「これより第二試合、ダブルス1、青学――乾・海堂ペア、氷帝――宍戸・鳳ペアの試合を開始します」 試合開始のコールと共に選手たちはそれぞれのコートに立った。サーブは氷帝側からでサービスラインには鳳が下がり、審判からの鳳のサービスをコールする宣言がかかる。 いよいよだ――、と強く手を握りしめるの視線の先にいたのは、いつもの穏やかすぎるくらい穏やかな表情の鳳ではなかった。彼は数度ボールを突き、キュッと握りしめたかと思うとすっと空へとトスをあげる。 「一球……入……魂――!!」 次の瞬間には生々しい着球音と共に鳳のサーブは相手コートを貫いており――何が起こったか分からず瞠目したのはのみではない。 「15−0!」 審判のコールと共にコート全体がどよめいた。それもそのはずだ。有に200キロに迫ろうという高速サーブは中学生の大会でそうそう拝めるものではない。 「すげぇ……なんだあれ……見えねぇ」 「これは、とんでもないのが出てきたね……」 「誰だ、あれ……氷帝にあんなヤツいたか?」 どよめく周囲の声と同じくも圧倒されて目を見開いていたが、鳳にすればこの程度のノータッチエースは当然なのだろう。特に顔色も変えずにアドバンテージコートへ移動している。しかし、前衛にいた宍戸は確かに彼を誉めるように口の端をあげていた。まるで、「これが氷帝の鳳長太郎だ」とでも自慢するように、だ。そしてその宍戸の表情の通り、鳳は次もあっさりとノータッチエースを決め、試合開始からものの数秒で2ポイントを連取した。 鳳は圧倒的なサーブの強さで正レギュラーを勝ち取ったとは聞いていたが、いや実際に鳳のサーブは何度も見てはいるものの、まさかこれほどとは――とは息を呑んだ。長身の鳳が、いつも以上に大きく見える。 「鳳くん……」 しかし続く第3サーブ、コースアウトしてフォルトとなり、ようやくセカンドサーブかと相手の表情がホッと緩んだように見えた。が、セカンドサーブも球威は全く衰えずに結果としてネットフォルトとなってしまったものの――セカンドもファーストと同じサーブを打つということはよほど自身のサーブに自信があるのだろう。 「おっと、いけね。すみません、宍戸先輩」 「コントロールは相変わらずだな、長太郎」 鳳のサーブのコントロールが不安定なのは周知のことだ。が――再びボールを手にした彼は、「でも」と再びアドバンテージコートに立って前を見据えた。 「今日、調子良いっすよ」 ダブルフォルトなど気にも留めていないのだろう。「調子がいい」という言葉どおり、次もまたノータッチエースを決めた鳳は「ほらね」とでも言いたげに、ニ、と口の端をあげた。 こうもプレイ中は変わるのか――、まるで鳳が知らない人間のようだ、とは固唾を飲み込んで鳳を見守った。結局、彼は1ポイントをダブルフォルトにて相手に与えてしまったものの、他は全てノータッチエースで息つく間もなくサービスゲームをキープした。 「すげえええ! さすがだぜ鳳!!」 「サーブだけ! サーブだけ! サーブだけ! サーブだけ!」 先ほどまでのお通夜状態が嘘のように氷帝ギャラリーは鳳のサービスキープを大喝采にて褒め称えた。確かにノータッチエースが決まれば、これほど気持ちの良いものもないのだろう。しかもサーブのみでのサービスキープであるため圧倒的だ。 続く第2ゲームも鳳があっさりとリターンエースを決め、ギャラリーはますますの盛り上がりを見せた。 「このままブレイクしちまえー!」 「氷帝! 氷帝! 鳳! 鳳! 氷帝! 氷帝! 鳳! 鳳!」 まさに彼は200余名のテニス部員のトップに君臨する正レギュラーなのだと見せつけられているような氷帝コールだった。特に同級生である二年生からの応援に熱が入っているようなのは期待と親愛の現れだろう。 本当に、氷帝のレギュラー陣というのはこうも遠い存在なのか。いまコートに立っている二人はあまりに身近にいすぎて、普段はそうも意識しないというのに、やはりテニスしている姿を目の当たりにするとイヤでも実感させられる、とは息を呑みつつも少しだけ肩を竦めた。 しかしそう感傷に浸っている間もない。青学のペアを見やると、鳳のスカッドサーブに加えてこの氷帝コールのせいかかなり苛立っているように感じられた。特に海堂という二年生はサーバーを務める乾を振り切ってサービスラインまで下がりラケットを構え、周囲の度肝を抜いた。 「前衛がなぜ、あんなとこまで下がってんだ……?」 青学のコートはがら空きである。レシーバーを務める宍戸にもその意図は分からなかったのだろう。乾はアドバンテージコートに立っており、前衛があれだけ下がっている以上はサーブと同時にコートを守るためネットダッシュするしかない。ならばクロスという選択肢はなく、宍戸はバックのストレートにて乾のサーブを打ち返した。が、まるで待ちかまえていたように海堂は長いリーチを存分に使ってラケットを振り抜き――宍戸も、鳳もその球筋に目を見張った。あろうことか、ネットポールの外を通ってダブルスコートに着球したのだ。 「15−15!」 審判の声と共に周囲がざわつく。 「なんだ、アレ……」 「ポール回し……? ウソだろ」 周囲のテニス部員の解説を聞くに、ネット上ではなくポールの外からボールが曲がってくるよう回転をかけた高等技術らしく、これほどの精度は滅多にお目にかかれるものではないらしい。しかも海堂のポール回しに留まらず、サーバーの乾は何を思ったかいきなりリストバンドを外しはじめてベンチに向かって放り投げた。それは重力に伴い、大きな音を立ててベンチにぶつかってから地面に落ち、見ていたは思わず眉を寄せる。 「なに……あれ、重り……?」 そうとしか思えない音だったのだ。まさか重りを付けて試合に臨んでいたのか――? と乾を見やると、デュースコートに立ってサーブの構えを見せている。そうして打ち込んだサーブはワイドを貫き、レシーバーの鳳は目を見開いて乾のノータッチエースを許した。次いで宍戸も乾のサーブを捉えきれずエースを許し、はむっとして眉を寄せる。 「重りを付けて試合してたなんて……」 スポーツとは正々堂々勝負するものではないのか。これでは鳳や宍戸に対して失礼というものだ。先ほどのダブルス2の青学ペアは好感が持てたというのにこれは――と僅かに唇を噛んで鳳たちを見やると、彼らも心外だったのだろう。宍戸は舌打ちをして鳳も僅かに気分を害したような表情を晒していた。 「ったく、バカげたサーブを打ちやがるぜ」 「いや、スピードなら俺の方が全然上っすよ。――とにかく、俺は相手コートに返しますんで、あとお願いします」 とかく鳳は乾が自分に迫るほどのスピードサーブを打ったことがプライドを刺激したのだろう。レシーブに集中するようにラケットを構えて乾に向かい、言葉どおりに乾のサーブをラケットに当てた。と同時に宍戸が前方にダッシュする。相手もそのダッシュは予測できなかったのだろう。宍戸は得意のライジングにてバウンド直後の返球を完全に捉え、逆サイドに強烈なフォアクロスを叩き込んで1ポイント奪い返した。 「宍戸くん……!」 そのダッシュにも驚いただが、宍戸はポイントを取ってすぐに鳳に目線を送り、鳳もそんな宍戸を見て誉めるように微笑んだことにハッとした。――先ほどの青学ペアを見ても分かる通り、ダブルスとは相手との連携がなにより重要なのだろう。この二人には、それがあるのだと感じさせるプレイだった。 『俺、宍戸さんのことを本当に尊敬しているんです。あんなに努力できる人、なかなかいません。宍戸さんを見ていると、俺ももっと諦めずに頑張ろうって思えるから……』 『長太郎は……後輩ってことを抜きにしても良いヤツだ。ずっと俺の無茶苦茶な要求に応え続けた』 元々はそう親しい間柄でもなかった二人の、今に至る過程は自身もよく知っていることだ。宍戸は鳳の恵まれた才能に惚れ込み、鳳は宍戸のがむしゃらな精神に惹きつけられている。事実、鳳のスカッドサーブと強烈なショット、宍戸の磨きをかけたライジングがあればどんな相手にでも勝てるのではないかと思わせるほどの連携だ。 「ゲーム氷帝! 2−0、氷帝リード!」 それを証明するかのように鳳の鮮やかなスマッシュが決まり、結局ゲームをひっくり返した二人は乾・海堂ペアのサービスをブレイクして2ゲームを連取した。そして勢いに乗って順調にキープとブレイクを重ね――宍戸に至ってはあまりの調子の良さにすっかり勝った気になったのか、悪癖の一つである相手への挑発が出てしまっては頭を抱える。 「もう、宍戸くんったら……」 終いには鳳に諫められていてとしても溜め息を吐くしかない。どっちが先輩だか分かったものではない、と苦笑いを浮かべるも次の第5ゲームは鳳のサービスだ。ギャラリーも彼のサービスキープを確信しているのか声を強めて盛り立てている。 「鳳くん……!」 その期待に応えるように鳳は今度はノータッチエースを4連発し、ものの一分程度であっさりとキープしてワッと場が沸いた。 「よっしゃあ! 痺れるぜ鳳!!」 「この試合もらったぁ!」 確かにサーバーとしてこれほど頼もしい人材もなかなかいないだろう。彼を誉めていた跡部や宍戸の気持ちがよく分かる――、とも薄く笑った。ゲームカウントは5−0。あと1ゲームで氷帝の勝ちだ。ここまで来ればひっくり返される可能性はほとんどないと言っていい。油断は禁物とはいえ――グッとも強く手を握りしめる。あれほどの練習を乗り切って今日このコートに立っている二人なのだ。絶対に勝って欲しい。そして全国への夢を繋いで欲しい。 けれど――、二人に振り回されて汗だくの海堂と、不気味なほど冷静な乾がどこか不安を煽るのはなぜだろう? 「残念だったな乾、海堂はもう終わりだ」 更に挑発を重ねている宍戸にもどうにも不安になってくる。こういう所も全く以前と変わっていない――と握りしめた手がじんわりと汗ばんできた。あと1ゲーム。青学のサービスゲームといえどブレイクすれば勝てるのだ。だというのに、今まで面白いほどに決まっていたラリー戦がなかなか決まらない。これまでベースライン上で粘っていた海堂ではなくほぼ海堂に任せきりであった乾が積極的に動き、あっという間に2ポイントを連取されてしまった。 「よっしゃあ、出たぜ乾先輩のデータテニス!!」 久々のポイントに青学ギャラリーが沸き、虚を突かれた氷帝陣は揃って青学サイドを見やった。も彼らの大声に耳を傾けてみると、どうやら乾は相手のクセや得意ショット等々を細かく数値化して理論的なデータに基づきゲームメイクをするタイプらしく、これまでの3ゲームは全て海堂に走らせ自身はデータを取っていたというのだ。急増ペア、まして敵校からすれば認知度の低い鳳もいたため最初の数ゲームは対処できなかったに過ぎない、とまで言っておりゴクリと息を呑む。 その話はコート上の二人にも伝わったらしく、鳳も宍戸も困惑気味の表情で汗を拭っていた。 「まるで踊らされてるみたいだ……」 「海堂のヤツ、やけくそになったフリをして乾にデータを取らせてやがったんだ」 「俺たち……何も気づかずにデータをくれてやってたってことですか!?」 「落ち着け! データがなんだ! 俺たちが有利なのはかわらねぇ!」 それはいかにも理系の苦手な宍戸らしい意見ではあったが、数字はウソは付かない。乾のデータテニスとやらが話の通りなら相当に厄介だろう、とは前のめりになってコートを見据えた。先ほどよりも鼓動が早鐘を打ち始める。やはり乾はある程度の二人のクセを見抜いてしまったのか、ついに1ゲーム返してしまってすっかり青学は反撃ムードで盛り上がってしまった。 「……ッ」 有利な側が追い上げられる。というのは相当にプレッシャーだということは先ほどの向日・忍足を見るに一目瞭然だ。ここで自分が見ていたからといって試合に何の影響も与えられないだろうが、それでも、とは躊躇していた足を少し前に踏み出して少しばかりスタンドを降りた。すると足音に気づいたのだろう、跡部が振り返って少しだけ目を丸める。 「……」 は目線だけで挨拶をし、コートの二人を見やった。焦りはいつものプレイを乱してしまうのだろう。動きが先ほどよりも散漫になっている。 (大丈夫だよ、二人とも……頑張って……!) 結局はデータテニスといえど相手も完璧な技術を持っているわけではないのだから、テニスという競技の特性上、ミスした方がポイントを失うのだ。逆に言えばデータで心理的負荷をかけ、ミスを誘う作戦だとも言える。必ず読まれて返される――と分かった上で冷静に対処すれば、確実に能力が上の人間が勝つのだ。鳳のパワーショットはどれほど理論武装しようが相手には負担であるし、宍戸のカウンターが相手の脅威であることも変わらない。 けれどもあまりに予想外のことにまだ二人の身体は処理が追いつかないのか――3ゲーム連続で青学に取られてしまい、ゲームカウント5−3まで追いつかれてしまった。だというのに宍戸の表情は余裕そのもので、汗を拭う鳳にボールを手渡しながら口の端をあげている。 「次は第9ゲームだ。例え予測できていても返せない球があんだろ?」 そう、次のゲームは鳳のサービスだ。ここで鳳が4球全てエースを決めれば試合はそのまま氷帝のものとなる。だが――。 「ダブルフォルト! 0−15!」 ネットを突き破るほどの勢いで豪快なネットフォルトが二回続き、あえなく相手にポイントを与えてしまう。 「おい長太郎! このノーコンがッ!!」 「しっかり決めてこーぜ!!」 期待していただけに落胆したのだろう。ギャラリーの、特に二年生陣から鳳に対する叱咤が飛び、鳳も彼らに詫びるような視線を送ってからアドバンテージコートに移動して再び構えた。が――。 「ダブルフォルト! 0−30!」 いずれもネットしてしまい、は口元に手を当てた。 「鳳くん……打ちにくそう……」 テニスの細かい技術的なことは分からなかったものの、鳳のテンションもコンディションも特に悪いようには見えない。ただ、どこかしら違和感を覚えているような表情が気にかかり呟くと「ああ」とそばで跡部が相づちを打った。 「乾は鳳のクセを見抜いているんだ」 「クセ……?」 のみならず、鳳のダブルフォルトに地団駄を踏んでいた向日や忍足も跡部の方を見やった。 「見ろ。乾のヤツ、わざとレシーバーをセンター寄りに立たせて鳳にワイドを意識させてやがる」 「どういうこと?」 「つまり鳳はオープンスペースを狙おうと意識しちまって、無意識にフォームが乱れてんだよ。俺様も気づかなかったが……あれだとスカッドの軌道上、必ずネットしちまう。まだまだ甘いな」 そうこうしている間にも鳳はまたダブルフォルトを取られ、あと1ポイントで相手にブレイクを許すところまで追いつめられてしまった。 虎の子のスカッドを封じ込められては、鳳としては為す術がないのだろう。肩で息をしながら愕然としている。 「長太郎! オープンスペースに入れようとしなくていい。正面に打っちまえ」 「……。そうっすね」 しかしながらどれほどの高速サーブであろうと、「ここに来る」というのが分かってしまえば打ち返すのはそう難しいことではないだろう。とはいえサーブを入れないことにはゲームにならず、鳳はワイドを諦めセンターにサーブを放った。しかしやはり、拾われてしまい――宍戸はすぐさまフォローに走る。 ――ここでブレイクされてしまえば勢いに飲まれかねない。 そう誰もが感じただろう。例え0−40という不利な状況でも、鳳のサービスだけはキープして、そして勝たねば先はないのだ。食らいついた宍戸の返球の先で海堂はまたもポール回しのモーションに入り、宍戸もすぐさま反応してアドバンテージコートへと走り込む。 「くっ、そおおおお!!」 「――宍戸さんっ!!」 執念で追いついた宍戸は何とかラケットに当てロブを打ち上げたもののそのままコートに倒れ込み、鳳はそんな宍戸に一瞬気を取られたように見えた。 「鳳くん……ッ!!」 鳳の性格上、宍戸のフォローに入ると誰もが思っただろう。も、鳳はデュースコートを捨ててでもアドバンテージコートに入ると予測した。だが――彼は皆の予想を裏切り、倒れた宍戸を残してデュースコートへ猛進したのだ。おそらく乾がそちら側へスマッシュを打つと読んだのだろう。 「乾! ――来い、ここは俺がッ!」 これこそが、まさにデータを越えた瞬間でもあった。サーブ時を上回る頼もしさを鳳が見せ、乾は虚を突かれたようにスマッシュのコースを直前で変えて皆の度肝を抜いたものの残念ながらコースアウトしてしまい氷帝側に1ポイントが記された。 たかが1ポイント、されど1ポイントで、鳳の見せた反応に跡部たちもあっけにとられ少しばかり惚けていた。 「鳳のヤツ……。サーブだけやないっちゅーこっちゃな」 忍足が感心したように笑い、そしてコート内の宍戸と鳳も今のポイントで吹っ切れたのか表情が先ほどよりも生き生きとしている。 「宍戸さん、大丈夫っすか?」 「ああ、問題ねぇ。この調子でガンガン行くぞ!」 「はい!」 宍戸も先ほど調子に乗っていた自分をすっかり捨てたのだろう。やっと宍戸らしくなってきた、と感じつつは巻き返しを図る二人から目をそらさずに見守った。いや、無意識にの目線は二人ではなく一人を追っており――そんなの視線に気づいて、跡部は「なるほどな」と小さく呟いていたがは気づかない。 ただコートの中の四人は必死にボールを追い、お互い技術よりも精神で打ち合い――ついに氷帝側はマッチポイントまで追い上げて氷帝ギャラリーを沸かせた。 も、ただグッと拳を握りしめて祈った。都大会明けに傷だらけで登校してきた宍戸。苦悶の表情で宍戸にスカッドサーブを打ち続けていた鳳。強い相手でも絶対負けない、と闘志を燃やしていた鳳の声。鳳とのダブルスに自身の可能性を見いだした宍戸の姿。――まだここで終われない。終わって欲しくない、という思いが重なるように鳳のサーブをチャンスボールで返してきた海堂のリターンに宍戸がスマッシュを打ち込み、二人は揃って天へと拳を突き上げた。 「ゲーム&マッチ、氷帝! 6−3!!」 昼の太陽が眩しい。は少しばかり目頭を押さえてから、皆と共に惜しみない拍手を送り――そしてそっとスタンドを離れた。フェンスのそばまで歩いてコートを振り返ると、何やら二人してベンチの榊の前で立たされている。どうやら宍戸への説教らしく中盤に気を抜いたことでも指摘されているのだろう。だがしかし、これで彼らには次がある。きっともっと良い試合を見せてくれるのだろう、と自然は笑みを浮かべていた。 ――思えば、これほどテニスの試合に真剣に見入ったのは初めてだ。それはなぜ――と無意識に鳳と宍戸を見やっているとあろう事か汗を拭った二人はスタンドに留まらずにこちら側へあがってきてしまい焦ったはキョロキョロと辺りを見渡した。 これでは見つかってしまうではないか。――と狼狽えてもあとの祭り。のいた通路側の方へ二人がパタパタと走ってきて、逃げる間もなく鉢合わせしてしまう。 「……」 「せ、先輩……」 二人とも目を丸めて足を止め、もかける言葉に詰まって目線を泳がせた。おめでとう、お疲れさま、良かったね、どれも違う気がして――言葉が見つからない。 「来てたのかよ……」 少しの沈黙をやぶって口を開いたのは宍戸だ。やけに晴れやかな、穏やかな口調だった。 「う、うん……」 は頷きつつ、鳳の方を見上げた。――そもそもが「見に来い」と言ってくれたのは鳳なわけで、いやしかし、言われずとも見届けようとは思っていたのだ。だけど――とお互い無言のまま見つめ合っていると宍戸は痺れを切らしたのだろう。軽く眉を寄せて鳳の肩を手で払うように叩いた。 「おら、何か言えよ、アホ!」 「え、俺……」 「ったく、先行ってっぞ!」 「えっ、ちょっ、宍戸さん!」 言うが早いか宍戸は再び走り出し、の前で笑みを深くしてから駆け抜けていった。おそらく試合後のクールダウンだろう。残された鳳はあたふたと宍戸の背とを交互に見やっている。 「い、行っちゃったよ……宍戸くん」 「あ、はい! 俺も行かなきゃ……えっと、その、先輩!」 「――う、うん」 「また明日! その、学校で……俺、待ってますから」 「――! うん」 鳳の方も言葉が浮かばなかったのだろう。いつものはにかんだ表情のままそう言って、もつられたように笑顔で頷いた。するとクシャ、と鳳は表情を崩して笑い、軽く頭を下げて宍戸の後を追いの横を駆けていった。 緩やかな風が心地良い。軽いウェーブの髪を靡かせて空を見上げたは木漏れ日に目を細め、まるで今日の日溜まりのような穏やかな気分に微笑んだ。良かった――、と心から思う。鳳とも、宍戸とも、話したいことがいっぱいだ。そうだ、明日学校で会ったらきっと――と込み上げるような暖かな気持ちを抱えていただが、それも長くは続かなかった。 続くシングルス3、氷帝、青学共に棄権のノーゲームとなったのだ。しかも両者腕を痛めてのことで、青春学園のコーチに連れられて病院へ向かう後輩を目の当たりにして胸中穏やかでいられるはずがない。 (芥川くん……) 周囲がどよめく中、出てきたシングルス2は氷帝側は芥川慈郎であり氷帝のナンバー2でもある。芥川は天性の才能を持っているものの、この緊迫したムードを打ち破るほどの絶対的な統率力は持ち合わせていない。 「君か……裕太を15分で負かしたというのは」 「ん……?」 寝ぼけたままコートに立った芥川に相手選手がそんな声をかけ、あ、とはピンときた。審判が確かに彼の名を「不二」と言った。コンソレーション聖ルドルフ戦で芥川が戦った相手も「不二」だったはず。とすれば、血縁者――察するに兄だろうか。 「不二くんは宍戸くんみたいなタイプだったけど……」 そう、聖ルドルフの不二の方は宍戸と似たタイプのプレイヤーで、「宍戸の方が凄いC〜!」などと言っていた芥川はものの15分で勝ちを得た。しかし、こちらの不二はどうなのだろう? 見たところ小柄でとてもパワー型には見えず、やはりカウンター型か、と見守っていたの予想は当たっていたもののカウンターの質が桁違いであった。返球という返球が芥川のみならずギャラリーの度肝を抜き、芥川はコート上で困惑気味に突っ立っている。 「す……すっげー! マジマジすっげー! 今の見た!?」 相手の強さに目覚めたらしい芥川の言動はいつもの芥川らしいものだったが、相手の技を楽しんでいる様子とは裏腹に結果としてワンサイドゲームになり、青学不二は弟の仇を討った形となってしまった。 これで試合は1−2。続くシングルス1も落とせば、青学の勝利となってしまう。ちらりと青学サイドに目線を送れば、メガネをかけた選手がスタンバイをしており――今朝、皆をまとめるように声がけしていた選手だと気づいてはグッと手を握った。おそらく部長であり、一番の実力者なのだろう。しかし、対する氷帝も――部長であり、絶対的な実力者だ。 「氷ー帝! 氷ー帝! 氷ー帝! 氷ー帝!」 それを知らしめるように氷帝コールが鳴り始め、は少しだけ眉を寄せた。跡部がコートに入る際には必ずこのコールをしているらしく、聞いていて少々居たたまれない気分になるのだ。 「勝つのは氷帝! 負けるの青学! 勝つのは氷帝! 負けるの青学!」 「勝者は跡部! 敗者は手塚! 勝者は跡部! 敗者は手塚! 勝者は……」 「俺だ!」 華々しくジャージを天に投げあげて登場した跡部に、相手の手塚という選手は至って冷静に対処していた。とりあえず気分を害してはいないようでとしてもホッと息を吐く。しかし――ここは跡部に勝ってもらわなければ氷帝は負けだ。 跡部のプレイは都大会で見ているが、どうにも持久戦を好む傾向にある。積極的に攻めれば短時間で終わる試合だというのに、だ。まさかこの二回戦出場のかかった大事な場面ではそんなことはしないだろう――、と見つめるのかすかな期待はあえなく裏切られ、やはり跡部は執拗にラリーを続けている。いや、もしかするとそうせざるを得ないのか? 手塚と実力が拮抗、あるいは手塚の方が上なのでは、とジッと見つめていると途中では違和感に気づいた。手塚は異様なほどの汗を掻き、彼の利き腕である左の肩を庇うようにしてラリーを続けている。対する跡部はそれに気づいているのか、どこか冷酷な笑みを漏らしながら手塚の左肩に負担のかかるショットばかりを続けていた。 「跡部くん……」 それは、相手の弱点を攻めるのは当然であろう。が、果たしてこのラリーは必ずしも必要なのか――も睨むようにして見つめていると、ついにマッチポイント、それも手塚のマッチポイントという局面になっていよいよ跡部の策が功を奏したのだろう。彼は腕を押さえてコートに膝を突いてしまった。しかし青学ギャラリーがどよめくも、手塚は試合を止めようとはしない。仮に腕を壊してでも戦い抜くという意思の表れなのだろう。むしろ今まで以上に激しいプレイでコートを駆ける彼を見て跡部はどう感じたのか。 『とにかく、例え大石が出られなくとも俺たちはこの試合に勝って全国へ進まねばならない。みんな、油断せずに行こう!』 全国への思い――それは相手チームとて同じだということは誰しも分かっていることだろう。青学も強い思いで今日の試合に臨んでいるに違いないのだ。ならば跡部は……? 跡部はどうなのだ、とコートの彼を見やるとその頃から明らかに跡部のプレイが変わった。手塚の覚悟に感化でもされたのか、余裕だった表情は消え、ただがむしゃらにボールを追ってコートを駆けている。 いつの間にか辺りはシンと静まりかえっていた。ボールを打つ軽快な音だけが空間を切って通り抜け、中央のコートだけ別世界のような、そんな空気が漂っているようにには感じられた。あの跡部がああも必死に戦っている。――そのことに、は少しだけ心が揺さぶられた。 タイブレークに入ってもうどれくらい経っただろうか……永遠に続くとさえ思えたこの時間を打ち破ったのは、限界を迎えた手塚の腕から放たれた一本のショットだった。それがネットにかかった瞬間、勝負は決した。 「あの手塚さんに……勝っ、た?」 「勝った……!」 「さすが跡部さん!」 一瞬の静寂の後、ワッと群衆が沸く。そうして汗だくの跡部は手塚の手を取ると高々と掲げた。相手の健闘を称えてのハイタッチだろう。 「跡部くん……」 この氷帝学園を背負い、200余人の部員の頂点に立つ跡部の理想は常のような絶対的な勝利だったのだろうか? しかし、必ず勝たねばならない彼の、がむしゃらに勝利をつかみ取った姿に部員たちは感銘を受けたに違いない。 跡部にこのような一面があるとは、とも肩で息をする跡部の健闘を讃えて拍手を贈ったものの、試合自体はこれで決まりではない。共に2勝2敗で、勝負の行方は控え選手に委ねられることとなった。 氷帝は、準レギュラーから控えにあがったばかりの二年生。対する青学は氷帝で言うところの正レギュラーで名実共にエース格だという。 ここで負ければ氷帝は全国への道が閉ざされてしまう。まだ――まだこのまま、このままのメンバーでプレイを続けていて欲しい。氷帝のいち生徒として、そして宍戸のため、鳳のためにも――。 だが、控え同士の戦いはあまりに実力に開きがありすぎた。準レギュラーからあがったばかりの彼には荷が重かったのだろう。 青学の勝利を告げる審判の声がコートに鳴り響き、氷帝学園の関東大会一回戦敗退が決定した。自身の手に勝敗の行方が委ねられてしまったという重責はかなりのものだったのだろう。控えの選手が泣き崩れ――そこに一番に駆け寄って肩に手をかけたのは宍戸だった。 「宍戸くん……」 おそらく後輩を励ましているのだろう。誰よりも全国に行きたかった彼の――おそらく誰よりも泣き叫びたいだろう彼の、いかにも彼らしい行動だ。 「行くぞ、整列だ」 「はい!」 跡部が皆をコートに向かわせ、やはりみな悔しさを抑えきれないのだろう。それでも三年生は涙を堪えていたものの、鳳は耐えきれなかったのか必死に涙を拭って歯を食いしばっている。 もその気持ちが移ってしまったのか、思わず涙が込み上げそうになり、ぐす、と鼻をさすり何とか堪える。 悲壮感に嘖まれる中、跡部がコートを囲む部員達に何か指示を出した。 「氷……帝、氷帝……」 少しずつ声が上がり始める。――オマエラ毅然としろ! 跡部の視線がそう語っているように見えた。 「氷、帝……! 氷帝! 氷帝! 氷帝! 氷帝!」 いつしか、会場は氷帝コール一色となった。ここに来るまで、色々なことがあった。ずっと正レギュラーを目指していた宍戸の、願いが叶い、驕り、破れ、そして這い上がって臨んだ今日のコート。出会った頃は中学生活に希望いっぱいの少年だった鳳の、いつの間にかこれほど逞しく成長していた姿。そして追い込むような宍戸の特訓に付き合い続け、影ながら先輩である彼を支え続けて今日の勝利を掴んだこと。跡部の奮闘――。 これで終わりなのか――。夏はもう、これで終わり……。いつの間にか歪む視界にはついに耐えきれなくなって瞳から涙を零していた。 『また明日……』 ぼやける視界では鳳の穏やかな笑みを確かに浮かべていた。 そうして戦士たちの帰還を見送り、無人となってしまったあとも鳴りやまない氷帝コールとコートを、いつまでもただじっと見ていた。 |