翌日、天候は晴れ。しかし、朝からむっとするような湿気の多い日となった。 立っているだけで汗ばんでくるような、これでは選手達は辛いだろうなと思いつつがテニスの森公園に向かうと、氷帝VS青学戦の行われるコートには既に多数のテニス部員が来ておりぐるりとフェンスの周りを囲っていた。 青学にリベンジを期待する声、もしもまた負けたら、と危惧する声。ざわめきはいつしかうねりとなって皆が選手達の入場を待つ。 視界のほぼ全てが氷帝の生徒だ。大多数はテニス部員。そして応援に駆けつけたと思しき氷帝の生徒たち。 ――ふと、は疎外感に襲われた。 ここに立っているのはむろん氷帝のいち生徒としてではあるが、どことなくこの空気に混ざれる気がしない。いつでも自分はただ見つめているだけだ。まるで外から内を眺めているかのような――。 熱気を遠くに聞いていると、ワッ、とテニス部員たちからの歓声があがった。両校のレギュラー陣がコートの方へと歩いてきたのだ。氷帝は跡部を、青学は手塚を筆頭にコートに入り、跡部以下レギュラー陣の表情はコンディションの良さを物語っていてはホッと胸を撫で下ろした。 「行くぜ! ショータイムだ!!」 相変わらずの跡部のパフォーマンスを皮切りに試合開始が宣言され、まずはシングルス3である。やはり彼、忍足を氷帝はシングルスに持ってきたようでまずは忍足がコートへと入った。対する青学は桃城――関東大会ではダブルス2に出ていた選手である。図らずも、二人はシングルスという形で再戦することとなったのだ。 「桃城くんって……二年生だっけ」 確かうろ覚えではあるものの、負傷した大石の替わりにダブルスという形で試合に出た選手だったはずでレギュラーではなかったように思う。だというのにシングルスとは、元々はシングルスの選手だったのだろうか? 青学戦を見る限り、どちらかというと小柄な選手ではあるものの、ハードヒッターで運動能力も高かった記憶がある。 あの試合は氷帝側は向日の体力が底をつき忍足の奮闘も及ばずの黒星であったが今回はどうなるのか、と見守っていると両者クレバーな試合運びで一進一退。特に桃城は、野外試合の基本であるが見落としがちな風向きに注意を払って上手くボールをコントロールしポイントを重ねている。 硬式テニスは、ソフトテニスのようにボールを打った瞬間に強風が吹いて自コートに返球されてしまいまさかの自殺点、などという珍事はまず起こり得ないが、ライン際のきわどい場面では死活問題となることがままある。それが、この風だ。 関東大会では菊丸のリーダーシップに引っ張られているかのように見えた桃城だが、成る程、彼は彼でしっかりした選手なのだなと思う。存外、後輩は三年生が思うよりもずっとしっかりしているものなのだな――とはほんの少し鳳に目線を送って薄く笑った。 「侑士さん、けっぱって!!」 すると近くで独特のイントネーションとには意味の理解できない言葉が飛び、見やるとまだ北海道に帰っていなかったのか、はたまた東京に留まったのか椿川のマネージャーの姿があり、思わず目を丸めてしまう。相も変わらず彼女は目の覚めるような美人で、母校を負かした氷帝に勝ち進んで欲しいのか本当に忍足のことを気に入ってしまったのか、自分のことのように必死な応援ぶりで――すごいな、とは素直に感じた。自分だって心底彼らを応援しているが、あんな風にはなれない、と思う。ただこうして見守っているだけで精一杯だ。 テニス部ではないからだろうか、と少しだけ眉を寄せては無意識に鳳の背中を見つめていた。 『俺、先輩が見ててくれた方がぜったい頑張れますから!』 ここに立っているのは、なぜ――? あんな風に言われたから? 考え込みそうになる自身を叱咤するように観客がざわめいて、ハッとはコートに意識を戻した。見れば、必死にボールに食らいついていったのだろうか。豪快に桃城がコート外に倒れ込んでいて、歯を食いしばりながら起きあがった彼は左足の膝から流血しており手当のために試合は一時中断された。 「チャンスだ、忍足」 フェンス内で確かに跡部はそう言って指を鳴らし忍足に視線を送った。が、忍足は複雑そうな表情を浮かべている。――これで試合再開したとしても桃城は左足に負担がかかる。つまり左側――アドバンテージサイドにボールを集めれば忍足は圧倒的に有利となるのだ。しかも桃城はフォアよりバックが得意なようで、いっそう有利だ。 忍足もそのことは理解しているだろうが、素直にやれる人間とやれない人間に二分されるのは仕方のないことである。跡部は、前者だ。けれど鳳なら――、と考えてしまってはふるふると首を振るった。果たして忍足は――、固唾を呑んで見守っていると、戻ってきた桃城を前に忍足は決意を込めたよな強い視線でラケットを握りしめていた。 「悪う思わんといてや。氷帝の勝利のためや!」 やはり忍足はバックを集中的に攻めた。その度に桃城は苦悶の表情ながらも必死に球を追う。しかし、普段なら簡単なショットでも負傷ゆえにミスが生じるのは無理からぬことだ。それでも桃城は向かってくる。――こうなってくると、辛いのは弱点を攻めている側だ。情けをかけて手控えても、集中的に攻めても、良心の呵責と戦わねばならない。 「忍足くん……」 互いに負けられないという思いは一緒だろう。桃城は怪我を押して戦い、忍足も情を捨てて勝ちを掴まねばならない。そんなコート上の戦いは終盤に近づくにつれて激しさを増し、桃城がネットダッシュをかけようとして躓いたのを見て忍足はとっさにロブを打ち上げた。桃城は天を仰ぐ。入らない――と感じたのだろうか? しかし、ボールが地面につく直前に風が一陣過ぎ去り、見事にそのロブはライン上へと着球して勝敗は決した。 「ゲーム忍足! 6−4!」 瞬間、ワッと氷帝テニス部陣が沸き、忍足もホッと息を吐いて桃城と握手を交わしつつ彼の怪我を気遣っている様子がにも見て取れた。 相手に負傷があったとはいえ、数字上、これで氷帝は一勝である。しかし問題はこれからだ。ダブルスに不安のある氷帝の、それも今日のオーダー上で一番揉めたであろうダブルス2だ。ちらりとコートサイドを見やると向日と日吉がスタンバイしていて、は芥川が控えになったのだと悟った。なぜ芥川ではなく向日を起用したのかにはさっぱり分からなかったが、ダブルス馴れしているためだろうか? それともやはり惨敗のペナルティ? 実力は芥川の方が上なのだから芥川を使った方が良い気がする――などと思うも日吉と相性が悪いのかもしれないし、と考えつつ青学のコートを見やる。すると関東大会ではダブルス1を務めた乾・海堂ペアがスタンバイをしていて目を見開くもすぐに納得した。 彼らが青学戦でダブルス1となったのは大石負傷のため黄金ペアが出場出来なくなったからで本来は乾・海堂ペアはダブルス2なのだ。ということは本来通りのオーダーで、榊はこのペアにわざわざ向日・日吉を当てたということだ。 青学ペアのプレイスタイルは乾の頭脳プレイと、並はずれた持久力を誇るストローカーである海堂による粘りのテニス。つまりじっくり時間をかけてゲームを組み立てていくタイプだ。対する氷帝は、おそらく彼らの持久戦に対抗してのことだろう。試合開始と同時に向日・日吉ペアは超攻撃的なプレイを全面に押し出して速攻戦を仕掛けた。 成る程、体力のおぼつかない二人らしい戦法ではあったが――攪乱だけで6ゲームも取れるほど相手は甘くはない。結局は速攻戦によって出だしのゲームを連取するものの、スタートダッシュの影響で5ゲームが終わる頃には明らかに向日・日吉ともに体力を消耗しすぎて動きが鈍り、逆にスロースターターである青学ペアは動きが冴えて巻き返されてしまいゲームカウント5−7にてダブルス2は敗戦に終わった。 互いに一勝一敗。この頃からざわつくギャラリーの心情を表すように、天気がおぼつかなくなってきた。雲が厚い。雨にならなければいいが、と見つめるコート先に出てきたのは青学は部長である手塚で、ギャラリーが唸るようにどよめいた。 「手塚さんがシングルス2……!?」 「ウソだろ……誰がシングルス1なんだよ青学は」 も思わず口元に手を当てた。彼は跡部のように揺るぎないシングルス1だと思っていたが……これはどういった作戦なのだろうか? まさかあの一年生エースがシングルス1なのか、それとも芥川を下した不二という選手なのか。関東では跡部に惜敗したがゆえのシングルス2か? 肩の調子はもう大丈夫なのだろうか。 様々な疑問を過ぎらせていると、氷帝側は樺地がコートへと入ってきた。――彼は、その時その時で相手のプレイを「真似る」ことに長けた選手だと聞いている。だから青学戦では独自のパワーショットを持っていた相手選手の技を真似て互いに打ち続け、結果として両者腕を痛めてノーゲームとなったのだ。 彼の個性としてはやはり豪腕であり氷帝屈指のパワーを誇るが、それが肩に不安のある手塚にどこまで通じるかが勝敗の鍵になるのだろうか。 「これよりシングルス2の試合を開始します。氷帝樺地、トゥ・サーブ」 もしも樺地が勝利を収めれば、次はダブルス1だ。青学側も氷帝のダブルス1が強敵だということは分かっているだろう。つまり手塚をシングルス2に持ってきたということは、ここは是が非でも勝ちを取りに来たということだ。 『例え大石が出られなくとも俺たちはこの試合に勝って全国へ進まねばならない。みんな、油断せずに行こう!』 彼だって全国にかける思いは同じなのだ。そして、彼はあの跡部が健闘を讃えたほどの人物なのである。例え肩が壊れたとしても、彼は打ち続けるだろう。そして勝つに違いない。 事実、関東大会以上に「巧い」と思わせるショットを何度も放ち――その度に樺地も同じようなショットを返して一進一退の攻防が続いた。 持久戦に入ってしまえば、跡部との試合の時のように肩にも限界がくるかもしれない。――けれど、天運というものが存在するのならば。まるで跡部戦の時のように次第に静まりかえっていくギャラリーに反するようについに分厚い雲からぽつぽつと大粒の雨が零れ始めた。 「やだ、雨……?」 「や〜ん、傘ないのにー」 ギャラリーの至る所からそんな声があがり、雨の強さが増すに従って一人、また一人とその場を離れ始める。しかしコート上の二人は一瞬たりとも手を止めず、サイドで見守る両校のレギュラー陣も微動だにせずに試合を見守っている。も、ただ黙ってじっと試合を見つめていた。――見届けると決めた。それもあるかもしれないが、雨がどれほど激しくなろうと気にならなかった。いや――気づいてすらいなかったのかもしれない。 手塚は時おり苦痛に歪む表情で食いしばるようにしてコートを駆けている。雨に足下をとられて互いに体力も奪われているはずだ。樺地の方も辛そうながらも必死に食らいついてひたすら手塚を真似ていた。 「勝つのは氷帝です!!」 加えて手塚よりもパワーの勝ったショットは手塚にとっては負担に違いない。氷帝に勝利を、という樺地の思いが手塚に劣っているとも思わない。けれども――模倣だけでは越えられないものもあるだろう。誰もが「仕方ない」と思ったはずだ。強い雨音だけがコートを包み――樺地の能力が追いつかなくなったところで勝敗は決し、審判は手塚の勝利をコールした。 これで一勝二敗。もしも次を落とせば、青学が準決勝へとコマを進めることになってしまう。滴る雨を拭うことすらせず、は黙ってコートを見守った。周りからは、この天気では中断では、と危惧する声があがっている。確かに中断すべきなのかもしれないが、みな、今日を決戦の日と覚悟を持って試合に臨んだというのに――。 「次ぃーッ! コートに入れや!!」 すると沈黙を破るようにして土砂降りの中で氷帝ダブルス1の二人がコートに入り、は目を見開いた。 「宍戸くん……」 中止など冗談ではないと言いたげに相手を煽り立てたのは宍戸だ。鳳も意見は同じなのだろう。コート先を睨むようにして立っていて、は両手で口元を覆った。――まただ、と思う。また、鳳が知らない人に見えた。こんな厳しい、相手を威嚇するような顔をした彼を見たことがない。 いっそ雨が痛いほどだ。今の鳳には――この音はとても優しいカノンになど聞こえてはいまい。思う存分、自分を駆り立てる雑多な騒音なのだろう。 「鳳くん……」 けれども審判団は二人の思いを受け入れてはくれなかった。スピーカーにてサスペンデッドとなったことが伝えられ、今日の試合は明朝9時に開始すると宣言されて盛大に舌打ちをしたのは宍戸だ。 「コンディションばっちしなのによ! 激ダサだぜ!」 がなる宍戸を厳しいままの表情の鳳が宥める。 「いいですよ宍戸さん。楽しみは明日にとっておきましょう」 相変わらず、どちらが先輩か分かったものではない。しかし鳳の言葉に宍戸も納得したのだろう。渋々とコートから離れてベンチ側へと引っ込んだ。 「勝つのは俺たち氷帝だ。明日まで生かしておいてやる。雨に、助けられたな……手塚よ」 跡部が手塚にそんな言葉を投げかけてから、レギュラー陣はそれぞれテニスバッグを背負ってコートをあとにする。 はというと、呆然としたまま立っており――動けないまま彼らを見やっていたが、フェンス外へ出てきた鳳と宍戸は真っ先にその姿に気づいたのだろう。 「せ、先輩……ッ!?」 「……!?」 ギョッとしたような二人の声にハッとして瞬きをすると、慌てた様子でこちらに駆け寄ってくる鳳が目に映った。 「なにやってるんですか! こんなずぶ濡れで!」 「え……?」 次いで彼はバッグを降ろしてタオルを取り出し、の頭に被せて濡れた髪にあてるようにして両手で頭を包んだものだから一瞬なにが起きたか分からず――数秒遅れで事態を把握しては間近で鳳の顔を見上げた。 「だ、大丈夫だよ! 私はいいから、鳳くんが使って!」 そしてタオルを取ろうとするとその手を掴まれて却下されてしまった。 「俺はいいですから! それより――ッ」 そして鳳は視線を落としたかと思うとハッとしたように目を見開いて少し目元を紅潮させ――が疑問を寄せるよりも先に彼はバッグからジャージの上着を取りだしての肩にふわりと羽織らせた。 「え、ちょ、と……」 「これ、着て帰ってください」 「え……!? ま、待って、ダメだよ、鳳くん、風邪ひいちゃう」 「平気です! 俺より先輩の方が……! それに予備なら持ってますから」 「でも……!」 鳳の柔らかい髪はすっかり雨に濡れて落ちてきてしまっている。ユニフォームもなにもかもずぶ濡れで、そんな彼を差し置いてとてもタオルやジャージなど借りられない。――だが、こういう時の鳳は絶対に引かない。自分より他人を気にしてしまう、優しいいつもの鳳だ。けれども――。 「いいから、長太郎に甘えとけ!」 今ばかりは甘えられない、という感情をはね除けるように宍戸からの声が飛んではグッと喉を詰まらせた。それでも、と鳳を見上げると彼はいつものようにニコッと笑った。 「風邪、引かないように気を付けてくださいね。じゃあ、また明日」 そうして宍戸のあとを追うようにして背を向けた彼にハッとしては声をあげる。 「あ……ありがとう……!」 すると鳳は一度振り返って笑みを見せ、土砂降りの中を小走りで駆けていき――は眉を寄せて羽織ったジャージをギュッと握りしめた。 「鳳くん……」 ごめんね、と小さく呟いて目線を落とす。 一方の氷帝レギュラー陣は取りあえず雨が凌げるテニスの森公園の施設まで走り、各自持参したタオルで雨を拭って予備のユニフォームに着替えていた。 「くそくそ、ハーパン濡れてて気持ちわりぃ」 「ほんまかなわんなぁ、こないな雨」 突然の豪雨による愚痴を各自が言い合う中、顧問の榊が皆を集めて、明日の八時にコート集合の旨を告げ本日は解散となった。しかしながら既に試合を終えた人間はともかく、明日、確実に試合に臨まなければならない人間は収まりがつかない。 しかし外は雨――氷帝のコートもずぶ濡れであるし、街中のコートも野外であるため同じだ。宍戸と鳳が無言でいると、跡部が声をかけてきた。 「お前らこれからどうするんだ、アーン?」 それは跡部なりの気遣いだったのかついでだったのかは定かではない。しかし、自分がこれから使う室内コートでの練習についてくるかという誘いに彼らは二つ返事でのることにした。そして跡部家の所有しているらしきリムジンが施設に横付けされ、目を剥いたのは宍戸だ。 「どこのヤクザの親玉かっつーの!」 「アン? 下品なこと言ってんじゃねぇよ」 乗れと指示されて渋々、周りからの痛い視線を受けながらリムジンに乗り込んで腕組みをする。試合に臨んだ出鼻を雨にて挫かれ、身体の熱は土砂降りの雨を受けてさえ静まることはなかったが、少し時が経って大分落ち着いてきた。ちらりと横目で鳳を見やると、彼の方も表には出さないものの随分闘志を燃やしていた風だったというのに大分落ち着いている――というよりも不安げに両手を組んで眉を寄せていて、どうしたのかと宍戸は目を見張った。 「なんだ、寒いのか?」 「いえ……俺は平気です。ただ、心配で……」 「あ……?」 「先輩、体調崩さないといいですけど……」 ああ、そっちか。と宍戸はキャッチャー被りにしていた帽子を深く被りなおした。むろん、自分とてがどうでもいいわけではないが、と咳払いをする。 「気にすんな。いつまでもあそこに突っ立ってたアイツが悪ぃんだからよ」 「そんな……! 先輩は俺たちの試合を見てくれてたんですから!」 「いや、まあ。……アイツんち、すぐそばだから大丈夫だろ」 難しい――と宍戸は頬を引きつらせた。これはもはや沈黙が正解であろう。というか――素直にが心配、などとよく言えるものだと宍戸はほんの少し唇を尖らせた。けれど、きっと鳳の方が正解なのだろう。先ほどにしても、の姿を見た時に自分とてバッグからタオルを出さなければ、とは思った。が、鳳の方が行動が速かったのだ。自分が「思った」だけの段階で鳳は既に行動していた。 お手上げだな、と宍戸は肩を竦める。鳳には恩もあるし、一人の人間としてとても好ましいことはよく知っているし、が鳳に惹かれても文句など言えやしない。――と思い耽って溜め息を吐きつつ、宍戸はハッとして首を振るった。今はそんなことを考えている場合ではない。 すると前の席から跡部の低い笑いが漏れてきた。 「お前ら余裕じゃねぇの、アーン? その調子じゃ、今日のテンションを明日に持ち越すのも問題ないようだな」 途端、二人は目を見張って互いの顔を見合わせる。 今日という日へ向けて精神的・肉体的ピークを持ってこられるようにコンディショニングしていたものが一旦切られたのだ。張りつめていた糸を切られてしまったに等しい。しかし、それは相手も同じである。――が、果たしてそうだろうか? 手首に不安を抱えているだろう大石は、先ほど自身の肩を犠牲にしても勝利を掴むという手塚の姿を目の当たりにしたばかりだ。そして青学はダブルス1で勝利をあげればそのまま団体戦の勝利となる。むしろここで一日空くことで大石のテンションは向上することだろう。菊丸はどうにもマイペースな選手であるが、パートナーにつられやすい性格でもあるため大石のコンディション次第ということになる。 対する自分たちは、ここから明日の仕切り直しに向けてまた気持ちを盛り立てなければならない。と、宍戸はしかめっ面を浮かべた。 「お前こそ、手塚との再戦は叶わねぇじゃねーか。やる気維持できんのかよ?」 「アン? 誰にモノ言ってんだ? まずはテメーが勝つことを考えろバーカ。じゃねぇと俺様まで回らねぇだろうが」 言い返してみるもそう反論され、宍戸は小さく舌打ちする。確かに跡部の言うとおりであり、何としても明日のダブルス1を勝たなければ氷帝の勝利はない。それに――と宍戸は少しばかり瞳を曇らせた。 『言っとくけど、二度目はねぇぞ。お前はシングルスとしちゃ終わってんだ』 『だがダブルスでなら、お前の望みも叶うかもな』 跡部がなぜ、あの時に自分を庇うような真似をしてくれたのかは未だに分からない。だがしかし、跡部の口添えがなければ正レギュラー復帰が叶わなかったのは事実だ。一年の時からずっと、気にくわない存在で幾度となく衝突してきた跡部への大きな借り。それは今、まさに自分がこの場にレギュラーとして座っていることに他ならない。 「宍戸さん……」 「フン。勝ちゃいいんだろうが! 黄金ペアだか何だか知らねぇが俺たちが負けっかよ! なぁ長太郎!」 「はい! 大石さん、菊丸さんとの対戦はずっと心待ちにしていた一戦です、明日は存分に楽しみましょう!」 「おうよ!」 そうだ。――テンションくらい自分で作り出してやる。鳳と拳を付き合わせて笑い合うと、前の席で「バーカ」と跡部の含み笑いが聞こえた気がした。 そうして宍戸たちが跡部と共に某所の室内テニスコートにて汗を流している頃、自宅に戻ったは熱い湯に浸かって身体を温めてから髪を乾かして服を着替えていた。ふ、と息を吐いていまも回っている洗濯機のドラムを見やって眉を曇らせる。自分にジャージを貸したせいで鳳が身体を冷やしていないといいのだが――と思いつつ雨でびしょ濡れとなってしまった制服のスカートを手に取った。スカートの予備はあるため早急に困ることはないが、これはクリーニング行きだろう。 家の外へ出ると先ほどよりも雨は小降りになっており、はクリーニング屋に寄ったあとに駅を目指してゆりかもめに乗り、ふらりと台場で降りて雨をものともしない人混みのなかを歩きつつスポーツ用品のテナントで足を止めた。 「んー……」 せめて今日の失態の詫びと礼を兼ねて鳳になにかプレゼントを、と考えただがあまり大層なものだとかえって嫌がられるかもしれない。かといって鳳の喜びそうなものと言えば――楽譜くらいしか思いつかない。 鳳のことを"テニス選手"と認識していないわけではないのだが――と巡らせつつ、並べられたテニス用品をぼんやり眺めつつ、あ、と呟く。 「鳳くんって……ラケットもシューズもブリヂストンだっけ」 全くその辺りのことは詳しくないではあったものの、覚えている限りはそうだった気がする――と並べられたブリヂストンのラケットを眺めていると、不意に店員らしき人物が声をかけてきた。 「なにかお探しですか?」 見ると、若い男性店員だ。いかにもスポーツマンというような短髪で、おそらくは普段も身体を鍛えていると推察できるほどがっしりした体型をしている。 「あ……いえ。友人がブリヂストンのラケットを使っているのでなんとなく気になってしまって」 本当にただ見ていただけのはそう言うしかなかったのだが、店員としては食いつきどころだったのだろう。目の輝きが増した、気がした。 「へぇ……お友達はテニス選手なんですか。どのラケットをお使いなんですか?」 「え……、え、と……。メーカーしか分からないです……」 「ラケットって、その選手の個性が出ますからねー。プレイスタイルはどんな感じなんですか?」 「え……? え、と……サーブが武器で、どちらかというとパワー型……だと思いますけど」 「ハードヒッターですか……。なら、これかな?」 すると店員は思い当たるラケットがあったのか、すっと手を伸ばしてひょいとラケットを取るとの前に差し出してきた。シルバーを基調とした特徴的なダブルブリッジで、確かに見覚えがあり「あ」とが声を漏らす。 「そうです……! たぶん、これだと思います」 「やっぱり! これを使うとは、随分とストイックな選手なんですね」 「どういうことですか?」 「このラケット、見た目以上に振り抜くのが大変なんですよ」 言って店員はにラケットを手渡し、受け取ったは予想以上の重さに僅かに目を見張った。そうして軽く振ってみろという仕草をした店員に倣い、その場で軽く振ってみると手に感じた以上の「重さ」を実感して「わ」と呟いてしまう。 「ね? このラケットを選ぶ人は、よほど筋力と握力に自信があるということです。逆に使いこなせれば、ショットがより安定して重さも出せるし、鋭い回転もかけやすい。……いいラケットですよ」 「へぇ……」 ぜんぜん知らなかった、とは感嘆の息を漏らした。 「他にも……逆に腕力不足の人にはこのラケットとか、ボレーが得意な人にはコレとか……」 スポーツショップの店員はみなこれほどの商品知識があるのか、単に彼がテニス好きなのかは分からなかったが、今まで意識もしていなかったことを色々聞かせてもらっては一つ一つ感心したように聴き入った。 「お客さまはテニスをされるんですか?」 「え……と、学校の授業で習ったくらいです……。ラケットも持ってますけど、特にこだわって選んだわけでもないですし」 「あはは。初めはそんなものですよ。でも、自分と相性のいいラケットに巡り会うときっと嬉しいですよ」 そうなのか――、とは手に持っていたラケットに瞳を落とした。確かに自分だって画材選びには気を遣うし気に入ったものだとそれだけで上手く描けるような気がするものだ。そしてこれが鳳の選んだラケットか、と思うと少しばかり持つ手に熱が入るようではそんな自分に戸惑った。 いけない、とどうにか平静を装って店員に礼を言いラケットを返してからは店内をしばらく物色し――結局はタオルを借りたのだからタオルで返すのが無難かという結論に達してスポーツタオルを購入すると帰路についた。 雨は小降りになったとはいえ、まだシトシトと降り続けており明日の試合は無事行われるのかいささか不安になってくる。もしも夜に雨があがったとしてもコートのコンディション次第では再開できないかもしれない。大丈夫だろうか、と家に帰って真っ先に洗濯機から乾燥の終了したジャージを取りだしていると「あら?」と後ろから母親の声が聞こえた。 「のジャージ? ずいぶん大きいわね」 「わ、ち、違うよお母さん……! これは……その……」 「もしかして、宍戸くんの?」 「え!? ち、違う……! こ、後輩が貸してくれたの!」 テニスの試合を見に行っていたとは母親も知っていたため宍戸の名が出てきたのだろう。はそれだけ言い残すと、勢いよく二階の自室に駆け上がってバタンとドアを閉じ、ハァ、と息を吐いた。 びっくりした、と呟いてぺたんと床に座り込む。そうして手に持っていたジャージに目を落としてぼそりと呟いた。 「後輩、か……」 つい今、自分で言ったことであるが――そして、本当に彼は「後輩」でしかないのだが。 『でも……後輩、かぁ……』 いつか、そんなことを呟いていた鳳を思いだしてギュッとジャージを握りしめる。本当に大きなジャージだ。自分が着たら軽くワンピース程度の丈はあるだろう。袖もぶかぶかだ、と考える頬が熱を持つ。 『俺は一年の鳳長太郎です。幼稚舎からあがったばかりで音楽室に入ったのも今日が初めてなんですよ』 初めて会った時の鳳から今の彼を誰が想像できるだろう? 柔らかい笑顔も、優しい性質も何ひとつ変わっていないのに――力強くて厳しい表情でコートに立つ姿はとても――と無意識に土砂降りの中で雨に打たれながら前を見据えていた鳳の姿を浮かべて熱に浮かされたようにぼんやりしていると、一階から母親の呼び声が聞こえた。 「ー! ご飯よー!」 「あ! はーい」 ハッと意識を戻して、鳳のジャージを丁寧に畳み紙バッグに仕舞ってからは下へと降りていった。そうして晩ご飯を終えて夏休みの宿題等々をこなしていると、不意打ちのように携帯が震えた。見るとメールを受信したようで、開いてみると一言こんなことが書いてあった。 "明日は這ってでも来いよ!" 宍戸からだ。どういう意味だ……? と首を捻るも、こんな風に書いているということは、いま現在二人が体調を崩したということはないのだろうとホッとする。 宍戸からすれば、もしもが会場に姿を見せなければ鳳が気にしてプレイに影響が出るのでは、という懸念からの「例え熱が出ても来い」という一言だったのだが――そこまでに読み取れるはずもない。 「明日、か……」 それぞれが、それぞれの自宅から見上げた先の空は未だに漆黒の闇からシトシトと雨粒が降り注いでいた。 宍戸は「速く止みやがれ」と空を睨み、鳳は静かな音の巡りを感じて心を落ち着け、そしては無心で繰り返される降雨をじっと見つめ続けた。 |