試験明け、いよいよ週末に関東大会が迫り、夏休みも目前ということもあって氷帝学園は既に祭りのように騒がしい。特に放課後ともなれば、いつもよりも多くの生徒達がテニスコートに集いテニス部の様子を見守っていた。
「忍足せんぱーい! 頑張ってーー!!」
「キャー!! 忍足さーん!!」
「鳳せんぱーい!!」
 そう、本日は氷帝学園ダブルス1を決めるための試合が行われていたのだ。この手のことに周知の速い生徒達は我先にとテニスコートに集い、中央のコートで汗を飛ばしている男四人に熱い視線を送っていた。
 いや、男四人という表現は果たして正しいのか――、忍足・向日VS宍戸・鳳ペアという図で試合は行われており、チェンジコートの際に悪態を吐いたのは向日だ。
「くそくそ、侑士ばっか声援もらいやがって」
「気ぃ散らせてんじゃねぇよ、岳人」
「なんだよ宍戸! お前も鳳に負けてんぞ声援!」
「ウ、ウルセー! 俺はんなもん興味ねぇんだよアホ!」
 宍戸が口を挟めばいつもの通り幼なじみ同士の言い合いに発展し、向日の相方を務める忍足が「ええ加減にせぇ」と仲裁に入り、鳳に至ってはそんな先輩陣を止められるはずもなく苦笑いを漏らしてコートに立っていた。
 向日は滅多にシングルスには出ないダブルス専門と言ってもいい選手で、自由気ままなアクロバティックプレイを得意とする彼の相方を務めるのは決まってフォロー上手な忍足となっていた。ほぼ鉄板な氷帝の名物ダブルスでもあったが、それ故、宍戸・鳳という急造ペアに負けるはずがないという自負があったのだろう。結果として6−4で宍戸・鳳ペアが忍足・向日ペアを下し――、向日は唖然として「や、やり直しだ!」などと騒いでいたものの関東緒戦のダブルス1は晴れて宍戸・鳳ペアとなった。
「ダブルス1ねぇ……、やっぱ青学は大石・菊丸の黄金ペアだろうな」
「けど、サービスゲームは俺らが圧倒的に有利っすよ」
「アホ、そりゃお前のサービスの時だけだろーが。菊丸は守備範囲の広いボレーヤー、大石はこれと言った派手さはないがゲームメイクとボールコントロールに長けている」
「忍足先輩・向日先輩のペアとタイプが似てますよね」
「まァな。ま、岳人たちの方が派手だけどよ。青学は全国区のペアだからなぁ」
 部活が終わったあと、部室に残った宍戸と鳳は今度の対戦相手と目される青春学園の黄金ペア――大石・菊丸のビデオを見ていた。自他含めて大抵の試合は豊富な部員数を誇る氷帝学園の人海戦術でビデオを回しているのだが、実際、こうして観ることは希だ。しかし、「研究せずとも勝てる」と過信できるほどの驕りは宍戸たちにはない。
「しかも、この聖ルドルフ戦で出したオーストラリアンフォーメーション。激レアだぜ」
「でも、これあんま意味なくないっすか? クロスを抑える作戦なんでしょうけど、ストレート強打でポイント取れそうですし」
「そりゃお前の怪力ショットだったらな! ったく」
「そうはいっても、ダブルス選手ならストレートリターンに慣れてないかもしれませんが、宍戸さんもシングルス歴長いしストレートくらい余裕でしょう?」
 オーストラリアンフォーメーション、というのはダブルスの陣形の一つである。端的に言えば前衛がサーバーと同じサイドのコートに立つサービス側の陣形だ。通常はサーバーと前衛は別サイドのコートに立つため相手の虚を突き、かつ最初からリターン側のアングルショットを防衛できる位置に前衛を立たせることでクロスショットを封じてストレートを誘導するという狙いがある。ダブルスの選手はサーブのストレートリターンに慣れていない場合が多く、ミスを誘いやすいという作戦でもあるのだ。大石・菊丸ペアが都大会で初めて見せた陣形でもあり、今後も試合で使ってくると予想される。
 しかし、鳳の言うとおりストレートを問題なく打てる選手にはあまり有効な策ではなく、そう怖い陣形でもないだろう。
「ま、そうは言ってもこの陣形の時のリターンにクロスって選択肢が外れることは敵も読んでるだろうしよ。逆にそう思い込んじまう分、攪乱されっかもな」
「でも、これって前衛に守備範囲の広い菊丸さんがいる時だけ使ってますよね? なら、菊丸さんのサービスをブレイクすればいいんじゃ……」
「まーな。こっちはお前のサービスはキープできたようなモンだし、俺のサービスだってお前が前にいりゃ大石・菊丸は上背がないペアだしほとんど壁だもんな」
「サービスさえ落とさなきゃ……いけますね」
「そうだな。……ま、とにかく練習だ。アイツらは長年ペアを組んできた経験もあるが、俺たちはそうじゃねぇからな」
 一通りビデオを見終わり、ともかく理論武装するよりは身体を動かした方がいいという結論に至った宍戸は鳳と共に再びコートへと戻った。
 全国大会へと駒を進めるには、どれほどの強敵であろうが勝たなければ先はない。死ぬ思いをして勝ち取ったレギュラーの座だ。まだ終わるわけにはいかない――、と宍戸は逸る気持ちを抑えて鳳の放つボールに向かった。
「おはよう、宍戸くん」
 翌日、朝練を終えて教室に入るといつもどおりが挨拶をくれ、宍戸もいつもどおり返事をして席に着く。するとが「そうだ」と弾んだ声で話しかけてきた。
「昨日、試合で向日くんと忍足くんのペアに勝ったんだって?」
「ああ……、よく知ってんな」
「だって、学校に来た途端にすっごく噂になってたんだもん。じゃあ、鳳くんと一緒にダブルス1なんだね」
「まァな」
「でも、対戦相手の青春学園ってダブルス1がすごく強いんでしょ?」
 の言葉に宍戸は少し目を見張った。あまりテニスに興味のなさそうなにしてはよく知っているものだ、と感心した直後に「ああ」と一人で納得する。
「長太郎か?」
「え……?」
「長太郎に聞いたんだろ、ソレ」
「え、うん……そうだけど」
 やっぱりか、と宍戸はガシガシと頭を掻いた。そういえばいつぞやは鳳との接点が何だったのか聞きそびれてしまったが、特に気になるわけでもないため宍戸としては深く追及しないことに決めていた。どうせ聞いたところで「そうかよ」で終わる話だろうから無駄というものだ。 
「緒戦から強い相手で大変だね、って言ったら鳳くんすっごい燃えてたよ。絶対勝つって」
「マジかよ。ったくアイツ、二年の分際で言うじゃねぇか」
 鳳は普段は温和な性格だが、あれで頑固で勝負事に対しては闘争心旺盛なことを知っている宍戸としては頼もしく感じると同時に苦笑いを漏らした。
「私、ほとんどテニス部の試合って見たことないから……、跡部くんもこの前、鳳くんのこと誉めてたけど、そんなに強いの?」
「強いかはともかく、長太郎はまず敵に情報がほとんど行ってない選手だからな。俺も含めて三年は他校にどんなプレイヤーか知られてっけど、アイツの場合、ほとんど次の試合がデビューみたいなモンだし……驚くんじゃねぇか?」
 そうだ。対戦相手は自分のライジングは警戒してくるだろうが鳳のスカッドサーブは全くのノーマークだろう。しかしながら、例えマークした所で鳳を止められるはずもないが――と考えると宍戸は他人のことだというのになぜか誇らしい感情が芽生えてきた。はやく青春学園に鳳を見せつけてやりたい、とすら思えてくるから不思議なものだ。
「つーかお前、練習見てねぇのかよ。凄ぇだろ? 長太郎のスカッドサーブ」
「うーん……、だってスケッチしてる時って絵に集中してるし……、宍戸くんたちの練習を見てた時は痛々しくてそれどころじゃなかったし……」
 自身で言いつつあの痛々しい特訓のことを思い出してしまったのだろう。少しばかりは宍戸から目線をそらしてから、もう一度目線をあげた。それを見て――、宍戸は都大会前にに向かって啖呵を切ったことを思い出した。
『お前の目の前でラブゲーム決めてやらぁ!』
 結果としてが見た自分は、橘に無様に負けるというできることなら見せたくなかった一場面だ。別に自身の良いところを見せようなどという下心があったわけではなく、本当に売り言葉買い言葉の結果だったわけだが――、できることなら記憶を更新して欲しいという思いも少なからずある。しかし――。
『気に、なりますか?』
『俺は別に気にしてませんよ。噂なんて』
 下手にを関東大会に誘ったらまた鳳の地雷を踏むのではないか? と感じてしまい、宍戸は小さく唸ってを不審がらせる。
「宍戸くん……?」
「あー、くそっ、なんで俺がこんなこと気にしなきゃならねぇんだよ」
「え……?」
 そもそも鳳が氷帝に入学する前からの付き合いであったのことで、しかも先輩の自分がなぜこれほど気を遣わなければならないのか。いくらダブルスのパートナーで恩のある相手と言えども、あまりに面倒だ。と宍戸はいっそ開き直って盛大に溜め息を吐いた。
「お前、長太郎とどういう関係なんだ?」
「え……!? なに、いきなり」
「いきなりじゃねぇだろ。別に構わねぇんだけどよ、知らねぇと色々面倒だろ」
「そ、そんな……、どうって言われても……別に、普通の先輩後輩の関係、だよ」
 明らかにが狼狽して、少しばかり頬に朱が差した。その表情から「普通の先輩後輩」ではないのだろうと悟った宍戸だったが、またも的を射ない回答で要領を得ない。しかし、やはり突っ込んで聞く趣味もなく、更に深い溜め息を一つ吐くに留めた。
「そうかよ」
 やはり無駄だった。もう二度と訊くものか。どうなろうと知ったこっちゃない。いま考えるべきは関東大会のことのみ――、と強く頷いて宍戸は「あ!」と思いついて間の抜けた声を漏らした。
「英語の予習、やってねぇ」
「……」
「わ、悪ぃ……ノート貸してくれねぇか?」
「……」
 そんな日常茶飯事も繰り返しつつ、あっという間に関東大会初日はやってきた。
 晴天に恵まれた7月中旬の日曜日、選手たちはそれぞれの胸に飛来する闘争心と高揚感、そして緊張を覚えつつ目覚めた。鳳はいつもの通り、自宅の庭に遊びに来る小鳥たちに餌をやって微笑みつつ気持ちを落ち着け、宍戸は浮き足だってしまいそうな自分を抑えるために軽いロードワークをこなした。
 もいつも通り、通学時と同じように制服に着替えて自宅を出た。会場は家からすぐそばの「テニスの森公園、アリーナコート」だ。毎日のように通っている場所であるし、緑も多く頻繁にスケッチに出かける行き慣れた場所でもある。
 歩くこと数分、夏の力強い緑が揺れる木々の道を入っていくと「全国中学生テニストーナメント、関東大会試合会場」と大きく記された看板が目に飛び込んでくる。遠くからは試合前の心地よい緊張感が伝わってくるようなざわつきが風に乗って聞こえ、はごくっと喉を鳴らした。つい、いつもの調子で手でフレームを作って周りを観察してしまう。朝日がキラキラと揺れる葉を眩しく光らせ――こちらも胸が躍るような風景だ。とはいえ、さすがに今日はスケッチブック持参などという真似はしなかったが、と会場へ向かうべく階段を上がっているとふいに年輩の女性の驚愕したような声が聞こえてきた。
「なに!? 子供が生まれそうな妊婦さんを助けて近くの病院にいる!? 大石、間に合うのかい!?」
 無意識に声のした方に視線をやると、青いジャージを着た生徒たちが集っており――背中には「SEIGAKU」と記されていてはハッとする。
「セイガク……、青春学園……?」
 今日の氷帝の対戦相手だ。なにやら揉めている様子で、不審に思っているとどうやら選手の一人がアクシデントで会場に到着していないらしく――対戦相手ながら大丈夫かと案じているとの横を青学の生徒の一人が風のように駆け抜けていった。その背を見送って、彼らはさらに顧問らしき女性の方を向いた。
「桃城には何も言わず行かせたが……大石は右手首を捻挫して試合に出られる状態ではないらしい」
「え……!? じゃあ、俺とのダブルスは……」
 決して聞き耳を立てるつもりではなかっただが、あまりの情報に思わず振り返ってしまうとレギュラーと思しき男子選手の一人が不安げな表情をして顧問を見やっていて――あ、とはピンときた。
「大石くんって……青学の黄金ペアの人……?」
 確か跡部が彼らの事を「大石・菊丸ペア」と言っていたような気がする。とすれば、いま不安げな表情を浮かべている彼は菊丸選手なのだろう。これは、どうなるのだろうか。彼らは本来ダブルス1で鳳たちと対戦する予定だったはずだというのに。
「とにかく、例え大石が出られなくとも俺たちはこの試合に勝って全国へ進まねばならない。みんな、油断せずに行こう!」
「はい!」
 部長だろうか? とても力強い声だった。そうだ――勝ちたい思いは対戦相手とて変わらない。これはトーナメントであり、氷帝にしても彼らに勝たなければ先がないのだから。相手に気を取られている場合ではない、とは自校の試合が行われるコートを確認した。今日の氷帝は第一試合。コートはスタンド付きのハードコートだ。急ぎ向かうと、既に遠くからでも分かるほどの氷帝コールが沸き上がっており、相変わらずフェンスをぐるりと取り囲む自校のテニス部員には圧倒された。
 テニス部以外の生徒も応援に駆けつけており、この場だけで氷帝の生徒は有に300人に及ぶのではないか、というほどの迫力だ。これではフェンス側には近づけない、と思いつつスタンド側を見やるとそれぞれ青学のテニス部員たちと氷帝の準レギュラー以上と思しきメンバーが座っていてはホッと胸を撫で下ろした。跡部以下、氷帝正レギュラー陣は既に揃っていたからだ。
「芥川くん……また寝てる……」
 例によってベンチに突っ伏して寝息を立てている芥川の姿には肩をすくめた。以前から分かっていたことであるが、跡部はかなりの放任主義なのだろう。他の運動部であれば、いや美術部ですら居眠り常習犯は即刻罰則強制帰宅だというのに。しかしながら、クラスメイトとして彼は大丈夫なのだろうかという「アイツの将来が心配」と言っていた宍戸の気持ちを少しばかり理解できるな、などと感じつつがスタンド側の後ろの方に移動していると会場内にアナウンスの声が響き渡った。
「試合開始10分前です。各校、コートに入ってください」
 一方の氷帝正レギュラー陣は青学の事情を偶然見ていたと違って大石のアクシデントなど露知らず、受け取ったオーダー表を見て予想外のことににわか騒ぎとなっていた。
「おい、菊丸がダブルス2って、しかも相方は二年だと!? どういうことだよ! ナメてんのか!?」
「落ち着いてください宍戸さん。オーダー表に大石さんの名前がありません。もしかしたら、体調不良とかかもしれませんよ」
「仮にそうでも、自己管理もできねーヤツなんざ激ダサだぜ。しかも何だこのダブルス1の乾・海堂ってのはよう!」
 宍戸にしてみれば対戦相手は当然ながら青学鉄板のダブルス1、大石・菊丸ペアになると仮定して今日まで来たのだから肩すかしにも程があった。今日がようやくの正レギュラー全員揃っての試合である氷帝としては大声で言えた義理ではないが、黄金ペアを出し惜しみしているのではと邪推すれば腹も立つというものだ。
 対して軽快な笑みを零していたのはダブルス2を務める向日だ。
「よっしゃ! 菊丸がダブルス2じゃん! 一度ヤツとは対戦しときたかったんだよな、どっちがより跳べるか見せつけてやるぜ」
 菊丸はアクロバティックプレイを得意とするボレーヤーであるため、似たタイプの向日としては闘争心の煽られる相手なのだろう。しかし、「テニスは曲芸大会じゃねぇんだよ」などとまたも喧嘩に発展しそうな言葉を宍戸がすんでの所で飲み込み耐えていると、「オイ!」と跡部からの叱咤が割って入ってきた。
「想定どおりじゃねぇオーダーにビビってんのか? アーン?」
「何だと……ッ!?」
「せやな。敵さんに、こないなオーダーを組んだことを後悔させたろやないか。なぁ、岳人?」
 揉めている時間が惜しかったのだろう。忍足も口を挟んで宍戸と向日をいなしコートへと向かうと、向日も「フン」と鼻を鳴らしてラケットを手にした。
「これより青春学園対氷帝学園のダブルス2の試合を行います」
 氷帝は忍足・向日、青学は菊丸・桃城とそれぞれ選手の名前がコールされ、サーブは青学からで桃城とコールされた選手がサービスラインに下がった。先ほど、の横を風のように駆け抜けていった選手である。
「氷帝! 氷帝! 氷帝! 氷帝! 氷帝!」
 試合が始まってからも続く会場を揺らす程の氷帝コールに青学側はやりづらそうにコートを走り回っていた。対する氷帝は、向日はスケッチ対象としてはとても魅力的な人物であるものの――、豪快な宙返りをキメながらボレーを打つ彼を見て、はハラハラせざるを得なかった。確かにあんなプレイを見せつけられれば相手は驚くだろうが、向日自身、あの動きを続けていて体力は持つのかどうか。しかも、同じくアクロバティックプレイを繰り出す菊丸に対して何やら挑発気味な言葉をかけていてよりハラハラしてしまう。だが――挑発を受けた菊丸はというと、非常にやりづらそうに辛そうな表情を垣間見せており、は敵校ながら僅かに同情してしまった。おそらく彼は、後輩の桃城ではなく相方の大石をコート上に探してしまっているのだろう。
「英二先輩! これからっすよ!」
 アドバンテージを氷帝に取られて後輩に励まされても生返事という状態だ。しかし、つい先ほどまでいつもどおり大石とペアを組むつもりで大会に臨んでいて、さらにその大石がアクシデントでの負傷とあらば――やはり、動揺してしまうのも無理からぬことだろう。それにとしては偶然耳にしたことであったものの、大石は人命救助をして手首を痛めたという。おそらく、そういう人柄なのだろうな、と思うと尚さら菊丸が相方を求めるのも道理だろう。
 いや、しかし。勝負とは時に非情なものだ。相手を蹴落としてでも勝ち上がりたいという気持ちはにも十二分に理解できることである。が――、絵は相手と面と向かっての勝負ではない。あくまで、自分自身との戦いの先に相手があるにすぎない。
『俺はたぶん、ピアノで他人と競うことには向いてないんだと思います』
『テニスなら、スポーツですから別ですけど』
 こちらの方が、よほど辛いのではないか。――とは爽やかにそう言っていた鳳の顔を思い浮かべた。これは男と女の違いなのか。それとも、どうしてもキャンバスを前に人間を描くことを避けてしまう自身の問題なのか。
 第6ゲームが終わる頃、ようやく菊丸はあまりに不利な状況にも慣れてきたのか――懸命に後輩の桃城を引っ張ろうと奮闘するようにコート中を駆け回るようになった。向日からすればアクロバティック勝負を捨てたように見えたかもしれないが、後輩を引っ張ることで自身の存在価値を再確認したのだろう。おそらく得意なスタイルを捨ててゲームメイクに勤しむ彼は、先ほどよりも晴れやかな表情をしていた。
 けれど、彼らが調子を上げてくるということはそのまま氷帝の不利に直結する。
「ゲーム、青学! 4−4!」
 ついにゲームを振り出しに戻した青学を見て、思わずはギュッと手を握りしめた。相手の事情はともかくも、ここは氷帝に勝ってもらわなければならない場面だ。しかし、この追い上げがよほどプレッシャーとなったのか、向日は大量の汗を流して肩で息をしている。体力的に辛い局面なのだろう。
「向日くん……」
「ざけんな岳人! シャッキッとしやがれコラァ!!」
 が不安げに呟いたと同時にスタンドから宍戸の怒声があがった。何だかんだで、幼なじみが心配なのだろう。裏腹に菊丸はゲームメイクに徹して体力を温存していたのか、ここぞとばかりに得意のネットプレイを仕掛け、見事なダイビングボレーを決めたところで桃城と白い歯を見せて笑い合っていた。そしてふと、桃城が何かに気づいたように手を掲げ――つられて視線の先を追った菊丸の表情が今までにないほどにパーッと明るくなった。
「――大石!」
 も、会場の人間もそれにつられて視線の先を追う。するとそこには誇らしげに手を掲げて応援ハチマキを靡かせる青学の生徒の姿があり、その人物こそが大石なのだろうと誰しもが悟った。
 その瞬間から、菊丸は本来の力を完全に取り戻したのだろう。地力では氷帝ペアの方が青学の急造ペアに勝っていたのかもしれないが、スタンドで見守る大石の力が加わったように青学側は1ゲームを取り、そしてついにはマッチポイントという見事な逆転劇を演じてしまった。
「チッ……、あいつら、三人でダブルスをやってやがったのか……」
 遠くで呟いた跡部の地団駄はの耳には届いていない。だが、青学の勝利をコールする審判の声が響いて弾けるように飛び上がった菊丸たちの笑顔と、項垂れた向日の表情にじんわりと胸が熱くなったことは確かだ。青学陣の勝利を喜ぶ気持ちは少しばかり事情を知っただけに理解できる。が、母校の同級生たちが敗北する姿は見ていて気持ちのいいものではない。しかも――鳴り物入りで乗り込んだ正レギュラーが初っぱなから黒星を記したことで氷帝ギャラリーにはどよめきが広がっている。
「ウソだろ……まさかダブルス2が……」
「まさか、今年は全国に行けないなんてこと……」
 氷帝ギャラリーは数が多い分、応援となると頼もしいが動揺が広がれば一気に不安を煽り立ててしまうマイナス効果がある。動揺の広がるギャラリーに当てられるようにもスタンドの鳳と宍戸に目線を送った。
(だ、大丈夫なのかな……鳳くんと宍戸くん)
 宍戸の試合をちゃんと見たのは橘戦が最後であるし、鳳に至っては今だにの中で「ピアノ少年」というイメージが抜けない。むしろ、この二人がペアを組んでいる状況こそには不思議だった。宍戸は気の置けないクラスメイトであり、鳳は――鳳は。
『俺は一年の鳳長太郎です。幼稚舎からあがったばかりで音楽室に入ったのも今日が初めてなんですよ』
『気づいたんです。雨の音は、無数の音楽だって。この雨音は、俺の耳には優しいカノンに聞こえる。だから……、いまは好き、かな』
『これこそ勝ち負けの問題じゃないのに、先輩ほんと負けず嫌いですね』
『よかった、俺、先輩に会いたくて……』
 一瞬、様々な思いが頭を過ぎっては小さくかぶりを振った。二人の邪魔をしたくなく、気恥ずかしさも相まって自分がここで見ていることを二人に伝える気はなかったが、せめてちゃんと見届けようと思う。今、二人がああしてコートに立っていることも全てあの宍戸の都大会敗北から始まったのだから。売り言葉に買い言葉だったとは言え、関わってしまった。あれから宍戸は鳳と惨劇に近い特訓を重ね――そしてコンソレーション勝利の末に今がある、と強く手を握りしめる。
「宍戸くん……鳳くん」
 宍戸の方もこの試合にかける思いは人一倍強いのだろう。ラケットを神妙に見つめる瞳は未だかつてないほどの強さを伴っていた。そして一度深呼吸をしてから「鳳、行くぞ」と声をかけコートへと向かう。しかし、もうじき試合開始だというのに未だに氷帝ギャラリーからは不安げな声しか漏れて来ず、宍戸も痺れを切らせたのだろう。
「激ダサだな! お前ら」
 いつもの調子で言ったかと思えば啖呵を切るようにして振り返り、氷帝ギャラリー陣にラケットを突き刺すように向けて怒声をあげた。
「オラァ、うろたえてんじゃねーぞコラ! 勝つのは氷帝だろうが! 気合入れて応援しろ、アホ!!」
 しばし宍戸とギャラリーの睨み合いが続き、やがて大勢の部員たちも宍戸の意図することが分かったのだろう。「氷帝……氷帝……」と小さい呟きが起こり始め、そのうちに徐々に士気をあげていった大勢の部員の声でコートは氷帝コール一色に染まった。
「やれば出来るじゃねーか」
 対する宍戸は更に表情を引き締め――、はあっけに取られてその様子を見つめていた。これほど宍戸が頼もしく見えたのは初めてだ。本当に、橘戦の時とは別人のようだ。でも、宍戸は元々こういう人間である。いざというときはいつでも引っ張ってくれた――と宍戸と過ごした日々を思い浮かべて頷いてコートを見やる。ただ、やはり前より少し頼もしくなった。
「これより第二試合、ダブルス1、青学――乾・海堂ペア、氷帝――宍戸・鳳ペアの試合を開始します」 



BACK TOP NEXT