『先輩はどうして、人物画を描かないんですか……?』
 初対面の後輩に、突然そう言われた。あの言葉はいまも胸につっかえて、時おり悩ませられている。
『気づいたんです。雨の音は、無数の音楽だって。この雨音は、俺の耳には優しいカノンに聞こえる』
 あんな事を言うものだから、うっかりその言葉のみで絵を描いてしまい――人生で一番大きな賞まで得てしまった。――あの時の自分は、彼のことを考えて描いていたのだろうか? 感情がキャンバスに表れるというのなら、もし、自分が――。
「――ッ!」
 不意にの視界に見慣れた天井が映って、頭の覚醒を待つこと数秒。朝か――、と思い至ってはベッドから腰を起こした。
 なんだか夢を見ていた気がする。おそらく、昨日の氷帝と青学の試合のこと。まるでつい先ほどの出来事だったような、遠い昔のことのような。鳴りやまない氷帝コールは今も鮮明に耳に焼き付いていて、確かに現実だったというのに、どこか非日常的な、そんな時間だった。
 けれどもやはりこれは現実。自分たちの一回戦敗退というリアルは、彼らをどう襲ったのだろう? もしも自分ならどう感じるのか、と考えつつはいつも通り家を出て、テニスの森公園を横切りつつ茂みの先のコートの方を見やった。あのコートに、彼らも、自分も、確かに何かを置いてきた。その答えが、自分には分からない――と、もどかしさを覚えつつ学校へと向かう。
 教室に入って窓際の方を見やれば、既に宍戸が登校していての心臓が一瞬跳ねた。
「よう!」
 宍戸もこちらに気づき、朝に似つかわしい爽やかさで挨拶をくれては戸惑ってしまう。緒戦敗退という事実を、彼はどう感じているのか。
「おはよう。その……昨日は、惜しかったね」
「ああ、青学戦な。ま……悔しいっちゃ悔しいけどな」
「でも、ダブルス1の試合、凄かったよ」
「こっちは黄金ペアが来るもんだと思ってた分、拍子抜けだったけどな。ま、楽勝だろと思っちまった分、苦戦もしたが」
 調子に乗ってしまった事を思い出して苦笑いを浮かべているのだろう。宍戸は既に吹っ切れているように見えたものの、「けど」と少しだけ表情に寂しさを滲ませた。
「長太郎とのペアがこれっきりになるのは……正直残念だな。アイツがいなきゃ俺は試合に出られねぇってのもあるが、それ以上にダブルスってモンも良いもんだと思ったのによ」
「宍戸くん……」
 宍戸にとって鳳は後輩ではあるものの、恩人でもあるのだ。しかしそれ以上に、人間としてとても信頼している様子が伝わり、それだけにも彼らのダブルスがもう見られないのは残念に思う。
「ほんとに、いい試合だったよね。私、びっくりしちゃった。宍戸くんも鳳くんも、なんていうかあんなに息が合うなんて思わなくて……」
「見直したか?」
 すると宍戸は、ニ、と口角を上げながら目線を流し気味に言ってきて少しだけドキッとしたは思わず視線を泳がせてしまう。
「う、うん」
「ま、これで俺たち三年は引退だけどよ。長太郎たちが必ず来年は全国に行ってくれるよう託すしかねぇよな」
「宍戸くんだって……高校でまたやれるじゃない。鳳くんもきっと追いかけてくるから、またダブルスだって組めるよ」
「アホ、あいつは俺といつまでもダブルス組むような器じゃねぇよ。けど……そうだな、全国行けてりゃな」
 試合には勝った宍戸はやりきった充実感と、全国へ行けない悔しさの葛藤の中でどうにか自分に折り合いを付けようとしているのだろう。けれども、昨日という時間は二度と取り戻せはしない。三年は昨日を最後に引退し――そして二年は。鳳たちは何を思ったのだろうか。
 と宍戸が教室で話をしている頃、鳳もまた登校して自分の教室へと足を踏み入れていた。
「鳳君、おはよう!」
「おはよう」
「昨日の試合、友達と見に行ったんだけどー、鳳君すごく格好良かった!!」
「あはは、ホントかい? ありがとう」
「俺も見に行ったぜ! 長太郎、お前泣いてんじゃねーよ!」
「あ、あれは別に……」
「けどすげぇサーブだったよな! さっすが期待の二年レギュラー!!」
 途端、鳳はワッとクラスメイトに取り囲まれ、一人一人の顔を見ながらにこやかに会話し――席に着く。そうして、ふ、と息を吐いた。初めての夏の公式戦。そして初の関東大会。ベストを尽くした、と思う。課題も多く残ったが、宍戸と共に一勝を挙げ、自分たちはもっともっとやれると強く確信した。しかし、これは団体戦なのだ。チームとして勝利を収めなければ次はない。
 みんながベストを尽くしたのだから結果には納得しなければならない。これからは自分たち二年生が氷帝を引っ張っていくのだからしっかりしなければ――と思うも、夏はあまりに短すぎてまだ実感が沸かない。まだまだ、跡部の率いる氷帝で戦っていきたい。戦うのだと思っていただけに――喪失感が拭えないのだ。
(先輩……)
 は、昨日の試合をどう思ったのだろう。まさか彼女が見てくれているとは知らなかったものだから――。しかし、試合後の泣き顔も見られたかと思うと今さらながら情けない、と鳳は一人赤面して大きな右手で顔を覆った。これでまた「後輩くん」だと強く思われただろうな、と思うと失態中の失態だ。けれど――彼女は見てくれていたのだろうか、自分を。試合後に顔を合わせた彼女は、自分と宍戸、どちらの名を呼ぼうとしていたのだろう? と深い思考に陥りそうになってしまって鳳はふるふるとかぶりを振った。
(なに考えてるんだ、俺は)
 気にしなければいいというのに。けれども、もし彼女が宍戸の名を呼んでいたら――その先を考えるのが怖い。
『また明日! その、学校で……俺、待ってますから』
『――! うん』
 今すぐにでも会いたいのに、会うのが怖い気がするのは敗退したからだろうか? いや、けれどもやはり会いたい。
 午前の授業が済むと、鳳は真っ先に教室を出て特別教室棟の音楽室を目指した。そうして足を踏み入れた音楽室はガランとしていて、ふ、と息を吐きつつ呼吸を整える。気持ちの高ぶりとは裏腹にどこかホッとした。相変わらずのグランドピアノとずらりと楽譜の並んだ棚。いつしかこの場所は学園で一番気持ちの落ち着く場所となっていたな、などと浸っていると入り口ドアの開かれる音がしてハッと振り返る。
「先輩……!」
 一人で考え込んでいた時間がまるでウソだったように、鳳は自分でも声が弾んだことを嫌と言うほど自覚した。の方もそうだったらどれほど良かっただろう? いつも通りに微笑む彼女の顔がほんの少し紅い気がするのは、急いで来てくれたためだろうか。
「こんにちは、鳳くん。昨日は凄かったね! 結果は……残念だったけど、ダブルス1の試合、すごく良かった」
「ありがとうございます。でも……これで先輩たちが引退してしまうのは、本当に残念です」
 自分のプレイはどうだったか、などと訊くのは鳳としては憚られて、でも全国へ進めなかったことはまだ自分の中で完全には消化できておらずついつい思い出して眉を曇らせるとの方も複雑そうな色を顔に広げた。
「そう、だね。特に鳳くんたちは勝って、次に繋がるプレイだったんだし」
「はい。俺も宍戸さんも次もダブルス1として試合に臨むつもりだったですし……。試合内容もまだまだで全然満足できませんでしたから」
「そ、そう? 宍戸くんはともかく……鳳くんは、とても良かったように見えたけど」
「え、宍戸さん?」
「あ……ごめんなさい。ほら、宍戸くんはちょっと悪いクセが出てたし……あ、でも乾くんもパワーアンクルつけてたからお互いさまかな」
 宍戸の悪癖、というのが鳳にはいまいちピンと来ないが確かに彼の性格上、青学の二人に突っかかって行っていたがそのことを言っているのだろうか? しかし、乾がハンデを付けていた件は確かに心外と言えば心外だったか、との声を聞きながら鳳はを見据えた。
「乾さんのパワーアンクルには俺も驚きましたけど……、乾さんのおかげで課題も見つかりましたし、俺は感謝してます」
「え……? あ、スカッドサーブのフォームのこと?」
「はい。試合の後に跡部さんに言われました。乾さんは俺のクセを見抜いてたんだって。今まで俺も先輩たちも気づかなかったことに気づいてくれたんですから……凄いなって思ったんです」
 へへ、と鳳が笑うとはあっけに取られたように目を見開いてから、ふふ、と微笑む。
「鳳くんらしいね。私もそういう所、見習わなきゃなぁ……。だから鳳くんって二年生ですぐレギュラーになれたんだね」
「そんな……。海堂だって二年でしたし、俺は別に……」
「でも、乾くんのデータテニスは私も良いなって思っちゃった。できれば詳しく話を聞きたいくらい」
 そんなの言葉に今度は鳳の方が笑みを零しつつ肩を竦めた。
「先輩らしいですね。あれ……実際やられるとキツいっすよ。イヤなコースばっか攻められられますし」
「でも、いま鳳くんも言ったけど……自分の弱点を教えてくれてるようなものだから、二度目に戦うときはきっと有利だよね」
「克服できれば、ですけどね」
 図らずも乾が教えてくれた通り、自身の絶対の必殺技であったスカッドサーブにも弱点があることに気づかされた一戦ではあった。もとよりコントロールも完璧ではなく、修正できれば更に強くなれるだろう。乾と戦えたことで自分にプラスになったことは確実にあるが、でも、と眉を曇らせた。
「乾・海堂ペアとの対戦も良かったんですけど……、俺たちは黄金ペアと戦うつもりでしたから、それはちょっと残念でした。なぜか大石さん、選手登録もされてませんでしたから」
「あ……大石くん……」
 するとは若干辛そうな表情をし、首を捻った鳳が疑問を寄せると少々口ごもって唇に手を当てた。
「私もたまたま耳に入れただけだから……確実なことは分からないんだけど……」
 そうしては鳳が思ってもみなかった話を口にした。なんでも大石は会場に来る途中の道行きで人命救助をし、その結果右手首を負傷して試合参加を断念したということだったのだ。確かに、ダブルス2の試合途中に大石はスタンドに姿を現したし――諸々を考えれば合点がいくことだ。
「そうだったんですか……確かに青学のダブルスのオーダーは疑問に思っていたので、納得です。大事な試合前なのに大石さん、立派な人ですね……。菊丸さんが大石さんのいない中で必死に戦っていたのも分かります。青学も全国への思いは同じですからね」
「鳳くん……」
「でも、やっぱり大石さんとは戦ってみたかったな。せめて、青学には絶対に全国へ行ってもらって優勝して欲しいです」
 真っ直ぐ言った鳳の言葉は紛れもない本心であり、は大きく目を見開いて何度か瞬きしたのち、視線を流して薄く微笑んだ。
「凄いな。私だったら、そんな風に思えたかな……。スポーツ選手のこと私にはあまり分からないし……コートに立ってた鳳くんのこと、なんだか知らない人みたいに感じちゃったんだけど……やっぱりいつもの鳳くんだ」
「え……?」
 うっすら頬を染めていたに、それはどういう意味だ、と訊こうとした所で携帯のマナーモードが鳴らす独特のバイブ音が辺りに広がった。おそらくの携帯だ。はあまり携帯を持ち歩いていないため本人も意外だったのだろう。ごめんね、と言いながらポケットから携帯を取りだして画面を見た彼女の瞳が若干見開いた。
「もしもし……。え? うん、机に入ってると思うけど……」
 の携帯からほんの少し漏れてくる相手の声に確かに聞き覚えがあって、鳳はグッと拳を握りしめる。
「えっと、じゃあカバンの中かも。――うん、大丈夫。うん、じゃあね」
 ピ、と携帯を切って再度「ごめんね」と肩をすくめたに間髪入れず鳳も言う。
「宍戸さん、ですか?」
「え……?」
「あ、その……探ってるわけじゃなくて、漏れてきた声が宍戸さんっぽかったので」
「う、うん、そう。……数学のノート見せて欲しいって。五限目が数学だから焦ってたんだね」
 苦笑いを浮かべるに、無意識に鳳は口をへの字に曲げていた。宍戸の連絡先くらい、自分だって知っているのだからクラスメイトのが知っていてもなんら不思議ではない。しかし、クラスの女生徒の連絡先など自分はそうそう知らないし、まずかけることもない。
「宍戸さん、いつも先輩にそうやってノート借りてるんですか?」
「え……? あ、いつもってわけじゃないけど……」
「春先の中間考査でも、宍戸さんと先輩って一緒に勉強してたんですよね? 二人して、目にクマまで作って」
「え……、どうして」
「宍戸さんが言ってましたから」
 突っかかっているつもりはないが、少し突っかかるような口調になっていたかもしれない。特に中間考査の出来事は――あの時のことはよく覚えている。試験明け、は過労で目に見えて疲れていて、共に校庭のベンチで話しているうちに自分の肩にもたれて眠ってしまったのだ。無理のしすぎでは、と案ずる反面、自分にそれだけ気を許してくれているのだと嬉しかったものだ。それに、彼女の寝顔や、身体の柔らかさも――と考えそうになってカッとした自分を鳳はどうにか叱咤した。あの疲労の原因がまさか宍戸にあったとは想像もしていなくて。しかし宍戸が部活停止処分になるのは困るのでむしろ支えてくれたには感謝しなければならないと思うのだが――どうしても、もやもやが消えない。宍戸のことは心から尊敬する先輩だというのに。
「鳳くん……?」
「あ……! いえ、すみません。何でもないです」
 こんな風に考えてしまう自分がイヤだ、と鳳はに顔を覗き込まれてハッと意識を戻して思考をどうにか振り払った。
「も、もうすぐ夏休みですけど……美術部って休みの間も部活とかあるんですか?」
「んー……基本は自由参加だと思う。でも私は学校に来るかな、画材も揃ってるし。鳳くんは?」
「あ、俺も部活です。でも、今後は俺たち二年生が中心になりますから、当面予定は白紙なんですけど……」
「そっ……か」
 テニス部の予定は当然ながら全国大会まで進むことを想定してあったため、昨日の今日では先のことが分からないというのが実情だ。改めて、もう先はないのだと実感させられる、と鳳が眉を寄せていると予鈴が鳴って二人してハッと顔を見合わせる。
 まだ話していたいのに――とお互いが思ったかはともかくも二人は共に音楽室を出て校舎へ向かい、それぞれ二年、三年の教室へと戻った。
 鳳と別れ、ふぅ、と息を吐いたは三年C組のドアを開けた。すると窓際の自分の席の前で宍戸が熱心にノートと睨めっこをしており、ちょうど写し終えたのか顔をあげてノートを閉じるとホッと溜め息を吐いたのがの目に映った。
「よう。ありがとよ、助かったぜ」
 に気づいた宍戸がノートを差し出してきて、受け取ったは少しだけ眉を寄せた。
「宍戸くんって……鳳くんとは上手くいってるんだよね?」
「は? どういう意味だ?」
「んー……なんて言うか……。私には二人のダブルスってすごく信頼関係があるように見えたから、普段も仲が良いんだろうなぁって思ったんだけど……」
 そう、昔はともかくもここ最近の鳳と宍戸はとても親しげに見えていた。と言うのに先ほどの鳳は宍戸の名を出すと態度がおかしかったように見えたのは気のせいだろうか? 思案していると、「あ」と宍戸は思い当たったようにの机の方に身を乗り出してくる。
「お前……、もしかして長太郎と一緒だったのか?」
「え……う、うん」
「俺が電話した時もか?」
 うん、とが頷くと宍戸は「あー」と斜め上に視線を流してガシガシと頭を掻いてバツの悪そうな顔色を浮かべた。
「そりゃ、間の悪い時にかけちまったな」
「え……、そんな、別に……」
 それこそどういう意味だと問おうとしたより前に「けどよ」と宍戸が向き直ってくる。
「いちいち長太郎の言動なんざ気にすんな! だいたい、いちいちアイツの機嫌窺って行動できるかっつーの。なんで俺たちが後輩に気ぃ遣わなきゃなんねーんだよ」
「ええッ……!?」
 もしかして本当に喧嘩でもしているのか? いや今朝はそんなそぶりは全くなかったし――。分からない。思い違いかもしれないし、もう気にするのはよそう、と本鈴と共に教師が教室に現れて慌てて前を向く宍戸を見つつ、は気持ちを切り替えた。


『あんなウキウキする"別れの曲"を聴いたの初めてだから、誰が弾いてるのか気になってたんだけど』
 彼女との出会いは、自分の弾いた一曲の音色が作った。もしも彼女が、あの""でなくとも自分は一定の好意は抱いただろう。でも――。
『景色を探してたの』
 おそらく、音楽室で出会わずともいずれ自分は彼女を見つけていた。綺麗だな、と惹かれる景色の先にはたいてい彼女がいた。一見、なんでもない校庭の草木花を嬉しそうに見やって、そして真剣にスケッチに勤しむ姿を何度そっと見守っていたことだろう?
 穏やかで、でも負けず嫌いで、絵のこととなると一途すぎてそれにすら妬いてしまいそうになるほどに――。この気持ちは、尊敬なのか、親愛なのか。彼女といるととても心地よくて、楽しくて、本当はもっと近づきたいのに。
 でも――、と鳳は終業式を明日に控えた午後、職員室から教室への道を歩いていた。明日で一学期も終わるということもあり、生徒達の雰囲気もいつもより明るい。確かに夏休みは楽しみではあるが、本来なら関東大会の二戦目に向けて部活動に励んでいた時期だというのに、もう、三年生はいない。
 こういうとき、やはり自分は宍戸のことを考えてしまう。まだ一緒にプレイをしていたかった、と思う気持ちは本物だというのに、なぜ見つけてしまうのだろう?
「ったく、次は理科かよ、ダリーな」
「まあまあ、明日はもう終業式だし」
「つっても予定もねーしなぁ」
 移動教室だろうか? ふと反対の渡り廊下を歩く宍戸との姿が目に飛び込んできて鳳は足を止めた。別にこんなこと、珍しいことでもなんでもない。二人は、自分が二人と出会って知り合う前からの付き合いで親しい関係なのだ。宍戸といても、といても、互いが互いのことをよく理解しているということはイヤでも伝ってくる。
 宍戸のことは、初めは取っつきにくい先輩だと思っていた。事実、つい最近まで特に親しい間柄でもなく、ましてダブルスのパートナーになるなどとは想像もしていなかった。けれども、自身のスカッドサーブを必要として頭まで下げてくれた彼は――目標のためならプライドも何もかもかなぐり捨ててがむしゃらに走れる、熱い人だった。確かに口も悪く、喧嘩っ早くて冷や冷やする場面もあるが、グイグイとこちらを引っ張ってくれる強い意志は自分には持ち合わせないもので強い憧れに似た感情も抱いた。共に励み、コートに立ち、この人とともにテニスが出来て良かったと心底思ったものだ。
 はきっと、こうした宍戸の本質をよく知っていたのだろう。だから、あれほど仲が良いのか、と納得もしたのだ。だから――が宍戸のことを見ていても、文句は言えない。仕方がないと納得できる。宍戸もも、自分にとっては大切な人だ。だから――といつの間にか鳳は強く拳を握りしめてかぶりを振っていた。
「鳳、もっと下半身を使え!」
「はいッ!!」
 気持ちの消化が追いつかないまま、鳳は放課後のコートでサーブ練習に明け暮れた。顧問の榊にフォームを見てもらい、スカッドサーブの弱点を無くす特訓である。宍戸はもういないのだ。この夏休みで、少し宍戸から離れて頭を冷やすには良い機会かもしれない――と思うもそうそう狙い通りにはいかない。
「よう、長太郎! 今日の夜、俺んちの近所のストテニ場で練習しよーぜ!」
 宍戸も引退は決まってもテニスをしない日々に慣れていないのか、夏休みに入っても当然のようにそんな誘いを連日くれた。鳳にしても宍戸が練習相手になってくれるのは渡りに船であり、快く付き合う。特にストローカーの宍戸がいればラリー練習が続けられることがありがたかった。乾のおかげで自身のサーブの弱点が分かり、フォームを修正したことでサーブ以外のショットも安定して、これまた乾の教えてくれた苦手コースへの対応も少しずつ出来るようになってきている。なによりフォームよりも「速く打つ」ことに拘っていた自身の大ざっぱな所を見直して、ショットにしてもドライブやスライス回転を使う楽しさに目覚め以前よりもテニスが楽しくなったと言っていい。
 特に――自身の「馬鹿力」と他人が呼ぶ怪力を使って通常のショットに素早く回転を加えると空中で面白い具合に落ちていくことに気づいて度々実験をしていたある日の夕刻。
「宍戸さん、前から思ってたんですけど……向日先輩とかジロー先輩とは自主練ってしないんですか?」
 夏休みに入って一週間ほど過ぎたその日は、部活後に宍戸と落ち合って宍戸の家のそばのストリートテニス場で汗を流していた。一息ついた所でそんなことを訊いてみると、「ん?」と宍戸が眉を曲げる。
「岳人とはまあ、たまに打ち合うけどよ。ジローはねぇなぁ……あいつ今ごろ家で寝てんじゃねぇの?」
「ジロー先輩っていつ練習してるんでしょうね」
「ったく、あいつがもっと普通に練習時間取れば青学不二なんざ一発KOだっただろうによ。岳人にしても練習誘っても、お前にゃ付いていけねぇとか言い出す始末だ。激ダサだぜ」
「宍戸さん、努力家ですから」
「なっ、なんだよ! つーかお前も俺と同じだけやってんだろ。相当なモンだぜ?」
「俺は……宍戸さんが誘ってくれなければ、ここまで出来たかは分かりませんから」
 こうして宍戸と汗を流すのが既に当たり前のようになっているのだ。宍戸が手を止めずに練習を続けるたび、自分も負けずに食らいつこうと頑張って、二人して前を向いて全国へと進むはずだった。それが叶わないのは寂しい。何より今年で最後だった宍戸の気持ちを思えば、絶対に全国へ行って欲しかった、と思ってしまう。宍戸のことは誰より尊敬する先輩だというのに――。
 のことさえなければ、こんな自分でも自分がイヤになる感情を抱かずに済んだのだろうか? けれども、といるときの穏やかで満たされた感情は、こうして宍戸とテニスをしている時とは全く種類の違うものだ。いくら宍戸といえど、あの幸福感を奪われるのは――。いや、何を考えているのだ。
「どうした、長太郎?」
 いつの間にか視線がしたに下がっていたのだろう。ポン、と宍戸が肩をラケットで叩いてきて、見上げると怪訝そうな表情でこちらを見下ろしていた。
「いえ、なんでも」
 パッと笑って取り繕ってみせる。しかしいくら宍戸自身には関係のないことと思っていても、原因が原因なだけにまたしても目線が下がってきてしまい、宍戸は一度喉を詰まらせたかと思うとこちらに向かってラケットを突き刺すように伸ばしてきた。
「なんだか知らねぇがウジウジすんな! 男なら逃げずに立ち向かってこそだろーが!」
 グ……と鳳は唇を引いた。宍戸のこういうハッキリさっぱりしたところは本当に憧れでもあるし見習いたいと思っている。が、そう言い放った本人に少なからず原因があるとは言い出せず――「はい」とだけ返事をして鳳は苦笑いを浮かべた。
「よし、続きやるぞ! お前にはもっと強くなって来年はぜってー全国へ氷帝を連れてってもらわなきゃならねぇんだからよ!」
 いずれ――逃げずに立ち向かえば、どうなるのだろうか。自分たちは。一瞬だけ過ぎった疑問を振り切って、鳳は勢いよく「はい!」ともう一度返事をした。 



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