった。
「あ……宍戸の……」
「ああ、美術部の……」
「あれ……ちゃんだ……」
 眠そうながらも芥川がこちらを向いてくれたことにホッとして、長椅子に腰を下ろしている彼に目線を合わせるようにしては膝を折った。
「鳳くん……体調、どうだった? 元気そう?」
「んあ? 鳳……? えっと……」
 考えているのか、それとも眠いのか。はたまた両方なのか。逡巡するような姿を見せつつ芥川はウトウトと瞳を閉じてしまってが「あ……」と戸惑いと諦めを含んだような声を漏らすと、くく、と低い笑い声が漏れてきた。
「この状態のジローに質問しても無駄やで」
「あ……、その……」
「鳳なら、さっきおうたけど元気そうやったわ。宍戸と一緒にウォームアップでもしとるんちゃう?」
 かわりに質問に答えてくれたのは忍足で、彼の方を見上げて瞬きをしたのちには「そっか」と息を吐いた。
「よかった……」
 昨日の宍戸のメールを見る限り大丈夫そうとは感じていたが、改めてはホッと胸を撫で下ろした。これでもしも体調を崩しでもしていたら――と考えていると「なんや」と忍足が面白そうに笑う。
「自分、変なやっちゃな。前に部室に来た時も鳳とモメとったし……宍戸はええんかい」
「ちょ……! あ、あれは別に……!」
 そういえばそんなこともあった、と中間考査のあとに用事でテニス部正レギュラー用の部室を訪れた際のことを思い出してはカッと頬を染めた。そうだ、確かあの時は忍足が助け船を出してくれたのだった。
 鳳は昨日自分にジャージを貸してくれたから、と喉まで説明が出かかっただがわざわざ言うことでもないと思い直して寸前で押し殺すと、ふ、と息を吐いて少し唇を尖らせつつちらりと忍足を見やった。すると忍足は笑って「堪忍な」などと言ってくる。
「野暮なこと言うてしもた。謝るわ」
 相変わらず――こういう部分が女子人気の秘訣なのだろうか。ほんの少しだけ、あの椿川のマネージャーとはどうなっているのか気にかかっただがそれこそ野暮というもので忍足につられたように薄く笑い、2、3、言葉を交わしてからその場を離れる。
 10時を過ぎた辺りから雲はすっかり晴れ、燦々と真夏の太陽が地上を照らしつけはじめた。11時の試合再開までにはハードコートの水は完全に乾いてしまうだろう。が、かわりに気温も急速に上昇し、湿度も相まって選手達にとってはよりハードな条件となるに違いない。
 11時に近づくにつれてフェンスの周りを取り囲む氷帝テニス部陣による氷帝コールが強さを増し、レギュラー陣がコートに姿を現す頃には応援の声がうねりのようになってコートを包んでいた。
 コートに立った宍戸・鳳の表情は落ち着いており、むしろ一日の冷却期間を置いたことで過剰な気合いが静まってコンディションはよりベストに近づいたようにさえ感じられる。
 対する青学側はやはり大石・菊丸の黄金ペアであり、宍戸・鳳にとっては関東大会の時から想定し続けてきたペアマッチとあって「いよいよだ」との思いも一入だろう。
 ざわつきの中、空を切るようにして審判からのコールが響き渡る。
「それでは、これより青春学園大石・菊丸ペア対氷帝学園宍戸・鳳ペアによるダブルス1の試合を行います。青学、菊丸トゥ・サーブ!」
 サーブは青学菊丸からであり、やはり大石の手首はまだ完治に至っていないことを宍戸と鳳は悟った。なぜなら、おおよその試合で先発サービスを務めるのは前衛の菊丸ではなく後衛の大石だったからだ。ダブルスの場合、必然的に先陣サーバーのサービスゲームが多く回ってくる可能性が高い。だからこそ、少しでも多く大石のサービスを回避することで腕への負担を減らす狙いなのだろう。
 菊丸はそうサーブの上手い選手ではない。難なくリターンした鳳だがネットプレーに定評のある菊丸はさすがに素早くネットダッシュを決めており、得意のアクロバティックで絶妙なボレーを決めた。
 いくら彼らを対戦相手と想定してきたとは言え、実際に対峙してみるとまた違うものだ。菊丸にしても跳躍力は向日に劣るかもしれないが、巧さは格段に勝っている。あれよあれよと翻弄されているうちに、あっという間に第一ゲームは青学側のキープで終わった。
「今のゲームは忘れろ。……お前のサーブだ、"アレ"いけ」
 菊丸のサービスこそブレイクしなければ、と意気込んでいたもののあっさりとキープされてしまい、軽く唇を噛んでいた鳳に宍戸はそんな声をかけてボールを手渡した。
「――はい!」
 受け取って、鳳もボールを握りしめる。――青学との対戦のために全国では温存してきたスカッドサーブの進化型、"ネオスカッドサーブ"を披露する時が来たのだ。努めて冷静に鳳が右側――デュースコートのサービスラインに下がると、レシーバーを務める大石は広くワイドをあけてセンター寄りに立ち、周りからどよめきの声があがった。
「あれは……、関東大会で乾先輩がとったスカッド対策か!?」
 そう。鳳はワイドを意識するとフォームが乱れてサーブがネットしてしまうというクセがあった。それを見抜いた乾は、関東大会時にいまの大石と同じ行動を取りスカッドサーブを封じ込めたのだ。
 ただし、それはあくまで関東大会でのこと。――自分のサーブをより完璧に近づけてくれたのはあなた方、青学だ。と鳳はいつものようにボールを投げあげてワイドに狙いを定めると、いつものようにラケットでボールを弾き飛ばした。
「15−0!」
 大石が驚愕に目を見開いたのは、既に着球したボールがフェンスにぶつかって再びコートに戻ってきたあとのことだ。あまりのスピードに、反応が追いつかなかったのだ。彼は愕然と、しかし納得も混ぜて呟く。
「やはり……克服していたのか」
 今のサーブはコースさえも完璧であり、関東大会の鳳とは違うことを見せつけられた大石の呟きに、宍戸がどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべてラケットを肩にかけた。
「あったりめー だろ! それに今までよりも速いぜ、ネオスカッドサーブは!」
 ギャラリーも騒然とする中、鳳は次、また次とノータッチエースを決め、打つ度に球威をあげてゲームをキープする頃には速度は215キロに達し大会新記録を叩きだしていた。
「鳳くん……すごい……」
 も、ごくりと喉を鳴らして鳳の様子を見守っていた。鳳が弱点を克服しようと人知れず猛練習していたことは、以前にも増して分厚くなっていた彼の右手が物語っていた。が、よもやこれほどとは。――大会新記録ということは、つまりは日本一ということだ。
「反則だよ、あんなサーブ……!!」
 鳳はこれまでの公式戦で、自分のサービスゲームは一度たりとも落としていない。加えてネオスカッドまで出されては、相手としてもこのゲームは落としてやむなしと思ったのだろう。
 そして続く第三ゲーム、大石のサービスであるため氷帝の二人は黄金ペアの変形フォーメーションがくるかと身構えたが、敢えて奇策を取らずともキープできると踏んだのかフォーメーションを温存する形で試合は続いた。
 両者、一進一退の攻防が続く。実力が拮抗していることを示すように、それぞれ互いのサービスゲームをキープし続けるという試合展開となった。しかしながら鳳のサービスゲーム以外は時おりデュースにまでもつれ込む接戦で、第11ゲームが終わる頃には選手たちは汗だくで肩で息をしていた。
「く……そ……ッ!」
 ゲームカウントは5−6。ここでサービスキープできなければ5−7で青学側の勝利、しかしキープできたとしてもタイブレークか、と過ぎらせた宍戸のサーブは高さが足りずにあえなくネットしてしまう。
「フォルト!」
 チッ、と舌打ちして宍戸はユニフォームの裾で手を拭った。手が汗で滑ったのだ。青学は体力面に不安を抱える菊丸、持久力はあっても手首が万全でない大石。持久戦では圧倒的に自分たちが有利だというのに――いやむしろ有利だと思って少しばかり油断していたのかもしれない。相手は全国で名を馳せた格上の相手だというのに、所詮は手負いの輩だと心のどこかで慢心があったのかもしれない。
 いつもの悪いクセだ、と宍戸はグッと拳を握りしめた。挑む気持ちを忘れずにいかなければ潰されてしまう相手。――そう強く思うべきだったのだ。1ゲームもブレイクできずにここまでズルズルきたのは自分の甘さのせいだ、と気を引き締め直してどうにか自身のサービスをキープするも、試合は完全にデフォルトとなってしまった。
「ゲームカウント6−6! タイブレーク!」
 タイブレーク。ゲームカウントが6−6となった場合に行われる勝敗決定方法だ。互いにサーブを交互に行い、7ポイントを先取した方に勝ちが与えられる。
 審判からのタイブレーク宣言がおりて、宍戸と鳳は顔を見合わせた。――現時点で、体力面では自分たちは青学ペアに勝っていると言っていい。しかしタイブレークにおいては圧倒的に経験の差がある。なにせ組んで日の浅いダブルスであり、互いに一度もダブルスでのタイブレーク経験がないのだ。
 対する大石・菊丸は数多の試合をこなしてこういう展開にも馴れているのだろう。「勝負はここから!」とまるで見せつけるように笑みを見せている。
「宍戸さん……」
「チッ、タイブレークに持ち込まれるとは……正直甘く見すぎてたぜ」
「けど、俺たちだってまだ特訓の成果を出し切ったわけじゃないですよ。ここで……負けるわけにはいかない」
 鳳は汗を拭ってラケットを構えた。タイブレーク最初のサーブは第1ゲームのサーバー、つまり菊丸である。レシーバーを務める鳳は「今度こそ」とリターンエースを狙った。ここで1ポイントブレイクすれば、次の2ポイントは自身のネオスカッドで必ず取れるのだ。そうすれば、かなりのアドバンテージが取れる。
 けれども、ここで負けられない思いは相手とて同じだ。サーブ直後にネットダッシュした菊丸は勝負に出たのか大石と共にダブルポーチについた。超攻撃型の陣形だ。鳳の渾身のリターンを大石を庇うようにして菊丸が受け、そのパワーを捌ききれずに浮いたクロスを宍戸はチャンスボールとばかりにストレートに打ち込んだ。
 しかし、ダブルポーチはフェイクだったのか――最初からボレーを打つのは菊丸だと決めていたように大石が後ろに下がっており、宍戸のストレートは高く頭上へと上げ返されてしまう。
「ロブ!?」
 鳳と宍戸がそろって声をあげ、宍戸は「届かない」と目を見張った。――が、ここで決められてはポイントを先取されてしまう。
「抜かせません!」
 ここは意地でもブレイクしなくては。自身の身長とジャンプ力ならば届く、と賭けたのだろう。鳳は高く後ろへ飛び上がって懸命にラケットを掲げた。そのラケット面は確かにボールを捉えて鳳はそのまま振り抜き、ワッとギャラリーがどよめく。それもそのはずだ。本来ならば届かないはずのロブだったのだから。だというのに、これさえも想定していたのか――菊丸が素早く動いてリターンの構えを見せ、虚をつかれた鳳は空中で目を見開いた。
「鳳くん……ッ!!」
 後ろに飛び上がるジャンピングスマッシュは空中制御の難しい技だ。加えて力の限りジャンプをした鳳は動揺したことで完全にバランスを崩し、着地と同時に肩からコートへと倒れ込んで見ていたは思わず彼の名を叫んだ。
「0−1、氷帝!」
 菊丸の返球はネットにかかってポイントは氷帝に入ったものの、鳳の方を振り返った宍戸もコートに倒れ込んでいる様子を目の当たりにして目を見開く。
「ちょ、長太郎!? 大丈夫か!」
「ッ……はい」
 よりによって右肩を強打するとは。――と鳳は痛みに歯を食いしばりつつ自身の不甲斐なさを恥じた。しかも、次は自分のサービスだ。立ち上がって軽く肩を回してみると鈍い痛みが走ってきつく眉を寄せる。
「肩を痛めたか。……その様子じゃ、ネオスカッドは無理だな」
 案ずるような宍戸の声に、鳳は肯定も否定もできなかった。無言でアドバンテージコートのサービスラインに下がり、ボールを強く握りしめる。ネオスカッドを打つか――。いや、いま打ってしまえばその後にまともなラリーはできなくなるかもしれない。しかも自身が愛用しているラケットは、他のラケットよりもずっと力を必要とするのだ。ここは、今後を見越して軽めのサーブに抑えるしかないだろう。 
 相手がネオスカッドを打てないこの状況をチャンスと見なしていることが分かっていても、鳳は威力を殺してサーブを放った。案の定――、いや、もはやネオスカッドを打たないことに賭けていたのだろう。レシーバーの大石はまるで見切ったようにサーブに突っ込んできて両手バックハンドのライジングで強烈なリターンエースを決めた。
「く――ッ!」
 スカッドサーブでないとはいえ、自分のサーブでリターンエースを決められたのは初めてだ。鳳はこれ以上ないほど眉を歪めたが、むしろここでカッとなって打てば敵の思うつぼだ。二度は絶対にやらせない、と冷静に二本目を打つも、「鳳のサーブ」が破られたことによる精神的負荷は思った以上に鳳・宍戸にとっては大きかった。数度のラリーの末にブレイクを許し、カウントは1−2で青学に2ポイントも与えてしまった。
 そうしてサーブ権は青学に移り、大石がサービスラインに下がる。青学側も、ここがキーポイントとなることを確信したのだろう。前衛の菊丸がセンターラインを跨いで腰を落とし、大石はアドバンテージコートの右端に立ってサーブの構えを見せた。

 ゴクリ、と鳳・宍戸は息を呑んだ。
 それは今日、黄金ペアがはじめて見せる――"Iフォーメーション"と呼ばれる陣形だった。



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