宍戸は、器用なタイプではない。一点集中型というか、一つのことにのめり込むと他のことまで手が回らないような部分がある。だから――。
(ノート取らなくて大丈夫なのかなぁ……)
 前の席で船を漕いでいる宍戸の後ろ姿を見て、は案ずるように眉を寄せた。おそらく、連日に及ぶ鳳との特訓に次ぐ特訓で疲れているのだろう。昼休みにも自主練習を重ねているらしく、その反動か授業中はほぼ睡眠時間と相成っている。宍戸らしいといえばらしいが、あとできっとノートを貸すことになるのだろうな、と思いつつ小さく溜め息を吐く。
(鳳くん、大丈夫かな……)
 宍戸の練習に付き合っているらしき鳳は、正レギュラーらしく本来の部活動にもきちんと参加しているだろう。おそらく鳳は部活をこなした後で毎日遅くまで宍戸の個人特訓に付き合っているのだ。彼の性格上、授業中に居眠りなども考えられず――。
『あんまり無理しないでください、心配です』
 宍戸の勉強に付き合って寝不足が続いていた自分にああいってくれた鳳。むしろ鳳こそ無理していないか、とは鳳の身を案じた。
 とはいえ、宍戸が何を思って鳳を練習に付き合わせているのか。それを宍戸に訊くのも、鳳に訊くのも、無理な話だ。おそらく特訓のことを誰にも知られたくないだろう宍戸の気持ちを汲めば、とても「気になる」だけで訊けることではない。そもそも自分には関係ないのだから――と思えば済むことだというのに。どうしてもそうできない自分に、は少しばかり驚いてもいた。あまり個人的な感傷で他人に感心を抱いた覚えなどないというのに。
 鳳だから? それとも、宍戸だからか――。
 明後日は、都大会最終日だ。氷帝はコンソレーションに出ることとなっている。ここで勝ち上がることができれば、一度は消えた関東大会への切符が手に入るのだ。自分が行ってどうにかなるようなことではないが、せめて、氷帝の行く末をちゃんと見ておこう。と、はそんな風に考えた。
 都大会ベスト8の4校のうち、コンソレーションにて勝ち上がれるのは一校のみ。実質、実績十分の氷帝学園と、地方から優秀な選手を集め全国を目指す新生勢力、聖ルドルフ学院の一騎打ちとなるだろうというのが大方の予想だった。そして都大会最終日、予想通りに氷帝と聖ルドルフはお互いのブロックを勝ち上がり、両校は関東大会最後の椅子をかけて相まみえることとなった。
「氷帝! 氷帝! 氷帝! 氷帝!」
 氷帝学園の強みは、圧倒的な部員数で会場を盛り立て相手にプレッシャーを与えられる部分にもある。この俗に言われる「氷帝コール」はよくテニス部でも練習していても耳にしたことはあるが――しかしながら困惑している相手校の選手達を見ると、やりすぎ感が否めない。
(鳳くん……。いないの……?)
 出場選手を見やると鳳の姿が見あたらず、こんな大事な試合でさえベストメンバーで臨まない自校のやり方にはいささか困惑した。勝てると踏んでいるのだろうか? しかし、勝てると踏んで前回は敗北したのだ。なのになぜ――、との不安に同調するように最初の試合であるダブルス2は聖ルドルフに軍配があがり、焦りからはフェンスを握りしめてしまう。
(跡部くん……!)
 ちらりと跡部を見やっても跡部は黒星を特に気に留めてはいないようで、これは想定内だったのだろうか。周りのテニス部員からは「今のダブルスは相手が悪い」等々聞こえてくるため、たまたま強い相手に過ぎなかったのか。しかし――ダブルス1が始まってなお、ルドルフが押している。むしろ無名に近い相手だというのに想定外に強いようで、ギャラリーが嫌な雰囲気でどよめいている。
(もしも負けたら……、宍戸くん……)
 フェンスを握る手に徐々に力が入っていく。相変わらず腫れ上がった顔で登校してくる宍戸の真意は――おそらく、是が非でもレギュラーに返り咲き、中学生活最後の関東大会に、そして全国大会に出場するためだろう。
『残念だけど……宍戸はレギュラーから外れると思うよ』
『ウチ……そういう、ところ、だか……ら……』
 芥川がそう言っていたように、レギュラーに返り咲くというのはそう簡単なことではないのだろう。だからこそ、圧倒的な力を身につけて這い上がるつもりで、ただそれだけを目標にあんな過酷な特訓に挑み続けているのだろう。ただ――氷帝の勝利を信じて。驕りではなく、純粋に仲間達は関東への切符を手にして帰ってきてくれると信じて今も特訓を続けているに違いない。おそらく、鳳と共に。だからこそ勝たなくては、宍戸にも鳳にも先はない。
 今のところダブルス1は互いのサービスゲームのキープが続いている。つ、と緊張から背中に汗が伝ったところで近くのテニス部員から声があがった。
「ジロー先輩! 起きてくださいよ!!」
「つぎ先輩の出番っすよ! マジ頼むから起きてくださいってば!!」
 振り返ると、なにやら寝転がっていたらしき芥川を運びつつ必死に起こそうとしているテニス部員の姿があり、思わずは声をかけてしまった。
「芥川くん……!」
 この期に及んでまた居眠りとは、と面食らいつつそばに寄ると、芥川の方も見知った声が響いて違和感を覚えたのだろう。うっすらと瞳をあけてを見やった。
「あれぇ……ちゃん……? なんで……あれ、ここ……教室……?」
「違うよ、柿ノ木坂テニスガーデン!」
「そう、だよねぇ……確か都大会で……、あれ、ちゃん……なんでいんの……?」
 そこでが一瞬言葉に詰まっている間に芥川は一度伸びをし、後輩の支えなしで自力で立ちつつ背中のラケットに手をやった。
「あ〜……、もしかして、宍戸の応援? でも残念ー、宍戸は出ないよー」
 まだ夢見心地といった掠れ声だ。クラスメイトとはいえ、彼にどう対応して良いのか分からない。しかしながら芥川は氷帝の正レギュラーであり、今日ここにいるということは試合をするのだろう。芥川の実力はよく知らないが、宍戸に言わせれば自分や向日よりも実力は抜けていると認めていたし、持っている力は本物なのだろう。が、しかし。
「んー……、あれぇ、ダブルス2負けちゃってんの? 跡部まで回っちゃうじゃん」
「え……? 跡部くん、もしかしてシングルス2なの?」
「うん、そう。俺がシングルス3だからー、最後は跡部で決まりだね。宍戸はいないけどさー、俺の応援もヨロシクね」
「え……う、うん。でも、」
「ダイジョーブ、俺ぜったい勝つC〜!」
 じゃーね、と芥川は先ほどよりはしっかりしていたがやはりおぼつかない顔つきでコートへと入っていった。――すごい自信だ、とはあっけに取られた。まだ試合中のダブルス1も含めて3試合連取できると芥川は思っているのだろう。
 そしてその言葉通り、苦戦しながらもダブルス1は氷帝に軍配があがった。
「これより氷帝学園対聖ルドルフ学院、シングルス3の試合を行います」
 互いに一勝一敗で迎える局面。ギャラリーからワッと歓声があがった。ルドルフ側はまさに一戦一戦が崖っぷちの真剣勝負なのだろう。起き抜けの芥川に比べ、気迫が伝わってくるような鋭い表情でコートに立っている。
「ザ・ベストオブワンセットマッチ、聖ルドルフ学院不二、トゥ・サーブ!」
 サーブはルドルフからのようで、コールされた不二という選手はサービスラインに下がるも芥川はまだ寝ぼけているようで視点が定まっていない。相手からすれば不快を煽る表情だったのだろうか? 不二は若干ムッとしたように芥川のコートにサーブをたたき込む。しかし――寝ぼけていても球筋は見えていたのだろう、芥川は難なくリターンしネットダッシュを仕掛けようとした。だが、ネットに付く前に相手コートからの返球がコート上を貫き――。
「15−0!」
 審判からの不二へのポイントを告げる声と共に、ギャラリーがどよめいた。当の芥川も不意打ちの一球だったようで目を見開いている。その後も芥川はしつこくネットダッシュを決めようとしたが相手のリターンの方が一歩速く――、相手がサービスゲームをキープした所で天を仰いで頭を掻いていた。
「んー、苦手なタイプだC〜!」
 芥川はボレーを得意とする選手だとも聞いている。対する相手はライジングを得意とするタイプで、ボレーヤーの嫌うスタイルなのはにも分かる。しかし――。
「でも俺、似たタイプをすっげーよく知ってんだよねー!」
 コートをチェンジしながら芥川は少しは目が覚めたようで楽しげに一人ごちていた。その声に、彼は幼なじみである宍戸を思い出したのだとは悟った。その宍戸が子供の頃から敵わなかったという芥川だ。おそらく、ライジング使いの攻略法はいくらでも覚えがあるのだろう。
 ボレーヤーにとって速攻のネットダッシュが可能なサービスゲームは絶対にキープしたい局面だ。芥川は「待ってました」とばかりに喜々としてサーブと同時に前へ走り、ボレーによってあっさりとポイントを取った。その後も全てサーブ&ボレーにてポイントを連取し、ものの数分と経たないうちに1ゲーム返してしまう。
「さすがジロー先輩だぜ!」
「ああ、ジロー先輩のボレーを止められるヤツなんていねぇよ!!」
 沸くギャラリーの声を聞きながら、はすっかり目の覚めた様子の芥川にホッと胸を撫で下ろした。芥川はボレーに異常なまでの執着心を持っているのか、その後もサーブだろうがリターンだろうがほぼ全てネットダッシュにて応戦していた。相手は躍起になってライジングを駆使しつつ様々な場所に打ち返していたが、どこにどんな球を打とうがボレーで返そうとする芥川の意地たるは見事というしかなく、宍戸に「天性のもの」と言わしめた通りどんな無茶な姿勢から繰り出すボレーもまさに変幻自在。まったく落下場所さえ予測させずに相手選手も2ブレイクされた辺りでその技術に愕然としていた。
「あと1ブレイクだ! ジロー先輩!! あと1ゲーム!!」
「氷帝! 氷帝! 氷帝!!」
 氷帝と聖ルドルフの試合が始まって初めてのワンサイドゲームゆえに氷帝ギャラリーはいっそ聖ルドルフが哀れになるほど盛り上がり、この煽りに反発するように不二も懸命に自身のサービスをキープしようと奮闘したが力及ばずだったのだろう。すっかり目の覚めたらしき芥川に最後まで翻弄され続け、試合開始から15分程で芥川は不二に快勝した。
 芥川は不二と握手したあと、沸くギャラリーに笑顔で応えている。も拍手を贈っていると、彼はが見ていたことも覚えていたのだろう。の方を向いて白い歯を見せVサインを見せてくれ――は思わずつられて笑みを零してしまった。
 起きているときの芥川は人懐っこくてクラスの人気者でもあるのだが。しかし――ととしては残り9割近くの眠っている彼を思い浮かべて苦笑いを漏らしてしまう。それだけの余裕を氷帝ギャラリーに与えてくれる程の快勝で、これにて氷帝対聖ルドルフは2勝1敗となって氷帝側はすっかり祝賀ムードとなってしまった。なにせ、次に出てくるのは部長の跡部なのである。
「ルドルフはダブルスに赤澤を出してんだ。跡部部長に対抗できるヤツはもういねぇよ!」
 どうやらダブルス2で氷帝に勝った選手の一人は相当に有名なシングルスの選手だったらしく、もはやルドルフに敵はナシと氷帝ギャラリーは過剰なほどの氷帝コールにてコートに出る跡部を盛り立てた。
 としては眉を寄せたくなる氷帝の声であったものの、しかしながら気持ちはギャラリーと同じで跡部を見守った。彼の実力のほどは知らないであるものの、氷帝で一番強いというのは公然たる事実だ。芥川が15分ほどで試合を決めてしまったのだから速攻のワンサイドゲームになるかと思いきやそうでもなく――いや、確かにワンサイドゲームではあったものの芥川よりもストロークにかなりの時間をかけ、試合が終わる頃には相手の選手は肩で息をしており跡部は涼しい顔にてそれを見下ろすような態度を取っていた。
「跡部くん……」
 それが跡部のスタイルなのか性格なのか、は僅かに引っかかりを残したものの――数字上で言えば跡部は完璧なラブゲームにてコンソレーション勝利を決めた。

「コンソレーション、勝ったそうですよ」
 その頃――、氷帝学園のテニスコートにて宍戸の特訓に付き合っていた鳳は試合に行っていた同級生部員からのメールを確認して宍戸にそう告げた。
「――そうか」
 汗を拭いながら、宍戸は短く言った。これで、氷帝の関東大会出場が決まった。鳳にすれば初めての夏の公式戦、宍戸にとっては――夢の潰えた全国への階段。
「長太郎、お前は……」
「はい?」
「やっぱ、出たいよな? 関東大会」
「え!? ええ、そりゃ……」
 鳳の解せないという返答を聞きながら、宍戸は持っていたタオルを握りしめた。この一週間、ずっと鳳のスカッドサーブを受け続け――だいたい球筋が見えるようになってきた。氷帝一、いや鳳の実力ならば関東一、引いては全国一かもしれないサーブがだ。もし鳳と試合をすれば、鳳はサーブ以外の技術が突出しているわけでもなく良い勝負ができるかもしれない。もしも鳳に確実に勝てるという保障があれば、自分は――と考えて宍戸は首を振った。団体戦における鳳の役割は絶対に不可欠だ。だからこそ準レギュラーも経験せずに彼は正レギュラーなのだから。それに、自分の身勝手でここまで特訓に付き合ってくれた彼との一騎打ちは――さすがに無理だな、と宍戸は思いを巡らせた。
 跡部は、負けるつもりは一切ないものの現実問題としてまだまだ勝てる相手ではない。芥川は、対ボレーヤーが得意な宍戸としては攻略しやすいタイプではあるものの自力の差がありすぎる。それに何より――、と赤ん坊のころからの付き合いの彼を浮かべて宍戸は歯を食いしばった。もう一人、そんな相手がいる。向日岳人だ。正直に言えば、向日になら勝てる自信もあるが――やはり芥川と向日だけは別格だ。いよいよ選択肢がなくなれば自分を優先するしかないが、自分たち三人は常に一緒だったのだ。できれば、最後の夏は一緒に戦っていきたい。ならば――と宍戸は頭に他のレギュラーメンバーを思い浮かべた。
 関東大会に出場するのはこの俺だ――。と強く思った所で鳳に声をかけられてハッと意識を戻す。
「どうかしました?」
「なんでもねぇよ。続き、やるぞ」
「あ、はい」
 鳳の方もこの一週間、ずっと宍戸の特訓に半ば無理やり付き合わされて薄々宍戸の真意に気づいていた。――レギュラーの座を奪い返す。ということは、今のレギュラー陣から一人、その地位から叩き落とさねばならないということだ。全員仲良く試合出場、などという綺麗事が通らないということは鳳とて重々承知していた。けれどもこれほどまでに自分を追い込む宍戸を間近で見続け、できることならまたレギュラーとしてコートに立って欲しいと思う。
 そのためなら、自分がこの地位を投げ出してでも――と一瞬頭に過ぎらせてしまって鳳はグッとグリップを握りしめた。いや、それはダメだ。自分だってずっと欲しかったレギュラーの座ではないか。でも、宍戸は自分のサーブを受け続けてあんなに傷だらけで――、いやしかし。それは宍戸が望んだことだ。でも。
『正レギュラー、おめでとう! びっくりしちゃった、凄いね、鳳くん』
『いまの俺には……お前のスカッドサーブが必要だ』
『悪ぃな、長太郎』
 どうすれば――、と逡巡する頭で鳳はグッと前を見据えた。
(構いません、宍戸さん。俺を蹴落としてレギュラーに戻りたいと言うのなら……正々堂々、勝負しましょう!)
 そうだ。それでいいのだ。例え自身の弱点を知る宍戸とレギュラーをかけた試合をすることとなっても――そこで負けたのなら、それが自分の実力だったのだ。だから構わない。今はただ宍戸と共に訓練を重ねるのみだと気持ちを切り替えて強いサーブを放った。

 氷帝も含め、関東大会の出場校が決まったことでいよいよ試合相手を決めるトーナメント抽選会が行われた。
 本来なら氷帝は毎年シード校の立場だが、今回はギリギリの出場であるためそうもいかない。しかしながら、こうして抽選が行われたことでいよいよ関東大会も間近に迫り――いよいよ監督もオーダーの準備に入ろうかという日の放課後。宍戸は約二週間ぶりにテニス部に顔を出した。
 テニスコートに顔を出した宍戸に周りの部員達がどよめく。
「宍戸先輩……」
「なんだ、あの傷……」
 急に現れた宍戸と、その宍戸の満身創痍な姿に皆が驚きを隠せずにいたが当の宍戸は周りの声など気にも留めずにコート内にいたレギュラー陣をすっと見据えた。跡部、忍足、向日――そして。宍戸はすっと狙いを定めた一人の前に行くとラケットを掲げて声をかけた。
「滝、俺と試合しろ」
 声をかけた相手はレギュラーの一人である滝萩之介だ。宍戸と同じ三年で、彼も宍戸と同じくレギュラーとなったのは遅い。実力もそれほど変わらない相手であったが――今の自分は違う、と意気込む宍戸に対して声をかけられた滝の方は若干困惑していた。
「なにを言っているんだ? 今さらお前と試合?」
「自信ねぇのか? お前、正レギュラーだろうが。なら俺に実力で証明してみせろや」
 一方的な言いがかりではあるが挑発は宍戸の十八番でもある。ここで滝と試合して皆に自身の実力を示せば、自分の方が正レギュラーに相応しいと納得させれば。必ず戻れると信じて宍戸は跡部の方にも目線を送った。しかし。
「何言ってやがる、負け犬がほざいてんじゃねぇよ」
 反論され、宍戸は内心慎重に、だが尊大ないつもの調子でこう言い放つ。
「あの時の俺とは違うってことを証明してやるよ、今、ここで! ――何ならお前でもいいぜ?」
 最後の一言は、宍戸の賭けだった。さすがに跡部相手では敵わないだろう。しかしながら宍戸は過去に何度も跡部に果たし状を送っており、「お前でも構わない」というのが実を伴っているというのは跡部もよく分かっていることだ。
 跡部は一瞬の間を置いて、フン、と鼻を鳴らした。
「相変わらず無謀なヤツだなてめぇは。身の程を知った方が楽になるぜ? ……まァいい。おい萩之介、相手してやれ!」
「なッ!? 跡部……本気か!?」
「アーン? 当たり前だろ。お前も正レギュラーならレギュラー落ちしたヤツくらい自力で片づけな」
 宍戸が賭けに勝てたか否かは定かではないが、跡部は滝にそう指示を出し、滝は面くらいながらも渋々とコートへと入っていった。
 サーブ権を取った宍戸はサービスラインへと下がり、すっと深呼吸をしながらボールを数回突いて前を見据える。
(悪ぃな滝……、お前に恨みがあるわけじゃねぇ……が!)
 正レギュラーの一人に圧勝してみせてレギュラー復帰。それこそが宍戸が描いた青写真であるが、復帰するには誰かを蹴落とさねばならない。向日と芥川、そして鳳を除いた誰か――と考えた時に宍戸が思いついたのは滝以外にいなかった。実力も元々自身と拮抗していて、これといった強みもない。プレイスタイルはどちらかというとストローカーではなくボレーヤーであるものの、ボレーヤーとしての実力は圧倒的に芥川に劣っておりライジングを得意とする宍戸にしてみれば組みしやすい相手でもあった。
「くそ……ッ!」
 反対コートで滝の悪態が聞こえたものの、気にせずサーブを打ち込んで宍戸はラケットを構えた。リターンの球がどこに来るか、手に取るように分かる。
(毎日毎日、長太郎の200キロ近いサーブを浴びるほど受けてきたんだ。どこに打とうが、俺には止まって見えんだよ!)
 動体視力も含めた身体能力は至って並の才能しかないと自覚している宍戸だ。その宍戸が這い上がるために選んだ選択――それこそが鳳のスカッドサーブを見切れる程の反応速度を身につけることだった。反応速度を速めることで得意のライジングに磨きをかける。それこそが自分が生き抜くために必要な力だと確信した。事実、滝からの返球は宍戸の目にはまるで赤ん坊の送球のようにさえ見え、目にも留まらぬ速さでボールの場所までダッシュすると素早く相手コートに空を切るようなショットを叩き込んだ。
 度肝を抜かれたのは、おそらく滝だけではなかっただろう。あっさりとサービスゲームをキープした宍戸に氷帝テニス部は驚きを隠せない様子でどよめいた。
 しかし宍戸は気を抜かず真っ直ぐ滝を見据える。全ての選手が自分のサービスは絶対キープしたいと考えるものであるが、特にボレーヤーにとっては自分のサービスゲームを守れるか否かというのは明確に試合内容に響き、死活問題だ。が――鳳のスカッドサーブに勝るサーブを滝が打てるはずもなく、難なく返した宍戸は彼を前に出さずライジングの速い展開でベースライン上に留め置いてひたすらミスを誘った。
 ――そう、テニスとは一撃の必殺技が勝敗を決めるスポーツではないのだ。むしろ相手のミスをいかにして誘うかがキモとなる。自分はひたすら食いついて食いついて、機会を待てばいい。
(俺には……長太郎のような恵まれた長身も怪力も、サーブもねぇ! だから俺は……せめて諦めねぇ!)
 以前から分かっていたことであるが、鳳と一緒に練習していてつくづく嫌になるほどの才能の差を見せつけられる毎日だった。二年生にして185センチに及ぶ長身、しなやかな筋肉と他を圧倒する握力。鳳のスカッドサーブはあの長身と怪力ナシにはなし得ないものだ。テニスセンスも決して悪くなく、いずれは自分など風のように抜き去っていってしまうだろう。跡部も、芥川も、鳳も――自分とは持っているものが違う。悔しいが認めるしかない。けれども、彼らより倍、数倍の努力を重ねれば少しは追いつけるかもしれない。才能の差を補えるかもしれない。
『宍戸くん、最近変わった。前は……そんな物言いしなかったのに』
 俺は、変わってねぇよ。見失っていただけだ。もしもレギュラーに戻れたら、真っ先にお前に言いたいことがある。――と宍戸は滝のコートを貫いたショットの先にの姿を見た。都大会以降、あまりとまともな会話をしていない。言いたいことは山ほどあるというのに、今の情けない状態のままではどうにも言えずにいたのだ。
「5−0! 宍戸リード!」
 審判を務めている部員のコールが響き、宍戸は息を呑んだ。――あと1ゲーム。逸る気持ちと「ちょろいもんだ」と奢る気持ちが入り交じってしまい、次のゲームはネットミスを連発して滝に1ゲームを与えてしまって宍戸は強く唇を噛んだ。戒めても戒めても、すぐに調子に乗ってしまう性格は治らないのか。もう一度、深く深呼吸をしてこれが最後のゲームとなるよう強い気持ちを持ってサービスラインに立つ。
「宍戸さん……」
 遠くで鳳の案ずるような声が聞こえた。――自身のワガママに付き合い続けた鳳。無茶苦茶な要求を呑んでくれた彼のためにもここで負けるわけにはいかない、と渾身の力をサーブに込めた。
「ゲームカウント6−1! 勝者、宍戸!」
 結果、ほぼ完勝となってギャラリーは困惑し、どよめき、滝は顔面蒼白のままコートに倒れ込んでしまった。
「ウソだろ……正レギュラーの滝さんが……。たった15分で」
「宍戸先輩、すげぇ……」
 勝った、というのに宍戸は昂揚も感慨も沸かなかった。それもそのはずだ、勝つことが目的ではなかったのだから。しかし。
「何の騒ぎだ?」
 後ろから響いてきた声に宍戸の肩は大きく揺れた。不安げに振り返ると、案の定、顧問監督である榊太郎が立っていて――顔色を窺うようにして宍戸は榊を見上げた。今の試合を見ていただろうか? 見ていたならば、意見を変えてくれるか? 次の言葉を破れそうな心臓で待ちつつ榊を見ていると、榊は項垂れている滝を横目で見やってこう言い放った。
「滝はレギュラーから外せ。替わりに準レギュラーの日吉が入る。以上だ、練習を開始しろ」
 そうして踵を返してしまい、宍戸の瞳孔はこれ以上ないほど開いて勢いのままに大声をあげていた。
「監督! 監督、どうして日吉を!? なぜ俺じゃない! ヤツを倒したのは俺だ!!」
 心からの訴えが果たして榊の心に響いたか否か。宍戸の反抗を止めに入ったのは試合の許可を出した跡部だった。
「見苦しいぞ」
「跡部!」
「相手が不動峰の橘といえども、お前は無様に負けたんだ。負けたヤツを監督は二度と使わん」
「――ッ」
 そんなことは嫌というほど承知している。だから――と更に言い返そうとしたとき、鳳がフォローに割って入った。
「跡部さん!」
「なんだ鳳?」
「宍戸さんはあれから二週間、想像を絶する特訓をしてきたんです!」
「……で?」
 後輩にまでフォローされている自分が情けない。などと浸っている間もなく、宍戸はいてもたってもいられず去りゆく榊の後を追った。驚いたように鳳も追ってくる気配が伝ったが、構ってはいられない。必死で走って榊の背中を見つけると、榊の方も追ってくる気配を感じ取ったのだろう。
「まだ何か用か?」
 こちらを見ないまま冷たく言い放った背中に向けて、宍戸は何の躊躇もなく土下座してみせた。後輩の前であろうが、どうでもよかった。
「監督、お願いします。自分を使ってください!」
 そんな宍戸の姿を――鳳はただ瞠目して見つめた。本当に、なんという人だろうと思う。あれほどプライドの高い人だというのに後輩の自分に頭を下げ、特訓を請い、そして今なお自分の前で躊躇なく榊に土下座までしてしまった。宍戸は嫌がるかもしれないが、黙って見ていられない、と鳳も榊を見据えた。
「監督! 自分は宍戸先輩のパートナーを務め、この二週間、血の滲むような特訓を見てきました。自分からもお願いします!」
 そうだ宍戸のためなら、どんな手助けだって――と榊に向かう鳳を嘲笑うように榊の冷たい声は鳳に向けられる。
「では鳳、お前がレギュラーから落ちるか?」
 瞬間、その場の空気が確かに凍った。
 宍戸のためなら――と考える一瞬の間、鳳の頭に走馬燈のように様々な思いが過ぎった。自分とてレギュラーを目指して懸命に励んできたこと。レギュラーおめでとう、と笑って祝ってくれたの顔。だが、それでも。自分は宍戸ほど必死にはなれなかっただろう。レギュラーに対する執着心はきっと宍戸の方が強い、と考える鳳は思考に反発するように強く拳を握りしめていた。自分もコートに立って戦いたい、という気持ちを無意識に抑え込んだのだろう。宍戸のためなら――と震える唇をどうにか開く。
「構いません」
 そう、きっとお人好しの彼はそう言ってしまう。と、宍戸は鳳が返事をする前に忍ばせておいたハサミを手にかけた。これ以上、後輩の世話になりっぱなしはゴメンだ。最後くらい自分で落とし前を付けてみせる。元々自分の覚悟を見てもらうために用意していたものなのだから――と宍戸はおもむろに榊の前で自身の長い髪にハサミを入れた。
「し、宍戸さん!? い、一体何を……自慢の髪だったじゃないっすか!」
 鳳の言葉に構わず、長髪をあっという間に短髪に変えてみせ、宍戸は立ち上がって自分を無言で見つめていた榊を見た。彼の目にどう映ったかは定かではないが、これが宍戸なりの覚悟だったのだ。
「監督!」
 すると、なぜ追ってきたのだろうか? 沈黙をやぶるようにして跡部の声が聞こえ、宍戸は思わず振り返った。対する跡部は神妙に榊を見つめている。
「ここにいる奴らは、まだ負けちゃいない。――自分からもお願いします」
 跡部の言葉に宍戸は目を見開いた。まさか跡部が自分のフォローに入ってくれ、まして頭を下げてくれるとは夢にも思っていなかったからだ。しばし無言の攻防が続き、榊も自身の生徒達の態度に思うことがあったのだろう。「好きにしろ」とだけ言い残してその場を去っていった。
「ハサミまで用意して、最初から切るつもりだったのか?」
 跡部の呆れたような声が聞こえ、宍戸は小さく舌打ちをした。
「余計なことを……」
「言っとくけど、二度目はねぇぞ。お前はシングルスとしちゃ終わってんだ」
「何だと……ッ!?」
「だがダブルスでなら、お前の望みも叶うかもな」
 そして跡部は軽く鳳に目配せをしてから、テニスコートへと戻っていった。
「跡部のヤツ……」
 気にくわない、気に入らないヤツではあるものの、宍戸は跡部の背中を見つめながら「でかい借りができた」と感じていた。
「宍戸さん……」
「お前にも、でかい借りが出来ちまったな」
「そんな……俺は別に」
「けど、他人にレギュラー譲るなんざ激ダサだぜ! つーか、俺はダブルスってガラじゃねぇんだけど……お前となら、いいペアになれるかもな」
 宍戸は軽くなった頭を掻いて少しだけ笑った。跡部の「負けちゃいない」という言葉の意味は「鳳とペアでなら」という意味だ。榊の方も、鳳の熱意と跡部の言葉にそのことを感じ取ったのだろう。
「はい! よろしくお願いします!」
 本当に、助けられているのは常に自分の方だと思う。最後くらいは自分自身の実力でつかみ取るつもりであったが、結局は目の前の後輩頼りとなってしまったのだから。当の本人にその自覚があるかと問えばノーであろうが、と宍戸は安堵の笑みを零す鳳を見やって口の端をあげた。
「ありがとよ、長太郎」



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