氷帝学園テニス部は予定外の三年引退で夏休みの予定はフレックスを極め、全体練習は週の三回、自主練習はいつでも好きに行っていい、というほぼ自由活動のようになっていた。加えて次の部長もまだ決まっておらず、どこか焦点が定まっていない。 夏休みと言えど、部活で学校に来る生徒・補習を受けに来る生徒は多くそれなりの人数で学園そのものは賑わっているものの――何だか寂しいものだ、とは遠くのテニスコートの方をちらりと見やった。よく跡部がやらせていた氷帝コールの練習がここ最近めっきり聞こえてこない。あれはあれで、確かにこの氷帝の日常に溶け込んでいるものだった、と強い日差しに目を窄めながら思う。 8月に入り、東京はヒートアイランド現象も相まって猛暑を極めている。通年ならば氷帝も出場していた全国大会も、あと10日ほどで開幕だ。聞いた話によると関東大会はあの青春学園が優勝して全国にコマを進めたということだ。 『青学には絶対に全国へ行ってもらって優勝して欲しいです』 鳳はああいっていたが――、やはり、悔しいものだろう。もしも自分なら、もう一度青学と――と考えつつはテニスコートに背を向けて特別教室棟へ足を向けた。すると、後方からよく見知った声に呼びかけられて足を止める。 「おーい、ーー!!」 宍戸の声だ。驚いて振り返ると、案の定、宍戸が息を切らせてこちらに走ってくる姿が見えた。しかも制服ではなく私服姿だ。テニス部にでも顔を出しにきたのだろうか? 「ど、どうしたの……?」 「お前、跡部を見なかったか?」 「え……跡部くん? ううん、見なかったけど」 やけに逸るような、そしてどこか嬉しそうな宍戸はの返事に「そうか」と頭を掻いた。 「ったく、あいつどこほっつき歩いてんだか……こんな時だってのによ」 「え……どうかしたの?」 宍戸の全身からウズウズしている様子が伝ってきたが、には全く分からずに宍戸の方に歩み寄ると宍戸は未だかつてないほど弾けるような表情で、そして勢い余ってしまったのだろう。強くの両肩を掴んで、間近で満面の笑みを浮かべてみせた。 「俺たちも行けるんだ、全国!」 「――え!?」 「今年の全国大会、開催地が東京でよ。推薦枠で一校出られることになってたらしいんだが……それがウチに決まったって、たったいま連絡があったんだとよ!」 肩を痛いほどに掴んできた宍戸からこれ以上ない昂揚が伝って、一瞬、理解が追いつかずに惚けると宍戸は少しはにかむようにして白い歯を見せる。 「ま、自力じゃねぇのはダセぇけどさ、出られるんだぜ、全国大会!」 「ほ、ほんとう……? じゃあ、鳳くんも……」 「ああ、また長太郎とダブルス組めるぜ! ――って、だから跡部のヤツを捜してんだが、学校来てねぇのかよ」 まだ理解が追いつかないの前で宍戸はキョロキョロと周りを見渡すような仕草を見せ、「んじゃ、あっち探してみるか」と校舎の方へと走っていった。 ――これは、神がくれた贈り物なのだろうか。 あれほど辛い特訓を続けてきた宍戸と鳳への、そして氷帝テニス部員達への――。いや、そうではない。いままでの氷帝生たちが築き上げた強豪という歴史が偶然を必然へ繋げたのだ。 「鳳くん……!」 ウソみたいだ――、とは両手で口元を覆った。これが事実なら、例え「開催地枠」というレッテルを貼られたとしても嬉しいだろう。 いや、しかし、だ。部長はあの跡部である。果たして自力出場でないことを素直に承諾するのかどうか。まさかあれほど喜んでいる宍戸をよそに、拒否するなどということもないと思うが――、は美術室に向けようとしていた足を方向転換し、自分も跡部を捜すことにした。 とはいえ、跡部の行きそうな所といえば、と考えるもサッパリ分からない。取りあえず図書館、カフェテリア等々を巡るがさっぱり跡部の影はない。 「ねえ、テニス部って……!」 「うそ……ッ!」 校内を駆けているとテニス部に関する話をする生徒の声が何度も耳に入ってきて、おそらく既に大多数がテニス部の全国出場を周知しているのだろう。 「跡部くん……」 本当にどこへ行ったというのだ、と唇をキュッと結んでからは眉を寄せた。そうしてハッとする。 「そうだ、テニスコート……!」 まだ一カ所、跡部がいそうな場所へ足を踏み入れていなかった。まさかとは思うが、皆が出払っている今だからこそ彼のことだ、コートで一人打っているということも十分に考えられる――とが小走りでテニスコートに向かい、スタンドの反対側のフェンス側からテニスコートを見やると確かに人影が二つ。 「跡部くん……、忍足くん……!」 コートには跡部と、スタンド側に忍足の姿が見えてホッと胸を撫で下ろす。忍足がいるということは、もう大丈夫だろう。少しばかり乱れた息を整えているとスタンド側からレギュラー陣がコートに走り込んでくる姿が見えた。 「いたいた、おーい、跡部ーー!! お前も聞いただろー!? 俺たちも全国行けるぜ!」 宍戸だ。鳳以下、向日たちの姿も見える。しかし宍戸の呼びかけにも動じず、跡部は壁打ちを続ける手を止める気配はない。それを無言の拒否と受け取ったのか、彼らは一丸となって説得にかかる。 「俺たちは、例えどんな形であろうと全国へ行って青学の奴らにカリを返したい!!」 青学の一年生エースに敗北した二年生だ。確か日吉と言ったか――、おそらく氷帝の敗北を誰より自分のせいだと責めたであろう彼の叫びもまた、心からの訴えだろう。 「部長、お願いします!! 俺は……、俺は部長たちとまたテニスがしたいんです!」 鳳も必死に跡部に呼びかけている。その後輩たちの姿に跡部が打たれたかどうかは分からない。ただ、壁から戻ってきたボールを手で止め、しばし息を整える跡部をもジッと見守った。そしてどれほどの沈黙が続いただろう? ふと、の耳に図らずも懐かしいあのかけ声が聞こえ始めた。 「氷帝……氷帝……!」 氷帝コールだ。驚き振り返って校舎を見上げると、いつの間に用意したのだろう。「全国大会出場おめでとう」という垂れ幕を垂らして無数の生徒達がテニスコートに向かって盛り立てるように氷帝コールを送っていた。 「氷帝! 氷帝! 氷帝! 氷帝!」 突然のことに、も、レギュラー陣もぽかんとして校舎を見上げる。鳴りやまない氷帝コールに達が惚けている後ろで、跡部はぼそりと「バカ野郎」と呟いた。 「どいつもこいつも浮かれやがって」 跡部が何を思ったかはには分からない。自力で掴めなかった出場など意味がないと感じていたのかもしれない。ただ、俯き気味だった顔をあげた彼は、の良く知るいつもの跡部の姿だった。そうして指で合図を送り、跡部はいつものように氷帝コールを止める。 「俺様と共に、全国へついてきな!!」 途端、ワッと学校全体が揺れるほどに盛り上がり――あまりのことにはあっけに取られつつも、ふ、と微笑んだ。そうしてコートを見やると、スタンドから降りたレギュラー陣が跡部を取り囲んで何やら嬉しそうにしている。 良かった、と微笑んで踵を返そうとしていると、フェンス外のこちらに気づいたのだろう。珍しく宍戸が満面の笑みでこちらに向かって手を振ってきては目を見開いた。あまりこういう事はしないタイプだというのに――よほど興奮したのだろう。すると宍戸につられて鳳もこちらに視線を向け、あ、と言いたげに目を見開いたのちにいつも通り穏やかに微笑んで軽く手を振ってくれた。 二人に向かって手を振ると、は今度こそ踵を返した。駆け寄って、おめでとう、と声をかけたい気もしたが、あまり彼らの邪魔はしたくない。 「んだよ、冷たいヤツだな」 一方の宍戸はというと、勢い余ってに向かって大手を振ってしまったこととあっさり彼女が去ってしまったことで一気に気恥ずかしさが押し寄せてきたのだろう。悪態を吐いてどうにか自分を誤魔化していた。しかしすぐに振り切って、ニ、と隣の鳳を見上げた。 「まァ、これでお前ともまたダブルスやれるな。よろしく頼むぜ!」 「はい、こちらこそ!」 いま、何よりも喜ぶべきは鳳と再びコートに立てることだ。鳳と見つけたダブルスの可能性――自分たちはまだまだ強くなれることを、証明する場所が出来た。互いに頷きあっていると、跡部がストレッチよろしく肩を回しながら皆を試すような視線で一望してきた。 「二年はともかく……、お前らは引退気分で腕なまってねぇよな? アーン? 言っとくが使えねぇ奴らはレギュラーから外すからな」 「んなわけあらへんやん。こないな時まで冗談言わんといてや」 跡部の言葉を忍足がいなし、皆で顔を見合わせて笑い合う。――このメンバーで、例え開催地枠でも全国へ行けるのだ。 夏はまだこれから。 そのことが、宍戸も、鳳も、いまはただ胸を満たすほどの喜びでいっぱいだった。 ひと月ほど前の七月のあの日。――このコートに、自分も、鳳たちも何かを置いてきた。そして彼らは再びここに戻り、自分は――。 全国大会を一週間後に控えた夕刻、はテニスの森公園の関東大会一回戦の行われたコートスタンドに立ち、中央のコートを無言で見据えていた。朱色に染まる空間へ向け、無言のまま手でフレームを作り、焦点を絞って見つめてみる。 『15−0!』 スカッドサーブを放った鳳の、まるで別人のように逞しかった勝負に臨む姿。グイグイと強いリーダーシップで宍戸が彼を引っ張っているようでいて、あの試合は鳳がしっかりと宍戸を支えていた。本当に、不思議な人だ――と思う。ピアノが好きで、自分と同じようにスケッチブックを持ち歩くくらい絵も好きで、絶対音感のせいで雨音がカノンなどと言いだしたかと思えばテニス部のレギュラーになってしまって。穏やかでいつも優しいのに、試合中はあれほど厳しく頼もしい姿も見せてくれた。 でも、やっぱり鳳は鳳で――。 あの日、自分は何かの答えに近づけたのかもしれない。この茜色の空間の中に残してきた感覚――。皆のテニスにかける想い、絆、敗者と勝者。このフレームの中に、何かを掴めそうなのに、とは自身の指で作った枠越しの世界を見て眉を寄せた。 まだ、怖いのかもしれない。答えを出すことが。ただ、このコートに置き去りにしたものを彼らと共に追いかけたいと思う。この夏が終わるまで――、一緒に。 そう、全国大会まであと幾日もない。 願ってもない出場となったはいいが、やはり引退気分でもあった宍戸はいつも以上のハード練習を自身に課しつつ鳳とのダブルスを煮詰めていた。 「大石は……お前の話によると右手首を痛めてるんだったよな?」 「はい。俺も先輩に聞いたんで、詳細は分からないんですが……人命救助とかで」 「おっと。情けは無用だぜ、長太郎」 青春学園とはトーナメントの関係上、準々決勝まで勝ち進めば再び相まみえる予定である。だからこそ次こそは黄金ペアが出てくると踏んでの対策会議だったのだが、意外にも先月の関東大会での大石不在が負傷によることだと判明したため今なお同情気味の鳳を叱咤するように宍戸は声を強めた。 人命救助はともかく、大石の負傷は本当なのだろう。続く二回戦は怪我を押してまで出場したようだが、準決勝は欠場し、決勝も本調子ではなかったのか本命のダブルス1だというのに黒星を記している。しかし、決勝は実際にこの目で見てきたが菊丸のアクロバティックに一層磨きがかかって厄介だという印象は残っていた。 「で、この二回戦の試合なんだが……」 「城成湘南戦ですね。この試合、何度見ても大石さんのクレバーさに驚かされます。これは俺たちも見習わないと……」 「う……、そういうのはお前がやってくれ」 いま、部室の映写機に映っているのは関東大会二回戦の青学VS城成湘南戦のダブルス1である。明らかに大石は右手を庇いながらのプレイであったが、巧みにアンダーサーブやトップスピンを使い分けて相手の虚を突き、巧妙に相手を翻弄している。しかも――だ。都大会の聖ルドルフ戦で見せた"オーストラリアンフォーメーション"を更に発展させた"Iフォーメーション"という陣形までも披露しており、これには宍戸も頭を抱えた。 鳳もリプレイを見つつ、顎に手をやって唸っている。 「Iフォーメーション……。前衛がセンターラインをまたいだ状態で腰を落とし、サーバーもセンター近くから打つという"I"の字を思わせる陣形ですね。ストレートでのリターン及びネットミスを誘導しているオーストラリアンフォーメーションと違って、これは前衛がどちらに動くか予想ができない」 「ああ、オーストラリアンに比べてこっちはやたら攻撃的な陣形だ。加えて菊丸の守備範囲の広さ、厄介だぜ」 「しかも、サーバーはワイドではなくほぼセンターに打ってきて返球に角度を付けさせまいとしている。これにより菊丸さんはどの球にも対応が可能となってあのアクロバティックボレーでポイントを奪う、という作戦ですね」 「センターに打てば大石の手首への負担も減るしな。全く……」 オーストラリアンフォーメーション対策として、ストレートの強打をミスなくこなすという練習は重ねたものの、相手がIフォーメーションを使ってくればそれもほぼ意味がない。なぜなら、この二つの陣形は似ているようで性質が全く違っているからである。 「でも、サーブがセンターに来るって分かってるようなものですから、レシーバーは結局のところストレート気味で返せば例え菊丸さんがどっちに動いてもカバーはできますよ。例えば予め俺たちがどっちのコートをカバーするか決めておくとかして……。ほら、こうです」 ホワイトボードに手早く描いて解説してみせる鳳に、成る程な、と宍戸も唸る。ストレートで返球すれば、対応する立場である菊丸もボレーに角度を付けにくいということだ。すれば、宍戸・鳳の守るべきエリアも狭まり、予め菊丸のボレーに対したの自身のカバー方法を決めておけばそう怖いものでもないだろう。 「逆に菊丸を避けようとロブでも打った方が厄介ってことか」 「ええ。うっかりロブをあげると菊丸さんをブラインドにした大石さんのスマッシュにやられるのがオチですからね。かといって……確実な対処法はダブルバックですが、あまりに無難で消極的すぎる」 ともかくこの陣形は攪乱が目的だ。乱されずに構えているのが一番の対策だろう。しかし、鳳の言うように構えすぎるのもよくはない。 「ああ、練習ん時に岳人あたりに仮想菊丸をやってもらうしかねぇよな。大石のサービスを一回でも破りゃでけえしよ。なんせこっちはお前のサービスだけはぜってー破られねえからな!」 「そんな……100%とは言えませんよ。でも、乾さんのおかげで俺のスカッドもだいぶ進化しましたしね」 「ああ、お前が日本一って所を見せてやれ! 日本中の奴らがびびるだろうよ、まさか開催地枠に大会最速サーバーがいたなんてな、ってよ」 肩を叩いてそう言うと、鳳は照れたような仕草を見せた。だが、実際に鳳はサーブのフォームを修正してコントロールもほぼ自由自在となっており――鳳のスカッドサーブはこれまでのスカッドサーブとは全く違うものに変化していた。おそらく、青学側が以前の鳳のままだと踏んでいたら痛い目を見るだろう、と宍戸はにやりとほくそ笑む。 「ともかく、だ。青学戦までは温存しとけよ。ネオスカッドは」 「ていうか、そのネーミング、ありなんですか? ネオスカッドって……」 「う、うるせぇ! 新スカッドとかニュースカッドより激イケだろうが!!」 「うーん……スカッドはスカッドで新も旧もないんですけど……」 困惑する鳳を一蹴しつつ宍戸は再び映写機モニターの方へ視線を移した。城成湘南戦のダブルス1は大石・菊丸ペアの辛勝。彼らの勝利を告げるコールを聞いて、痛いほどに拳を握りしめていた。 全国大会を控え――しかし、美術部のにはそのことは関係ないと言ってしまえば直接関係はない。 「うーん……」 美術室で、自身の前にあるキャンバスを前には筆を下ろしてしかめっ面を浮かべていた。たまにやる練習の一環として、また夏休みの宿題として「名画の模写」が出ていたため夏らしくゴッホの「15本のひまわり」を描いていたものの、そう納得できずに重い溜め息を吐いた。ことに個性の違う画家の筆を模倣するのは確かに意外な発見もあって勉強になるのだが――こういうことはスポーツと違い勝ち負けもなく、永遠に終わらない戦いに挑むようなものだ。 「やっぱり、もっと練習しないと……」 コンクール荒らしだのなんだのもてはやされても、自分がそこまで何かを修めたとはは微塵も思っていない。もっと上へいくには、やはりここに留まっていてはダメなのだろう、と自身の描いたゴッホを見据える。この向日葵の咲き誇る南フランスのように、やはり本場の空気を感じながらではないと、いくら模写したところで――と眉を寄せてから、ふ、と息を吐いた。 どちらにせよ「名画の模写」が宿題である以上、始業式直前になったら宍戸から手伝ってくれコールがあるんだろうな、などと考えつつふと時計を見やると既に七時近くを指していてギョッと目を丸める。 「うそ……ッ!」 いつもの放課後ならいざ知らず、夏休み中でこれではさすがに遅すぎだろう。思い返せば今日は部長ほか何人かが美術室に顔を出していたが、彼女らを見送ってから既にかなりの時間が経ったような気がする、とは慌てて帰り支度を整えると特別教室棟を出る。 すっかり日も落ち、まとわりつくような熱気では一気に自分の身体がじっとり汗ばんでいくのを感じた。これでは帰り着くまでに汗だくになってしまう、とふとテニスコートの方を見やるとまだ明かりがついていて、まさか、とは息を呑んだ。 「まだ残ってるの……?」 あまり人のことを言えた義理ではないが、この猛暑の中、一日中練習を続けていたのかと思うと相当なものだろう。まさか――と思い当たる人影が脳裏に二人分ちらついては正門に向けるはずだった足をテニスコートに向け、そっとスタンドを上ってコートを見やった。すると夜間照明のもとで打ち合いを続ける二人の姿があって、やっぱり、と呟く。 「鳳くん……宍戸くん」 軽快なインパクト音の元、証明に照らされて汗の飛び散る様子がスタンドからでもはっきりと分かった。いつぞやの自虐的訓練と違って、二人の表情はすこぶる楽しそうだ。今はただ、こうして打てることが嬉しいのだろう。しかし――ものの見事に汗だくで見ているこっちが不安になってしまう。 スポーツドリンクでも置いていこうか、といったんコートを離れて二人分のスポーツドリンクを購入してからまた戻り、は「うーん」と唸った。練習の邪魔はしたくないし、コートサイドに置いておけばいいか、とそっとコートまで降りていくと先ほどよりも近くで乾いたボール音が反響して思わず見入ってしまう。 ふ、と微笑んでベンチに置いてあったタオルの横にドリンクを置くとはそっと二人に背を向けた。が――。 「あ、おい! 待てよ――ッ!」 「――ッ!」 宍戸の大声に呼び止められては片目を瞑った。彼はとは反対側のコートにいたため視界に入ってしまったのだろう。 「こ、こんばんは……」 「なんだよお前、来てるなら来てるって言えよ! ったく」 振り向けば、宍戸はラケットを肩に担ぐような仕草で肩で息をしている。そばにいた鳳もこちらを振り返って、驚いたような視線を向けていた。 「先輩、なにしてるんですか……こんな遅くに」 「あ、その……美術室にいたんだけど……コートの照明がついてたから気になっちゃって」 「ええッ!? こんな遅くまで?」 「お互い様じゃない」 まず真っ先にこちらを案じてくれる辺りがいかにも鳳らしい、と思いつつもは肩をすくめる。しかし彼らの練習に横やりを入れてしまうのは忍びなく、早々に切り上げる。 「じゃあ、熱中症には気を付けてね」 「あ……!」 「だー、待てって! お前、一体何しに来たんだよ!?」 あまり追及されたくないというのに。宍戸にはがなにをしに来たか分からなかったのだろう。対する鳳はベンチに乗せられたドリンクに気づいたらしく宍戸にその旨を伝えたものだから、は観念して差し入れに来たことを告げた。 「んだよ、それならそうと言やいいのに。おい長太郎、ちょっくら休憩すんぞ」 「はい!」 これは自分に気を遣ってくれたのか、はたまた本当に休憩を入れるタイミングだったのか。二人は滝のように流していた汗を拭いながらベンチに腰をおろし、それぞれ礼を口にしてからドリンクに口を付けた。その彼らの喉が鳴る様子を見つめながら、やはり喉が渇いていたんだな、と思いつつ息を吐く。そうして何気なく鳳の右手に視線を落とすと――以前にもまして大きな手が分厚く荒れているようでは僅かに目を見張った。 「鳳くん……その手……」 「え……?」 「わ……、また、そうとうサーブの練習したのね」 屈んで鳳の右手にそっと触れてみると、以前にも増して何度も何度もマメが潰れ分厚くなった形跡があって思わず息を呑んだ。鳳のことだ、乾に気づかされた弱点を克服するために猛練習したのだろう。と思いつつ鳳の顔を覗き込むと、思いのほか間近で目があってハッとする。 鳳の方も驚いた様子を見せたが、存外との行動に慣れてしまっていたのだろう。が慌てて手を引く前にの手首をそっと握って捕まえ、大きな手をの指に絡めるようにして、ふ、と笑った。 「先輩こそ……。相変わらず、ですね」 「え……?」 「俺が気づいてないとでも思ってました?」 鳳に触れられた先の右手指に視線を落として、ああ、とは納得した。端から見れば痛ましいほどに腫れ上がった指だったが――すでに慣れたものだ。 「こんなの、ただの筆だこだよ」 珍しくもなんともないものだが、こうしてじっと見つめられるとさすがに気恥ずかしく――。それに、仕方のないこととはいえ、自分では誇らしく思ってはいても、決して美しい手でもなく。鳳はしきりに感心しつつ褒めるような眼差しを向けてくれているが、気まずいのと身体が熱いのと、彼の指が自分の手を滑るたびに心音が響いて痛い。そろそろ解放してくれないか、と視線で訴えるも鳳にその気配はなく――、自分より二回り以上は大きい彼の手をぼんやり見つつ、大きな手だな……と夕闇の中で一人頬を染めていると、ゴク、とそばで豪快に喉を鳴らす音が耳に飛び込んできた。 「ったく、この絵バカが!」 「わっ!」 いきなりラケットのガットで宍戸に軽く頭を弾かれ、驚いて起きあがった勢いでは鳳から手を離した。見やると、宍戸はどこか居心地悪そうに眉を寄せつつスポーツドリンクを握りしめている。 「どうせお前、今日一日中美術室にこもってたんだろ? オイルくせーしよ」 「――えッ!?」 「いや油くせぇのは年がら年中だな。だいたいお前っていっつも油まみれだしよ」 いきなり何を言い出すんだ、とあっけに取られただが美術部員の宿命として油絵の具のニオイが染みついていることは自覚しており――宍戸から一歩引いて涙目になっていると慌てて鳳がフォローに入ってきた。 「し、宍戸さんなに言い出すんですか! いくらなんでも酷いっすよ」 「うるせぇ!」 「い、いいの鳳くん! ……事実だし」 「そ、そんなことありません! だいたい、汗だくの俺らが言えた義理じゃありませんよ」 「うるせぇ、これは努力の結晶だっつーの!」 何か宍戸の機嫌に触ることでもしてしまったのだろうか? 困惑しているの前でヒートアップした宍戸を鳳が宥めつつ、しばし二人は言い合いを続けていた。そうして宍戸は一通りがなり立てると落ち着いたのか、ふう、と息を吐いてからドカッとベンチに腰を下ろして天を仰いだ。 「全国、か……」 月明かりがおぼろげにこの場を照らし付ける中、ふと三人の胸に飛来したのは関東大会でのことだったのだろうか。は感慨深げに呟いた宍戸の視線の先を追ってから、隣にいた鳳の方を見上げた。 「今度こそ、大石くん・菊丸くんと試合ができるといいね」 「はい! でも、また乾さんとやってみたい気もします。俺の進化したスカッドサーブを受けてみて欲しいな、なんて」 「私も……楽しみだな。鳳くんのサーブ」 「先輩……、来てくれるんですか!?」 何気なく呟くと、鳳の顔がパッと明るくなっては少々まごつきつつ口元に手を当てた。 「う、うん。その……迷惑じゃなかったら」 「迷惑なんて! 俺、先輩が見ててくれた方がぜったい頑張れますから!」 勢い余ったのか鳳はの両手を取って力一杯握りしめ、痛みから顔をしかめたにハッとして「す、すみません」と手を離すとベンチの宍戸が小さく舌打ちする音が聞こえた。 「激ダサ……」 やはり虫の居所が悪そうな宍戸を見て、は本当にどうしたのだろうと彼に歩み寄ってから首を捻った。 「どうかした? あんなに鳳くんとまたダブルス組めて嬉しい、って言ってたのに」 「ちょッ! ばっ……ア、アホ! お前、なに言ってんだよ!」 「違うの?」 「ちがッ、違わねぇけど! ――ああもう、分かったよ俺が悪かった!」 「もう、何のことだか全然わかんない」 他人が見たら不機嫌そうな宍戸というのはさぞ近寄りがたいのだろう。しかしにしてみればもはや日常的なものでしかなく、こうして彼をいなすこともいつもの事であるため、カッと赤くなったかと思うとバツの悪そうな表情を浮かべてキャッチャー被りにしていた帽子を深く被りなおす宍戸を見つつ肩をすくめた。 宍戸の方も意識を切り替えようとしたのか、一つ咳払いをしてからに向き直る。 「つーか、お前、全国の日程知ってんのか?」 「え……? えーっと……会場が関東と同じなのは知ってるけど」 「ったく。あとでメールしてやるよ」 「ホント? ありがとう」 そう、二人にとってはあまりに日常のやりとりすぎて――後ろで鳳がグッと拳を握りしめて二人を見つめていたことをも宍戸も気づけない。ただ、が鳳の方を振り返った時に彼は確かに見覚えのある表情を浮かべており――、それがいつのものだったかが思い出す前に鳳の方がハッとしたのだろう。いつものような穏やかな笑みに変えた。だからも見間違いか? と感じつつ微笑む。 「じゃあ、私は帰ろうかな。二人とも……程々にね」 すると鳳はギョッとしたように慌てた仕草でこう捲し立てる。 「ちょ、ちょっと待ってください、俺、送っていきますよ。もう夜なんですし」 「大丈夫、平気だよ、ありがとう」 でも、と案ずる鳳の申し出を断りつつが宍戸の方にも視線を送ると宍戸は「ああ」と頷いた。 「差し入れ、ありがとよ。気を付けて帰れよ」 「うん。――じゃあね」 鳳の方は納得いかない表情のままだったが――、どうにか無理やり自身を納得させたのだろう。頷いてから「お気を付けて」と言ってくれ、も彼らに手を振ってテニスコートをあとにする。程なくして、彼らは練習を再開したのだろう。遠くでボールを打ち合う乾いたインパクト音が聞こえ始めた。コートに背を向けたまま微笑みつつは正門を目指し、そうしてふと自身の右手に瞳を落とす。 物心ついた頃からおそらく一生消えることのないだろう自身の筆だこ。自身の誇りでもあり勲章でもあるが、やはり女性らしい美しい指からはほど遠く――ギュッと隠すように左手で右手を握りしめてそっと瞳を閉じた。すると鳳の指の少し汗ばんだ感覚、間近で見た瞳の色がリアルに甦ってきてはかっと頬を染める。やけに身体が熱いのは熱帯夜のせいだろうか……? 「っ……」 そうだ、きっと、そうに違いない。それに――いまはまだ、答えなど必要ない。はそう思い直していつもの通学路を歩いていった。 |