関東大会からほぼ一ヶ月――、あの日と同じように選手達は目覚め、いつも通りの朝を過ごして試合会場であるアリーナの森へ向かった。
 もまた、あの日と同じように自宅を出て会場へと向かう。
「氷帝は……第一試合、か。相手は椿川学園……北海道代表だっけ。しかも"跡部のヤツが緒戦なんざ出られるかっつってシングルス1を投げやがった"って……。跡部くんたら……」
 宍戸から受け取ったメールを見つつ苦笑いを漏らす。おそらく第一試合のシングルス1は二番手の芥川なのだろう。緒戦は勝敗に関係なく全ての試合を消化するという決まりがあるため、「出たくない」というのもまんざら間違いではないに違いない。
 会場に足を踏み入れ、ざわつく選手達の声を耳に入れているとどうしても関東の昂揚を思い出してしまう。今度こそ最終決戦――ここで日本一が決まるのだ。今日はベスト8までの試合が行われるため、順当に行けば氷帝は2試合をこなしてベスト8へコマを進めることとなる。昨年はベスト16だったのだから、まずは二回戦突破が鍵となるだろう。
 場所を確認して、は氷帝と椿川の試合が行われるコートへと向かった。すると相も変わらず200余名のテニス部員がぐるりとコートフェンスの周りを囲って相変わらずの盛り上がりを見せていた。
 試合開始10分前のアナウンスが入れば、両校のレギュラー陣が姿を現しいっそう場は盛り上がり、も遠目に鳳たちの姿を見て、ふ、と笑う。が――、ふと選手たちに混じって一人の女生徒の姿が見え、は瞳を瞬かせた。
「あれ……?」
 どうやら相手の椿川学園は女性マネージャーがいるようで、長い黒髪を湛えた大輪が咲いたような美貌の彼女がコートに入った瞬間、たしかに氷帝ギャラリーがどよめいた。にしても「綺麗な子だなぁ」と見惚れていると跡部はそのどよめきを良しとしなかったのだろう。益々激しい氷帝コールを部員達に要求し、レギュラー陣はコートの中央で苦笑いを浮かべている。
 相手側からすれば気分を害しても当然の行為で――マネージャーの彼女は露骨にむっとした表情を浮かべたものの、これまた跡部をいなす役目が板に付いている彼らしい忍足が彼女に「堪忍な」というジェスチャーを送り、一瞬、彼女の頬が染まったのをは目に留めた。
 相変わらず忍足はモテるんだな、などと思いつつまずはシングルス3である。全国大会はシングルス、ダブルスと交互に行う試合形式になっているらしく、まずはシングルス3の試合と相成ったわけだが全く危なげなくラブゲームで勝利を収めた。続くダブルス2はおなじみの忍足・向日ペアでこちらもラブゲームの快勝。更に次のシングルス2を務めたのは青学戦で一年生に敗北した二年生の日吉であったが、今日の相手は敵ではなかったのだろう。あっという間に試合を決めて、3タテでまず氷帝はあっさりと勝利を決めた。
 ――さて、こうなってくるとあとは消化試合である。ダブルス1は宍戸・鳳ペアであるものの、彼らが勝とうが負けようが既に勝敗は決した。彼らを迎える椿川ダブルス1の二人はあからさまに意気消沈しており――それでも椿川にとってもこれが最後の夏の試合だ。
 結果、宍戸も鳳も他のレギュラー陣同様にまだまだ力を温存しながらのラブゲーム勝利となり、芥川がコートに立ったときには既に氷帝ギャラリーはお祭りムード一色であった。
 フ、とフェンスの先で跡部の不敵な笑いが聞こえた気がしては跡部の背へと視線を送った。
「いいウォーミングアップになったな、なぁ樺地」
「ウス」
 相変わらずの物言いであったが、確かにその通りなのだろう。まずはパーフェクトな試合展開にて氷帝は一回戦突破を決めた。
 早々に試合が終わってしまったため、次の試合まで少し間がある。次はシード校との対戦であり、これを突破すればベスト8となって氷帝の歴史に新しい1ページが刻まれることとなる。彼らの視界にはおそらく青学しか入っていないとはいえ、二回戦も大事な試合だな、などと考えつつ会場を歩いているとふと見知った影が映って「あ」とは足を止めた。
「忍足くん……」
 なにやら先ほどの美人マネージャーと話をしている。これはこれで、良い出会いとなったのかもしれない。しかし忍足は跡部に次ぐ氷帝女生徒からの人気を集める存在であるため――彼女らがこの光景を見たらどうなるか、と思うとは少しばかり二人に同情した。
 見渡す限り、どのコートでも白熱した試合が繰り広げられている。都大会の時も、関東大会の時も自校の試合で手一杯で、こうして他校の試合に目を向ける余裕がなかったが――常に自分自身だけとの戦いである絵画にはない昂揚があり、なかなかいいものだと思う。特に団体戦は、達成感が桁違いなのだろうなと思うと少し羨ましくもあった。
「先輩! 見つけた」
 そろそろお昼だな、といっそ照りつけるほどの太陽を見上げているとふいに後ろから声をかけられ、振り返れば鳳が満面の笑みで何やら缶コーヒーらしきものを差し出してきては少々後ずさってしまった。
「お、鳳くん……びっくりした」
「あ、すみません、驚かせちゃって。お昼、ご一緒しようと思って先輩のこと探してたんです」
 さも当然のようにニコニコと言われて、反応が追いつかないでいると「先日のお礼です」とほぼ強引にコーヒーを握らされる。
「先輩、コーヒーお好きでしょう?」
「あ……うん。ありがとう」
 受け取って、は首を捻った。まさか彼が単独行動をしているとは思わずに、どうしても宍戸の姿を探してしまう。
「宍戸くんは……? 一緒じゃないの?」
「え……」
 すると鳳にとっては意外な一言だったのだろう。少しばかり眉を寄せた。
「気になります? 宍戸さんのこと」
「え、う、ううん、そういうわけじゃなくて……。一緒にいるものだと思ってたから」
「そんな、別にダブルス組んでるからって四六時中一緒にいるわけじゃありませんよ」
 確かにそう言われれば、先ほどの忍足もそうだったか、と思い直しては苦く笑った。ならば宍戸はどこへ行ったのだろう? いや、よく考えれば彼の部内で親しい人間は向日と芥川だ。彼らと一緒にいる可能性の方が高いだろう。
 としてはあまりに自宅が近くにありすぎて昼食を持参するという考えがなかったため鳳の話し相手になるくらいしかできることはないが、鳳はそれでも構わないのだろう。自分の昼食に付き合ってくれ、という表現に変えて二人は木の陰で涼の取れるベンチに揃って腰を下ろした。
「あっという間だったね、一回戦」
「そうですね。良い感じに身体も温まりましたし、次の試合もいけそうです」
「でも……椿川のマネージャーさん、すっごく美人だったね! ふふ、テニス部のみんな色めき立ってたもん」
「え……そうですか?」
 鳳は持参したらしきサンドイッチを頬張りながら狼狽えた様子を見せた。
「忍足くん、さっきあのマネージャーさんと一緒にいたよ。忍足くんのファンが大騒ぎしちゃうかもしれないね」
 忍足たちのいた方角に視線を流しつつ微笑むと、鳳は狼狽えたような困ったような表情を浮かべたまま自身の髪をちょいと弄った。
「お、俺にはよく分からないですけど……。それを言うなら、俺たちだって――」
「え……?」
「あ、いえ。何でもないです」
 見ると鳳の俯いた耳元が赤く染まっており、つられても赤面してしまう。そうだ――、一時は確かに気にしていたことだ。外から見れば自分は宍戸と付き合っていることにされており、まして氷帝レギュラーとなってしまった鳳とこうして一緒にいるとどう思われるか、と。けれども鳳も自分も何も変わっていないのだから、と吹っ切れて気に留めないことにしたのだ。と改めて考えそうになっては切り替えるようにコーヒーを喉へと流し込む。
「き、緊張……する? 二回戦に勝ったら、ベスト8で氷帝としては新記録になるんだし」
「少し。でも緊張と興奮の中間って感じです。だから俺、先輩のこと探してたんですよ」
「え……?」
「先輩と話してると、気持ちが落ち着きますから」
 ふ、と穏やかに笑う鳳はいつもの鳳の笑顔で。それはどういう意味なのか、とはは問わないでおいた。元々鳳はこういう言動をよくするのだからいちいち深く考えても意味のないことだろう。ただ、嬉しいと受け取ればいいのか――少しばかり戸惑う自分もいては再び誤魔化すようにコーヒーを口に含んだ。
「つ、次の試合のオーダーってもう出てるの? 跡部くん、今度はちゃんと出るのかな」
「あ、はい。跡部さんはシングルス1です。俺もダブルス1なんですけど……今度は樺地となんですよ」
「えッ!? そ、そうなんだ……樺地くんってあの大きな二年生だよね?」
 はい、と鳳が頷く。確か先ほども跡部と共にいた、よく跡部と行動を共にしている後輩だ。青学戦では腕を痛めてノーゲームとなってしまったが、さすがに一ヶ月経っているし完治したのだろう。
「なんか、すっごくパワー特化のダブルスって感じだね。もしかして二回戦の相手ってパワー型だったりするの?」
「そういうわけじゃないと思いますけど……なんか色々オーダーで揉めてて。忍足先輩をシングルスに入れるからダブルス2を動かすことになったんですけど、そうしたら向日先輩が誰と組むのかって話になっちゃって……宍戸さんと向日先輩じゃちょっと不安ということで宍戸さんはジロー先輩と組むことになったんですけど、今度はシングルスが空いてしまって……」
「あ、そっかシングルス2。樺地くんじゃダメだったの?」
「樺地でも良かったんでしょうけど……、俺か樺地がシングルスに出ちゃったら向日先輩のフォローを誰がするのかって話になって……俺もちょっと自信ないなって感じてたら結局向日先輩がシングルス3ってことになったんですよ」
「え、向日くんがシングルス……」
「はい。俺をシングルス3にして樺地と向日先輩が組むかどうか最後まで監督も考えてたみたいですが……結局こう落ち着きました。俺も樺地とならある程度慣れてますし良かったと思います」
 記憶の限り向日はダブルス専門だと跡部が言っていた気がするが――、しかし、相方の忍足が離れるとなれば存外とパートナー探しが大変なのだろう。なにせ、あれだけ個性的な選手なのだ。
「でも、楽しそうだね。向日くんのシングルス。……カメラ持ってくれば良かった」
「え……!?」
 一瞬、どれほどデッサンし甲斐のあるプレイを見せてくれるのだろうとスイッチが入りそうになった自分を叱咤しては「なんでもない」と首を振るう。
「宍戸くんは芥川くんとのダブルスなんだね……、二人とも仲がいいから良いペアになりそう」
 もしもこのダブルスが固定であれば、3年C組はクラス全員で応援に駆けつけたかもしれないな、と思うと微笑ましくもある。それにしても――、合点がいった、と思う。鳳がこの時間に宍戸と離れたのは次の試合について最終確認をする必要がないためだったのだろう。おそらく、宍戸の方も芥川と打ち合わせの時間を持ちたかったに違いない。
 しかし三年生を差し置いてのダブルス1か――、と思うと鳳はやはり期待されている存在なのだろう。
「頑張ってね」
「はい!」
 氷帝の二回戦の相手は九州代表の獅子楽中である。聞くところによると以前に宍戸が敗北した不動峰の橘はここの出身らしく、彼ともう一人、主力になっていた選手が抜けてからは一気に弱体化したということでそう警戒する相手ではないということだった。
 しかし、初のベスト8がかかっているのだから油断は禁物だ――とフェンスの外から見守るの心配とは裏腹に、氷帝の快進撃は続いた。
 珍しくシングルスでの出場となった向日のシングルス3は、やはりあの桁外れのアクロバティック戦法に相手は対応しかねるのだろう。最初の数ゲームは相手の度肝を抜くことで楽に連取し、後半のゲームは向日の体力に陰りが見え始めたことと相手がアクロバティックプレイに慣れたことが重なり続けざまにブレイクされてしまう。しかし、氷帝のレギュラー陣の中では実力の劣りがちな彼ではあるものの相手側との地力の差は一目瞭然で、盛り返してまずは一勝をつかみ取った。
「よし、行くぜジロー! 起きろ!」
「もう起きてるC〜! 楽しみだねー、宍戸とペアって超久しぶり!」
 続くダブルス2、さすがのジローも幼なじみとのペアは楽しみだったのかしゃっきり起きていては思わず笑ってしまう。しかし、ダブルスというのは全く普段組んでない相手とでも上手くいくのだろうか? 不安と疑問もあるものの、彼らは幼稚舎以前からの付き合いなのだから杞憂に終わるのだろうが――。
「うらぁジロー! テメーもっと球拾えコラ!!」
「えー、俺、ボレー担当だC〜! 宍戸が走ってきっちり返せばいいじゃん」
「ざけんな!」
 しかしやはり馴れないものは馴れないのか、さっそく1ゲーム落として沸点の低い宍戸は芥川をがなりつけ、はもはや苦笑いを漏らすしかない。とはいえ、ストローカーの宍戸とボレーヤーの芥川という組み合わせはダブルス的には理想だ。この二人だとサーブが弱いという弱点はあるが、もともとサーバーが圧倒的に有利なのはシングルスでありダブルスにおいては特にマイナス要素ではない。芥川の、実力十分だが超が付くほどのマイペースという欠点も芥川を良く知る宍戸ならある程度はカバーでき、なるほど理想的なペアである。なにより芥川の楽しそうにプレイする姿はこちらまで試合だということを忘れて楽しくなってしまう程で――ウィニングショットを決めてブイサインをギャラリーに向けた芥川を見て、芥川らしい、とは肩を竦めつつも微笑んだ。
 続くシングルス2――、これこそが変速オーダーの肝だったのだろう忍足の出番だ。おそらくは榊の、来る青学戦を睨んでの忍足のシングルス起用だ。跡部は「宍戸と向日以外は全員シングルスをやれる器」と評していたのだ。つまるところ忍足がダブルスをやっているのは向日のフォローが上手いという理由に他ならず、シングルスでの実力は芥川と張るレベルなのだろう。その忍足をシングルス馴れさせるためのオーダーに違いない。もしもこの試合に勝てば、忍足は青学戦はシングルスに収まるのだろう。
 ならば向日はどうするのだろうか? 今回はともかく、青学戦において向日のシングルスはあり得ない。そして跡部のシングルス1、宍戸・鳳のダブルス1も確定事項と予測されるため忍足がシングルスに入るとなれば――あとのシングルス一枠は必然的に樺地、芥川、日吉の中からの選択となる。日吉には荷が重いため樺地か芥川なのだろうが、おそらく先の青学戦をシングルスで惨敗した芥川にシングルスの芽はないだろう。とすればやはり樺地。すると消去法にてダブルス2は芥川・日吉か芥川・向日、もしくは向日・日吉である。芥川・向日はボレーヤー同士で微妙であるため残るは芥川・日吉か向日・日吉のどちらかだ。仮に自分なら惨敗のペナルティなど忘れて芥川を起用するが――と考えては眉をひそめた。
 素人の自分にもほぼオーダーが読めてしまうとはどういうことだろう、と若干コメカミを押さえつつ見やった先のコートで忍足は余力を残しつつシングルス2を制した。
「よっしゃあベスト8だ!!!」
「氷帝! 氷帝! 氷帝!」
 獅子楽はシード校で緒戦なため、シングルス1まで試合は行われることとなるが、氷帝が3タテしたことで早くも勝敗は決してしまった。あまりにあっさりしすぎていて、氷帝初の全国ベスト8という感慨も沸かないまま――試合は消化試合へと移行していく。
 またも消化試合となった彼らは、おそらく少し残念で、少しホッとしているだろう。例え負けても氷帝の勝利は揺るがないのだから。しかし――この状態での負けもまた許されないのだろうから、どちらにせよ大変だ、とはスタンバイに入るダブルス1を見やった。
「行こうか、樺地」
「ウス」
 鳳が樺地に呼びかけ、二人がコートに入ると獅子楽ギャラリーからどよめきが起こる。
「な、なんだあのペア……でけえ!!」
「しかも二年だと……ウソだろ!?」
 それもそのはずだ。185センチの鳳と、その鳳よりもさらに長身の樺地が揃ってコートに入れば平均身長の男子中学生から見ればまるでそびえ立つ壁である。これでダブルポーチになど出られた日には、文字通りの「壁」だ。
「鳳くん……」
 試合開始のコールを受けてサービスラインにさがる鳳の表情はいたって落ち着いていた。そうして、九州代表の彼らはきっと知らないだろう関東一の最速サーバーの名に相応しいスカッドサーブを相手コートに叩き込んで益々獅子楽ギャラリーをどよめかせている。
「15−0!」
 一回戦の時もそうだったが、鳳のスカッドサーブは本人が「進化した」という割に関東の時と変わっておらず――反対側のフェンス先から試合の様子を舐めるように見ている人物に気づいては「ああ」と納得した。青学の乾である。おそらくデータ収集が目的で試合観戦に来たのだろう。ならば尚さら、敵の前で自分の力を見せることはない。おそらくこの一ヶ月の特訓の成果は準々決勝以降のために温存しているに違いない。
 結局、余力を残した鳳のスカッドサーブに相手は手も足も出ずにノータッチエース4連発であっさりサービスキープしてしまい、続く第2ゲーム。このペアだと鳳は積極的にリーダーシップを取ってゲームメイクをしていかなければならないのだろう。なかなかに苦戦していた様子だったが、やはり二年同士なためか楽しげで危なげなくポイントを重ねていった。何より長身に加えて怪力を誇る二人を相手に相手の選手達の腕は悲鳴を上げていったのか、数ゲームが終わる頃にはショットの度に苦悶の色を顔に広げていた。
「いっけぇ長太郎ーー!!!」
 熱の入る二年生陣からの声援に後押しされるように、鳳はウィニングショットとなる見事なショートクロスで相手ペア前衛のラケットをはじき飛ばして勝敗は決した。
 おそらく、このダブルス1が二回戦中でもっとも盛り上がった試合であった。相変わらずギャラリーに好かれているのだな、とはにかんだ表情でギャラリーに応える鳳を見て微笑ましく思う。
 が、この後に控えているのはこの程度の盛り上がりなど生温いと却下する勢いで氷帝コールを要求してくる氷帝の揺るぎなきシングルス1だ。もはや獅子楽中に同情を覚えるほどのド派手なパフォーマンスで跡部はラブゲームで試合を決め、氷帝はベスト8へとコマを進めて本日の試合は全て終了した。
 けれども――今日の試合は彼らにとっては待ち望んでいた青学との再戦へのウォーミングアップに過ぎなかったのだろう。むしろ、ベスト8を決めたあとの方が表情に厳しさが増していた。
 青学も当然のようにベスト8に勝ち進んでおり、氷帝にとっての真の戦いの日は明日ということになった。
 青学との再戦――にしても思い出すだけで胸が締め付けられるようなあの関東大会の緒戦。鳴りやまない氷帝コールはいまも耳に鮮明に甦ってくるほどだ。あの時、コートに置き去りにしてきたものを、今度こそ青学にぶつけて彼らは勝利をつかみたいに違いない。だから、自分も――と遠巻きに彼らを見送ったに出来ることといえば、やはり黙って見守ることだけなのだろう。
「明日、か……」
 嵐の前の静けさ、とでも言うのだろうか。既に今日こなしたばかりの試合が遠い過去のことのように思えてきてしまう。
 それはレギュラー陣にとっても同じだったに違いない。勝って当たり前。目的はただ一つ。青学を倒して全国制覇のみ。明日こそが全国大会の本番であり、今日の試合はいわば序章に過ぎないのだ。
 氷帝学園テニス部レギュラー陣は明日の試合についての軽いミーティングを行ったのち、夕刻前にはもう解散となってしまった。
 それぞれが思い思いに時を過ごし、気持ちを新たに明日の試合に臨めといういつもの跡部の放任主義によるものであり――氷帝学園最強ダブルスとなったダブルス1の宍戸・鳳はこれまたいつものように自主練をこなそうと学校に戻ってテニスコートに立った。
「一球……入魂!」
 今日の試合では見せなかった鳳のネオスカッドが無人の相手コートに叩き込まれて、コートサイドで見ていた宍戸はにやりとほくそ笑む。
「いい仕上がりだな、長太郎。コントロールも完璧だぜ!」
「はい! ありがとうございます!」
 今日の試合の疲れよりは明日の試合への高揚感が格段に勝っており一晩中でも打ち続けられるほどの気持ちだったが、大事な試合の前日はやはり身体を休めることも仕事である。二人はずっと想定し続けた青学黄金ペア対策の最終確認を一通りして二時間ほど汗を流すと、いつもより早めに練習を切り上げることにした。
 けれど――、今日の試合の興奮も冷めていない状態で明日の試合は待ち望んだ青学戦ということもあり、二人にすれば「暴れ足りない」状態であり、シャワーでひと汗流して部室を出ても帰宅する足取りがどことなく重くなってしまう。だが、「もっと練習するか!」という一言は今日は無理だと分かっているだけにどちらも口にはせずしばし無言で歩いていると、ふと鳳が足を止めた。
 その鳳の視線の先は特別教室棟に向けられており、宍戸も足を止めて眉を寄せる。――ダブルスのパートナーともなると、相手が何を考えているかある程度は読めるようになるのも厄介なものである。普段なら「どうした? さっさと行くぞ」と気にも留めない所であるが、いつもよりもどこか熱っぽく縋るような表情を彼はしており――ヤレヤレ、と肩を竦めた。
「ピアノなら家でいくらでも弾けるだろーが」
「え……!?」
 我ながら意地が悪いだろうか、と宍戸は内心自身に「激ダサだぜ」と呟いた。鳳が見ていたのは音楽室ではなく、美術室だと分かり切っていてそう言ったからだ。のことを考えているのだと分かってはいたが――、「今はアイツは美術室にはいねぇぞ」などと言ってしまってものちのち面倒なことになりかねない。会いたいなら自分の知らない所で勝手にやってくれ、と思うものの――と自分は互いに一番近しい存在の異性だと思っていたというのに、と少々唇を尖らせる。の全てを知っているわけではないが、おおよその思い出の中で常にはそばにいた。おそらくはにとっての自分もそうであるはずだ。だというのに、なぜ鳳なのだろう? 先日、スポーツドリンクを差し入れてくれたときも――彼女はどちらを見ていたのだ? などと考えるだけ無駄だ。例えどちらか一人がコートに立っていたとしても、は同じ行動を取るはずだからだ。ただ、目の前で見た二人は自分の把握していない親密そうな二人の姿で、少し動揺を覚えたのも事実だ。
 しかしながら、おそらく鳳から見た自分たち二人もそう感じられただろうから――鳳の気持ちも少しは分かるのだが、と宍戸は戸惑っているらしき鳳を見上げて帰路へと促す。
「おら、行くぞ」
「あ……はい」
 鳳が「違います」などの反論を出来ないことを知って宍戸は強引に歩き始めた。そうして今日の夕飯はなんだテレビはどうだと他愛のない雑談を口にし、鳳と別れてからふと宍戸は携帯電話を取りだして無言で液晶の画面を見やった。無意識にリストからの連絡先を表示させて「」と映し出された画面に目を落とす。10秒ほど見つめたあと、深い溜め息を吐いてから宍戸は勢いよく二つ折りの携帯を閉じた。用事でもない限り、と特に連絡を取ったこともない宍戸だ。大事な試合前にわざわざ話をしたいとも思えず――逆を言えば、その程度の関係なのだな、と考えるよりも前に家に向けていた足を方向転換して近所のストリートテニス場に向けた。身体を休めることも大事だが、あとひと汗流すくらいならば平気だろう。
 一方の鳳は宍戸と別れてからは真っ直ぐ自宅に向かい、家族と共に食事を取ったのちに防音設備の整っている部屋のグランドピアノの前に座っていた。けれども――、一向に指を動かさず、ただ鍵盤を見つめるのみだ。
 明日に青学戦を控えた状態では自身の音が荒っぽくなるのは目に見えていて、あまり自分でも聴きたくはないものだ。この感情はピアノにぶつけるのではなく、やはり明日、テニスで消化すべきものだろう。だが――。
「先輩……」
 いま、無性にに会いたい。会って話をしたいと思うのは――なぜか彼女の顔を見ると安堵するためだろうか。今日だって会場に彼女が来ていると分かっていたから、探さずにはいられなかった。そしてできるなら、自分だけを見ていて欲しかった。けれど――明日は宍戸とのダブルスだ。宍戸とが親しいのはよく分かっている。と自分と宍戸、この三人でいるといやでも彼女は宍戸と普段から共にいることが自然なのだと思い知らされるし、今日だって彼女はダブルス2の宍戸・芥川の試合を一番熱心に見ていた――ように思う。思い込みかもしれないし、彼女にとっては宍戸と芥川はクラスメイトなのだから応援に熱が入るのも当然だと理解は出来る。けれど、感情に靄がかかるのはもはや自分でもどうしようもない。
 試合後はレギュラー陣は反省会ののちにミーティングとなったためと話もできずに、宍戸と自主練を終えたあともついつい誰もいないであろう美術室を未練がましく見つめてしまったのだ。宍戸であれば、いつでも話したい時にと話ができるというのに――と携帯やメールで連絡を取り合っていた彼らを思い浮かべて眉尻を下げる。
 やはり、宍戸には勝てないのだろうか――。
 いや、これは勝ち負けの問題ではないし、宍戸のことはとても尊敬していて、二人でまた青学に挑めるのはこれ以上ないほどの喜びではあるが――だからこそ、なのかもしれない。
 諦めに近い溜め息を吐いてピアノの蓋を閉じると、後ろから聞き慣れた鳴き声が聞こえた。唯一の観客であった飼い猫である。こちらを見上げてくるような目線は、弾かないの? と訴えているのだろうか。ほんの少し笑ってから鳳はしゃがみ込んで手を差し伸べた。
「おいで、フォルトゥナータ」
 呼べば、彼女はソファから飛び降りて駆け寄り甘えるようにして鳳の手にすり寄ってくる。抱き上げてシャム猫特有の焦げ茶色の毛を撫でつつ鳳は瞳を閉じた。伝う温もりに、少しだけ安心する。
 こんな風に、自分はを――と考えそうになった自分に溜め息を吐いて、鳳は少し苦笑いを漏らした。



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