「あの……先輩ってテニス部の宍戸先輩と付き合ってるって本当ですか?」
 ――いい加減に、何度目になるのだろうこの質問は、とはぴくりとコメカミをヒクつかせて筆を下ろし、キャンバスに向けていた視線を外した。質問してきたのは新しく美術部に入部してきた一年生である。否定してから持ち場に戻らせ、溜め息を吐いていると「あははは」と明るい笑い声が聞こえてきた。
も大変だね。今までほとんどこんなことなかったのにさ」
「笑わないでよ、部長。本当に……ちょっと、戸惑ってるんだから」
 副部長から部長となった友人の明るい表情には更なる溜め息を吐くしかない。部長は気にする様子もなく「宍戸君ってさー」と話を続けた。
「幼稚舎のころからガキ大将って感じだったけど、さすがに二学年も下になると宍戸伝説なんて伝わってないだろうし、その宍戸君もあのテニス部の正レギュラーともなれば、やっぱ後輩は憧れちゃうよね」
「そうなのかなぁ……。あんまり分からないけど」
 氷帝テニス部正レギュラー。という言葉が持つ力はよほど強大なのか、ここ最近、宍戸との仲を質問されることがしばしばあってとしては当惑気味であった。むろん、宍戸が女生徒に全く人気がないということは今までもなかったのかもしれないが――跡部をはじめ宍戸よりも先にレギュラー入りを果たしていた同級生に女生徒の目線は集中していたし、何より宍戸自身が女子に怖がられていたのと自身の存在も相まってテニス部という知名度にしては圧倒的にスルーされがちだったのだ。それが、進級してからどうにも様子が違う。
 もっとも、この宍戸絡みのことでを心底驚愕させたのは先日の鳳であるが、当の本人は数日後に「先日は大変申し訳ありませんでした」と改めて謝罪をしに来てくれ、誤解も解けて一件落着であったのだが、鳳に限らず以後このような調子であればとしても少々煩わしい。
「今日は木曜かぁ……。ならテニス部は練習やってるな。よし、今日はテニス部にしようかな」
 が少々うんざり気味の表情を浮かべていると、部長のそんな声がして「木曜?」とは聞きかえした。すると彼女は「うん」と頷いてこんな事を言い始める。
「テニス部ってけっこう読めなくて、水曜は毎週オフだし、金・土だってけっこうオフだから曜日をちゃんと見て行かないと外れたりするのよね」
「え……、そうなの? へぇ……野球部なんてほとんど365日練習してるのに」
「んー……、まあ、ずっと前はもっとスポ根だったみたいだけど、跡部君が部長になってからそうしたみたいよ」
 ふーん、とはよその部活動ながら少々腑に落ちない、という相づちを打った。テニス部からすればある程度の結果は残しているのだからそれで良いのかもしれないが、一週間のうちに休日が三日もあるというのはどうなのだろう。などと考えてしまうも、所詮はよそ事であるためすぐ切り替える。
「というわけで、今日はテニス部ね。、行こう?」
「――え? 私も? う、うーん……私は遠慮しようかな」
「いまやってる塗り練って至急じゃないでしょ。はほんと付き合い悪いんだからー、ダメだよ、部長命令!」
「ええッ!? そ、それって職権乱――」
「はい決まり! よーし一年生、集合! スケッチに行くよー!」
 みなまで言わせず部長命令によってテニス部に出向くことになったは、まあスケッチ練習は基本だし、と気を取り直した。しかし運動部に出向くときはあまり目立たないよう基本は一人で行っているのだがこうも集団だと悪目立ちするのではないだろうか、とちらりと部長以下の新入部員を見やるものの、さすが部長は慣れているのだろう。鼻歌交じりである。確かに鼻歌でも歌いたくなるような陽気ではあるが、とは五月晴れの晴天を見上げた。遠くから乾いたインパクト音とテニス部員の声が聞こえてくる。
 一方のテニス部は基礎練習に精を出していた。氷帝のテニスコートはアリーナ形式になっており、中央三面のハードコート周辺を囲うように観客用のスタンドがある。スタンドは主にテニス部員が飛び散ったテニスボールを拾っていたり、テニス部の練習見学者がいたりと様々だ。対するコートは今は正・準レギュラー陣が三面全てを使って打ち合いをしている。
「小川のやつ、まだまだだな。ま、準レギュだし仕方ねぇか」
「おい、身内を悪く言ってんじゃねぇよ。お前だってついこないだまで準だったじゃんか」
「ウルセー岳人。てめぇはまずストローク鍛えな」
「俺は前衛専門だからいいんだよ、くそくそ」
 コートからあぶれていた宍戸と向日が準レギュラーが使うコートを見やって軽口を叩き合っていた。そのそばで、同じくあぶれていた鳳は近くに散らばったボールを拾い集めている。
「長太郎、んなもん一年にやらせとけ」
「でも……俺も使いますし」
 言って拾い集めたボールを籠に移す鳳を見て宍戸は、ふ、と肩をすくめた。どうにも鳳は正レギュラーらしい威厳に欠けている、などと思いつつ何気なく鳳を視界に入れていると、鳳が「あ」と呟いてパッと表情に日が差したかと思うとスタンドに向かって手を振ったものだから「なんだ?」と訝しげに宍戸もスタンドを見上げた。すると――10人ほどの女生徒がいて、パッと良く見知った人間が目に入ってきてしまって思わず「ゲッ」と声を出してしまった。
ッ!?」
 その声に鳳が振り返ったのは言うまでもなく、目が合った宍戸は気まずげに視線を外すしかない。――実はがテニス部の練習を見ていることはそう珍しくないことであるが、こうも集団で来たのは初めてのことかもしれない。しかも、そうだ。ヤツは鳳と知り合いだったか、と一瞬にして雑念に支配されていると毎日のように聞いている声が響いてきた。
「お疲れさま、鳳くん。……宍戸くんも」
 微妙に自分を呼ぶ声が固いのは気のせいだろうか。というか自分は後輩である鳳のついでか? と少しばかりムッとしていると、それが両者に伝ったのか微妙に変な空気が流れている。
「せ、先輩。……も、練習ですか?」
「う、うん。騒がしくて、ごめんね」
 がちらりと部長の方に目配せすると、彼女は律儀に跡部に見学許可を取り付けている最中であり、宍戸も鳳も美術部が新入生を連れてスケッチ練習に来たことを悟った。
「じゃあ、しばらく見学させてもらうから。頑張ってね」
「はい!」
 はそう言い残して美術部員のもとへ戻り、歯切れのいい返事をした鳳を見て宍戸は唇を引いて思案するような仕草を見せた。
「長太郎、お前って……」
 そもそもとはどういう知り合いなのか。今まで気にも留めなかったがどういう接点があったっけか? と疑問を巡らせた宍戸だったが「はい?」と聞きかえされて、まあいっか、と口を噤む。
「いや、なんでもねぇ。……コート空いたな。行くぞ」
「あ、はい」
 の方は宍戸と鳳が共に中央のコートに入ったのを見ていたものの、先ほどの後輩の手前、どうにも宍戸を視界に入れるのが億劫であった。つい今、宍戸に声をかけた時に声が強ばってしまったのもそのためだ。しかも――右端のコートには時を同じくして向日が入っていったのだ。向日は、これ以上ないほどデッサンにはもってこいの人材である。ならば向日を追うしかないだろう。
「あれ、ってばまた向日君?」
 が、ひょいと部長がのスケッチブックを覗いてそう言ったものだから、すぐに後輩達から「えぇ!? 宍戸先輩はいいんですかぁ?」「跡部会長もいるのに……」等々の声があがっては手を止め微妙に顔を強ばらせた。
「デッサンの練習してるんだから、一番難しい動きの人を描いてるの」
「ま、まあまあ。あ……みんなは取りあえず好きな選手を好きに描いていいからね」
 基本的には負けず嫌いであり絵のこととなると妥協できない部分があるため、普段の穏やかさは影を潜めてしまう。部長はの感情が怒りに発展しないうちに抑え、一年生をスケッチに集中するよう促した。そうして改めての横に座りなおす。スケッチブックを見やると相変わらずの正確無比さで、空中を跳び跳ねる向日の姿が描かれている。
「向日君ってさー、私、幼稚舎の頃から知ってるけど、すごい良いヤツだよ。でも超単純で超短気! おまけに口も悪いんだけど、なんか話しやすいんだよねー」
 そんな部長の話には「そうなんだ」と相づちを打つも、そこから「向日」への興味は感じられずに部長は頬杖をついた。
「向日君のこと、知りたくない?」
「え……、どうして?」
ってテニス部に行くとよく向日君のこと描くでしょ。だから、パーソナルデータも欲しいかなぁと思って」
「パーソナルデータ? えー……そりゃ向日くんはすごく動いてくれるから良い練習になるけど……それは向日くん本人がどうって問題じゃないから……そういうのはちょっと」
 は困惑気味に眉を寄せた。としては向日のことは「宍戸の幼なじみ」という認識こそあるものの、親しく話をしたことなど一度もないため、向日本人のことはほとんど知らない。知っているのは彼のプレイスタイルくらいだ。
のデッサンは正確だけど、正確なだけだよね」
「デッサンって正確に描くのが正解だと思うけど」
「そうなんだけどー……、ほら、向日君にしても、たぶん、向日君をもっと知った方が絵も違った色が出てくると思うけど」
「そんな……デッサンのモデルにそこまで思い入れられないよ……、私、ただデッサンの練習してるんだし。あ、向日君が嫌いとか興味がないって意味ではなくてね」
 部長の言いたいことを何となく察したではあったものの、技術の修練に感情がいるのだろうか? まだまだ完璧にはほど遠いというのに、と自身の描いた絵を睨むようにして見ていると中央のコートから苛ついたような大きな声があがった。
「うらぁこのノーコンが!! いったい何本フォルトすりゃあ気が済むんだ? あ!? 練習にならねぇだろーが!」
「す、すみませ――」
「もういい! 俺がサーブ打ってやるからコート入れ!」
 さすがにもギョッとして中央コートを見やると、ぶんぶんラケットを振り回して怒鳴る宍戸と恐縮する鳳の姿があり、鳳がサーブを何本もミスして宍戸が苛立っているのだということを何となく悟った。
 10数本連続フォルト――という失態をやらかした鳳は、ぐうの音も出ずに自身を恥じるしかなかった。サーブはもっとも自信のある自分の武器だというのにこれだ。いや、自信があるからこそ力みすぎたのかもしれない。せっかくが見てくれているのだから――とイヤでも過ぎらせてしまい、無心になれなかったのだ。余計に自省の念にかられてしまう。
 と、そんなとこだろうな。――と宍戸は鳳の心情をなんとなく察していた。
「ったく、激ダサだぜ」
 女にヘラヘラしやがって。などと心で悪態をついてみるものの、鳳の本気サーブが決まればリターンできる自信は全くなく、むしろクラスメイトに自身の激ダサな所を晒さずに済んだのはラッキーだったかもしれない。
 などと当人たちの心情は全く知らないどころか向日を描くのに集中して一瞬たりとも見ていなかったではあったが、宍戸の怒鳴り声によって手を止めたことで宍戸のサーブからは中央コートに視線を向けた。打ち合いを始めた二人に、の後輩達は浮き足だっている。
「宍戸先輩、カッコイイよねー!」
「髪サラッサラで素敵だし! ちょっと怖そうなところもイイよねッ!」
 氷帝学園のテニス部正レギュラーという言葉の持つ魔力とはこれほど絶大なのか。二年以上宍戸のそばにいるというのに、あまりこういう場面に遭遇したことのないはいまいちこの情況にピンと来ない。まさか、これからは宍戸と喋るたびに、まるで跡部と喋っている時のようなまとわりつくような視線を背に受けなければならないのだろうか? もしもそうなったら、宍戸とは距離を置くのも仕方のないことなのか、と目線を下げている間にも後輩達の話題は宍戸のみに留まらない。
「ねえ、相手コートの人もすごいカッコ良くない? っていうかカッコイイ!」
「あー、鳳先輩! すごいんだよ、同級生ごぼう抜きで二年生なのに正レギュラーなんだって!」
「背、たかーい!」
 そんな声には伏せていた瞳をパッとあげた。そうだ――鳳だってもはや歴とした正レギュラーなのだ。しかも、そうでなくともあれほど人目を引くというのに、と先日上野で会った鳳を思い出しては瞳を曇らせる。
『え……身長ですか? 180センチ以上あると思いますけど、正確には分からないです』
『一年で10センチ以上伸びたんですよ。急に伸びたせいか、たまに関節が痛くて……』
 そもそも正レギュラーだからカッコイイとはどういう了見だろう。鳳は、背の低かった頃から優しくて、とても――と過ぎらせては唇を結んだ。
、どうかした?」
「え……? あ……」
 部長の声にはっとして顔をあげると、首を捻った部長が訝しげにこちらを覗き込んでくる瞳と目があった。
「ううん。なんでも……ない」
 首を振りながらは自省した。考えすぎている、と。しかも後ろ向きなことをだ。なにも自分が気にすることは一つもないではないか――と気を取り直して右端のコートに目を移した。


 五月に入ればいよいよ中体連公式戦の開幕である。
 しかし、氷帝学園テニス部が正レギュラーで臨むのは関東大会からという方針があり――もしかすると自身の初公式戦はいきなり関東となってしまうのだろうか、と鳳は一人音楽室への道行きで思案していた。
 氷帝に限って都大会落ちということもないだろうが、それにしてもいくら強豪といえど地区予選から勝ち抜かなければならないのだから出してくれても、と思う。よしんばそれほど強敵でない相手と戦うこととなっても、テニスはスポーツなのだから常に全力であたるのが相手に対する誠意なのでは。と思いつつ首をふるう。きっと監督や部長にも考えがあるのだろうし口を出すことではないよな、と考え直したのだ。
 気を取り直して音楽室に入ると相変わらず美しく磨かれたグランドピアノの艶やかな黒が目に映り、鳳は無意識のうちに明るい笑みを浮かべていた。そして何よりここの音楽室を鳳が気に入っているのは楽譜の豊富さにあった。音楽教師でありテニス部の顧問でもある榊太郎の趣味なのかどうかまでは定かではなかったが、棚にズラリと並べられた楽譜は鳳でさえどれほどの数があるのか正確には把握していない。しかも奥にある音楽準備室には使用頻度の低い楽譜が更に並んでいるのだから、ここは鳳にとっては飽きることを知らない空間でもあった。
 なにを弾こう、とさっそく鳳は楽譜を物色しはじめる。ついついこういう時は自身の贔屓にしている作曲家であるフレデリック・ショパンの棚に手が伸びてしまうものだ。ショパンの名曲は自身のレパートリーだと公言してもいいほどに弾き込んで、暗譜もしているというのに。
「先輩、今日は美術室にいるのかな」
 楽譜の波を追いながら、鳳は小さく呟いた。彼女は――は、氷帝学園テニス部の華々しさに隠れがちではあるものの、氷帝の美術部としては過去に例のないほど様々な賞を受賞しているほどの腕がある。もっとも氷帝に入る以前から「コンクール荒らし」の名で通っていたのだから、「氷帝の」と前置きをするにはいささか不自然ではあるものの――彼女の得意とする風景画は自然に対する慈愛に満ちているようで、に出会う前からその絵の通りの人なのだろうな、と漠然と考えていた。実際、基本はイメージ通りではあったが親しく付き合ううちにいっそ向上心の塊と言ってもいいほどに負けず嫌いであることと、多くの時間を絵の修練に割いていることを知った。校内の至る所でスケッチブックを片手になにやらスケッチしている場面に遭遇することはそう珍しいことでもなく、人知れずそっと見守っていたことも一度や二度ではない。
 そんなだからこそ、なのか休み時間には結構な頻度で美術室に籠もっているようで、時おりふらりと手を休めて音楽室に顔を出してくれることがある。次第に鳳はそれに漠然とした法則性があることに気づき――に会いたいと思った時には、が誘われそうな曲をあえてチョイスすることにしていた。今のところ、勝率100%とはいかないもののかなりの精度である。
 しかしながら、昨日はとんだ失態だった、と昨日の部活でのことを思い浮かべて鳳は自嘲から顔を赤らめた。他の美術部員達と共にが練習を見学に来たため、ついつい良いところを見せようと張り切って自滅した感が否めない。
「けど、宍戸さんだってぜったい気合い過剰だったよな……」
 こっぴどく宍戸に怒鳴り散らされたことも思い出して鳳は少々唇を尖らせた。宍戸とは、三年間ずっとクラスメイトで気心の知れた仲なのだという。恋仲だという噂が出るほどに、だ。
先輩と宍戸さんがお付き合いしているなんて知らなかったから。だから、俺……!』
『どうして話してくれなかったんですか? そりゃ、俺には関係のないことなのかもしれませんけど』
 今年度に入ってそのことを知り、動揺のままに感情的になってしまったことはいま思い出しても顔から火が出るほどである。理不尽な言いがかりを付けられたであろうの、驚愕の表情と悲しげな瞳を思い出すと自責の念にかられるどころの話ではない。
 ただ、今は付き合ってなくとも、仲がいいのは事実なのだ。と、と宍戸の姿を見かける度、ほんのちょっとでも「イヤだな」と感じてしまう自分自身こそ鳳は「イヤだ」と感じていた。なぜこんな事を感じてしまうのだろう? 宍戸にしろにしろ、尊敬すべき先輩であるというのに。
『鳳くんみたいな後輩がいたら……きっともっと楽しかったのに』
 けど――、と鳳はしばし一人百面相をしていた自分にハッとして大きく首をふるった。せっかくの自由時間に何をやっているのだろう。ここは明るく華やかに、ショパンの華麗なる大円舞曲でも弾こうと気を取り直して楽譜を探るとグランドピアノに向かった。そうして休み時間を終え、五限目の授業を受け終わるとふと教師に呼び止められた。
「すまない、鳳」
「はい」
「この辞典を国語の小林先生に返しておいてもらえないか」
「あ、はい。分かりました」
 よく教師に頼みごとをされる鳳は快く引き受け、分厚い辞典を受け取って職員室を目指す。国語の小林は、いまは三年の担任を受け持っているが例によって職員室によく顔を出す鳳としては話したことも何度かあり、「次の授業で使うのかなぁ」と漠然と考えているとふいに学校中に響き渡る校内放送の呼び出し音が鳴った。
「えー、三年C組の宍戸亮。三年C組の宍戸亮。いますぐ職員室まで来るように。繰り返す、三年C組の宍戸亮、いますぐ職員室に来なさい」
 まさにそれは小林教師の声であり――、三年C組の教室でペットボトルのお茶を口にしていた宍戸は盛大に噴き出してしまい、振り返って文句を言ってきたクラスメイトに「わりぃ」と軽く頭を下げつつ頬を引きつらせた。
「何だってんだよ小林のヤツ……」
 どうせろくでもない事だとは分かり切っていたが、こうして呼び出しをされた以上は拒否するという選択肢がいち生徒にあるはずもなく――宍戸は渋々と席を立って職員室へと急いだ。そうして少しばかり緊張気味に職員室のドアを開いて小林の机の方へ目をやると、なにやら小林はいたって上機嫌に歓談中で拍子抜けしてしまう。
「ん……、長太郎?」
 その小林の話していた相手が後輩である鳳だと確認して声をかけると「あ」と鳳の方も宍戸に気づいて頭をさげてきた。
「こんにちは、宍戸先輩」
「おう。お前、こんなところで何してんだ?」
「あ、ちょっと用事があっただけです。すみません……では俺はこれで。失礼します」
「わざわざ休憩時間に悪かったな、鳳」
「いえ、とんでもないです」
「テニス部での活躍も期待しているぞ! 頑張れよ」
「はい、ありがとうございます」
 鳳は小林に丁寧に頭をさげ、宍戸にも軽く会釈して職員室を去っていった。その鳳を笑みで見送ってから小林は宍戸に向き直り「さて」と呟いたかと思うと表情が一転、険しいモノに変わって宍戸は思わず後ずさる。
「お前、なぜ呼び出されたか分かってるか?」
「え? い、いや……わかりません」
「お・ま・え・はー! 宿題忘れは今年度で三回目、授業中居眠りも常習犯、しかも小テスト連続赤点とは一体どういうことだ!? 俺の授業だけじゃなく他の先生からも報告はあがっとるんだぞ!」
「う……」
「だいたいお前は――」
 ものの数分くどくど説教が続き、うー、と唸っていた宍戸は言葉の途切れと同時に小林に反論を試みた。
「ちょ、ちょっと待てよ先生! さっきの長太……鳳に対する態度と俺とじゃ全然違うじゃねーか! ヒーキだヒーキ!!」
「アホか!」
 その反論に小林はプリントの塊をメガホンのように丸めて宍戸の頭を小突く。
「鳳は、我が氷帝学園の模範的な優等生! 対するお前は何だ? 優等生の優の字をもらえる立場か?」
「……」
「大体にして跡部、忍足をはじめ成績優秀で通ってるテニス部にあってお前はどうなっとるんだ。万年居眠り常習犯の芥川より下だという自覚はあるのか?」
「……」
 五限目と六限目の間の短い時間をフルに使ってガミガミと言われ続け、あと少しでチャイムが鳴るというところで小林は「いかんいかん」と腕時計を確認し、宍戸がホッとした瞬間だった。トドメの一発とばかりに彼はこんなことを言い放った。
「そういうことで宍戸、次の中間考査で国・数・社・理・英の全教科において70点以上を取得できなければお前は部活動停止処分だ」
「――ッ、なッ!?」
 さすがの宍戸も目を見開いて絶句した。いま、彼は何を口走ったのだろう? 自分の耳が間違っていなければ、五教科全てで70点を取れと言ったように聞こえた。
「お、おいマジかよ先生! ちょっと待ってくれよ、夏の大会も近いってのに」
「部活動の前に中学生の本分は勉強にあるということを忘れてもらっては困る。いまの成績じゃいくらうちがエスカレーター式とはいえ進学させられんかもしれんぞ」
「ッ、けど……!」
「これは決定事項だ。全教科70点以上。なにも難しいことではない。以上」
 確かに平均より優秀な生徒であれば楽勝なのかもしれないが、今の自分にこれは――という反論など無意味だと悟った宍戸は歯を食いしばりつつ頭をさげて職員室を後にした。おいおい、マジかよ、と蒼白気味の表情のままブツブツと呟きつつ教室へと戻る。
「くそッ、せっかく正レギュラーになったってのに」
 まさかの想定外すぎる横やりである。宍戸は三白眼に更に睨みを利かせて教室へと入り、無言のまま自身の席に座った。クラスメイト達からの「一体小林に何を言われたのだ」という視線が突き刺さっていたが取り繕う余裕さえない。
「宍戸くん、大丈夫?」
 だが、やはりというか、後ろの席のからは案ずるような少し遠慮気味に気遣う声が聞こえてきて――宍戸は逡巡ののちに小声で口を開いた。
「次の中間考査……、五教科全てで70点以上取れなきゃ部活停止処分だとよ」
「――え!?」
「夏の大会も近いってのに、アホじゃねぇのか小林のヤツ」
 しかしながらに愚痴ってみたところで何の解決にもならない。物理問題として中間考査までの時間はあと二週間しかない。グ、と一度拳を握りしめてから宍戸は更に小声で呟いた。
……」
「なに……?」
「す、数学と理科、教えてくれねぇか?」
「え……、う、うん。……数・理ね、分かった」
「あと……英語」
「…………」
 まさかテニス部の人間にこのような事態になったことなど、まして勉強を見てくれ、など言えるはずもなく。しかし部活動停止処分をくらうわけにもいかず。宍戸としてはこうするしか選択肢はなかった。
 とばっちりなのはの方である。にとっては得意科目である数学と理科の第一分野は「解けばいい」という存在であるため勉強時間はほとんど取らず、試験勉強はほぼ暗記科目のおさらいに費やす。しかしながら宍戸はその「解けばいい」ができないため、そこから教えていくことになるわけであるが――なにぶん試験までそう時間がないため、試験までの全ての休み時間、テニス部がオフの水曜日の放課後、テニス部の部活動が終了したあとの居残り、と全ての時間を宍戸との学習に割くことになったのだ。水曜日に至っては自身の美術部での活動を断念し、宍戸との勉強に充てることになった。



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