翌日の氷帝は、朝からテニス部の話題で持ちきりであった。
 起死回生のコンソレーション勝利で盛り上がっていた所に宍戸のレギュラー復帰というビッグニュースだ。ざわつく校内の噂は登校したばかりのの耳にも届き、はまだ空いている前の席を見つめて宍戸が現れるのを待った。噂の内容は、宍戸が正レギュラーの滝を圧倒したということと、榊の前で土下座をしてレギュラー復帰を請うていたということだ。出所は前者はテニス部員、後者は野球部員であったものの、ほぼ事実なのは間違いないだろう。鳳との壮絶な特訓に加えて、そこまで――と考えると胸が痛む。
 そんな生徒達の様子も、のことも知らないまましばらくすると宍戸はいつもの調子でガラッと教室の扉を開き、クラスメイトからの視線の集中砲火を一斉に浴びることとなった。しかし構うことなく自身の席までいき、後ろのにごく自然に「よっ」と声をかけた。
 都大会の敗北以降、事務的な会話以外はあまりしてくれなくなった宍戸が以前のように声をかけてくれたことにも驚いただが、それ以上に今の宍戸の姿にこれ以上ないほど驚いて思わず口元を覆った。
「し、宍戸くん……」
 相変わらず傷だらけの顔。しかし、そこにはいつもの艶やかな長い黒髪がなかったのだ。あの綺麗な髪は見る影もなく、スポーツ刈りよりも長めの無造作にカットされた短髪へと様変わりしている。
「か、髪……。あんなに綺麗で……大事にしてたのに」
 無意識に眉を歪めてしまったのが分かった。榊に土下座したという話が真実ならば、おそらく、彼に自身の誠意や覚悟を見せるために切ったのだと予測出来たからだ。
「あ、あんなボロボロになって特訓して……髪まで、切って」
 僅かに視界が歪んだのが自分でも分かった。宍戸が、正レギュラーの座を本当に大切に思っていたのはよく知っている。少しばかり羽目を外しすぎた自分を恥じて自分を罰するように、追い込むように鳳との訓練を重ねていたことも知っている。コンソレーションでの仲間の勝利を信じて、そして、レギュラー復帰という願いを叶えるために彼がしたこと。ずっと黙って見ているだけだったが、あまりに察してあまりある心情に冷静に対処などはとても出来なかった。歪んだ視界に、宍戸の驚いたように開かれた目が映った。
「お前……。そうか……知ってたのか……」
 今のの言葉で、宍戸は彼女が自分と鳳の特訓に気づいていたことと、全てを見抜いて黙ってくれていたことを悟った。鳳から聞いていたのか? とは思わなかった。鳳はに喋らないし、も鳳に訊くはずがない。それだけは、なぜか確信があった。
「激ダサだな、あんなとこ見られてたなんてよ」
 自嘲気味に呟けば、ふるふるとが首を振るう。そんな彼女を見て、宍戸は少しだけ口の端を上げたあと、軽く咳払いをした。
「お前に……言おうと思ってたことがある。悪いことしちまったな、ってよ」
「え……?」
「あー……、その、だな。お前も見ての通り、俺は不動峰の橘に無様に負けた。しかもラブゲームで勝ってやるっつったくせにあのザマだ」
「そ、そんな……!」
「分かってんだ。すぐ調子に乗るクセがあんのは。けど……それ以上に俺は俺自身を過信してた。その都大会だって、お前が自分の時間を削って勉強教えてくれたおかげで出られたってのによ」
 宍戸はから目をそらしそうになる自分に叱咤して必死に彼女を見つめ、自嘲気味にそう言った。そうだ、正レギュラーになって自分は「選ばれた存在」のように何かを勘違いしていたように思う。もてはやされて舞い上がっていたと指摘されても言い訳すらできない。
 は驚いたように強くかぶりをふった。
「そんなことないよ! あの中間考査は宍戸くんが頑張ったから、いい結果がでたのに」
 それは彼女の本心なのだろう。しかし、あの時の自分は彼女に感謝の言葉すら言った覚えがない。正レギュラーから落ちて、手のひらを返すようにもてはやされなくなった時も、こうして人知れず気にかけてくれていた彼女だというのに。もはや自分が情けなさすぎて、今日まで真っ直ぐ向き合うことすらできずにいたのだ。
 いや、と宍戸は首を振るって懸命にを見やった。レギュラー復帰が叶ったら――言わなければ、と決意していたことだ。
「お前には迷惑かけたと思ってる。感謝もしてる。……ありがとよ」
「宍戸くん……」
 さすがに礼だけはどうにも彼女の目を見て言うことができず、俯きがちになってしまったものの、再度目線をあげて宍戸はふっと笑った。
「関東大会は、正レギュラーとして試合に出ることになった。長太郎と一緒だ」
「え……? 鳳くん……?」
「ああ、ダブルスで……な。ま、シングルス復帰は叶わなかったが……長太郎あってのレギュラー復帰のようなモンだ。文句は言えねぇ」
 晴れやかな表情を浮かべた宍戸に、自身もホッとしたのか顔から歪みが消えている。やはり鳳からは何も聞いていなかったのだろう、僅かにぽかんとした表情を晒したに宍戸は後輩を誉めるようにして口角をあげた。
「長太郎は……後輩ってことを抜きにしても良いヤツだ。ずっと俺の無茶苦茶な要求に応え続けた。ま、無理やりやらせてた部分もあんだけどよ。つか、ちょっと甘すぎるくらいお人好しだけどな」
「鳳くん、優しいから……。でも、そっか。宍戸くんとペアを組むんだね」
「関東大会からな」
「そっか……。頑張ってね」
 ふ、とが優しく笑い、少しだけ宍戸はの笑みが引っかかった。自分で鳳の話題をふったというのに――、それは自分と鳳、どちらに向けた言葉なのか――。しかしすぐに切り替え、宍戸も微笑んだ。
「おう」
 その宍戸の笑みは、本当に吹っ切れたような爽やかな笑みだった。顔の傷は相変わらず痛々しいものの、短髪も思いの外しっくりきていても決意を新たにした級友にもう何も言わず小さく頷いた。
 本当に良かった――、そう思う一方での胸に鳳の姿が飛来する。とても辛そうに宍戸へ向けてサーブを打ち続けていた鳳。会ってしまえば、宍戸とのことを問いつめてしまいそうで都大会以降は一度も顔を合わせていなかったのだ。鳳くん、とは小さく呟いた。逸る気持ちはすぐにでも二年生の校舎に飛んでいきたいと訴えていたが、グッと手を握りしめてどうにか耐える。今さら、この二週間に何があったのか訊きたいわけではない。ただ、会いたい――と強く感じて鼓動さえドクドク聞こえる程の音を立てる自分には少しだけ困惑した。しかし、それさえも些末な問題だった。昼休みになると同時に、は特別教室棟へ向かった。ここ最近は音楽室からピアノの音が聞こえてくることもなかったが、今日ならもしかしたら、と思う。
 無意識のうちに高鳴る胸を抑えるようにしては胸元で手を握っていた。特別教室棟へ足を踏み入れてもピアノの音は聞こえない。しかし行って待ってみよう、と階段を上がった所で軽快な旋律が流れ始め、ドクッ、と一度心臓が脈を打った。一度深呼吸をして、そっと音楽室の中を覗くと案の定、鳳の姿があっては小さく笑みを漏らす。すると、鳳がパッと目線をあげてこちらを見やった。扉を開けた際の僅かな音に気づいたのだろう。
「先輩……!」
 そしてあろう事か演奏を中断して立ち上がってしまったものだから、も慌てて中へ入って声をかける。
「あ、ご、ごめんなさい。邪魔するつもりじゃ……」
「いえ、構いません。よかった、俺、先輩に会いたくて……」
「え……!?」
「あ……! いや、その……」
 鳳は言ってしまったあとで「しまった」という読めない困惑の仕方をしたが、にはその真意が分からず――鳳に歩み寄って目線をあげる。
「私も、会いたかった」
「え……」
「鳳くんと話がしたくて……」
 具体的に何を話したいと明確なものがあるわけではなかったが、は鳳の姿を前にした安堵感からついそう言ってしまい――言ったあとで「あ」と口元を押さえて若干狼狽した。鳳も少し驚いたような表情を浮かべていたものの、互いに見つめあった末に二人してクスクスと笑い、あっという間にいつもの調子に戻ってしまう。
「今朝、宍戸くんから聞いたの。鳳くんとペアを組んでダブルスの試合に出るって」
「あ……、はい。練習では何度か組んだこともあるんですけど、ペアとして宍戸さんとちゃんと組むのは初めてなので足を引っ張らないように頑張るつもりです」
 宍戸とペアというのは存外に鳳にとっては自然だったのだろう。割と感情が顔に出やすい鳳が嬉しげに笑っていてとしてもホッと胸を撫で下ろした。鳳と宍戸、自身にとってはどちらも親しい人間だが、彼ら同士はそう親しい間柄でもなかったはずだ。そんな彼らがまさかダブルスを組むことになるとは、と、不思議な感覚にとらわれつつハッとする。そういえば――やけに鳳の姿が涼しげに映っていたのは夏服のせいだったのか、と気づいたのだ。ちょうど衣替えの時季だっけ、と改めて鳳を見上げて笑みを零すと鳳はその意味が解せなかったのだろう。小さく首を捻っている。
「先輩……?」
「鳳くん、制服新しくしたでしょう? 去年と全然サイズが違うんだもん」
 あ、と鳳は意味を理解したようで、あはは、と笑った。
「そうなんです。一年の頃の制服、もう全然入らなくて……予めちょっとは大きいサイズを買っていたつもりだったんですが」
 へへ、といつもの調子で鳳がはにかむ。こんな様子は出会った頃と何も変わらないのに――目線がそう違わなかった頃がもう遠い昔のようだ、とふと一年前の姿を今の鳳に重ねた。むろん身長も違うが、夏服になると随分と体格も変わっていることが顕著に分かる。一見するとすらりとしている鳳ではあるが、去年の今ごろはここまで筋肉質だったか――? と改めてマジマジと鳳を見つめるというよりは観察して、は感心したように言った。
「すごいね、鳳くんの腕」
「え……?」
 その時、は自分でも「不味い」と頭の隅で感じた。対象を写生するモノとして捉えたときにスイッチが入る瞬間というのは大抵の場合、自分で分かるのだが、おおよその場合、欲求が制御できた試しがない。
「ちょっと触ってもいい?」
「え……!?」
 スケッチ時に男性の筋肉を描くのは存外に難しいのだ。バスケ部などをよく見に行くが、間近で静止状態をそうそう観察できる機会もなく――は鳳の返事を待つ前に彼の利き腕である右上腕部にそっと触れてみた。
「わ、すっごーい! うわぁ……硬くて太いのにすごく張りがある」
「せ、先輩……ッ」
 よほど鍛えているのだと一見して分かる身体だ。思えばこうして鳳を「運動部の人間」と意識したことはなかったかもしれない、と素直に誉めて見上げると間近で目の合った鳳は明らかに狼狽しており、もハッと我に返ってパッと腕を解放した。
「ご、ごご、ごめんなさい。い、イヤだった?」
「え、いや、そのイヤとかじゃないんですが……ッ」
 我に返れば返ったで理性が追いつき――、狼狽する鳳につられるようにしての顔はみるみる紅潮していき、逆に鳳は落ち着いたのだろう。呆れたように肩をすくめた。
「どうして先輩が赤くなるんですか……」
「だ、だって……。こんな筋肉、正確に描写できるかなって思ったら身体が勝手に……」
 先輩らしいですけど、という鳳の声を聞きながらはもう一度鳳を見上げた。単純に夏服になって目立ったせいもあるかもしれないが、春先よりも随分と彼は逞しくなったように思う。
「まるでカノンね」
「え……?」
「肉体の美しさを指して”カノン”とも言うから……雨はカノンっていう鳳くんの音は私には聞こえないけど、今の鳳くんを見て、カノンみたい、って思ったの」
 もしも宍戸が聞いていたら恥ずかしさに卒倒しそうなの台詞だったが、鳳には普通に意味が分かったのだろう。ああ、と言って申し訳なさそうに眉を寄せた。
「残念ながら、俺はそう誉められたモノじゃないっすよ。右と左で偏っちゃってますしね」
 言って鳳は左肩に手をあてた。見ると確かに右と左では太さが視認できる程度には違う。
「あ、そっか……、テニス選手だからどうしても利き腕が発達しちゃうんだね」
「均等に鍛えてるつもりではいるんですけどね。俺の場合、サーバーだからどうしても右手に偏ってしまって……」
 あ、とそこでの頭にはいつぞやの鳳と宍戸の夜の特訓がフラッシュバックした。毎日毎日、数え切れないほどのサーブを宍戸に向かって放っていただろう鳳の――垣間見た辛そうな表情はいま思い出しても胸が痛む。少しだけ訊いてしまってもいいのだろうか――だが。と逡巡していると、鳳が背を屈めての顔を覗き込むように視線を合わせてきた。
「どうしました?」
「あ、その……。鳳くん……」
 いやしかし。あの夜のことは鳳はともかく宍戸は知られたくなかったはずで。とは言え、もはや当の本人には自分が練習を見ていたことは知られてしまっていて今さらでもあるし。だからといってあまり踏み込んでしまうのも、と更なる逡巡を重ねていると鳳は不審そうに眉を寄せる。
「なにか、気になることでも?」
「あ、うん……でも……」
「何でも言ってください。それに、そこまで出し惜しみされると気になりますよ」
「あの、ね……。宍戸くんとペアを組むって話なんだけど……その、鳳くん」
 あの特訓は、という言葉をはやはり飲み込み、替わりにこう切り返した。
「鳳くんも……宍戸くんとダブルス、やりたいと思ってた……?」
 鳳が不意打ちを食らったように目を丸めた。
 宍戸の方は、鳳をとても信頼しているということが伝ってきていたものの――鳳の宍戸への感情というものははあまり知らない。むしろ、過去の言動を見るにあまり親しいようには思えないのが現状だ。
 鳳は数回瞬きを繰り返したあと、ふ、と笑った。
「俺は……宍戸さんがそれで良いのなら、構わないと心から思ってます」
「え……?」
「俺、宍戸さんのことを本当に尊敬しているんです。あんなに努力できる人、なかなかいません。宍戸さんを見ていると、俺ももっと諦めずに頑張ろうって思えるから……宍戸さんとのダブルスは俺にとってもきっとプラスになると思います」
 おそらくそれは鳳の本心なのだろう。以前の鳳はこんな風に宍戸のことを口にすることなど一切なかったというのに――やはりこの二週間、ずっと宍戸の特訓に付き合って心情の変化もあったのだろう。
「鳳くんだって……偉いよ。鳳くん、優しいから……宍戸くんを傷つけるような特訓、辛かったと思うのに」
「え……!? 先輩……」
「あ……!」
 しまった、とは思わず口元を押さえた。これでは先ほどの二の舞である。短い沈黙のあと、「え……と」とはどうにか言葉を切りだした。
「ごめんね、偶然……見てたの。夜遅くまで美術室にいて、帰ろうとしたらテニスコートの明かりがついてたから気になって……行ってみたら鳳くんと宍戸くんがいたから」
「そう、だったんですか」
「鳳くん、辛そうで宍戸くんも傷だらけで見てられなくて……だから……ずっと気になってたの。鳳くんの気持ち」
「俺のこと……? 宍戸さんじゃなくて?」
「し、宍戸くんは別に……ああいう人、だし。なに考えてるかだいたい分かってたから……でも……」
 が目を伏せた先で、一瞬鳳の声に嬉しさが混じって跳ねたものの――次いでみるみると落胆と諦めのようなものが声色に混じっていった。
「そっか。先輩……やっぱりよくご存じなんですね。宍戸さんのこと」
「え……?」
「いいんです、俺、確かに最初は戸惑いましたけど宍戸さんが俺の力を必要としてくれているのなら、手助けは当然ですから」
 宍戸のことを尊敬している。――それは鳳の紛れもない本心であった。最初は困惑気味だった特訓も、宍戸の気持ちに応えようと懸命にやってきたつもりだ。けれど、の口から宍戸の名を聞く度、未だにどこかで「イヤだな」と感じてしまう自分に鳳は自責の念が込み上げる思いだった。誰よりも尊敬すべき先輩だというのに。
 と宍戸のことが、ただの噂だというのは知っている。けれど、いまはそうでも将来のことは誰にも分からない。それに、もし宍戸がに好意を抱いていたら? そうしたら――と考え唇を無意識に噛みしめていると、間近での瞳が「どうしたのだ」と言いたげに揺れていてハッと意識を戻した。
「先輩……」
 宍戸のことも、のことも尊敬すべき先輩だ。だが、だからと言って――と反発しそうになる気持ちをどうにか抑え込んでいるとが褒めるようにして口元を緩めた。
「鳳くんは、凄いね。宍戸くんが羨ましい。宍戸くんももちろん頑張ってたけど、鳳くんがあんなに一生懸命になってくれたからこその結果だもん。あそこまで誰かのために本気になれるって……すごいな」
 はおそらく表情が曇った自分を励まそうとしてくれたのだろう。けれど、嬉しいはずの言葉もどこか「宍戸の後輩に対する言葉」に聞こえてしまって素直に受け取れない、と感じてしまった自分を鳳は心底恥じた。あの特訓で、自分の事も見ていてくれたと分かっただけで嬉しいはずだというのに。宍戸にはどう声をかけたのだろう? と呟いてしまいそうになる自分を抑え込むのが精一杯だ。
「そんなこと、ないです。でも、やるからには絶対に勝つつもりで頑張ります。緒戦は……なかなか厳しい相手になっちゃいましたけど」
「え……、そうなの?」
「今年はシードではなかったので抽選で決まったんです。青春学園という学校で……昨年の成績はウチが上だったんですけど、今年は都大会も優勝していますしダブルスに全国区のペアもいるので、もし俺たちがダブルス1になったらそのペアと当たりますから」
「青春学園……」
 テニスにそう詳しくないにはいまいちピンと来ないのだろう。記憶を探っている様子を見つめながら、鳳も改めて自身のデビュー戦がとんでもないことになったものだと感じた。けれども、込み上げるのは畏怖と言うよりは高揚感で、この感情はやはり対象がスポーツだからだろう。
「そっか……、鳳くん、試合に出るの関東が最初なのに……大変だね」
「でも、逆に燃えますけどね」
 そう言ってみるとが意外そうに目を瞬かせた。しかし、が自分だったら確実に闘志を燃やす展開だというのにそれほど驚くことだろうか?
「そんなに意外ですか?」
「え? う、ううん! そういうわけじゃないんだけど……」
「先輩だったら、相手が誰でも絶対負けない、とか言いますよね? 絶対」
「そ、そんなこと……! あ、あるかもしれないけど……。鳳くんっていつも私をそんな風に思ってるの?」
「先輩こそ、俺のこと誤解してません?」
 う、とが言葉に詰まって鳳はようやく軽く笑った。自分は確かに後輩ではあるが、彼女を相手にこうして主導権を握っていたほうが心地いい。――いくら宍戸と言えども、譲れないものもある。と鳳は自分でも気づけない意識の奥の奥で確かにそんな決意をした。ただ、彼女が宍戸を選ぶならそれは仕方のないことだと諦めなければ――とも無意識に自分に言い聞かせていた。
「お、鳳くんがそう言うなら……、きっと大丈夫だね」
「結果は分かりませんけど、ベストを尽くします。もしよかったら、関東大会見に来てくださいね」
「東京でやるの?」
「はい、有明のアリーナテニスコートで開催されます」
「え、アリーナテニスコートって……テニスの森公園の? そうなんだ……ウチ、すぐ近所なの。歩いて数分の」
「へぇ、先輩のご自宅って有明なんですか……。じゃあ、予定がなければぜひ来てください。俺、頑張りますから」
 もしもシングルスでの出場であったのなら――試合を見に来て欲しい、と誘うのに一点の曇りもなかったというのに。けれど、例えダブルスでも相方の宍戸ではなく自分を見て欲しい、とまでは言えずに。柔らかく微笑んで頷く彼女に、もしも宍戸が誘ったとしてもこんな顔をして頷くのだろうか、と考えそうになる自身にどうにか叱咤して鳳も笑った。

 宍戸もも、鳳の本人さえ気づいていないかもしれない深層心理を理解できるはずもなく――、いよいよ七月に入って関東大会が目前に迫る。
 しかしながらその前に中学生にとっては夏休み前の最大の恐怖イベント・期末考査もあり、大会前ということで部活動の許可は得たテニス部だったが居残り練習は早々に切り上げるしかない。
「あー、ぜってーヤベーってマジでやべぇ」
 共に居残り練習に励んだ鳳とストレッチをしながら宍戸は眉間に皺を寄せてブツブツ呟いていた。
「青学戦のことですか?」
「アホ! 期末のことに決まってんだろーが! ったくこれだから優等生は……」
 いっそテスト前だというのに涼しい顔をしている鳳が宍戸は恨めしかった。しかしそれを口にしたところで「普段から勉強していれば云々」と逆に後輩に説教される羽目になるのでこれ以上は噛みつかない。
「宍戸さん、中間はすごく成績良かったって聞きましたけど」
「あー……そりゃ、なー……まあ、アレだ」
 確かに中間考査の結果は奇跡的に良かったが、そこには地獄のような勉強漬けの日々があったのだ。あんな思いはもう二度とゴメンである。まして大会前、勉強よりもテニスに時間を割きたい。しかし、またも落第点を取って小林の逆鱗に触れたらと思うと――宍戸の思いは深い溜め息となって漏れてしまう。
「また頼みってのもなぁ……」
 さすがに中間考査の時のように彼女を拘束するわけにはいかないが、せめて理数系のポイントだけでも教わっておこうか。いや、でも。と一人ごちた宍戸の声はごく小さく聞き取れない程度のものだったのだが、鳳には聞こえてしまったのだろう。「え?」とストレッチをしていた手を止めて宍戸に向き直ってきた。
先輩がどうかしたんですか……?」
「は……!?」
 宍戸としてはそこに突っ込まれるとは思ってもみなかったため驚いたが、少しの間をおいて「ああ」と頷く。
「いや、どうもしてねぇけど……またの世話になるのもどうだかなって思ったんだよ。でもアイツ、理系は強ぇからなぁ」
「先輩の世話……?」
 宍戸の回答が鳳には解せないことのようで益々首を捻っており、宍戸もそんな鳳を見て首を捻った。鳳とがどういう関係なのかは知らない宍戸ではあったが、中間考査明けに一緒にいたのを見ていたため、当然事の成り行きを知っていると思っていたのだが――よくよく考えればの性格上、そうそう喋りはしないだろうと合点がいって少し笑う。
「そうか。別に隠してねぇってのに、アイツも律儀だな……」
「え……?」
「ま、いまだから笑い話だけどよ、俺、担任のヤツに中間で良い成績取らないと部活停止とか宣言されてたんだぜ。ほら、お前とちょうど職員室ですれ違ったことあっただろ? 覚えてねぇか?」
「あ、ああ……確かに。小林先生でしたよね」
「そん時、説教喰らった上にそう言われてな……。情けねぇけどよ、部活停止になるわけにもいかねぇし、に数学・理科・英語を教わって何とかクリアしたって話だったんだが……さすがに期末も世話になんのはな」
 苦笑いを浮かべる宍戸に、鳳は少し驚いた表情を浮かべていたものの、どこか納得したように小さく頷いて「そうか」と呟いた。
「あの時、宍戸さんと先輩二人して目の下にクマを作っていた理由もそういうことだったんですね。どうりで……先輩、居眠りなんてするはずだ」
 どこか思い出すような表情で一人ごちる鳳を見つつ、宍戸は首を捻る。ずっとなぁなぁで今までやってきたが、鳳とに接点などあっただろうか? とは腐っても三年間同じクラスでそれなりに近しい人物だというに、どうにも繋がりが見いだせない。
「お前さ……、と仲良いらしいけどよ、なんでだ?」
 宍戸としては訊くタイミングを逃し続けてきてたまたま口に出した質問であったものの、鳳の方はそうは受け取らなかったのだろう。目を見開いたのちに、ちらりと宍戸の方に探るような視線を流した。
「気に、なりますか?」
「き……ッ!? い、いやそうじゃなくてだな! 俺は別に……ッ」
「そうですよね、宍戸さんと先輩って別に付き合ってるわけでもなんでもないんですし」
 ですよね? と確認されて宍戸はどことなくこれ以上、鳳の前での名を口にしない方が良いことを悟った。替わりに眉を寄せて「アホ!」と一蹴する。
「俺とあいつはただの腐れ縁。その手の噂が出回ってる事は知ってっけどよ、デタラメだし気にすんな」
「俺は別に気にしてませんよ。噂なんて」
 鳳はそう感情的な性格ではないが割と感情が表情や声に出やすいタイプだ。温和で人の良い性格なだけに思ってもみなかった地雷を踏んだ気がして宍戸の目線は空を泳いだ。そうして「あー……」と呟き、結果、話題を完全に打ち切ることにする。
「ホラ、ストレッチはこの辺にしてとっとと帰るぞ! けど朝練はキッチリやるからな、遅れんなよ」
「あ、はい。もちろん」
 事実、期末は切実な問題であるが鳳とはペアを組んだばかりのにわかダブルスなのだ。ここ数週間の特訓でお互いの信頼関係はほぼ出来上がったと感じているが、ダブルスとしては未知に近い。宍戸自身、シングルスに重点を置いていたタイプであるし鳳もビッグサーバーゆえにやはりシングルス向きの能力である。課題は山のようにあるのだ、まだまだ時間が足りない。しかし期末が――、と宍戸は頭を抱えて盛大な溜め息を吐いた。
 宍戸は決して勉強が人一倍苦手とか、そういうわけでもないのだが。なにせ今は目の前の関東大会のことで頭がいっぱいで勉強の入る余地がないのだ。むろん、時間のやりくりの上手い人間も山ほどいるしテニス部のレギュラー陣の大半は成績優秀で通っているため宍戸がやり玉に挙がるのも理解できるのだが――、「宍戸、期末も期待しているぞ」とホームルームの時間にプレッシャーをかけられている様子を見ていたは頭を抱え込む宍戸を完全に見捨てることもできず、昼休みくらいは勉強に付き合った。宍戸も前回のような全教科90点以上という成績はハナから諦めているようで、ごく基本的な計算問題の分からない部分のみを訊いてきてくれるためとしてもそう負担にはならずに済み、これで期末が済めばいよいよ関東大会か、と次の授業に出るために廊下を歩いていると、偶然、あまり会いたくない人物とばったり出くわしてしまったは「ッ」とうめき声のようなものをあげてしまった。
「よう、
 跡部景悟である。――次の授業は選択フランス語である。ゆえに行き先が同じであり、無視するわけにもいかない。あまり並んで歩きたくない相手だが致し方ないだろう。
「跡部くん……、こんにちは。関東大会、もうすぐだね」
「なんだ、お前もようやく俺様のテニス部に興味が沸いてきたか? そういや都大会も見に来てたな、アーン? どういう風の吹き回しだ?」
 相変わらずどう返答すればいいのか困る言葉をくれる人だ、と思う。いつかテニス部の部室で垣間見た忍足のように上手い返答の仕方はないものか――、考えて、は諦めに似た溜め息を吐いた。
「心配してたの」
「あん? 心配だと? まさか……俺たち氷帝がコンソレーションを勝ち上がれねぇとでも思ってたってのか?」
「そういうわけじゃないけど……、でも都大会ってベストメンバーじゃなかったみたいだし」
「ハッ、都大会なんざ準レギュラーで十分だぜ」
「……で、負けたんだよね?」
「アン? ナマ言ってんじゃねぇよ。……ま、ああいう不測の事態が起きることも想定してコンソレじゃ俺様自らシングルス2で出てやったのはお前も見ただろうが」
「聖ルドルフ戦のこと……? でも跡部くん、すっごい時間かけてたよね……スコアは6−0だったのに。芥川くんはあっという間に勝っちゃったけど」
「チッ、素人がケチつけてんじゃねぇよ。俺様の美技の数々が分からなかったとでも言うつもりか?」
 そろそろ会話にならなくなってきたかもしれない、とはコメカミに手をやってから一度唸った。しかし跡部と話をする上でテニス以外の話題があるのだろうか? いや――思いつかない。必然的に、テニスの話を続けるしかない。
「そうそう、関東の緒戦って青春学園っていう強豪なんだってね。ダブルスにすごく有名なペアがいるって聞いたけど……」
「ああ、大石・菊丸の青学黄金ペアのことか。ま……ウチはダブルスが弱点だからな、ダブルス1は悩みっちゃ悩みだな」
「へぇ……そうなんだ」
「今回は宍戸と鳳のペアがどこまでやれるかが鍵の一つでもあるな。鳳はデビュー戦、宍戸は復帰戦で気合いだけは人一倍みたいだが」
「え、鳳くんたちがダブルス1?」
「いや、まだ決まっちゃいねぇ。試験明けにダブルス勢で試合して勝ったペアがダブルス1だ」
「ふーん……。鳳くんと宍戸くんのペアってどんな感じなの?」
「まァ、バランス取れてんじゃねぇの? 正直、鳳はダブルスに置いとくには惜しい人材なんだが……ハナからシングルスに入れるのも賭けに近いしな」
「そうなの……?」
「俺様のシングルス1は揺るぎねぇが、あとは宍戸と向日以外は十分シングルスでやれる器だ」
「そうなんだ、鳳くん……そんなに上手いんだ」
「俺様から見れば子供の遊びみてぇなモンだが……ヤツにはサーブがあるからな。自分のサービスを落とさないって意味じゃかなりのアドバンテージがある。ま、メンタル面はまだ未熟だがな」
「そ、そんな……優しいんだよ、鳳くんは。あ、でも……緒戦はぜったい勝ちたいって言ってたから大丈夫なんじゃないかな」
「ほう……。ま、そういう意味じゃダブルスに置いといて良いのかもな。なにせウチの正レギュラーはそろいも揃って協調性ナシと来てやがる」
 跡部がそれを言うのか――、とは小さく苦笑いを漏らした。しかし、意外にも跡部にこうした部長らしい一面があるのだと思うと同時に、自分の思っている以上に鳳はテニス部では期待されているのか、と感じた。
『でも、逆に燃えますけどね』
『先輩こそ、俺のこと誤解してません?』
 テニス部での鳳のことはほとんど知らないが、自分の知っている鳳は――、と脳裏に鳳の姿を浮かべつつは見えてきたサブ視聴覚室にホッと胸を撫で下ろした。



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