新学期――、しかも新年度というのは生徒達にとっては一大イベントと言っていい。なにせ、一年に一度行われるクラス替えの発表日だからだ。
 生徒達はまず、登校すればそれぞれ新しい学年の下駄箱前の掲示板に張り出されたクラス割りを見て、それぞれ自分の新しいクラスを確認する。も例に漏れず、張り出された表のA組から順に見ていこうと人だかりに混ざるとA組の前では多数の女生徒が「キャー!」と声を張り上げて騒いでおり、どうしたのだと覗き込んですぐに理由を理解した。
「跡部様と同じクラスなんてウソみたい!」
 そう、跡部がまさにA組だったのである。対するは女性陣の黄色い悲鳴を聞きつつ「どうかA組ではありませんように」と祈りを込め、願い通じたのかA組に自分の名前はなくてホッとしつつB組に目線を移す。しかしB組にも名前はなく、C組に移行した所で「あ」と呟いた。
「C組だ」
「C組かよ」
 の呟きと同時にすぐそばで見知った声が響き、「まさか」と思ったのはお互い様だったのだろう。互いに同時に声の主を見やった先にいたのは――から見れば相変わらずの長髪を湛えた宍戸亮その人だった。
「お、おはよう宍戸くん。おひさしぶり」
「なんだよ、またお前と同じクラスかよ。ったく」
 優にひと学年の平均生徒数が500人を越える氷帝ではそうそう三年間も同じクラスということはない。しかも中学から氷帝に入ったとしては同じ学年といえども顔も名前も知らない同級生が多数いるのだから、気心の知れた人間と同じクラスというのは嬉しいものだ。自然、笑みが滲んでくる。
「一年間、またよろしくね」
 宍戸の方は「ヤレヤレ」とでも言いたげに眉を寄せ――しかしまんざらでもないのだろう。と宍戸は自然そのまま自身の出席番号の札が付いている下駄箱に靴を収め、並んでC組を目指した。そしてクラスに入ると黒板に席順が記してあり――と宍戸は見事に窓際の列の最後尾とその前で、くすくす笑い声を漏らしたのはの方だ。
「席も近いね」
 すると宍戸はあからさまに大きな溜め息を吐いた。二年の時も自身が窓際の最後尾でがその前だったというのに、前後が入れ替わっただけで変わり映えがしない。つくづく腐れ縁だと感じつつ指定の席に腰を下ろし、担任が現れるのを待った。
「つーか、担任って国語の小林なんだろ? マジで最悪だ」
「あれ、宍戸くんって文系の方が得意でしょ?」
「まあ、そうなんだけどよ。知ってんだろ? 俺がアイツに目ぇ付けられて色々やらされてたのをよ」
「う、うーん……」
 大体にしてそういう場合は明らかに宍戸に非があるため、は苦笑いで誤魔化した。すると突然、教室の入り口の方で「あー!」という声が響き、二人は同時に振り返ったものの宍戸は「ゲッ!」と表情を歪める。
「出やがったな、腐れ縁その2」
「宍戸みーっけ! 同じクラスじゃん、超うれC〜!」
 しかし腐れ縁、と言った宍戸の顔は明らかに嫌がっておらず、むしろ嬉しそうだ。
「ジロー、お前、よく遅刻しなかったな」
「マジマジ、一緒のクラスなんだよね? ね!? やりぃ!」
「人の話を聞け!!」
 現れたのは芥川慈郎。宍戸の幼なじみでもある。随分と小柄な少年だが、テニスの腕は氷帝でも跡部を除けば1,2を争うほどなのだとも宍戸から聞いて見知ってはいた。それに、複数の人間から「芥川伝説」を聞き、また実際に修学旅行で目の当たりにしているため、その芥川と同じクラスとは――と宍戸と芥川のやりとりを眺めていると、視線に気づいたのか芥川はの方を向いて屈託のない笑みを浮かべた。
「あ、ちゃん! ……だよね?」
「え……?」
「宍戸といつも一緒にいるから知ってるよー。俺のこともヨロシクねー!」
 言うが早いか芥川はの両手を取ってぶんぶんと強引な握手をし、白い歯を見せて屈託なく笑った。しかし。
「――あ、やべ……なんか眠くなってきちった」
 究極のマイペースとはこのことを言うのだろうか。から手を離した芥川は大きな目をキラキラさせて見開いていた表情から一転、とろんとした顔でふわふわの髪に手をやったものだからとしてはもはやあっけに取られるしかない。宍戸の方はさすがに慣れたもので、溜め息を吐きつつ「ほら、お前の席はあっちだ」と芥川に教えてやる。
「サンキュー。じゃあ……またねー」
 言いながらフラフラと自身の席に向かった芥川を見送り、宍戸は深々と頬杖を付いて眉を歪ませた。
「ったく、しょうがねぇなジローのヤツ」
「あ……もう眠っちゃったみたい。本当にどこでもすぐ寝られるんだね」
「俺はあいつの将来が心配だぜ。この間だってよう、テニス部の春合宿があったんだがジローのヤツは数回飛行機乗り遅れをやらかしてるからって、ペナルティくらって参加できなかったんだぜ。正レギュラーだってのに」
「うわ……飛行機乗り遅れって……それはさすがに、困る、ね」
 と宍戸の着眼点は明らかにズレていたが、「だろ?」と返事をしつつ「あ!」と宍戸は突然にして声を弾ませる。
「そうそう、その春合宿でスイスに行ったんだけどよ、すげー美味かったぜ! チーズフォンデュ!!」
「え……スイス行ったの? いいなぁ……まだアルプスは雪化粧だろうから綺麗だよね、きっと」
「いやまあ、確かに景色も良かったんだけどよ。それより食いモンだろ! ドイツもいいモンだったがスイスも負けてねぇぜ!」
「宍戸くんらしいね。でも、そっか……凄いね、さすがテニス部。規模が桁違い。って――あれ、宍戸くん……」
 そこではとある違和感に気づき、宍戸はこれ以上ないほど破願して「おうよ!」と白い歯を見せた。
「俺ももう正レギュラーだからな。……ま、俺の実力なら当然だけどよ」
 二年の頃から既に正レギュラーであった芥川と違い、長いこと準レギュラーでもあった宍戸は今回が海外合宿初参加なのだという。やはり喜びも一入なのだろう。が「おめでとう」と言うとほんの少しだけ照れたそぶりを見せ、それを誤魔化すように「そうだ」と話を変えた。
「アイツ……鳳長太郎も今回連れてったんだぜ、スイス」
「え……!? え、鳳くんって……え、そうなの?」
「長太郎のヤツ、一度も準レギュラーを経験せずに正レギュラーを勝ち取りやがった。一年のくせによ。……ってまあ、今日から二年っちゃ二年だが」
「そ、……そうなんだ。凄いんだね、鳳くん。あ、じゃあ……夏の中体連公式戦も出るんだ?」
「そりゃレギュラーだからな」
 宍戸の話に目を丸めつつ、は何か言いたげだった昨日の鳳のことを思い出した。おそらく、まさにこのことだったのだろう。今度会ったら「おめでとう」と言おうと鳳の笑顔を浮かべたは小さく微笑んだ。


 テニス部の話題というものは何かと氷帝を騒がせるものである。特に氷帝テニス部200余名のトップに君臨する正レギュラーの話題ともなればトップニュース扱いは必至であり、「騒がれる存在」というものに慣れていかなければならないというのもまたレギュラー陣の仕事の一つであろう。
 しかしそんなものはどこ吹く風――、二年に進級した鳳は体育の授業にてバスケットボールに精を出していた。
「いっけぇ鳳ー!!」
「ダンクだ、ダンクッ!!」
 長身の上にジャンプ力も平均以上である鳳はまさにゴール下の脅威であり、クラスメイトからのパスを受け取って見事にリクエストどおりダンクシュートを決めてみせた。瞬間、男子の野太い歓声と女生徒からの黄色い悲鳴が入り交じって体育館を包み込む。
「ちょ……ッ、反則だろ、お前の身長っ!」
 相手チームの男子が肩で息をしながら項垂れるも味方チームは「ナイスダンクッ!」と鳳をバシッと叩いて激励し、心地よい汗をかいた所で授業時間が終了して更衣室にて顔を洗っていると「それにしても」とクラスメイトが鳳に声をかけた。
「お前、マジで身長伸びたよなー」
「そうなんだよ。俺もまさかこんなに伸びるとは思ってなかったし」
 タオルで顔を拭って鳳は肩を竦めてみせる。しかし身長のおかげでテニスが有利になったことは間違いないし、やはりテニス部に入部したからにはいずれはなりたいと思っていた正レギュラー入りも果たせて、自身でも至って順風満帆のように思う。もしも今、ショパンのエチュードホ短調を弾いたらまたあり得ない程に明るい曲になってしまうのだろう。と思ってしまい鳳は一人笑みを浮かべた。そういえば、音楽室でと出会ってからちょうど一年になる。あの時、おかしなエチュードを弾いていなければきっとは来てくれなかったんだろうな、と感じた鳳はいっそあの時の自分を誉めたい気持ちにすらなった。むろん、同じ学園にいる限り、いずれは出会っていたのだろうが――。
「教室戻ろうぜ」
「あ、うん」
 呼びかけにハッとした鳳は急いで制服のネクタイを締め、クラスメイト三人ほどと連れだって体育館を出た。外はまさに、春の穏やかな空だ。これは今日の部活はきっと気持ちいいだろうな、と考えていると校庭に見知った人影を見つけ、鳳はパッと明るい顔をした。
「あ、先――!」
 の姿が見えたのである。しかし、声をかけようとした鳳は途中で止めた。否、止めざるを得なかった。の隣によく見知った――、長髪を靡かせる少年がいたからである。彼女はこちらには気づかず、その少年と親しげに話をしている。
「し、宍戸……先輩……」
 と一緒にいる少年はテニス部の先輩でもある宍戸亮で、鳳が少々困惑していると横からクラスメイトが顔を出し「お」と当然のように言った。
「宍戸亮とじゃん。有名だよなー」
「え……? 何がだい?」
「何が、って……え、鳳、お前マジで知らねぇの?」
 鳳は級友の意図することがさっぱり分からず、大きな身体で首を捻っていると「そうそう」ともう一人が話に加わってくる。
「有名じゃん、あの二人、一年の頃からずっと付き合ってるって。宍戸先輩ってテニス部のけっこう有名人なのにもう先輩がいるからってけっこうな数の女子が諦めてるしな」
「実際、仲いいよな。よく一緒にいるとこ見かけるし。つか、もはや当たり前すぎて噂にすらなんねぇぞ」
 頭を殴られたような衝撃――とはこのことを言うのだろうか。まさに青天の霹靂であり、鳳は絶句する他なかった。まさか、が自分と同じテニス部の誰かと――いやそもそも付き合っている人間がいるとすら想像していなかったのだから。
「鳳……?」
「あ、ごめん。俺……初めて聞いたから……びっくり、して」
 取り繕おうと努めるも取り繕えず、級友は怪訝な色を顔に広めていたが、その疑念を晴らす余裕すら今の鳳にはなかった。その後、受けた授業も内容は半分も頭に入っていない。そもそも、何に動揺しているというのだろう? と、鳳は自分自身に疑問をぶつけた。が誰と付き合っていようと関係ないだろう。しかも相手は尊敬すべきテニス部の先輩の一人なのだから、むしろ喜ばしいことだ。――などと思い直してみるも、上手く切り替えがきかない。
 結局、動揺を抑えきれないまま放課後となり、鳳は少々気の重いまま部室へと向かった。氷帝の部室は正レギュラー用とそれ以外に分かれているため、鳳の使う正レギュラー用の部室では必然的に宍戸と会うことになってしまう。
「おう、長太郎!」
「あ……、お疲れ様です」
 部室に入ると、既に宍戸と複数のレギュラー陣は来ていて着替えており、ビクッと身体を撓らせてしまった鳳だったがどうにか挨拶をして自身もテニスウエアに着替える。ひとえにレギュラー陣といえど、親密度でいえば鳳としては正レギュラー・準レギュラー以外の共に練習してきた同級生の方が高く、この場にはまだ馴染めていない。むろん一人一人尊敬すべき先輩であるが、部長の跡部はあまりに遠い人で、他の三年生にしてもやはり同級生同士の方が結束が固い。アウェイとまではいかないが、アウェイ感が拭えないのは致し方ないことだろう。
「お、ま、え、なー! 見下ろすなって言ってんだろーが! くそくそ!」
 ラリー練習を向日と組もうものなら謂われのない言いがかりを付けられる始末である。いつもなら気にもならず受け流しているが、今日ばかりは小さな溜め息が漏れてしまった。
「な、なんか……鳳のヤツ、機嫌悪くね?」
「お前、イジメたんとちゃうん?」
「んなわけねーだろ! つーか、あんな巨体がキレでもしたら手ぇつけられねぇぞ」
 そんな鳳だからか、さすがの向日も疑問を抱いて自身のダブルスパートナーである忍足に軽く愚痴ってみるも当の鳳はそんなことは露知らず、サーブ練習に精を出している。
「一球……入、魂!!」
 無心になれる。――という意味ではサーブの練習はもってこいだ。ボールトス、ボールインパクト、フォロースルー。トスする前まではコースや軌道を考えもするが、いったんトスに入ってしまえばまるでマシーンのようにほぼ自動で身体が動く。――しかし基本的にサーブの練習に割ける時間というのはそう多くなく、しかも長々とコートを独占できるはずもなく程なくして交代の指示が下った。仕方なくベンチに腰を下ろして汗を拭っていると、ヌッと人影が現れ、顔をあげた鳳の瞳にラケットを肩に背負った宍戸と向日の姿が映る。
「今日のお前、機嫌わりぃ?」
 訊いてきたのは向日だ。鳳は一瞬言葉に詰まったものの「いえ」と否定すると今度は宍戸が口を開いた。
「さっきのサーブも固かったしよ。ま、いきなりの正レギュラー抜擢で肩に力が入っちまうのも分かるけどな」
「そ……そんなんじゃ、ない、っすよ」
 まさかレギュラー起用で気合い過剰になっていると思われたとは考えておらず、少々面食らって返事をすると、二人はさして気にも留めず肩をすくめ「やろうぜ」と互いに言い合って空いたコートに入っていった。サーブとリターンの練習を交互にやるらしく、まずは向日がサーバー側となり、向日のサーブを宍戸が拾い、また向日がサーブを打つということが眼前で繰り返されていく。
 宍戸はライジングショットを得意とする選手だ。これはボールがバウンドしてすぐ、つまり通常より早い段階で返球してしまう技のことで、リターンのタイミングも速まるため対戦相手のペースを乱しやすいという利点がある。また、バウンド始めに打つことでまだ生きているボールの力を利用できることもあり、少ない力で力強いショットが打てるのだ。どちらかというと体格に恵まれていない宍戸にとっては有利な技である。 
「どうした岳人! もっと速いサーブを打ってみやがれ!」
「ウルセー宍戸! お前もサーブはヘボじゃんか!」
「なんだとコラ、もっぺん言ってみろ!」
「何度でも言ってやらぁ、ヘボサーブ!」
 宍戸と向日は幼なじみ同士という気安さもあるのか、練習しながら言い合いを始め、そうこうしているうちに跡部からの「うるせぇ!」という声が飛んで今度は矛先が跡部に向かった。そうしてしばし口げんかを続けたあと、二人は再び大人しく練習を再開する。それを見て、自分は走り込みにでも行こう、と鳳はタオルを首にかけてテニスコートからあがった。
 宍戸のライジングは自身も見習わなければならない点も多いし、何より宍戸は自分とタイプが正反対で少し憧れている部分もある。だけど、だからといって――と頭にのことを浮かべた鳳は大げさなほどに首をふるい、一心不乱に走り続けた。
 

 じき四月も終わる。鳳の憂鬱など露程も知らないはいつも通り昼休みに特別教室棟へ向かった。そうして廊下を歩いていると、ちょうど反対から見知った背格好が目に入って「あ」と反射的に声を弾ませる。
「鳳くん……!」
 鳳は鳳で音楽室に来たのだろう。足を速めて近づけば、の予想に反して鳳はひどく驚いたような様子を見せた。
「どうかした……?」
「い、いえ……別に」
 そう? とそこはも受け流し、次いで「ふふ」と微笑んで鳳を見上げる。
「正レギュラー、おめでとう! びっくりしちゃった、凄いね、鳳くん」
 すると鳳は一瞬目を見開き――確かにパッと嬉しそうな顔を刹那だけ見せたものの、その次には目線を外して瞳に影を落としてしまった。
「もしかして、その話……宍戸先輩に聞きました?」
「え……、う、うん。そうだけど」
 鳳の一言に今度はが目を見開く。確かに鳳が正レギュラーになったという話は宍戸から聞いたことだが、なぜそれを知っているのだろう。
「鳳くん?」
「俺、知らなかったから……」
「え……?」
先輩と宍戸さんがお付き合いしているなんて知らなかったから。だから、俺……!」
「え――ッ!?」
「どうして話してくれなかったんですか? そりゃ、俺には関係のないことなのかもしれませんけど」
「え、ちょ、ちょっと待って! だ、誰がそんなこと言ったの?」
「学校中のみんなが知ってますよ。生徒公認だから、噂にすらならないって」
「ま、待って待って! 違う、違うよ……!」
「別に隠さなくていいっすよ」
「隠すもなにも……ああ、もう」
 突然なにを言い始めるかと思えば、とは本気で頭を抱えた。確かに、一部でそういう噂が公然と広がっているのは知っている。これはもう、テニス部の有名人と親しければ必然問題として付いて回ることだからだ。幸い、宍戸とは一年の頃から親しかったゆえに騒がれることも無闇に攻撃されることもなく、噂だけが一人歩きしているだけで当然ながら事実無根である。
「それ、宍戸くんにも聞いた?」
「え……、い、いえ」
「そっか……。信じられないなら、宍戸くんにも聞いてみて。私と宍戸くんが付き合ってるなんてこと、絶対にないから」
「で、でも……。先輩達、よく一緒にいるって言われてますし、俺も実際……見ました、し」
 なぜこうもこんな下らないことで鳳に突っかかられているのかまるで分からないだったが、「んー」と自身のくせ毛を弄ってから小さく息を吐いた。
「そりゃ、一年の頃からずっと同じクラスだし……一緒に行動することも多いとは思うよ。私は中学から氷帝だから、知り合いも多くないし、やっぱり宍戸くんとは仲が良いと思う。でも……それだけだよ。噂ってそういうものじゃない?」
「そ……そう、かも……しれませんけど、でも」
 鳳もさすがに様子がおかしいと気づいてきたのだろう。まだ納得していない様子ではあったものの言い淀みはじめ、は更に続ける。
「私は……ほら、例えばこういう休み時間ってたいてい美術室にいるし、そういう意味でなら宍戸くんより鳳くんと一緒にいることの方が多――っ」
 と、そこまで言ってはつい余計なことまで言いそうになってしまった、とはっと口元を押さえて打ち止めた。対する鳳は、の続けたかった言葉を予測できたのだろう。陰りの表情はハッとしたように一転してみるみる紅潮していったものだから、の方も慌てて頬を染めつつ首をふるう。
「あ、あの、その……変な意味じゃなくて。えっと……」
「い、いえ! すみません、俺の方こそ。そ、そうですよね、俺……なに勝手に考え込んでたんだろ。ほんと、すみませんでした」
「鳳く――」
「失礼します!」
 鳳はよほど狼狽したのだろう。頭を下げたと同時に階段を駆け上がって行ってしまい、はしばし呆然と階段を見上げるほかはない。何なんだ、一体。――と疑問は尽きないが、気を取り直して美術室に向かう。そうしてしばらくすると鳳の奏でているらしきピアノの音が聞こえてきた。――どうやらお気に入りのショパンのエチュード、しかも「革命」らしいと悟ったは鉛筆を走らせながら少々首を捻った。この曲はショパンの祖国ポーランドがロシア軍に侵攻された憤りや悲しみを訴えたものだとされているが、鳳はよほど混乱しているのかどうにも音が迷走している。「革命」という通称を使うならば、確実に革命失敗しそうな勢いである。いやポーランドの革命自体は現実に失敗したのであるが、そういう問題ではないのだ。かと思うと、自身でもイヤになったのか急に強い音が響いて音が途切れてしまい、不意打ちをくらったはボキッと鉛筆の芯を折ってしまって頬を引きつらせた。そうしてまた少し経つと、鳳は今度は気分を明るく変えたかったのだろう。同じエチュード集から「蝶々」をチョイスして弾き始めた。――が、これでは「蝶」というよりは「蛾」だ、と指摘されそうな音色が降ってきては口をへの字に曲げた。あげくの果てには一分前後の短い曲だというのにこちらも途中で演奏を打ち切ってしまい――アップテンポは諦めたのか、またも同じエチュード集からシューマンをもってして「これは音楽ではなく詩である」と言わしめた「エオリアンハープ」という通称で知られるものを弾き始め――はハープの弦が切れやしないかという音色にハラハラしながら思わず上を見上げてしまった。
 しかしながら、エチュードはその名の通り練習曲である。実際、鳳はこのように練習している時に迷曲を聴かせてくれることや何度も違う曲に変えることもしょっちゅうで、きっと今日もそうなのだろう、と意識を切り替えるとは今度こそスケッチの方に集中した。



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